信仰とは個人の自由意志に基づいたものであり、何人たりともそれを強要したり破棄させることは出来ないものです。
自分の意志で信仰することも、また自分の意志で止めることもできるはずです。
民俗的信仰のように大らかで自由な信仰スタイルであるならば問題はないのですが、教団組織に属した信仰スタイルは自覚できない大きな盲点があるのです。
教団組織に属して信仰をしている人は、自分の意志で信仰し行動していると思い込んでいるかも知れませんが、それは大きな間違いです。
本来個人の信仰を規制したり拘束することがあってはならない事なのですけれど、個人的信仰なら兎も角、教団組織に属してしまったら最後、拘束や規制から免れることは有り得ないことなのです。
なぜなら教団組織に所属してしまえば、全員が同じ教義を信じ同じ儀式、行動をしなければならないのですから。
教団組織を外れた信仰は容認されるはずがなく、教団組織の方針に従わない独自の信仰というのは、分派だの何だのとレッテルを貼られたり排除されたりするのが当然なのです。
教団組織に属して信仰をする限り、教団組織の方針に従わねばならないのです。
(この事は一般企業という組織にもあてはまりますね)
組織を離れた信仰はないということですから、組織に属して信仰するためには、100%の自由意志に基づいた信仰でないことがわかります。
そのことはつまり、個人の自由は許されないことであり、自分流の教義の解釈もまた許されないということでもあります。
教団組織での信仰は、自然と心理的拘束を強いられていることになるのです。
教団組織に同調、協調している方においては、気分が悪い記事だと思います。
しかし、これが現実であり教団組織に属して信仰する以上、自発的な選択が出来ないという宿命でもあります。
だからといって、私は信仰の自由を侵害するつもりはありません。
教団組織内で、何の葛藤もなく矛盾も感じることもなく、信仰こそ我が生命の如くその信仰心を貫くことは尊いことです。
教団組織に疑問を感じたり、葛藤したり、ジレンマに陥ったりしている人はどうでしょうか。
その信仰はもはや教団組織とは相対基準が合わないのですから、3つの選択肢しかないはずなのです。
1)教団組織を離れて個人または同志と信仰を続ける。
2)教団組織を離れ、かつ信仰も止める。
3)思考停止し、教団組織のいいなりの信仰を続ける。
論理的に考えれば、上記のいずれかしか選択肢はないはずです。
しかし、現実はどうでしょうか。
教団組織に疑問を感じながらも、離れることができず悶々と苦悩している人もいるのです。
心の奥では教団組織に不信しているけれども、表面的には教団組織に従っているふりをしている。
では、なぜそんなことになるのでしょう。
以下の記事に立脚すれば、知らず知らずのうち自覚のないままに、他者依存状態に陥ったからではないかと思います。
自律と自立~他者依存は自らのエネルギーを失う
無能唱元先生のお話
朝日新聞の「天声人語」欄に、次のような興味ある記事が載っているのを、読んだことがあります。
かってフィンランドの保健当局が、栄養指導や健康管理の効果について、科学的な調査をしたことがある、というのです。まず、四十歳から四十五歳までの男性を六百人選び、彼らを定期診断し、ビタミンやカルシウムなどをはじめとする栄養学的管理を徹底させ、毎日適度の運動をしてもらい、こういう生活を十五年間続けてもらったのです。その効果を比較して調べるため、同じような条件にあたる男性六百人を選び、こちら側は、いかなる健康管理の対象にもされず、ただ、健康状態の調査のみをして、同じく十五年間調べました。
十五年後、二者の間に、恐ろしいほどの違いが現れました。心臓血管系の病気、高血圧、死亡、自殺、いずれの数も、一方が他方より、ずっと多かったのです。それがなんと、健康管理をした方のグループだったのです。医者たちは仰天し、その実験結果の公表を控えたそうです。ここで言っていることは、なにも「健康管理は不要だ」と短絡的な判断を下しているわけではありません。それは、「過保護は依存的にする」ということなのです。
自立は自律につながっているのです。我々が、他者依存的になった時、自律組織によって生ずる自然的抵抗力を失ってしまうのです。自らを救うのは、まさに自分自身なのです。健康管理が他律的に行われる時、恐るべき自己喪失が、そこに生じ、それが自らの心身を守る生気エネルギーを失わせてしまうのであります。
[出典:https://success1.yanaq.com/index.php?%E8%87%AA%E7%AB%8B%E3%81%A8%E8%87%AA%E5%BE%8B]
この記事を読んだ人の感想や気づきは様々だと思います。
単に『健康管理』についての問題提起と捉える人もあれば、信仰的観点から、我が教団は決して過保護じゃないから自分とは関係ないと、捉える人もいるかも知れません。
まさか自分が教団組織に依存しているなどとは、全く以て考えたこともない人もいるでしょう。
教団組織に属している限り、他者コントロールからは逃れることができないのです。
教団組織に葛藤しながら辞めるに辞めれない人は、
以下の記事、Mintzの実験『金銭報酬群の行動パターン』に陥っています。
Mintzは、パニック行動の生起要因に関して1つの実験を行いました。
Mintzの実験以前は、パニック行動は恐怖や不安などが引き起こす集団行動の1つだと定義されていました。
しかし、これら以外の要因も、これらの行動に関与しているのではないかと考えられるようになってきました。
Mintzはこの実験で、「報酬」を1つの要因として捉え、パニック行動との関連を明らかにしました。実験は、まず20名前後からなるグループをつくりました。
彼らの前には入り口が小さく細くなっているビンが置かれました。
その中には円錐体の小さなかけらがたくさん入っていました。
その先には糸が付いており、その糸の先を被験者が1本ずつ持っていました。被験者が1人ずつその糸を引っ張れば、円錐体のかけらは順番にビンの口から出るような仕掛けになっていました。
しかし、何人かの被験者が同時に糸を引っ張ると、その円錐体はビンの口で引っかかり、どの円錐体も抜けられなくなってしまいます。模擬的に、群集が非常口に殺到する状況を作り出したのです。
順番に整列すれば、全員非常口から脱出できます。
しかし、皆がパニック状態に陥り、非常口に無秩序に殺到すれば、ほとんどの人が脱出できなくなってしまうというわけです。この実験を被験者グループに行わせる際に、グループごとに異なった教示を行いました。
金銭報酬群
一定時間内に上手く取り出せた人には賞金を出します。
しかし、時間内に取り出せなかった人には罰金を課します。集団行動促進群
グループメンバーがどれくらい協力して行動できたかどうか、その能力を測定します。実験の結果は以下のようになりました。
金銭報酬群——16集団中12集団が出口に殺到(混雑)。
集団行動促進群–25集団のうちすべてが制限時間内に終了。協力すれば全員が時間内で終了できる課題であるにも関わらず、「時間内に取り出せなかった人には罰金がある」といわれたグループは、皆自分だけは先に取り出したいと考え、結局はほとんどのグループで、ビンの口に詰まらせてしまったのです。
人は、緊急事態に陥っても、ただ闇雲に「助かりたい」と思って行動するわけではないのです。
ある程度、自分の生命や財産などを守ることを考慮に入れて行動しているといえます。それが、集団行動と合致しないときにパニック行動を引き起こすのです。
自分が得をするか損をするか分からない、という不安定な状況が原因の一因として考えられるのです。※参考文献
Mintz, A.(1951). Non-adaptive group behavior.
Journal of Abnormal and Social Psychology, 4 6, 150-159.集団と群集とは似て非なるもの
集団とは、集まっている人の資格と氏名が明らか。一定の役割分担、組織性があり、共通の目標に向けて一体感、集団規範があるのに対して、
群集は、そこにいる人が不特定多数であり、時間と場所を同じく集合しているが互いに匿名的、一定の役割配分なく組織性もない群れ。群集の怖いところは、群集心理(衝動性、動揺性、興奮性、被暗示性、軽信性、誇張性、単調性、偏狭性、横暴性)
が悪く働くと過激な行動に走りやすいこと。
組織に迎合しているのであれば協調せざるを得ず、そこにはなんら葛藤も摩擦も起こらないはずなのです。
今現在、辞めるに辞められない理由は自覚していない恐怖なのです。
辞めると天罰があたるとか地獄に落ちるとか……
恐怖信仰は続ければ続けるほど厄介になります。
自分の恐怖に気づけば、あとは恐怖から自由になれます。
恐怖の実体などどこにもないのですから。
参考図書
選択の科学:動物園の象の寿命は野生の象の寿命よりなぜ極端に短いのか?
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