批判と代案
現役統一教会信者さんがこんな発言をしているのを見掛けました。
自分なりの思想を持たず、ただ批判だけの書き込みは「揚げ足取り」と言います。批判ほど楽なことは有りません。
批判したら、改革法、改善方法を、提示してみませんか。ただ非難するだけでは進展や発展は有りません。だから統一教会は、何らの打撃も受けていません。相変わらず活動しています。
ぼくは根は「バカお人よし」なのですが、どちらかというと衝動的で皮肉屋で揚げ足取りな人間だと自負しています。
だから上記の書き込みをみて、ぼくのことを言われているような気がして思わず反応してしまいました。
一方、現在の統一教会は外野から何言われようが「何らの打撃も受けず進展も発展もなく相変わらず活動している」ようなので、統一教会を非難したり揚げ足をとったりする内部の者はいても「批判はするが代案を示した者はいない」ということなのかな?と思ったりもしました。(発展していないし、インチキ募金をまだやっているので)
いわゆる統一協会の問題というものは、統一教組織(原理研、勝共、事業団含む)の重箱の隅をつっつけばいくらでも出てくると思ってくるものですが、そのような隅の部分はぼくが教会在籍中つっつきすぎてもう飽きたというか呆れたというか、脱力というか疲れてしまいました。
まあたまあに脱力することも、リラックスすることと同じでよいことだとは思いますが、血圧を上げながらの脱力というのは誰でもできる芸当ではないでしょう。身体にも悪そうです。
現役教会員さんで、「うちら、なーんも問題ないもんね」っていう人は―――
美化された部分しか見聞きしていないか、いわゆる霊感商法は正しいことなのだ、だから自分たちは迫害されているんだ、というような思い込みから来ていると思うのです。
あるいはそれを信念または符丁としての信仰とも云えるでしょう。
統一教会在籍中に
「批判するとサタンが入るぞ」
「批判するのもいいけど代案を示せ」などとよく云わたものです。
同時に、礼拝や集会などでは、『なんとか長』とかいうやたら肩書きにこだわるわけわからない者が、政治家連中を代案も無しに批判したり、マスコミを代案もなしに批判したりしていたりもしました。
ぼくは日本統一教会に対して、糾弾、非難をしてはいますが中傷はしていません。これは統一教会を卒業する前、つまり内部にいたときから変わらない姿勢です。
「インチキ募金を非難するのは当然である」
「借りた金を返さないやつは糾弾されても仕方ない」
「嘘をついてモノを売るのはけしからん」
特に内部にいたころ、糾弾してきた内容は「借りた金はキチンと返しやがれ!」ということでした。
もちろん、『代案』を提示することも忘れてはいませんでした。
ここでちょっとその、代案の一部を紹介してみましょう。
・借金返済部門をつくるべきである
・借金返済部門とは信徒が起業して利益の一部を回すことを第一義とする部署のこと
・具体的には__
①有志を募る
②形振りかまわず金儲けにつっぱしる
③しかし、ズル(インチキ商法)してはいけない
・地域に根差した営業をする、為に生きる
・勧誘を二次目的としない
……などなど……
さて。
このような代案を現役の教会員さんたちはどのように受け止めるのでしょうか。
ちなみに実際のぼくの体験では、上記の代案を示したところ、経済部長らは半ば開き直りながら人を見下した態度で「じゃ、あんたやってみたらいいよ」と捨て台詞を投げつけられました。
そのようなわけで、ぼくの借金返済部門の活動がはじまったのです。
批判と代案その実践<借金返済部門活動編>
「借りたカネは返しやがれ!」
と、ぼくにとっては実にマトモな正論を申し立てたつもりで、別に批判したつもりはなかったのだが、幹部連中は日頃現場の者から意見を言われることに慣れてないようで、彼らはこれを批判と受け止めたようだ。
うわ、顔面をひくひくさせてらあ、口もとんがってきたぞ。
あーあー、わかってるよ、アベルの立場になればなるほど苦労は多いんだってな。
古田氏も「現場主義」を批判してたよな。文先生も同じ考えだそうだよ。
「お父様、現場はこんなに大変なんです」と言ったら一蹴されたんだってな。
「人情」より「天情」ってか。だから、真似るんだね。
こりゃこまいったね。
てゆーか、現場のこと知りたくないだけなんじゃないの?
ぼくもドカタ時代には莫迦な現場監督によく出会ったものだ。
これまた莫迦な設計屋が意匠を優先したくて、つまりビジュアル的にイケてるかどうかだな、「建築とは凍った音楽である」なんていう言葉に酔いしれてちゃってゲージツカを気取ってよう、
「あ、そこの打ちっぱなしのビームに250φのステンドグラース入れるからさあ、スリーブ忘れないで入れとていてよぉ」なんてことを監督に指示するわけだ。
それを真に受けた莫迦な監督が型枠大工の親方に、莫迦な設計屋から云われたとおりに「佐藤さあん、そこさあスリーブ入れといてよ」なんてことをいうわけだ。恥ずかしくもなく。
するってえとそばにいた鉄筋屋の親方が吼える。
「おう監督!鉄筋ぶった切れってえのかあ?おい」
「なんとかなんない?鈴木さん」
「地震来てぶっつぶれてもいいんならアセでぶった切ってもいいけどよお、おら知らねえぞ」(※アセ:アセチレンガスのこと)
とまあ、現場では巷のコンクリ崩壊問題よりも恐ろしい会話がなされていたりするのである。
建物の構造を支えている梁のドテっ腹に穴開けたら素人でもちょっとヤバイんでないかいと思うのに、人間ボケてくると目先のことしかわからなくなってしまうようだ。
余談だが、世界的に賞賛されている高名建築家でさえ、現場の人間からみればハナで笑われてしまうんだよ、センセ。
だって、豪雪地帯で積雪対策を考慮してないようなビジュアル重視の設計するんだもん。
体育館の屋根、フラットにすんなよな、ほれみろ雪の重みで潰れちゃったよ、あーあ。
こういうセンセには雪おろし体験してもらうしかないか。
なぜこんな馬鹿げたことが起こるかというと(最近問題視されている手抜き工事にも通じる)建築現場をすべて把握している者が誰もいないということなのである。
これを現状の日本統一教会と対比させてみよう。
まず、設計屋といっても意匠と構造を担当する部門が別れていることがある。
この例の場合、意匠担当と構造設計者の意思疎通がなされていないか、意匠担当が構造計算に疎いというか単なるアホということである。
もちろん、設計屋は現場の施工工程や施工法など関知していない。(できない)
この設計屋は、さしづめ日本統一教会の大幹部様というところだな(笑)
次に監督であるが、こいつは統一教会でいうところの中間幹部というところか。
現場監督とは名ばかりで実は現場のことなどよくわからない、というか鉄筋屋がどのようにして鉄筋を組み立てるのかも知らない、もちろん型枠大工の仕事の段取りも知っちゃあいない。
ただ、設計図どおりに建物が出来さえすればいいというハラだ。
もちろんこいつはドカタでもなければ職人でもないから、穴掘るのは下手だし炎天下にさらされた鉄筋を素手で握って火傷するような莫迦である。(馬鹿には身体で教え込むしかない)
次に職人連中。
こいつらは霊感商法やインチキ募金を正当化する一般信徒だ。
思考停止している。
(思考停止していることは自身は気づいていないので、こういうことを云うと決まって反発される。ごめん一般信徒よ。)
「べらぼうめ!ゼニカネの問題じゃねえんだ!このすっとこどっこい!」
こんな威勢のいい啖呵の如く、こういう本物の職人さんに出会ったことは数少ない。
学生上りの舞い上がった勘違いした設計屋のあんちゃんに「馬鹿野郎!学校でなに勉強してきたんだてめえは!」と一喝するような職人は最近見掛なくなった。
構造体である梁に穴を開けること自体が大変なことである。
本末転倒なのである。
手抜き工事の現状をTVで見るにつけ、職人のレベルの低さに統一教会の現状と同様に脱力している。(監督が無能なのはいうまでもない)
話を元に戻そう。
いわばこの建築現場でいうところの莫迦監督に、ドカタの立場のおやぢが「借りたカネ返しやがれ!」と云ったのでした。
こいつは現場監督のくせして、現場のことはなーんも知らない。
現場の看板には「現場責任者」となっているんだが、どうやら名ばかりのようだ。しかも金利の計算もできないときたもんだ。
借金がなんたるものかも知らないんだこの莫迦幹部どもは。
さて、顔面がひくひくしちゃって可哀相なので、ここでひとつ『代案』を示すことにしたのです。
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