地上天国での統一教会的物売り
原理研究会時代、自分の所の寮長さんは地上天国ができてもFはなくならないだろうといってた。理由:信者の個々に神との出会いをもたせる為。
(某掲示板での投稿より)
これ、読んで寮長さんて「お・ち・ゃ・め」って思いました。微笑ましい寮長さんですね。
Fというのはぶっちゃけたハナシ
・内的-疑似托鉢(商品と交換)
・外的-物売り
なのですが、信仰の訓練とか万物条件を立てるとか個人の復帰路程とかいろんな解釈をしています。それこそシックの数だけあります。
ぼくも、一連の活動は経験しましたが、おやぢ的には信仰の訓練とか神と出会うというより、いわゆる一つの「体験」としか残っていません。
もっとも、このような行為で「神を感じた」食口もいるのでしょうが、ぼくが「神を感じた」のは、こういう行為をしている時ではなく、借金返済部門で必死こいて、信者から借りた金を返すために、礼拝にも出ないで(そんなひまはなかった)カネをいかにつくろうか、またカネをかき集めることに奔走していたときのことでした。
「おお、神よ!ぼくは一日も早くこのカネがらみの問題が解決できますように頑張ります!礼拝にも出席できない不信仰者をどうかお許しください……」
と祈りながら金集めや信者に返済の延期をお願いに回ったり、怒り心頭の壮年たちに頭をさげに、というか怒られにいったりしていた時期を昨日のことのように思い出しています。
その時いつも神様から返ってくるのは「涙・涙……」でした。
これを書いているときも、恥ずかしながら「涙」が流れてきてしまいました。
それだけぼくのなかに強烈な体験として残っているのです。
一言でいえば「不条理」なのですが、カフカ的なものとは違う不条理です。
これが、ぼくの神体験です。
もしぼくが催眠療法をやられたとしたら、うおーーーー!とかなんとかいって床を転げまわるのはないでしょうか。だから、心理療法はやらないでおきましょう。
あ、ハナシをもとにもどしましょう。
Fをやって、神と出会ったつもりになるのは、売上げがあがってうれしかった、とか、売れなくてどうしようと思ったところバッグセットを買ってくれた人がいた。神様のように思いました。
とかいってそこで「神を感じた!」となるのでしょう。
これもシックの数だけ体験があることと思います。
ちなみにぼくはFでは売れなかったというか、売るつもりがあまりなかったので、売れない悔しさ、悲しさ、を知りましたし、訪問先でのおばちゃんたちとの世間話、飯場のオヤジたちとのバカっぱなしなどを通じて、様々な思いでをつくりました。
物売りを通じて、様々な刺激を受けるわけですが、その体験を通じて人格形成の糧になればそれはそれでよいことではないでしょうか。
ただ、無理矢理やらして(それをやるのが当然だみたいな雰囲気にさせる)、あとで恨みをかわれるようなことはすべきではないと思います。
ですから、希望者だけにやらせるべきなのです。
ところで、地上天国でのFってどんな感じなんでしょうね?
地上天国って、みんな神さまと一問一答できてるわけでしょう?
神さまとの心情の回路がきれたことが堕落なんでしょう?
その回路を回復するために信仰するわけでしょう?
地上天国っつうところには「信仰」は存在しないんですヨ。(原理的にいえばね)
わっかるかなあ~>寮長さん!
わかんねだろうなあ。(松鶴家千とせ)
万物復帰と○んこシリーズ
・頭にきて三日続けて玄関先で○んこしたら家の人から泣きながらからやめてくれといわれた
・留守だったので玄関で○んこしていたらちゃんと掃除していけよと言われた
・朝一番で小学校に行きまだ暗いうちに校庭のど真ん中で野○ソした
・朝日に照らされて湯気を立てる野○ソほど美しいものはない(体験者は語る)
非原理の人に救いの条件を立てさせてあげよう シリーズ
・配達された牛乳を一軒一軒飲んでまわってあげる = 条件牛乳
・留守宅の冷蔵庫をあけて目玉焼を作って食べてあげる=条件料理
・留守宅の風呂に水を入れて沸かして入ってあげる=条件入浴
・深夜の学校プールで頭や体を洗おう=条件生活?
原研ではかなりの者が玄関○んこをやってるんだなあ……
教団の宿命信仰とは
個人の問題であって、組織や団体がよってたかって個人の信仰を規制し拘束するなんてことはオカシナことなんですけれど、宗教団体に属してしまったら最後これはある面仕方がないことだと思います。
なぜなら、宗教団体に所属してしまえば、全員が同じ教義を信じ同じ儀式をしなければならないのですから。
そのことはつまり、個人の自由は許されないことであり、自分流の教義の解釈は許されないことになります。
つまり信者さんは、自分では気づいていないのでしょうけれど、自然と心理的拘束を強いられているのです。
統一教会では、他の宗教を否定していないという。
果たしてそうだろうか。
結論からいうと、そんなことは絶対ありえないのです。
統一教会という宗教団体で活動しているかぎり、思想的拘束をしなかったら教団は崩壊してしてしまいます。
だから、(統一教会とは違った)他の宗教の教義を受け入れるなんてことは絶対ありえないのです。
受け入れる事はしない(出来ない)けれど、押し付ける事はできるのです。
そんなことを最初からエゲツなくやってしまえば、引いてしまうので、そこはかとなく押し付けるのです。
そして教団に取り込むのです。
ですから、教団取り込み作戦としては、耳障りのいいキャッチフレーズを用いるわけですな。
あたりまえっちゃああたりまえ。
人間信仰と依存
統一教会信者は、文鮮明教の人が実に多い。
つまり、信仰の対象が教祖様なのです。
中には、教祖が堕落しようがなにしようが、絶対なのは原理だけだ!なんていうごく少数派もいますけれど、そんな人は統一教会内では村八分、または「分派」などとレッテルを貼られてお仕舞いです。
教祖様のお言葉に従わない信徒は教団にとって必要ない人なのです。
まあ、そんな人は教団に所属する意味がないのですけどね(笑)
臨済禅師の言葉の中にこのようなものがあります。
【逢佛殺佛,逢祖殺祖,逢羅漢殺羅漢,逢父母殺父母,逢親眷殺親眷,始得解脱】
「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、始めて解脱を得ん」
「逢佛殺佛」(おうぶつさつぶつ)・「逢祖殺祖」(おうそさっそ)
ほとけに逢ったらほとけを殺せ。祖師に逢ったら祖師を殺せ……
この意味するところは、自分勝手な思い込み、仏だの教祖だのは自分にとってこういう存在であるという妄想や、親とはこうあらねばならないという思い込みを捨てよ、ということす。
統一の神や統一のメシヤ様に対して救いを求めるということは、つまり自分の願望、欲求の対象としてしまっているということなのです。
そのことを戒めているのです。
自分を救うのは自分である、故に自分の心の在り方に目を向けなければならないのであって、外的な統一のメシヤ様に対して絶対信仰することが、救いではない、依存したり、おすがりすることで救われるのではないということです。
ぼくは、前から言っているように、いわしの頭でも幸福の壷でも信仰の対象はなんでもかまわないし他所様に迷惑をかけないのであれば、それでもって個人が幸せと思っているんだったらいいんじゃの?と思っています。
けれど、「依存」ということに関しては警告を発しておきたいと思います。
信者さん、自分が依存していることなんて気づいていないのでしょうね。
「ぼく依存なんかしてないもん、ほらこうやって自分の意志で合同結婚に参加して結婚して、自分の意志で献金してるもん、お金ないときは献金しないし、アベルに意見も言えるもん」てか。
信者さんの心理としては、「おまえらはマインドコントロールされてる」とか「教祖や教団に依存している」とか「思考停止している」だとか言われるのを嫌います。
それは、本当に自分の意志で教義を学び、自分の意志でメシアを信じたからでしょう。
反発したい気持ちも理解できます。
統一教会と出会って、幸福を感じている人はたくさんいると思います。
その気持ちは否定しません。
メシア様によって救われたと証をする人もたくさんいます。
確かに、自分に情をかけてくれ、知識を与えてくれ、金品を与えてくださった師でありメシア様はありがたい方でしょう。
そのお方に感謝を捧げ、尊敬の念を戴くのは当然のことです。
しかし、だからといってその人に全面的に依存してしまうのは、自己を喪失してしまうことになってしまうのです。
全面依存の対象はなにも人間ばかりとは限りません、あらゆる信条や思想、教義にもいえることなのです。
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