宗教団体が世界を救えないワケ
『世界基督教統一神霊協会』の略称は、【統一教会】か【統一協会】か?反対派の方たちは【統一協会】だとよくいいますね。
御大は教会にこだわってるのかしきりに【統一教会】だと主張してますな。
つまり、おらほは宗教団体なんですと主張したいわけです。
でも、読み方はどっちも「とういつきょうかい」には変わりない。
現役信者さんは、御大のいうことには逆らえないから、大体は【統一教会】と表記している、でもなかには悪気無く【統一協会】と書いていた信者さんがいたそうで、周りから白い目で見られ反対派だと思われたという(笑)
当の本人は「ほんなもん、どっちでもええちゃうん?」と、あっけらかんのかーん、だ。
まあぼくも、どっちでもいいとは思っているのだけれど、あえてぼくは【統一教会】と表記する。
なぜかというと、ぼくがかつて所属していた「とういつきょうかい」という団体は、宗教団体と認識しているからだ。
ちなみにぼくは、原理研究会も勝共連合にも所属したことがない。
ぼくがとても奇妙に感じるのは【協】とか【教】の違いを云々していることではない、略称のつけかたなのだ。
宗教団体として一番肝心なのは『神』なのではなかろうか?
だから、正式名称『世界基督教統一神霊協会』の中で最もはずしてはいけないのが『神霊』のはずなのである。
しかし、略称にはそれが入っていない。
見事に的外れなのだ。
だから、統一教会は『神霊』など重要視していないことがわかる。
ぼくがどっちでもええと思っているのはこういう理由からだ。
この際、【世一会】でも【基一会】でもなんでもいいのだが、それでは一体どんな団体なのかわからなくなってしまうからね。
ところで、統一教会では、世界平和、理想世界、万民救済を謳っている。
それは、とてもおかしいことである。
残念ながら、宗教団体ごときに万民救済は出来ない。
世界を救おうというのなら、まずは教団の枠をはずさなければならないのである。
いや、
「統一教会という宗教団体は統一運動の中に包括されるのだ、宗教で世界を救おうというのではなく、学生組織の原理研究会や、世界平和家庭連合、勝共連合、世界平和女性連合、世界平和宗教連合、教授連合、青年連合、ナントカカントカの団体が集まったものである」
などと反論されるかもしれない。
それとて同じ事。
団体、組織にこだわること自体、意識が狭いのであるから、世界を呑み込む程の寛容さはもともとない。
団体、組織など人間集団の一体化を維持するには、思想の統制が絶対必要である。
これは観方をかえれば思想の拘束であり、心の拘束である。
これによって強力なエネルギーを発揮できるのである。
集団にとっては必要なことである、そしてさらにエネルギーの増加をはかるために、ますます排他的になってゆくのである。
この故に、宗教団体、ナントカ団体に所属するということは、その人から寛容性を失わせ心を狭くしてしまうのである。
だから、統一教会がナントカ連合をたくさんつくっても、また大規模な集会をやったからとて、世界は救えっこないのだ。
ゲンリ教条主義者より厄介な者たち
統一教会系掲示板に出没する、シンパや中立を装った者たち。
護摩の灰の上を行く者たちよ。
君は~ゆくのーかー そんな~にしてまで~♪
こういう者は、統一教会問題について真剣に考えているようで、実は考えていない。
信仰がどうしたこうしたいうけれど、ぼくにとって、『やかましい鐘や鐃鉢』である。
信仰より理屈が先立つ、いや屁理屈か。
真にゲンリ教条主義者であるならば、毒にも薬にもならないであろうからまあそれはそれでよいと思う。
しかし、厄介なのは、いかなる目的、動機か知らんが会話のテーブルに着こうとしない『部外者』なのである。
(※統一信者が一般人を装ってカキコすることも多い)
シンパだのなんだの統一教会に理解ある風を装った『部外者』たちのネット上のカキコを読むたびに、なんともいえない嫌な気分になってくる。
なぜか。
それは、統一教会問題を利用して自分を売り込んでいるように見えるから。
最初ッから統一教会問題など云々しようと思っていない。
ヘンテコなカキコにツッコまれツッコまれ、追い詰められれば最後の切り札を出せばいいわけさ。
「あたしは統一教会信者じゃないわよ ぷぷぅ~」
「ぼくは、クリスチヤンなので統一問題に対して部外者ですからね へへ」
「おれは、統一教会信者じゃないぞゴルァ」
護摩の灰の上を行く者たち。
いわゆる教条主義的統一教会信者のカキコにも食傷気味だが、彼らは彼らなりに一所懸命自分の信仰のゆらぎを食い止めようとしている、その虚しい努力をいじらしく思う。
統一教会の陰の部分には、あえて目を向けようとせず、ネガティブ思考はサタンの餌食になるとばかり、必死なって自分の信仰を繋ぎとめようと長文のカキコをひたすら続ける。
それは、自分へ向けたメッセージなのだと思う。
揺れ動く自分の信仰との闘い。
しかし、それは不信仰との闘いではなく、自分との闘いなのである。
彼らは、ゲンジツに目を向けるのが怖いのだと思う。
教祖や、教義、組織にという外的なものに囚われている自分に気づいたとき、彼らは一瞬のうちに救われるだろう。
『護摩の灰の上を行く者たち=自称部外者』の無責任発言より、いわゆる教条主義的統一教会信者の方がまだ救いようがあるとぼくは思う。
ボジティブシンキング
実はぼくは、いままで巷でいわれているボジティブシンキングというのはどうも胡散臭い感じがして完璧に受け入れがたかったのです。
なぜかというと、そのポジティブ思考とかいう考え方を強く打ち出していたのが、ぼくの大っ嫌いなマルチ講野郎(ねずみ講もマルチも MLMも一緒だの意)の説明会や、子ねずみ育成セミナーなんかでよく言われることだったからです。
ぼくは自他共に認めるお人好しなので、もともとポジティブ思考の土台があったのだと思っています。
ギヤグ好きなのは油ギッシュなオヤジになってからではありません、小学生のときから漫才ネタを考えていました、【すべ太、ころん太、あい太】のトリオをつくったりもしました。
しかしオトナになるにつれ、いつしかあのネアカ思考も薄れていくようになったんだなあ……(トオイメ)
何をセンチメートルになってんだよ!パシッ
そらセンチメンタルでしょっ!パシッ パシッ
ぼくは、どうせならポジティブ思考のほうがいいと思っています。
ポジティブ思考を誰かに教えられたから、ポジティブ思考を意識してるんではなく、もともとがポジティブ思考の傾向があるんだなあ、と最近つくづく思うんです。
今思えば、統一教会に入ってから後向き思考に偏っていったように思います。
さて、統一教会内ではどんな思考法を推奨しているのでしょうか?
元、現の方ならおわかりだと思いますが、『アベル的:カイン的』という言葉があります。
教会内で慣習的に使われているこの言葉は、厳密にいうと教義に則したものではないのですが、端的いいますと教会にとって都合のいい言動はアベル的、都合のいい言動がカイン的なのです。
つまり、『アベル的:カイン的』というのは、組織内だけで通用するところの『ポジティブ思考:ネガティブ思考』のことをいうのです。
ぼくがビデオセンタースタッフ時代のことです。
正体隠し勧誘が世間様から批判されていたので、「ここは統一教会か?」の質問を受けたら「はいそうです」と答えるように心構えをしていました。
でもほとんどの人が、直接「統一教会か?」の質問をすることはなく、だいたい「このビデオ、統一原理なんですか?」とか「これって宗教なんですか?」という質問が多かったのです。
そのような質問には正しくYESと答えていました。
これらのことは、別にポジティブ思考でもなんでもないですね。
ところが、他のスタッフやらなんとか長という肩書きを持ついわゆる責任者という名の無責任者から、やんやと批判、否定されました。
Ohなんというネガティブ思考!まあ、このような事は瑣末な一例なのです。
ですから、こんなネガティブ思考渦巻く組織にいたら、陰険になってしまいまうのは当然なのです。
ビデオセンターという名の伝道所は、教祖様からこう予言されていました。
「みことばを求めて列をつくるようになるんだよ……」
あいやいや、ここで教祖様を批判してはいけません。
ポジティブポジティブだから、ビデオセンター前に列を作っていないのは、信者のせいであって教祖様のせいなどではないのです、私たち信者が責任分担を全う出来なかったのです。
このようにとらえるのが教会内ポジティブ思考なのです。
ぼくが統一教会を離れたのは他でもない、もともと広義のポジティブ思考傾向だから、波長があわなかったということなのです。
判子売りにいくとき、前線出発壮行の儀(出発式)では、高額な売上目標を口に出さねば不信仰者!と白い目で見られますから、嘘でも120万とかいわねばなりません。
このような儀はどこぞのセールスマンでもやってるでしょうから珍しくもないんですけど、なんでそんなに高額な実績を出さねばならないかというと、神様、真のご父母様の為なんだそうです。
「神様のご父母様の為がんばりまーす!るんるん」と張り切っていたぼくとペアになった元気の良い姉妹に思わず言ったことがあります。
「判子売って神様の為、ならないっしょ」
へっ?という顔して困惑してましたけど、だんだんと怒ったようなふてくされたような感じになって、結果は全く売れませんでした。
その姉妹、判子売りのアジトに帰ってきておそらくこんな思いになっていたのではないでしょうか。
「判子売りに行って実績がでないのはあたしの信仰の足りなさなのだわ、しくしく神様、真のご父母様すみませんしくしく……」
はて?何に対して謝っているのでしょうか。ぼくには理解できません。
たかが判子売りでなんでこんなにエキセントリックになれるのか。
ぼくが判子売り店舗に行ったのは自分の意志ではなく、一方的な人事でした。
ただし、世間一般の常識的な店舗ではないので、表向きには法人にしていたもののそこは営利を追求するところではなく、信仰の訓練場ということでした。
つまり物売り体験を通じていろいろなことを身体で学んでいく場である、と。
ぼくはそのように捉えていたので、店長に昇進したいとか判子売って褒美をもらいたいとかそんなことは全くおもっていませんでした。
ところでぼくの実績なのですが、判子売れたのは数えるくらいしかありませんでした。
ですから判子売りは辛い思い出しかありません。
でもいいじゃないですか、統一教会にこなかったら一生ドカタで終わってたかもしれない、セールスなんてとんでもねえ!と思っていた奴がセールスの体験できたんだもん、うふ。
さて皆さん、このように捉えるのがポジティブ思考ではないでしょうか?
統一教会で不条理な体験をしてきたおやぢはいつしかネガティブ思考になっていたことにはたと気がつきました。
あ、こりゃあいけねえや!ってんで、統一教会なんてそんなもの笑い飛ばしちまえ!と、もとのポジティブ思考の少年のような初々しいおやぢに戻ったのが、なんのことはない統一教会を離れたときからなのでした。
めでたしめでたし。
だからぼくは今ポジティブ思考でやってます。
統一教会を離れてからというもの、それからぐんぐん幸せになったのはポジティブ思考のお陰なのです。
もちろん統一に限らず不条理なこと腹立たしいことは周りにたくさんあふれています。
腹立てても自分が損するだけだと気づきました。
ネガティブな思いになっていることに気づいたら、それを打ち消すように心がけてます。
ぼくは統一教会と出会って、ボジティブ思考の重要性に気づかせてもらったのです。
はあ~ポジティブポジティブ~
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