脱会したある姉妹の手記より
統一教会はオトロシイところだと外野に吹き込まれていたのだが、街頭の手相見にふと気を許してついていったところがあの悪名高い統一教会ということがわかった。
でも、ビデオセンターに通っていくうちに、世間の噂とはまったく違って皆ニコニコしていて明るくていい人たちばかり。主のセミナーに参加して晴れて噂の統一教会に入教した。
希望を持って教会の活動に参加してみたのだが現実はカネカネカネカネ、動員動員動員、勧誘勧誘勧誘という噂どおりの世界だった。
でも、面子があるから後には戻れない、自分で選んだ道をいまさら変えるなんて、と様々に葛藤していく。
教育期間もおわり、ビデオセンターの責任分担になった。
あのころお世話になったお姉さんもいるし、所長もいる。でも、現実は経済部への橋渡しということを知って愕然とする。
あのニコニコしていたお姉さんもスタッフルームでは別人のように冷たい。
でも、愛を実践するところなんだから、愛を求めてはいけないんだわ、と自分に言いきかした。
そのうち、和動カードとか対象者カードとかいうカードに接待後記入を義務づけられる。ずいぶん沢山のカードがあるが、あちこちに散在している。
管理が杜撰なようだ。というか管理なんてしているのかしらんと思った。
偶然、自分のカードを発見した。
そこには……
・みことばが入らない
・アベル的だが人情的にながされやすい
・教会の悪い噂を知っている
・アダムエバ的要素あり(アダムさんは注意)
・貯金なし・ローンあり
・印鑑授かるも霊石は財がないため×
・絵画展動員(条件的動員)
などということが書いてあった。
やはり、悪名高い統一教会の噂は本当だった……
教会に愛がないのは当然!?
教会に来る人っていうのは、現役信者の誰かが言ってましたが、信仰というより人情、または相手の人格に触れて、という動機が多いのは確かだと思います。
それゆえに、教会の愛の無いあるいは複雑な縦割り組織、わけのわからないカインアベル原則というものに直面すれば、あの時尽くしてくれた動機はいったいなんだったんだ!と憤慨するのは当然ではないでしょうか。
愛を求めている人を伝道しないで、愛を実践したいと思っている人のみ伝道すれば、こんなややこしいカインアベルの原則がどうのこうのはなかったでしょう。
でもな。教会てえのは、病院や修理工場みたいなところだっていう御言葉もあるんですよ。
愛がないから教会で愛のある人間になるために修行する。というなら筋は通ってる。
「私たちはまだ完成途中のため愛はないですが、愛ある人間になるよう努力してまいります。未熟者ではありますがどうか今後ともご指導ご鞭撻のほどお願い申し上げます。」
なーんて披露宴の挨拶のようにいわれれば、がんばってね!と声援を送りたくもなるのが人情というものでしょう。
あ、もちろん慇懃だがハラではそう思ってないならバカヤローですが、真摯に愛の人格者を目指して修行しているなら、の話ですよ。
統一教会員に限らず、自分のことを棚に上げ、
「ここは愛を求めるところじゃない、あまったれるな。愛を求めるなら既成教会へ行け」などと能書きをたれられると反発するのが普通ではないでしょうか。
最初から、
「ここは理屈もへったくれもない、ただひたすら愛を実践するタコ部屋みたいなところなんだ、みんな愛なんかこれっぽちもないからそのつもりで!」
といってくれたらよかったのに、ねえ。
心情蹂躙について
大母nimもおっしゃっている戒めのなかに、心情蹂躙があります。
過去の統一教会の中において実際に心情蹂躙がおこなわれていたからこそ、あえてこのような戒めをお与えになられたのは周知のことですが、いくら心情蹂躙を戒めてもそもそも心情蹂躙がいかなるものかわかっていない者たちが多い。
ですから、大母nim。そのような儀礼的な戒めなんか、もういらないのではないですか?いまさら遅いという気もします。
ごく一般的な教会員は「青春を返せ」と叫んでいる人たちを小ばかにしたり、信じらんない!といいますが、その思いこそが心情蹂躙のなんたるがわかっていない証拠です。
実際、青春返せ裁判の原告は文字通り青春返せとは思っていないようですが表現としてはインパクトがあります。
真意もわからず反対派とレッテルを貼られているいる弁護士が絡んでいる裁判だからという理由だけで一般の教会員は「信じらんなーい」と思っているのです。
原告たちが本気で、取り戻せない青春を返せーと主張していると思っているのです。
統一教会関連の裁判については、すべての原告らが正しい主張とは思えないが、裁判を起こしたという事実に関しては、教会側は謙虚な気持ちで受けとめるべきであると考えます。
(ただし、マインドコントロールされたと主張している人に関して、ぼくは信用していません)
心情蹂躙していたということを提訴されたことで気づくべきです。
「気づき」などということばがありますが、人からいわれて気づくなんていうのはあたりまえであって、言われてもきづかないのは、気づきようがないでしょう。
蕩減原則という原理があるなら青春を返せと主張する人にどのような蕩減を払ったというのでしょうか?
神山会長がかつて桜田淳子さんたちがさわがれていたとき、TVインタビューで霊感商法問題に触れたとき、
「そのことは裁判でハッキリしましょうよ。日本は法治国家なんだから、ね」
と言い残してそそくさと立ち去っていったのを見たとき、脱力しました。
裁判でケリをつければそれでいいのか、と。
心情の世界はどうなるのだ、と。
極めて現実的だな、と。
おやぢのつぶやき
電車にのっていると、たまあに食口が醸し出す一種独特な波動を感じることがあるんです。そうすると、金のごっつい指輪をしていたり(統一マークを内側に隠しているのがいじましい)原理講論を読んでたりするんですよ。
そういう確認する手立てがなくてもほぼ99%わかります。
あと、かなり高い確率で元食口の人もわかりますね。
今まで、仕事上の関係で現役食口とたまたま知り合うこともありますが、元食口と会うこともあるんです。
笑いながらハナシのタネとして
「実はぼく、幸福の壷買ったことあるんスよ。大理石の」
なんていうと、元食口は自分から語り出しちゃいますね。
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