週刊大衆:1979年06月07日号
統一教会に対するお詫び
本誌編集部としては、こと宗教団体と信徒の名誉に関わることであり、社会の公器としての本誌の立場を十分に考慮した上で、直ちに裏付けのための追跡取材を行ないました。
特に、統一教会に「血わけ儀式」が存在したのか、どうかに焦点をあてて、「原理運動の研究」で知られる茶本繁正氏、「原理運動被害者父母の会」の木熊鉄男氏、本間テル子氏、「原理運動被害者更正会」会長の後藤富五郎氏、仙台中央警察署、仙台市役所周辺などを徹底的に取材いたしました。
しかし、本誌が掲載した「血わけ儀式」を裏付ける物証、人証はどこにも存在しませんでした。
追跡取材の結果、統一教会には教義上はもちろん、実際にも「血わけ儀式」は全く存在しないことが判明いたしました。
以上のような事実から、本誌掲載記事が宗教団体・世界基督教統一神霊協会と信徒の皆様に、多大な迷惑をおかけしたことを誌上でお詫び申しあげます。
昨年から、統一教会のいわゆる『血分』について考察および調査を重ねてきたわけだが、週刊大衆も「血わけ儀式を裏付ける物証、人証はどこにも存在しませんした」と謝っているように、確かに証拠はなかった。
しかしだからといって、「血分け」の疑念が消えたわけではない。
ぼくは「血分け」はあったと確信している。
統一教会反対派はことあるごとに、「血分け」と叫んでいたことは、ぼくが統一教会に在籍していたときから知っていた。
「血分け」という表現は、おぞましくおどろおどろしい。
「淫教のメシア」という表現もしかり。
これで世間様は、統一教会はおぞましくおどろおどろしいところだと先入観を持つことになったわけである。
反対派が主張する「血分け」というのは、とどのつまり文鮮明氏が不特定多数の婦女子と御目合(おんめあい)なされたということである。
純潔を主張する信者からすれば、教祖の不特定多数の御目合は認められないものである。だが、教祖だからこそ、人類の救い主だからこそ、不特定多数の婦女子との御目合を認められる、あるいは権利があるとも云えるのである。
ぼくは、倫理、道徳的な観点から文鮮明氏を感情的に非難しているのではない。冷静に客観的に不特定多数の婦女子との御目合は歴然としてあった、と確信しているのである。
これは霊感商法問題とはまた別な問題である。
次回からは、血分という言葉はいかにもいかがわしいので、新しく『御目合問題』として深く考察していくことにしよう。
御目合問題ふたたび(その1)
※いわゆる『血分け問題』のことです。
統一教会先達I氏の証言より
>聖酒とよばれるものに、精液が混じってるって本当なんですか?
私の経験から言って「あれ、今の会員は知らないんかな?」と言う感じです、昔はといっても777のときでした、そのことはみんな周知の事実です、多分今は入ってはいないのかもしれない、ワイン一グロス買ってきて封も開けずに上から以前の聖酒をチョコッとかけてお祈りすれば全部聖酒扱いです。
そのようなことより、祝福受けて結婚してる人がですよ、祝福の原理的理論を皆さんご存知ないのには驚きです。手短に言いますと文氏と女性が肉体的に結ばれて女性が文氏の霊肉を体恤しつぎに男性を性行為によって重生させるというのが祝福の奥義なのです。
これを実体でやるのが本当だが面倒なので象徴的に行おうと言うわけです、このことも秘儀としていまや隠蔽されています、ある意味で久~さんのHPで言われていることは正しいことです、それを納得しての信者なら私も何も言いませんがあなたのように知らされずに莫大な献金をし、祝福まで受けて無知のまま嬉々としているばかばかしいの限りです。
これは原理をよく読めば解ることですが、サタンの血統より、メシヤ(文氏)の血統へに転換するために必要不可欠なものです、たぶん初代に近い祝福の方々は実体を持って行っていたのでしょう。
だんだんと復帰が進むにつれて聖酒と聖水で象徴的に済まされるようになってきたのです信じている人にとってはこれは神聖な行事なのです。
ただ知らずに受けて嬉々としているのはばかばかしくって!原理では、霊的堕落と肉的堕落とニ分されていて、性交を伴わない復帰に関しては、霊的堕落についてのみ意義があります。血統転換とされるうらにはこの後者の遺伝的罪があるとされてます、原罪をぬぐうと言うことでしょうが、その遺伝的罪を抹消するためには生まれ変わるしか方法はありません。そのためには原罪がないとされている「メシヤ」がいなくてはなりません。
そしてそこで「祝福」がおこなわれるのです。原罪を持ったままの女性でもメシヤの相対者にはなれますそして彼と結ばれることによりメシヤの愛情により、神(メシヤ)の心情(霊肉)を体恤しまたサタンにゆずった初夜権をとりもどせます。
とうぜんそこで復帰された本然の長子権をもった男の子が生まれてくるはずです。
それを代理するのがマッチングされた男性です。彼と第一夜をむかえることは彼が女性の胎内に入りその女性によって先ほど言った本然の長子として生み返られることを意味します、これを重生といいます。
第三夜まで行うことはイエスの立場を復帰して、文氏の立場までかれが復帰することを意味します。最後には彼が文氏の代理となりその女性を新婦として立たせることを意味します。
これを興味本位で見てしまえば部外者は淫乱教だ、邪淫教だということになるでしょうが原理を信じるものにとってはこれなくしては本然の立場に立ち得ないのです。
このところをよく理解して言動を慎んでいただきたい。ところで私がこれをどうして知ったかですが、それは原理をよくよめばわかることだと思います。
また、証拠、証明はできませんが、文氏より直接聞きました。彼はこのことについて、『神』に私はこういうふうに思いこのようにしようと思うが正しいかと問いただしたところ、二回「NO」といわれたが、いやこれしかないどうしてもこれだと談判したところ三回めにはじめて「そうなのだよその通り行いなさい、我が子よ」との返事をいただいたとのことです。
文氏は777双の祝福のとき「私が発明した」といってました。
それと聖酒の内容はワインに「真のご父母さまの体液が入っています」とのおことばでした、それをみんながいろいろ注釈つけての解釈でしょう。だけどそんなことより実際に文氏と性交しなければ本当の血統転換はありえないのだし、たぶん777双のときに、最近私が発明したのだとのニュアンスから推測するとその前は実体で性交をともなう祝福だったのかもしれない?
私自身は反統一なのですが、理由があって世の反統一の方々とは組しないそのアイデンティティもあってのことです。
原理講論を読むとその中では文氏に愛され愛していくことにより神の愛を体恤できるとしてあります。
また神の愛を体恤した女性によりふたたび今度は文氏による生をうけることを重生とかいてあります。ここにおいては神=文氏ということになります。
ですからこの作業を「体恤ならびに重生」という言葉でいうのが正しい。
私は統一内部においてこれ以外の言葉で文氏の性的復帰作業をきいたことがない。
ただ、よくは知らないが、たぶん統一の黎明期に行われていた作業だと思う。このことをもって単純に文氏批判をするのはたやすいが、それは控えるべきだと思う。
というのもそれを信じてて行った多くの女性たちがいるということもあるからです。
それより、その結果これからの統一ならびにその影響下ではとんでもないことが行われる、選民主義と氏族差別です。もし統一が世界を支配すると文氏、ならびに形式的文氏一族の血統的人民支配がおこなわれる。
はてまた、民族浄化、氏族血統浄化等がおこなわれる。
すくなくともその選別から外れた人たちはごみとして捨て去られるか奴隷として酷使されるか、まあ北朝鮮の非党員国民と同じでしょう。
私ならびに私の血統はそこで選民の方々の慈悲におすがりするしか生きる道は無いでしょう。すでに今日の時点で統一の中では階級分化がみられるセカンドジェネレイションなど階級化のことは公に言及しています。
またその中で王族、皇族などという言葉も公式化されてる。
このようなことが危険思想だと私が断定する根拠です。いずれ奴隷制度もでき私も皆さんも馬車馬のごとき扱いかもしれません??人間みな同じ王も預言者と人民に従うというイスラエルの伝統は消え去るのみでしょう。
事実のことは当事者の問題であり部外者が興味本位で「血分け」などと揶揄していいものかどうか、また閨房のうちのことは身近なものもわからないのが現実です。
かばっているとかの問題ではなく、私にもわからないのです。
ところが原理の目指すところは血統転換であり、文氏血族の世界支配としかみえません。
その誰にでもわかるものだけが俎上にあげられると思います。
たとえばその女性たちがその言葉を使うなら、当然でしょうが私たちはあくまで部外者なのです、それを揶揄した表現は慎んでくださいということです。どんな非合理的宗教行事でも40年50年と時代が経てゆくとその誤謬は風化され原初的思想のみ美化して生き残ってしまう。
その何十年というスパンでものごとをなしていくということにはすごさ、ある種の恐ろしささえ感じてしまう。ところがその数十年の最後にちょこっと顔出しただけの人は当然原初的作業も思想も知らない、私は、その作業のことはさておいてここの場所でその思想の一端を表現しただけなのだが?いったい現時点で祝福受ける人たちはたぶん何もしらないと思う
「なんだかしんないけど血統転換だってよ」
「なんだかしんないけど無原罪だってよ~」
「なんだかしんないけど堕落性とか自犯罪がなんとかだって」
「へ~それじゃぼくたちも祝福受けよっと?」
ばかばかしい、聞くに堪えない、自分たちがなにやってんのか考えてみろだ!
コメント