旧統一教会元信者の衝撃告白手記(42)完:初夜権を考える【転載自由】

血分け問題
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初夜権を考える

2001/09/22

I氏の証言に「初夜権」という言葉がでてきたので、初夜権とは一体どういうものなのかを考えてみよう。
メル・ギブソン主演・監督「ブレイブハート」という映画がある。

物語は、西暦1200年代頃の中世の英国での出来事、当時イギリスの植民地だったスコットランドの平民ウィリアム・ウォレスがイギリスの植民地支配に反旗を翻し、英雄的な活躍をするというもの。
しかし、最後には友の罠に落ちて、処刑(八つ裂きに)されるまでを描いた歴史スペクタクル映画。
実はこの映画、「初夜権」という問題がことの発端である。
メル・ギブソン扮するウォレスが愛する女性と「領主の初夜権を忌避するために密やかに結婚した」。
ところが、それが領主の知るところとなり、ウォレスの最愛の妻は領主に浚われ惨殺されてしまう。
ウォレスの反抗(「ブレイブハート」)はここからはじまるのだ。

「初夜権」~広辞苑にはこう書いてある。

『初夜権jusprimenoctice(羅):庶民・領民の結婚に際し、酋長・領主・祭司・僧侶などが花婿に先だって花嫁と同衾する権利』
要するに時(あるいは土地)の権力者が花婿に先だって花嫁と性交「セックス」する権利である、「処女権」といっても良いかもしれない。
即ち、この「初夜権(=処女権)」を持つことが、時の権力者のステータスを意味していた。
現代では表面的にはだいぶ処女崇拝というのは消えたが、それでも、ある種残っているのは、こういったことが影響しているのだろう。
ところで「初夜権」なるものは、西洋だけの風習のような気がするが、日本でも古くからあるのである。

井上ひさし氏の「巷談辞典」(文藝春秋)には、こう記されている。

『羽前国(山形県)の米沢市には、婚礼の三日前に仲人が新婦をわが家に泊め、三夜共寝して、式の当日、なぜだか知らぬが餅を百八個添えてその新婦を新郎の家へ届けるというならわしがあった』
同書には、この他にも、和歌山県の勝浦港、石川県、大分県日田夜明村「ボンボボ」などをあげている。
福岡県では性交のことを「ボボ」とか「ボウボ」と言うようだが、何かしら関わりがあるのかもしれない。

それと、モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」の舞台でフィガロの機知でアルマヴィーラ伯爵の持つ封建的な「領主権」を封じるという話がある。
この「領主権」というのが、実はフィガロと結婚しようとする花嫁スザンナの「初夜権」のことというのは案外知られていない。
随分乱暴な話なのだが、この「領主権」は、花嫁のお尻の大きさだけのバターを代わりに納めれば免除されたという。

主な登場人物
・フィガロ(主人公。伯爵の下僕)
・スザンナ(フィガロの婚約者。待女)
・アルマヴィーヴァ伯爵(スペイン貴族)
・伯爵婦人・ケルビーノ(小姓)
・マルチェリーナ(実はフィガロの実母)
・バルトロ(医師)
第一幕
城の一室、伯爵の従者フィガロと伯爵夫人の侍女スザンナは、夕方に結婚式を挙げる事になっている。二人は、その準備をしているが、スザンナが新居と伯爵の部屋が近過ぎることに気がつく。これは、伯爵が「初夜権」を復活させてスザンナをものにしようと企んでいるからである。
フィガロはそれを阻止する決意を表わす歌を唄う。
しかし、フィガロはマルチェリーナから借金をしていて、それが返済できないときはマルチェリーナと結婚するという証文を交していた。
マルチェリーナは、医師バルトロと謀り、フィガロに迫る。
一方、スザンナのもとに小姓ケルビーノがあらわれ庭師の娘バルバリーナとの逢引がみつかり、伯爵に追放されうになっていると、取りなしを頼みに来る。
ケルビーノは、スザンナにも言い寄ろうとするが、そこに、スザンナを口説こうと、伯爵が入ってきたのでケルビーノは長椅子の後ろに隠れる。
すると、音楽教師バジリオがやってきたので、伯爵まで長椅子の後ろに隠れることになる。
スザンナが、なんとか隠そうとするが、結局ケルビーノは伯爵に見つかってしまい、バジリオの告げ口によってケルビーノが夫人に好意を持っていることを知った伯爵は、ケルビーノに軍隊行きを命ずる。
そこへフィガロが村人と共にやってきて、初夜権を廃止した伯爵を賛える。
また、ケルビーノをからかう有名なアリアを唄う。

初夜権と教祖の御目合問題

S子女史の特別寄稿より

カフカの『城』

主人公の測量士Kは、いつまでたっても城とその村に所属することができない異邦人。存在のゼロ地点(存在を喪失している状態)から、存在の数値を獲得するために苦闘する。
自分も、いかなる世界にも所属し得ない存在であるような気がすることが多々あるから、主人公の立場はよく分かる。
それは私が統一教会という特殊な世界に長くいたからとも言えるが、元からそんな非存在の「傷」があったように思う。
「この傷--、それは治らない、なぜならそれがかれ自身なのだから--にこそ、そしてこの孤独にこそ、かれは駆けこまなくてはならない、そこにかれは、かれの芸術(人生)に必要な、力、大胆さ、巧みさを見い出しうるだろう」(ジャン・ジュネ)この傷、それは治らない、なぜならそれが私自身なのだから……結構でしょう、よくぞ言ってくれました。
(ジュネは正真正銘の泥棒で、とうぜん同性愛者でした)
カフカの『城』も何かを象徴するように、未完で終わっています。
それはそれとして、I氏によれば、この本には血分け、体じゅつ、御目合問題が描かれているということでした。
中世ヨーロッパで領主が花嫁の初夜をともにする権利を持つ、いわゆる「初夜権」、古代バビロニアのすべての女性は生涯に一度、愛の女神の神殿へ行ってすわり、誰か外来の異邦人と性交することになっていたという「神殿娼婦」。
その他なんとでも言ってください。心理的には同根です。
小説の主題がそれというわけではないようですが、城の高級役人と村の女性という関係で、それらしきテーマが断続的に出てきます。
>>だが、教祖だからこそ、人類の救い主だからこそ、不特定多数の婦女子との御目合を認められる、あるいは権利があるとも云えるのである。
(『おやぢの独白1』Vol.041より)
そのテーマが、現代の、それも自分が属していた団体という、ここまで身近に来られると、アホらしくて、「オイオイ、教祖のオッサン、勝手にヤレるだけヤッチくれ!」と投げたくもなるが、女性としては心理的に根深いものがあるので、目をつぶって続けることにしよう。
たとえば、城の役人から下品な誘いの手紙を受け取ったが、ビリビリに破いて使者に投げつけてしまった村の娘アマーリア(彼女の一家はそのためになんとなく、完璧に没落する。なんとなく、というのがオソロシイ)の姉オルガのセリフ、
「お役人が失恋するなんてことは前代未聞です」
「女性というものは、お役人にいったんこちらを向かれたら、相手を愛さざるをえなくなってしまうのです。それどころか、どんなに否定しようとおもったって、そのまえからすでにお役人を愛してしまっているのです」(P329)
また、城の高級官僚の元恋人だか愛人で、今は主人公Kの婚約者になっているフリーダが、アマーリアについてKに言うセリフ、
「あなたは、あらゆる女のなかでいちばん恥知らずのあの娘を慎み深いとおっしゃるのね」
「あなたは、誠実とはどういうことか、わかっていらっしゃらないのね」(P406,407)
などにみられるのが、城と村全体の空気のような当然の価値観というわけです。
カフカ作品の高い観念性からすれば、これは現代よくあるセクハラ、不倫、買春、愛人問題という平たい問題だけではなく、「初夜権」的な象徴があることは十分伺われれるのではないでしょうか。
つまり、女性側から言うと、等身大の一人の男性と家庭をもつ(=結婚)以前に、超越したもの、聖なる存在、神々の代身(とみなされるもの)を愛し身を捧げる、愛の女神へのイニシエーション、そういう願望をもつ心理です。
参考文献:『聖娼』N・クォールズーコルベット著(日本評論社)

『日本統一教会草創期の先達』による特別寄稿

原理でいう本当の救いについて、私、とその同輩達はいやというほど聞かされました、いや、聞かされたはずです、ところが、ほとんどの人はそれを理解できずに、ちんぷんかんぷん、私も、日本で、韓国で文氏からまた韓国の先生からそして理解できないことから、韓国の食口とは激論も戦わすほどでした、ところが日本の多くの人たちは笛吹けども、踊らず、組織の言うことを「はいはい」、といいながらずるずるべったり、文氏から見たら金魚のうんこです。

そのはなしは、メシヤの血統圏に肉体を持ってはいるように、ということ具体的な言い方は、男性に対して、恋人、愛人を、メシヤにささげて救いの圏内にはいるように+α、女性に対してはあなた方は私の私物である+αこれは当時西川教徒であった、私には到底考えもおよばないおしえです、ところが、今でも状況はあまりかわりません、だからあめなめろ、コンチクショウ献金だ、さみしいかぎりです、このように、本論を持ちながら、それをも説明できず、本論と関係なさそうな事業に躍起となっているありさまはなんと悲惨なことか、下部機関の1人1人は闇夜に鉄砲を撃っているようなものです、自分の作業に、付け足しのような変な理屈でなっとくさせられ反論もできうる環境も奪われ、そこで、救いの喜びを実感せよ、と自分の内面生活まで奪われ、傷つき、倒れて、しかも、自己嫌悪、という”原罪”とありもしない霊界の恐怖を植え付けられる、そういうことをする大きな怪物が教会という組織ではないのか私から言わせると、存在性を疑うが他にないのでしょうがない文氏の金魚のしっぽに過ぎないのだが、だから、「うー」とかいう存在が出るのではないのか私の経験から言うと文氏は彼らに何かしらの言質をあたえているはずだまた、与えつづけているのだろう。

イチハチ夫人のエッセイより

メルマガ(血分について)を読んで

薫製屋おやぢさんがあぶり出した教会内の状況

>とくに、タマルの義父は嫁のことを「娼婦」と間違えて買ったというじゃありませんか。娼婦を買ったスケベおやじはどのような動機でイタしたと思いますか?もちろん性欲の赴くまま、でしょう?
>これでおわかりのように、血統転換のキーポイントは男の動機ではなく「女」の心情なのです。男の動機にキレイ事は必要ないのです。ぶっちゃけたハナシ、やりて~でもいいのです。

統一教会の教義や教えが、女性にえもいわれぬ自己否定を強いていたことを思い出します。
男性は天使長だなんだとひどい言われようではありますが、実際は存在としてそのままでもそれほど否定され得ない。
血分けの主体(教祖)が男性だから、血分けを受けるのは女性ということになる。
自分の相対者が血分けを受ける男性も辛いだろうが、実際に血分けを受ける実体である女性が被る一人の人間としてのダメージの方が計り知れず大きいはずだ。

メルマガでもアフリカの女性性器切除の問題がちらっと出ていたが、以前それに関してのノンフィクションの本を買おうとして本屋で立ち読みをしたところ、状況があまりにも悲惨で読めなくなり買うことはしなかった。
あれは大人の女性にではなく10才足らずの幼い女の子にほどこすのだ。

目を反らしてはいけない問題なのだが、同じ年ごろの娘の親としては、感情的にどうしても読み進めることはできなかった。
だが血分けによる精神の規定のされ具合は、その女性性器切除のダメージに匹敵するといっても過言ではないだろう。
私は実体の血分けのない象徴の時代に統一教会にいたが、原理の教義だけからでもある程度そのダメージは感じられた。

しかし、

>教会内の女性は自分からはいいませんが、できることならお父様の種を仕込んでいただいて子供を産みたいと思っている人がかなり多いと思われます。

そう、そうなのです。
女性が心理学的にいう「父の娘」の段階に留まっている場合、血分けの悲惨さは自覚されにくい。
却って得意気になったりすることもある。
「父の娘」の発達段階については実家に帰ってもう一度心理学の本を読まなくてはならないが、家の中だけが世界である「母ー娘一体」のいわゆる子供の段階から成長し、社会に目覚め、多くの知識も持つようになるが、父権的な権力にまもられ支えられなければ存在できない心理状態の段階。
これは女性の年齢、能力、立場に関係ない。

「父の娘」の段階を越えなければ、女性の真の自立 、完成はない。
結論を急ぐが、血分け(の象徴である統一原理)を受け入れれば、「父の娘」段階から心理的に抜け出すのはほとんど不可能になると思う。

エバさんたちが喜々として血統転換、心情転換の教義を受け入れるのは、卑怯だと思う。喜々としてではなくても、やっぱり卑怯だ。
卑怯というのが、女性特有の感情的表現になってしまうとするなら、えーと、成長が止まってしまうと思う。
そして必ず回りに傷つく人がでると思う。

統一教会のいわゆる烈女と呼ばれる大先輩たちに卑怯と言うのかと言われると、困ってしまうけれど。
社会的常識や見識などはこっちの方がないでしょうから。
まあ、言うだけなら言えますけど。

あとマリアやタマルはどうなのかと言われれば、血統転換があったかどうかも全くのなぞだし、本当の神に超選ばれた人達を軽々しく引き合いに出すつもりはないと言っておきましょう。

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