【最初の伝道師~西川勝氏が語る】統一教会よ、なぜ”堕落”してしまったのか!(1999年/当時74歳)

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「救い」の正体。別冊宝島編集部編:高山数生 (フリージャーナリスト)

統一協会(宗教法人世界基督教統一神霊協会)は一九五四年五月、韓国で文鮮明によって創立された。
釜山のボムネッコルという地区にある創立当時の粗末なダンボール小屋は、いまや観光名所になっている。半世紀にも満たない歴史しかない宗教団体が、早くも自分たちを伝説化しようとしているのである。

もともと朝鮮半島には「淫教」と呼ばれるキリスト教を模した土俗宗教の一派があった。
その中の一派であるイスラエル修道会の教えが、現在の統一協会の教義に酷似しているのは有名である。文鮮明はこの淫教にいたことがわかっており、統一協会はこのイスラエル修道院の影響を強く受けている。
淫教のメシア・文鮮明伝

統一協会設立後、文鮮明は「梨花女子大事件」(一九五五年)という風紀紊乱(びんらん)の容疑を問われる事件を起こしている。韓国ではとくに婚外交渉に厳しく、いまなお姦通罪が現存しているが、大騒ぎになったこの事件によって、文鮮明のソウルでの布教拡大は困難になっていた。

”日本伝道”は、ちょうどこの事件以後に始まっており、窮地に立たされた文鮮明が布教の新天地を求めるために企画したものと思われる。

日本統一協会は一九五八年に創立され、すでに四十年以上の年月を刻んでいる。韓国では宗教法人としては認められておらず、宗教法人の認可を受けている日本のほうが、現在でも会員数は韓国をはるかに上回っている。

創立時、韓国では問題小集団でしかなかった統一協会は、日本に上陸してから急速に発展し、今日の勢力を築いたといっても過言ではない。家庭崩壊や霊感商法、過激な献金方法で知られる統一協会という反社会性の強い世界有数のカルトの誕生は、ほかならぬ日本にも原因があるのである。
その日本を開拓した”一粒種”は、今どんなことを考えているのだろうか。この統一協会の現状をどう見ているのだろうか。

最初の伝道師

日本統一協会の創立当時は、終戦後の補償問題などが解決しておらず、日本と韓国との間にはまだ正式な国交樹立されていなかった。韓国から入国するには、密入国しか方法がなかった時代である。そんなころ、文鮮明の命を受け、単身、日本に伝道にやってきた統一協会の最初のミッションこそ西川勝氏(韓国名・崔翔翊(チェ・ポンチュン)、以下西川氏)である。現在、西川氏は脱会しているが、日本統一協会の初代会長・久保木修己(くぼきおさみ)はじめ日本人幹部の多くが彼の指導を受け、教団の一部の会員からいまだに「パパ」と呼ばれるほど、影響力を持つ実力者である。

彼が脱会した理由について、ある現役信者は「私が入会した当初は彼がメシアではないかと思ったほどだから、彼の人望に対して文師(文鮮明のこと)が嫉妬し、何か嫌がらせをしたからではないか」と話している。しかし本当は、日本の統一協会が霊感商法などの反社会的活動に深入りすることに常に批判的だった西川氏が、教団内で煙たがられる存在であったこが大きな理由である。それほど統一協会の現状は、彼が考えている本来の姿からかけ離れたものになってしまったのである。そのため、協会に失望した西川氏は脱会した。過去の統一協会への思いとあいまって、西川氏の脱会を聞いて、溜息をつく現役信者が今も少なからずいる。

日本に密入国した西川氏の命懸けの体験は、手記「日本伝道記」に記されている。しかし、それが統一協会の機関紙「成約の鐘」に初めて掲載されるまでは、「文鮮明が見送るなか、小型ボートで朝鮮海峡の荒海を渡ってきた」という脚色がほどこされたものまで伝わっていたのだが、現実は違っていた。

「私が日本に来たのは一九五八年六月十六日。見送るどころか文鮮明たちとは大田(デジュン)で別れて、私ひとりが釜山に行って海を渡る手配をしたんです。船は貿易船でしたが、漁船のような形でベッドも何もなかった。そこに私は船員のような扱いで乗せてもらったんです」

手記によれば、文鮮明とは乗船半月前の五月に大田の甲寺にある別荘で別れ、釜山の友人宅に泊まって船の出航を待っていたという。そのときは友人にも日本に伝道に行くことは秘密にしておいた。貿易船は対馬を経て日本の小倉港に入った。そのときの話に水を向けると、西川氏は当惑したように語る。

「小倉港では上陸できずに、岩国を経て広島の呉まで来た。六月二十一日に海上保安部に密入国で逮捕され、広島の吉浦刑務所から山口刑務所に送検された。山口刑務所から今度は強制送還のために大村収容所に送られました。
下関の収容所に行くとき、私は断食をしていたんです。長期間の断食で身体が弱っていたものだから、着くと収容所の人が私を病院に連れていってくれた。そこで心臓弁膜症、結核であるとの診断が下り、下関の結核療養所に送られることになった。そして私は、その療養所から逃げた。汽車を乗り継いで、ほとんど寝ずに。気の休まるときはなかった……」

西川氏は懲役六カ月の判決によって収容されたのだが、一九五九年の二月十九日に刑期満了になっても、まだ収容所にいた。本国に強制送還されることだけはなんとか避けようとした西川氏は、断食し病気を装ったのだが、両肺結核に冒されていることがわかって光風園という療養所に入る。そこで、散歩すると偽って脱走する。西川氏は過去に日本で暮らしていたときの知人を頼ったのだった。

「韓国生まれではあっても、私は二歳から日本で育ったんです。私は日本の神学校に少しの間通っていたことがあるので、当時の知人の家にしばらく置いてもらった。でも私は密航者ですから迷惑をかけるのは気づまりで、これ以上長く知人宅に泊まるわけにもいかない。それで、そこを出て野宿したり、日本じゅうを転々とした。食べ物がなくて、何カ月もひもじい思いをしたけれども、それよりもっとつらかったのは、夜、寝るところがないということでした」

文鮮明の第二夫人をかくまっていた品川の霊能士・志賀如心を訪ねたり、転々としたのである。
西川氏は「捕まれば送還される」という切迫感に押しつぶされそうになったが、かろうじ逃亡生活を続けられたのは、信仰心からくる強い使命感に支えられていたからだった。彼の信仰心が通じたのかどうか、彼は伝道の拠点を見つけることになる。

「私は逃亡中、東京の早稲田大学の校内に入って伝道しようとしたことがあります。そのとき教授らしい親切な人物に「早稲田大学出身の韓国の男性がいるから、この男性に力を借りなさい」と紹介されたので、その男性を訪ねていきました。彼は高田馬場で雄鶏舎という時計屋さんをやっていた。そこで私は、時計のセールスをしながら伝道を始めたんです」

食口

この雄鶏舎を拠点に時計のセールスの傍ら、西川氏の伝道生活は始まったのだ。
西川氏の熱心な伝道によって、初めて入会者が生まれたのは一九五九年十月のことである。
この年を日本統一協会は創立の年としている。その年、四人で初の礼拝集会を開いた。

「初めて僕の話を聞いて入会してくれた人は増田君という青年で、彼は東洋大学の国文科の学生でした。真冬の早朝の時計修理のときなど手が冷たくてたまらなかったが、私は自分の手袋ひとつ買わずにお金を貯め、彼に学生服を買ってあげたり、食事代をあげたりしました。給料は最低限の食事以外には一銭も使わなかったんです。すべて伝道に投入しました」

四十年以上の時を経ても西川氏は、この最初に伝道した若者のことをわが子のように語る。
しかし、自分が協会に引き入れてしまった当時の日本の若者たちのことが心配なのは、彼らに申し訳ないという気持ちが頭から離れないからだろう。その意味では、彼らをなんとかしてってあげたいという気持ちが西川氏にはある。

「お金や権力に振り回されている今の統一協会の青年たちを救いたいと思って、これまで何人も会ってきました。けれども、盲目になっている人には私の気持ちは伝わりにくい。本当の宗教なら目覚めよと教えるのだろうが、盲目の服従を強いるのはカルトなんです。そう説明しても、私のことを「西川先生は昔、食口(統一協会の信者のこと)だったのに、今は信仰のない人だ」と言って聞こうとしない」

笹川良一との出会い

時計の修理技師、自動車のセールスマン、映画館の従業員……と職を転々としながら糊口をしのぐ毎日を送る西川氏だったが、密入国者という身分には変わりなかった。しかし逃亡者の汚名から、突如、解放されることになる。その後ろ楯となったのが日本船舶振興会の笹川良一である。

「笹川さんは、本当に私たちのためによくしてくださった。四国の路傍伝道していた統一協会信者の婦人を、偶然車で通りかかった笹川氏が見かけて知り合いになる。その二年後に、その婦人を介して笹川氏と会いました。そして、笹川氏は私の言うことにひどく感動して「じゃあ、一回お前の協会に行ってやる」ということで、私たちの協会に来てくれたんです。

協会で笹川氏は、若い青年たちがいっぱい集まり、玄関に何百足もの靴が礼儀正しく揃えられているのに驚きましてね。戦後の自由放埒な堕落した雰囲気じゃない。ここには昔の日本の面影を残している青年たちが集まっていると感激して、私に日本の青年を再教育してもらいたいと言われました。そのことがきっかけで、戸田のボート練習用合宿所や施設を無料で貸してくれたり、いろいろと世話してくださいました。笹川良一氏はフィクサーとかいろい悪く言われますが、私にとっては男らしい、ハートのある人物でした。

私の所在が警察にわかり逮捕されたときも、手を回してくれました。
警察は私の所在は早くからわかっていたらしいんですが、北朝鮮のスパイか何かと思って泳がせていたようです(笑)。私は、逃げも隠れもしないで、いずれは警察が来るだろうと覚悟を決めていました。警察官が家に来たときも、私は机の前に座ったまま普通にしていたので、向こうのほうが「あっ、失礼しました」と言って部屋を出ようとしたくらいです。そして「あなたはどなたですか」と聞くので、「私は崔翔翊といいます」と言ったら、警察官のほうが「えっ?」と驚いた。堂々として逃げないものだから不思議そうな顔をしていました。

私は有終の美を大切にしています。私を信じてついてきた統一協会の兄弟(信者)たちの尊敬の的でありたいと思っています。警察も普通なら手錠をかけて連行するはずなのに、「あなたは宗教の指導者だし、逃げるような人には見えないからこのままで行きましょう」と言って、手錠なしで警察まで連れていってくれた。

警察で、非公式の呼び出しがあった。警察署長が、わざわざ席を立って私を部屋に迎え入れて「どうぞお座りください」って椅子を出した。どうも妙だなと思っていたら、腰掛けた途端に「笹川良一さんがそちらに来ておられるんですか?」って聞くので、「ええ、来られますよ」って答えたんです。そのとき私は、「笹川さんが何か警察に事前に言ってくれたんだな」と察したんです」
西川氏が拘留されたのは世田谷区の北沢署だが、笹川良一の口利きがあったことは間違いないと西川氏は言う。

「警察署長が「一日だけ拘束するけれども、あなたの問題は刑法上の問題じゃなくて、民間の問題だから、心配しなくていい」と丁重に言うので、驚きました。

笹川さんは、当時の賀屋興宣・法務大臣や島田三郎という法務委員長をしている国会議員に、「この青年を許してやってほしい。俺が代わりに入ってもいいから、あの青年を出してくれ」と一所懸命に働きかけてくれました。「日本の青年の教育は俺にはできないけど、この青年ならできる」と言ってくれたらしい。

賀屋興宣法務大臣は「笹川さん、あなたから頼まれたことは、私にとって天皇陛下から頼まれたのと同じぐらい重いことなんだ。密入国での逮捕が二回目で、いちど、収容施設から脱走してるから、簡単にはいきませんが、あの青年のことは何とかいたします」と言ってくれたそうです。

それで、私をいったん帰国させ、再入国の許可を出して、次に来たときには日本への永住権を与えるということで話をまとめてくれた。大臣がそこまでしてくれたのは笹川さんの計らいがあったからなんです。だから、そのとおりにしていれば、韓国の正式のパスポートで日本に再入国できる段取りになっていた。

ところが、です。韓国の文鮮明から指令が来たのです。「日本人の謀略だから、絶対帰ってはならない」という……。「神の意志はあなたが日本に留まってやることになっていて、天が守ってどうにかするから、帰らないで日本で頑張りなさい」という説明でした。笹川氏の計らいでようやくきちんと日本で生活ができるはずでしたが、文鮮明の指令をそのまま実行したら、再び逃亡生活に舞い戻りです。結局は、また捕まって、これ以上笹川氏に迷惑をかけるのは申し訳ないから、入国管理局から韓国に送還されたわけです。

それで再度、私は、在日韓国人のいちばんの金持ちで、韓国の李承晩大統領の友人である人物に助けてもらって、再入国しました。その富豪に友人を通じて事情を説明して、チャーターしたタグボートで日本にまた帰ってきたわけですが、約束の永住権は、法務大臣が代わってしまっていて取ることができなかった」

そんな折、文鮮明は西川氏の人望を知り、『アメリカ人事』を発令する。『西川先生を日本に置いておくと面白くないと思ったんでしょう』と当時を知る幹部は証言するが、西川氏は韓国に戻り、アメリカへ布教活動に発った。それからアメリカのサンフランシスコでの伝道生活が始まった。西川氏がアメリカで幸せな引退生活を望まなかったのは、アメリカで統一協会のもう一つの現実にぶつかったからだろう。それは、あまりにもひどい幹部の腐敗だった。

日本での質素な暮らしを誇りに思っていた西川氏は愕然とした。統一協会系企業のハッピワールド(旧社名・世界のしあわせ)の営業部長といわれた大山高(曹又億万)と社長の古田元男は夜ごと酒を飲み歩き、ゴルフに興じ、贅沢三昧の生活に明け暮れるという堕落ぶりだったのである。

大山は日本で一九七二年十一月に「神戸事件」という事件を起こし、額面二億円の日本の小切手を韓国へ持ち出し、外為法違反容疑で国際手配を受けた人物である。

その国際手配犯が自分たちのように暮らさないか、ゴルフの会員権を買わないかと持ちかけてきたのだから、さらに西川氏の怒りは爆発した。その話は西川氏にとって、今でも苦々しい思い出のようだ。

「私は……私が去ったあとの統一協会の話をしたくない。生まれは韓国ですが、私、二歳のときから青春期まで日本にいた。日本に来て日本で大きくなったから、時折、韓国の人たちのものの考え方や行動がどうしても合わなくなることがある。私は義理と人情をもって正直に生きたい。人さまに迷惑をかけたり、公金と自分の金を見境なく使ったりはしていない。だから、そんなことをやっている連中を見るとがまんがならない」

草創期の統一協会の信者たちは、廃品回収をやったりして共同生活を送っていた。後に日本統一協会会長になった久保木修己でさえ、体を壊しリヤカーを引いている写真が残されている。パンの耳をもらってきて食べたり、具のない素麺を食べたり、最低限の生活だった。

アンパン一個と牛乳だけで一日働いていた信者もいる。統一協会の信者は”仕事のしもべ”として底辺の仕事さえ喜んでやったのだった。

「私はあのとき、日本のために誠心誠意尽くそうと思っていた。韓国のためにという気持ちはなかったね。日本にいる以上は、日本の国を立派な国にすることが神のためだし、日本のためだ。そこにこそ、私が日本のために宣教してきた意味がある。だから、当時はもうすべてを日本のために捧げたという思いがありましたね」

こんな苦闘をしてきた初期の日本統一協会の先駆者たちは、今日の統一協会の過酷な献金の実態を見ると違和感を覚えるという。

「一九九四年の十二月に済州島でセミナーをやったとき、文先生ご自身の口から自分の個人口座に入金するように言われたことがある」(現役女性信者)という証言があるほど、現在の統一協会の献金のやり口は公私の分別がないし、韓国の統一重工業が倒産し、その関連資産として統一協会系企業、財団の資産が差し押さえられ、競売にかけられた際にも、日本の信者に献金を迫る韓国人の幹部たちがビデオ映像で映し出された。「いつのまにか韓国に尽くす、韓国に対する償いをするという方向が強調されていったように思う」(初期の信者)という献金のスタイルに対して、西川氏が、「穴の開いた器でまじめに水を汲んでいるかのような違和感を感じた」と言うのは無理もない。

「韓国の統一協会が食えなくて困っているというので、日本の幹部が「西川先生、韓国の協会に献金しましょう」と言ってきたとき、私は断わったんです。日本で得た金は、せめて日本の再建のために使えとね。日本で暮らしている以上は、日本のために使いなさい。思いは韓国においても、行動は、足がついてるところで誠実にやろうと言ったんです。
私が再臨の主である韓国に送金するのに反対したので、そのときその幹部はものすごく驚いていました。しかし、私がいる間は、韓国の統一協会には一文のお金も送らなかった。全部日本のために使えばいいと思っていました。
そのために文鮮明に誤解されたりしましたが、私は韓国から来ているけれど、日本の統一協会のために頑張っているんだという思いがあった。まだあのころは日本も戦後の復興期で、今とは比較にならないくらい貧しい時代でした。リヤカーを引っぱって廃品回収したり、みんな大変な苦労をしていましたが、心血を注いで国のために頑張っていました」

時計屋の間借りからスタートした日本統一協会の本部は、統和社という印刷屋、新大久保の一戸建て家屋などを経て、東北沢の会館に拠点を置いた。そこは、クリスチャンの家族から寄贈された建物で、信者たちに『立体文化センター』と呼ばれた会館だった。

その後、統一協会本部は、大使館などが建ち並ぶ高級住宅街、渋谷の南平台の真中に岸元首相が首相私邸として借りていたという高峰三枝子の元私邸に移った。「当時、僕が見に行あったときにも首相私邸警備用のポリス・ボックスがまだ残っていた」(統一協会研究者・荒井荒雄氏)。この南平台から、現在の渋谷の松濤に本部が移る。

この南平台の会館を拠点に日本の統一協会は勢力を伸ばしていくが、このときの内部の様子を、機関紙「成約の鐘」は「和やかな家庭」と表現している。

久保木修巳・日本統一協会元会長の死

南平台時代、西川氏の片腕となったのが、久保木修巳(日本統一協会、国際勝共連合元会長)である。久保木はもとは立正佼成会の教祖・庭野日敬の秘書室長だった。統一協会に入会したのは、同会の青年部長であった小宮山嘉一から『原理講論』を聞いたことがきっかけだったが、久保木に続いて立正佼成会から四十人もの信者が入会した。

久保木は立正佼成会時代、日米安保闘争の際の体制側の学生代表で、岸首相とはパイプがあった。それもあって岸首相の私邸を借りることができたのだろう。いずれにせよ、西川夫妻と久保木修巳は生活をともにし、師弟以上の関係がつくられていったのである。

その久保木修巳は、一九九八年十二月十三日に死亡した。享年六十七歳。十二月十四日、渋谷区の日本統一協会松濤本部で開かれた『昇華式』には七百人以上の信者が集い、長年、日本統一協会の顔であった久保木修巳を見送った。

その会場に、統一協会を脱会した西川氏の顔もあった。『お別れ会』に乗り込んできた西川氏の顔を見て、彼を知っている一部の信者たちに静かな衝撃が走った。

「あのとき、変な目で見る人もいれば、懐かしい目で見る人もいた。しかし、彼と私は苦楽をともにした仲なんです。私は心からお悔みを言いたかった。宗教や思想を云々する前に、まず人間としてふるまいたいと私は思っている」

西川氏は、日本統一協会元会長でも国際勝共連合元会長でもなく、かつて指導した後輩である久保木に、ひとりの人間としてのお別れを告げに行ったのである。

「実は、亡くなる四カ月前に私は久保木修巳とホテルで会ったんですが、彼は奥さんと来ました。私は四時間くらい彼と話し、統一協会のことについて、いろいろ言ったが、彼はこう答えた。

『西川先生のおっしゃることは、たしかにごもっともなお話です。しかし神の摂理というものはそういうものじゃありません。統一協会で教えられてきた、方法を選ばない神に楯突くことはできないのです。人道的なヒロイズムで世の中が治まるものではないし、また解決するものでないからです』

彼はすでに協会長職を外されていたから私のところに来れた。以前なら、私と会うのはちょっと難しかったでしょうね。久保木には複雑な思いがあったろうし、最後まで悩んでいたのだろう。久保木は自分の親しい人に、『普通、統一協会を去ろうと思っても、幹部の人は生活や人間関係があってなかなかできないんだけれども、西川先生は勇気のある人だ』と言ってくれていたそうですから」

そのとき、久保木修巳の顔を見て『お前だって、やろうと思えばできるじゃないか』とは西川氏は言えなかった。久保木は癌との闘いに疲弊し、すでに余命いくばくもない状態で、車椅子の生活を余儀なくされていたからである。久保木も西川氏同様、文鮮明に日本統一協会会長と国際勝共連合会長の職を外されていた。久保木も人望がある人物だったから、西川氏のように文鮮明の嫉妬を買ったのかもしれない。

久保木修巳を伝道した小宮山嘉一の思い出にも、西川氏は触れる。
「小宮山を失ったのは私にとって大きな打撃だった。私が協会を去ったとき、小宮山も一緒に連れていきたかった。二十年前、私が日本に来たときに、ホテルに小宮山が『西川先生、お久しぶりです』と訪ねてきた。本当に嘘を知らないいい青年でしたが、彼はどこかで亡くなったと聞いています。四方探したりもしたけれど、いっこうに消息がつかめません。
小宮山嘉一は、仏教の知識も豊富だった。もともと立正佼成会の青年部長でしたが、立正佼成会の庭野日敬先生は、青年部長の小宮山に対して大きな期待を持っていたと聞きます。
私庭野日敬先生に会わせたのも小宮山嘉一だ。庭野日敬先生は本当にいい人だった。日本の宗教界で誰がいちばん立派な人かと聞かれれば、庭野日敬先生と答えるだろう。私は日敬先生に対してすまなくも思い、ありがたくも思う」

西川氏を慕ってこなければ、小宮山は久保木を伝道することもなかったろうし、統一協会がここまで飛躍することもなかっただろう。この三人がいなければ、統一協会の基礎はつくられなかった。

「でも、庭野先生は自分のところの青年たちが統一協会に行っても、恨みごとひとつ言わず、『真理の道は自分が道だと思う道を見つけなさい』と言っていた。私は彼と延々と二時間も話をしたし、大幹部が並ぶ前で私に講義もさせてくれた。庭野先生から私に『日本青年会をつくりましょう』という打診があって、会長が庭野先生、私が顧問になる予定でした。結局、立正佼成会の内部から反対意見が出て、その計画はつぶれました。ひょっとしたら統一協会に乗っ取られるんじゃないかと恐れたのです」

結果的には、立正佼成会から大量に飛び出した精鋭エリートたちは、統一協会の原動力になっていくのである。

「あの青年たちが入ってきたときはみんなが驚いた。仏教も素晴らしいとは思っていたけれど、そこには大義が説かれていない。当時の統一協会は、極楽浄土をこの地上につくろうという、正義感と大義に満ちていた」

久保木修巳が日本の統一協会会長職、国際勝共連合会長職から外れた一九九一年から、統一協会は政治的な面でも経済的な面でも坂道を転がるように失速していく。それまでは、世界の極右勢力を背景に共産主義に勝つのだと叫ぶことで勢力を維持することができたが、ベルリンの壁崩壊後、東西冷戦が終結すると同時に、反共を旗印にする主張は意味をなさなくなり、同時に統一協会の存在根拠すら薄れてしまったのである。

「久保木は本来、人間味のある人物で、情のある人でした。信者の家庭が献金などで困って悩みごとを打ち明けに来ると、ほかの幹部は皆、『天宙復帰』(統一協会用語ですべてを神に献じること。信者によれば金、不動産はもちろんのこと、家庭、妻子、個人の主体性、命にいたるまであらゆるものを含むという)の前に個人的なことで悩むとは何事かと言って相手にしない。でも、久保木は個人的な悩みごとでも、時と場合によっては耳を傾けるような人間でした。
たとえば、ある人が土地や家を統一協会に献じて、生活が困るようになったので、その一部を返してくれと頼みに来た。それを聞いて幹部たちは、いちど献じたものは返却できないと拒絶した。それで、その人は久保木のところに相談に行った。久保木は相手の希望を受け入れ、協会に『返してやれ』と言ってくれた。それくらい、彼は人間としての大義の道を知っているし、ものの道理がわかる男だった。
私は、そんな昔の思い出を久保木のお別れ会のときに、みんなに話したかったけれども、狭量な統一協会の幹部たちに、久保木が『人情にかられた小さい男だ』と誤解されるのもいやだったから、あえて言わなかった。だけど、人間は大義にも生きなきゃいけないし、人情にも生きなければいけないのです」

「西川は好きだが、文は嫌いだね」

「小宮山や久保木が入ったころ、当時の統一協会でやっていた祈祷では、今みたいな個人の偶像化をやっていなかった。『真の御父母様』(文鮮明夫妻のこと)がどうのこうのというのはなかったんです」

西川氏の心の中では教祖をいたずらに偶像視する気持ちはなかったのである。だからこそ笹川良一も彼のことをバックアップしてくれたようだ。

「彼のやっていたB&G財団は、あの当時、日本でもっとも大きな財団だったと思う。B&G財団は笹川氏のモーターボート・レースの利益によって創った財団です。その理事会のなかに笹川氏は実践委員会をつくって、その実際の権利をすべて私にくれたんです。笹川氏は『理事会に運営をやらせてB&G財団を任せたんだけど、仕事もしないで金ばっかり使って困る。西川先生、この運営をやってくれ』ということで、B&G財団のための活動費として百万円出してくれた」

B&G財団とは財団法人ブルーシー・アンド・グリーンランド財団のことだ。一九七三年に設立され、資産は六十五億六千万円。今でも江東区深川に存在し、『海洋性スポーツを通じた青少年の健全育成』を謳い、全国の市町村に対する助成を行なっている。具体的な活動内容としては、体育館やプールを建設したり、ヨット大会などのレクリエーション振興を行なっている。ちなみに財団の命名者は英国のエジンバラ公ということになっている。

当時の百万円は大きかった。私はその金で教育などの方面に携わろうとしたけれども、横槍が入った。利権があると対立が生まれます。いろんなことがあって、結局、辞退することになりました。笹川氏は、本気で私に日本の国民の再教育を期待してくれていたのです」

国民の”再教育”を、本当に統一協会の統一原理に委ねようとしたなら恐るべき話だが、どうもそういう意図ではなかったようだ。たんに意気投合した二人が掲げた“アドバルーン”だったのかもしれない。

笹川は文鮮明について、西川氏にこう語っていたという。
「笹川氏は率直に言っていたよ。『俺は西川は好きだけど、文は嫌いだね』とはっきり言っていた。だから日本の統一協会の幹部たちは『笹川先生、それだけは言わないでください』と頼んでいた。でも笹川氏は『俺の財団に来る人たちは全員、献金してくれ、お金をくれと言うけれど、たったひとりだけお金の話を一回も話したことがない人がいる。それが西川さん、あんただ』と言うんだ。絶対、お金の話をしない、だからお前のことが好きだ、とね。
でも一回だけ、私は笹川氏に、お金のことで手紙を出したことがあるんです。『笹川さん、本当に日本を救うというならば、あなたの私有財産から出しなさい。B&G財団じゃなくて、あなたが持っている私有財産を出してやりなさいと。そのときは、私は自分のやっている統一協会をやめてもいい、何が何でもあなたを助けるから』と書いたんです。青少年育成でも、二人で何かやろうとするなら、自分のお金でやろうということなんです。公のお金だと思い切ったことができないからです。彼はその手紙を読んで悩んだらしいよ」

西川氏は「私は自分の金を一銭も持ち歩くことはなかった。どこかに行くときは会計がついてきて買ったりして、直接、物を買わなかった」と言う。

根本から腐っていたのか

統一協会はなぜ変わってしまったのか、西川氏は言う。
「私が日本を去ってアメリカに行ってから、日本の統一協会はあまりにも変わり果ててしまった。だから、ある反対派の牧師に『西川先生、あなたが原因のひとりだから、あなたが責任取りなさい』と言われたことがあります。『あなたひとりがこちら側に来て、あの人たちは苦労してるじゃないか。救ってあげなさい』と。すると別の牧師は、『教義をおかしくしたのはあなたじゃない。あとから来た韓国の教祖や幹部が変な統一協会をつくったのだから、あなたは責任を取らなくてもいい』と弁護してくれた。

どんな宗教も立派な指導者の下では素晴らしいものになりますが、間違った指導者だと方向を見失ってしまうものです。
日本の統一協会から私が去ったあと、韓国の指導者だった文鮮明が日本の統一協会を統率するようになって、協会が変化した最大の理由は何かと言えば、救いというものに対する教えの内容が変わってしまったことなんです。私のときは、人間を完成してから神の国をつくろう__
それが救いだったんですが、文鮮明によって『真の父』である彼を信じて血統転換(文鮮明の指名した相手との婚姻による子孫をつくること)しないかぎり信者は救われないというふうに変わったのです。

そんなバカなことがありますか。そんなもの、ただの宗教儀式ならともかく、それでは明るい社会をつくる『愛と真理』の社会運動ということにはならない。そこが問題なんだ。現在の協会は私にとっては別物になってしまったのです。

国際合同結婚式をなぜ『祝福』と言ったかというと、善良な人、善の行為を積んだ人が天から祝福されるという意味であって、たくさん献金したから与えられるとか、そういうものではなかった。神様って、そんなにお金が好きなわけじゃないのです」

統一協会の最近の拝金主義〟は嘆かわしい事態だと西川氏は怒りを抑えながら語る。

「今の統一協会は、人づてに現状を聞いたのですが、ちょっと考えられないようなことになっています。私のアメリカの家にも昨年の合同結婚式の前に協会から手紙が来ました。今まで協会から手紙が来ることはなかったのですが、今度、初めて協会から手紙が来た。それには『神の祝福を受けるために、あなたは一万六千ドル、献金してください』と書いてあった。
神の祝福を受ける?それは何かと思ってさらに読んだら『文鮮明氏と写真が撮れますよ。そしてあなたの主を祝福する権利を得る』云々とある。ここまでくると、マンガもマンガ。
文鮮明と写真を撮るとして、もし彼がメシアというなら、誰とでも無料で撮るべきだろう。それを一枚一万六千ドルの金を出せと言う。アメリカの大統領だって、いろいろな人と一緒に写真を撮ったりする。それは友好のしるしであって、無償だからこそ栄誉なんだ。宗教指導者で、しかも自分からメシアを名乗る人が、一万六千ドル出さないと一緒に写真を撮らないというのはおかしいじゃないですか(笑)。自分はメシアだと言っておきながら、金を出したら一緒に写真を撮るとか、金を出したら祝福の権利を与えるなどというのは、前代未聞の不徳な詐欺です」

宗教を突き抜けろ

統一協会を脱会してかなりの時間が経つが、西川氏は、統一協会の教えをどう見ているのだろうか。そう質問すると痛烈な批判が返ってきた。

「統一協会は神の名を使ってどんなことでもする。当然、悪いこともだ。どうしてかというと、神の世界は不可知世界であるから、仮にデタラメを言ったとしても永久にそれは露見しない。死後に霊界で救われるかどうかも、死んでみなければわからないから、これも仮に嘘を言ったとしても、永久に露見しない世界なんだ。
神の名前を使った究極の詐欺は、どんなことをしても永久に嘘が露見しない。だから『法律でも罰しようがない』って言うんだよ。
人間の欲望のなかで最高の欲望願望は何かというと、永遠の幸せをつかみたいということに尽きる。そこで『あなたは永遠に幸せをつかめる』というアメを与えて、反面で『やらなければ地獄に行くぞ』と脅す、それも自分だけじゃなくて、『祖先までも霊界で泣き悲しみ、また子孫までも地獄に行くぞ』と脅す。人間をアメと鞭で、最高の脅しと最高の願望でもって支配する。これが本当の宗教かい?って言いたいね。そこが統一協会の根本的な問題なんだ。
私が本当に言いたいのは『宗教から解放されなさい』ということだ。すると、宗教はみんな悪いのかって聞くでしょう?そうじゃない。宗教のエッセンスは二つあります。神を愛し、神を畏れる敬天思想は持ちなさい。自分が悪いことをしたときに反省する姿勢はそのなかにある。もう一つは宗教のなかの道徳性と倫理性を持つこと。この二つは、あなたの財産になる。それ以外はもういっさい害だと思いますよ。だから宗教の百のうち九十八は害で、有益なものは二つしかない。敬天思想とモラルだけです。あとのものは全部、害がある。
神は敬う対象であって頼る対象ではない。簡単に救われたいなんて思っちゃいけない。御利益どころか何もない。死んだらわかるなんて嘘。永遠にわからないのです(笑)」

現在の西川氏は申美植(シン・ミシㇰ)夫人とともに暮らし、アメリカと日本と韓国を往復する暮らしをしている。

「妻とはいちばん最初の祝福(教祖の指名による合同結婚式)で三十六家庭の結婚(初期の合同結婚式)ですが、彼女は韓国にいて、私は日本に密航していて帰れなかったから、結婚式も参列できなかった。だから、私は自分の結婚式を正式にしたことがない。彼女にはいろいろと苦労をかけましたが、私の活動を応援してくれています。
今の生活では、一年のうちいちばん長く滞在するのが韓国、その次がアメリカ、そして日本です。
アメリカではソーシャルワーカー・スクールに関係していて、それを生活と運動の柱にしていますが、昔育てた弟子たちからの基金援助と、故郷の釜山で先祖の土地が売れたので運動資金に回しています。『世を救うために使おう』と言って兄弟たちにも納得してもらったんです。
今、私が四十年間考えてきた思想をまとめた『万有原理』を執筆しています。宗教を突きぬけた宗教ではない「善人協会」という運動でやっていこうと考えています。
自分で言うのもおかしいけれど、私は、無から有をつくったノウハウを持っているわけです。思想者として生きてきた私の半世紀の軌跡と、今までのすべての思想を統合した『万有原理』についての著作を執筆中です」

統一協会の逆走

西川氏が新たな思想に生きる決意を固めることができたのも、文鮮明と明確に決別したからだった。

「私が文鮮明に訣別を告げに、最後に会いに行ったのは一九八五年だったと思います。文鮮明が脱税でコネティカット州ダンベリーの刑務所に入って一年一ヶ月後に出所したときです。

私は『統一協会をやめる』と告げるためにニューヨークに行った。しかし、文鮮明は『会わない』と言う。最後にひと言でも挨拶して去ろうと思ったのに、会わないと言われた。弟子を遣って断わってきたんです。そこで私は、その弟子にはっきりと統一協会との縁切りを告げた……。

私は”神の啓示”を根本に置いた啓示宗教が、人間に暗黒時代をもたらしたと思う。これは神秘的な根拠であるだけで、科学的理論はありません。啓示宗教には面白いお話はあっても、真理はない。イエスが言ったから真理だとか、啓示を受けたから真理だと言っても、それでは真理とは何かということに答えてはいない。科学はごまかしがきかない。理論も実験の結果と一致しなければならないし、検証しなければならないわけです。検証されない宗教はカルトになって勝手なことを言うしかない。

私は幸いなことに、仏教や儒教、キリスト教、統一協会を遍歴した。統一協会も結局はアメリカでは通じなかった。キリスト教の新しい解釈であって、何が現実かと言われた。形式的には新しい解釈にはなるけれども、それは新しい原理ではない。世界を伝道して歩いて、統一協会の原理には限界があると思ったのです。

アメリカでは、『統一原理』には神の実在証明の理論がないといわれています。神の実在証明もできないのに、その神が悲しんでいると言われてもリアリティがない。実在を証明できないのに、その神からの啓示といったって、説得力ゼロですよね。リアリティがないから、挙句の果てには自分がメシアだと宣言したりする。

私は、初めて文鮮明から統一の原理を聞いたとき、論理体系が整っていると思った。これだけの理論を説けるすごい人格者だと思いました。彼は私に指導者としての人生の目的を教えてくれたが、いまや自分をメシアとして信者に盲目的信仰を強いる教祖になり下がっているだけだ。

『人間とは何か。どこから来て、どこへ行くのか』――これはすべての宗教が扱ってきた根本的なテーマです。しかし、私はそれを宗教ではなくやろうとしている。もう宗教では人は解放されない。『万有原理』という哲学でしか人間は救えないのです」

文鮮明と統一協会は今、現実性と拠って立つところを見失ってさまよっている。西川氏の確信から見えてくるのは、そうした統一協会の迷走なのである。

久保木修巳の『お別れ会』以後、よほど混乱したのだろう。統一協会の機関紙『中和新聞』『ファミリー』には西川氏の写真が掲載されている。まるで過去の人物として葬り去ろうとしているかのようである。だが、歴史は簡単に消すことはできない。

[出典:別冊宝島編集部 「救い」の正体。2008年」]

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