【六マリアの悲劇】と「私は裏切り者」どちらが本当なのか?まとめ(01)

六マリアの悲劇
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はじめに:「六マリアの悲劇」と「私は裏切り者」どちらが本当なのか

1993年11月4日、文鮮明の大罪を暴露した「六マリアの悲劇」が恒友出版株式会社から発行された。著者は文鮮明の側近であった朴正華パクチョンファである。
2年後の1995年11月1日、今度は「六マリアの悲劇」で暴露された文鮮明の大罪を取り消す内容の「私は裏切り者」という本が統一教会系の出版社である(株)世界日報社から発行された。この著者の名もまた朴正華となっている。

はたしてどちらが真実(事実)なのだろうか。

「六マリアの悲劇」のオリジナル原稿「野録統一教会史」

六マリアの悲劇:あとがきより

私は一九八五年からこの原稿を書き始めた。『野録・世界基督教統一神霊協会史』と表題も決めた。日本流に言えばさしづめ『ドキュメント・統一教会史』といったところである。
 目的は、文鮮明と十三年間にわたって行動をともにした記録を克明に書き遺し、その虚像を多くの人に知ってもらうためだった。再臨メシアを自称する文鮮明のおよそ宗教人にあるまじき行為を、統一教会創設の前後、私は最もよく知り得る立場にあった。
とりわけ、身辺に多くの女性を侍らせながら、復帰原理を名目に人妻であれ学生であれ、片っ端からセックスを行ない、妊娠させた娘を日本に密航させて出産させた事実など、人間として許せることではなかった。
 しかし当時の私は文鮮明の直弟子であり、結果的に彼女たちが幸福になってくれればと、原理の教えを信じて見守るよりなかった。
 文鮮明の悪行を知り過ぎた私は、一九六二年、彼の卑劣な裏切りで縁を切り脱会した。そしてほぼ二十年後、今や大幹部となった当時の同僚や部下に請われ、本部教会に足を運ぶことになった。
 教会側の期待は、私を貴重な昔の生き証人として利用すること。ただし一定の枠内のみについて信者の前で語らせることだった(獄中から南下するときの文鮮明の苦労話など)。私にも密かな目的があった。統一教会のその後と、苦楽をともにした大勢の信者たちの消息を知ることである。そして知り得だのが、文中で述べてきたとおりの悲劇ばかりだった。
 原理を信じ文鮮明に従えば幸福になるはずの女性食口たちは、明日の糧にも困るほど追いつめられ、生きた屍のような余生を送っている。文鮮明のために哀れな枯木となったのである。
 私が原稿に着手した動機はそこにあり、彼女たちもまた一日も早い出版を願ってくれた。私が知る若い頃の彼女たちは皆、豊かな財産家で輝いていた。だからこそ文鮮明につけこまれたのだが、貞操を奪われ、財産を失い、家族と離散し、子どもたちにも疎まれている現在の彼女たちには、独りで淋しい老後を送る以外に道はない。
 その原因と過程をよく知っている私は、事実を公表する義務と責任を痛感させられた。
 だが、一方で不安と懸念もあった。軍事政権という韓国の政情である。統一協会と裏で通じた陸軍の一部権力が、まともに出版を許すはずがあるまい。
 本書に「推薦の辞」をいただいた卓明煥さんが実例である。統一教会批判を続けてきた卓さんはある日、KCIAに拉致監禁され、生涯消えることのない大きな傷跡を背中に負わされた。卓さんはそれでも引かず頑張り続けてきたのだが、問題は私の場合である。もとより権力の弾圧や暴力は厭わないが、病み上がりで高齢(脳梗塞・現在八十一歳)の身、どこまで闘えるかだった。遺書がわりに生命がけで書くのだから、今さら生命も惜しくはないが、出版を実現する前に殺されたのでは目的が果たせない。
 そんなわけで、ぼつぼつ原稿を書き足しながら、私は時期の到来を待ち望んでいた。
 時は流れ、真面目なクリスチャンの長老として人望ある、金泳三大統領が誕生した。金大統領の英断で今、韓国は目を見はるスピードで政界はもちろん、各界各層の浄化が進んでいる。 そんな折もおり、遠く仁川の拙宅を訪れてくれた恒友出版の斉藤繁人社長と出会い、心から信じて本書の出版を託すことになった。長い年月の念願が叶い、私はほんとうに喜んでいる。
 出版に当たっては、六千枚にのぼる韓国語原稿の整理分類・翻訳・執筆・編集と大変な作業が続いたが、予想より逼かに早く進行したことに驚き感謝している。
 紙上を借りて、改めてご協力を頂いた韓国と日本の同士たち、翻訳の金基銑さん、釜山から日本の大学へ留学している金芝英さん、恒友出版の木下さんほかのスタッフの皆さんに衷心よりお礼を申しあげたい。
 私は本書の印税を、文鮮明の犠牲となって老後を苦しむ人たちの救済にお役にたてばと、寄附するつもりである。
 最後に、本当の幸福をつかめないまま物故された、「文鮮明と統一協会の犠牲者」たちの霊に、深い祈りを捧げたい。
一九九三年十月吉日 朴正華

1995年12月22日、朴正華が来日した。

目的は、「私は裏切り者」は嘘本であり、「六マリアの悲劇」の内容が真実(事実)であることを証言するためであった。
半身が不自由であった朴正華が重いカバンを肩に担いで小松空港出口にあらわれた。体に大きな負担をかけてまで、一体何を担いできたのかと思った。持参したのは「六マリアの悲劇」のオリジナル原稿である「野録統一教会史」の原稿のコピーであった。「六マリアの悲劇」が真実であることを明らかにするために、この原稿を用いてほしいという願いからであった。「この原稿には『六マリアの悲劇』より、もっと詳しいことが載せてある」と朴正華は語った。

「野録統一教会史」という表題は、「六マリアの悲劇」のあとがき279頁で朴正華が記しているように朴正華本人が決めたものである。1985年に朴正華が執筆を開始した原稿は、全部で200字詰め原稿用紙約6000枚に及ぶ。この「野録統一教会史」から「六マリアの悲劇」は生まれた。

1996年3月1日、「六マリアの悲劇」の韓国語訳「野録統一教会史」が李大馥イテボク牧師によって韓国で発行された。オリジナル原稿は、朴正華が長年にわたって書きためた「野録統一教会史」である。

「六マリアの悲劇」と「野録統一教会史」では、内容は同じであるが、構成順序や一部、写真の入れ替えがある。

「私は裏切り者」はどのようにして出版されたのか


1996年5月10日、朴正華が「(私は裏切り者)出版経緯書」(下記画像参照)を手渡してくれた。ここには、「私は裏切り者」がどのような経緯で出版されたかが記されている。

「私は裏切り者」出版経緯書は、「私は裏切り者」が発行される2週間前に朴正華が書き終えたものである。「私は裏切り者」発行に至る経緯は、出版経緯書の後半に記されている。「六マリアの悲劇」が出版された翌年の1994年からの部分を掲載する。

「私は裏切り者」出版経緯書(日本語訳)

「安室長が日本に行こうというので、目的も全く分からないまま日本に行き、世界日報の石井光治社長と斉藤局長、阿部氏と武田・世界日報韓国特派員らと中田屋旅館で一晩宿泊し、翌日、再び皆で集まって本を出版しようということになったのである。
まず石井光治社長が、私は裏切り者という題名にしようと言った。私は何が何だかわからないジレンマに陥った状態だったが、その後、原稿の読み合わせが始まった。私も一緒に読んでいった。最初は約40枚の原稿を読んだが、その中で『六マリアの悲劇』というのは「根も葉もない事である」と記載されていたので、現在当事者6名中、4名が生存している問題だというのに、いったいどういうことかと訴えても、聞いて聞かぬふりをしているのだった。そのまま読み進めて約100枚近い原稿を読んだ後、末尾には年月日を記載し、「これでいいです」と書き、私の名前を書いて捺印しろと言うので捺印したのである。
1995年2月26日、イチョン雪峰ホテルに行こうと言うので安室長の言うとおりついて行くと、日本の中田屋の時と同じように原稿を持ってきていて、石井光治社長、斉藤局長、阿部氏らが交替で読みながら、私にも読めと言うので読んでみた。読む時には録音をし、今回は約150枚ほどを読んだ。末尾には「これでいいです」と書いて、年月日を記載し、署名捺印した。署名捺印を終えると、石井光治氏が出版契約書を作成してきて『私は裏切り者(仮題)』の出版契約金だと言って日本円で250万円をくれるので、領収証を書いて金をもらった。
また、1995年2月28日、ロッテホテルの食堂で安炳曰室長から『六マリアの悲劇』の著作権譲渡金だとして2000万ウォンを渡され、作成されてあった契約書に捺印して見ると、以前に米国旅券ビザを取る際、私の不動産登記簿謄本を見た安室長が、負債があると手足が縛られて大変だから4000万ウォンの負債を返済してあげると言ってくれて感謝していたことが、すっかり裏切られた気分になった。
文鮮明氏を再臨主と信じ、10年間というものすべてを共にして来て、しまいには裏切られた上に、今度は安炳曰氏の手厚い態度に感動して言われるままにしてきた挙げ句、結局は著作権を奪われ、裏切り者にまでされてしまったのだから、到底黙って見過ごすことのできない事件である。私はこのことに対し、対策を練るしかないではないか? 私は83歳になって、いつ死ぬか分からないのだから、いったい怖いものなどあるだろうか? 沈思熟考したのである。
1995年5月6日、再び安室長が日本に行こうと言うので、最後まで従ってみようと内心思い、渡日した。中田屋旅館に宿泊して、例の四人が原稿を読みながら私にも見ろと言うので見てみると、今度は枚数が相当に多く見えたが、例の録音をして全部読んだ後、「これでいいです」と書き、年月日、署名捺印をして二日間、休みながら原稿を読み帰国したのだった。

1995年7月2日、私は右手が痙攣してきたので中国漢方医院で治療していたところ、仁川に例の石井光治一行四名が来て、そこに来いと言うのである。前回の出版契約の件と著作権譲渡の件を思い出して行く気になれなかったが、-度は踏み出したことだから最後までやってみようと決心して、私も計画があったのでついて行き、夜9時まで原稿を読んで録音し、年月日を書いて署名捺印し、夕食を共にして家に帰った。その後一週間、病院に通いながら漢方薬を飲み、針治療を受けた。今回の原稿には、とりわけ容認しがたいページがあまりにも多かったので、これは真っ赤な嘘だからありもしないこんなことを書いた原稿で出版することはできないと訴えても、聞き入れようとしなかった。従って、その項目をここに記載して参考に供する。
文先生が、六マリアの中の一人で、当時管財管理庁長だった○○氏夫人の李順哲氏と復帰するために彼女を家出させ、このことを知った鮮干氏は先生を逮捕しようとした。私は釜山専売庁で縄の納品を受けて帰って来たところ、文先生が安養で仕事して、釜山を経て20日後にソウルに戻ると聞いた。そこで、同業者の金愚泰という者がこのことを知ってお金を持って行ったのだが、私が革カバンに入れておいた金をスられたということになっているのである。
原稿は全部見たつもりだったが、日付ははっきりしないがしばらく後、阿部氏が字句修正したものがあると言って仁川に来た。安室長と一緒に松島カルビ屋で会ったところ、何箇所か修正があると言われた。これに年月日、署名捺印し、これで完成だと言われた。
その後しばらくして、また日本から世界日報の石井光治社長と斉藤局長、阿部氏、韓国特派員の武田氏らがロッテホテルに来て会おうと言うので行くと、また何箇所か修正があるから年月日、署名捺印を頼むと言われ、そのとおりにしたが、今度私が見た原稿は、私が見たことも、聞いたこともない原稿だった。分かったことは、石井光治社長の作文によって、著者である私が、私自身を裏切り者としているということだった。
私は当初、日本に行って、日本の食口たちが私の著書によって大きな打撃を被るのならば、適当に修正して損傷を与えないようにするつもりだったのだが、原稿を全部読んでみると、それは全くの嘘本になってしまっていたのだ。
真の父母だと世界を騒がせておいて、また、文先生が直接私に教えてくれ、二人で実践した原理によって真の父母になったと言っておいて、どうしてこの原理を隠蔽しようとするのか。初創期には世上の法が怖くて、蘇生期であるがゆえに隠したとしても理解できるが、今は六マリアの基台の上に、三六家族が成立した基台の上に、聖婚式まで挙げて、いわゆる子羊の儀式までして世界に君臨する真の父母が、その原理をなぜ隠蔽するのか。
私は、この干証文で嘘を言うはずがない。1987年12月20日付け文鮮明先生に送る書信と、この干証文をどのように扱うか検討中である。この間、安炳日室長と共に、日本で『六マリアの悲劇』を出版して帰国してから行った様々な事を、事実そのままに記録した。この間私は日本の幹部らが訪ねてくるたびに、熊謄をくれたのと安室長が洋酒をたびたび贈ってくれて、たいへん治療に役立った。通風に効く薬を何度もくれて効果があったことに対しては、何度でも礼を言いたい。しかし、私が出版した『六マリアの悲劇』は、私が考えたり、研究したりして記録したものは、たったの一枚もなく、統一教会の原理であることを自負し、この本が満天下に公明正大に認められる時こそ、真の父母を戴いた円和園理想世界が到来するものと信じ、その曰を首を長くして待つばかりである。」

この出版経緯書から明らかなことは、「私は裏切り者」は全くの嘘本であり、「六マリアの悲劇」が真実(事実)であるということである。
このことについて朴正華の証言映像をご覧いただきたい。
朴正華の証言のビデオ(1996年5月11日金沢市にて)
6maria
文字起こし:「六マリアの悲劇」は文鮮明と私と16年くらい歩みながら……出来事をそのまま書いたものでありまして、これは真実でありますし、「私は裏切り者」という本は、私の生活の為に私の名前を売ったものでございます。

ある老婦人の証言

2006年5月26日、私の韓国訪問を待っていてくれた一人の老婦人が訪ねて来られた。今回、テグからプサンに戻らずソウルに上ったのは、この方と会うためであった。
この老婦人は、統一教との出会いから脱会に至るまでの、それほど幸せを感じてこなかったという、その人生について話してくれた。
3時間ばかりこの方の証しを聞いた後で、私は一つのことを訊ねてみた。

「○○○さんは、統一教に入っていたとき『六マリア』という言葉をきいたことがありますか」
「勿論、知っていますよ」
「今、幹部となっている年老いた女性たちも『六マリア』について知っていますか」
「女たちの間では、あたり前のこととして知られていましたよ」

後日、この老婦人は、金沢に来て、さらに詳しい証言をしてくださった。

[出典:http://www.kyushutsu.net/6maria.html]

統一教会側の主張

朴正華氏による『私は裏切り者』出版報告会(1995年11月18日、松濤本部)の映像

「反対牧師」をはじめとする反対派は、長年にわたって「文鮮明は“血分け”を実践し、6マリヤどころか60マリヤがいる」などと真のお父様批判をし、信者を脱会説得してきました。反対派が脱会説得のため用いてきた書籍の一つが、朴正華著『六マリアの悲劇』(恒友出版、1993年11月4日刊)です。
 北朝鮮の興南収容所で出会って以来、真のお父様に愛されていた朴正華氏は、南下してからは、お父様が他の弟子たちを重用され、自分の出番が少なくなっていく中で、「文先生から見捨てられた」という“愛の減少感”にとらわれ、怨みの思いが膨らみ、「文先生を殺して自分も死のう」とまで思う心境となり、真のお父様を社会的に抹殺しようと「6マリヤ」をでっち上げたのです。
 その後、朴正華氏は悔い改め、『私は裏切り者』(世界日報社、1995年11月1日刊)を出版し、『六マリアの悲劇』の内容はねつ造であり、虚偽であったことを告白しました。
 この映像は、1995年11月18日に行われた朴正華氏による『私は裏切り者』出版報告会(松濤本部・礼拝堂)の様子です。
 この報告会で、83歳の高齢となった朴正華氏は、自らしたためた“告白文”に目を落とし、涙を流しながら「この本(『私は裏切り者』)を遺言のつもりで書いた」と報告を行いました。その後、朴氏は、関西、九州などを巡回し、同様の「報告会」を行っています。
[出典:https://trueparents.jp/?page_id=2860]

六マリアの悲劇/第一章:獄中で出会った男

「再臨メシア」と信じて

 私は北朝鮮の内務省に所属する第二旅団第一大隊第三中隊長として、一九四七年(昭和二二年)五月から黄海道海州で鉄道保安隊の任務についていたが、その年の十二月一日、同じ旅団の第二大隊長に昇進の発令を受け、黄海道沙里院の大きな基地へ移った。

日本による朝鮮統治時代、満州・新京(現在は中国)の工業専門学校土木科を卒業した私は、満州国官吏(吉林省)を経て日本軍の工兵隊中尉として中隊長を務めた経験もあり、北朝鮮ではいわばエリートとして将来を嘱望されていた。ところが、着任して間もない正月あけの七日、とんでもない事件が発生した。

同じ第二大隊の第三中隊長で新幕に勤務していた許政という男が、こともあろうに軍の車両で商人の物資を運んで金をもらったり、女性の髪の毛など北の商品を南の韓国側に売る闇商売に協力していたことが発覚したのだ。

逮捕された許政は二月二日、懲役十年の刑を宣告された。また大隊長である私は、部下の悪事に関して監督不十分ということで責任を問われ、職務怠慢罪で懲役三年の刑を宣告された。そして最初は平壌刑務所に投獄されたが、興南特別労務者収容所 へ移送されることになった。一九四九年二月二日、三十五歳のときである。

興南特別労務者収容所

移送される私たち約百人の囚人は、逃亡ができないように二人一組で腕を縛られ、まるで牛か豚のように貨物列車に放り込まれた。それから二十四時間、停まっては走り走っては停まる貨物車の中で、飲まず食わず一睡もできないまま明け方の四時ごろ、学校の運動場のような広場に到着した。引き出されて周囲を見ると武装した看守や警察官たちが四方を包囲しており、蟻も這い出せないほど厳重な警備だ。ここが興南の特別労務者収容所、俗にいう興南監獄だとすぐにわかった。泣く子も黙る強制労働の地獄である。

私たちは、先に入っていた囚人たちと一緒に、狭い部屋に三十二人ずつ同居するよう人数割りをされて押し込まれた。七時になると朝飯が出た。豆・アワ・麦やコウリャンなどをまるめた小さな握り飯で、今にも崩れそうにゆがんでいる。ボロボロの器に入ったスープも出たが、ワカメが二~三片浮いた塩味だけのスープだった。昨日から一滴の水も口にできずに揺られつづけてきた身体は疲れきっており、空腹なのに食欲がおいてこない。

将来のことを考えながらぼんやりしていると、隣の男が「元気がないね。食べられないなら私が頂きますよ」と私の飯に手を伸ばし、さっさと食べてしまった。あっという間もないほどで、監獄の厳しさを思い知らされたような気がした。

八時、「全員労働だ」と看守の大声にせかされて運動場に出ると、千五百人もの全囚人が集められ、正門に向かって整列し、正座させられた。少佐の階級章をつけた所長から、移送されてきた新入りの囚人たちに所内の規則や収容所の作業について説明や注意事項が述べられると、全員出発である。

囚人たちは二人ずつ手をつなぎ、四列に並んで正面から出ていった。正面の左右には看守が立ち並び、「総班長」の腕章をつけた囚人が人数を点検した。二人ずつ手をつなぐのは、やはり逃亡防止のためである。収容所から朝鮮窒素肥料株式会社(旧・日本窒素)興南工場までは約四キロの距離がある。この日から雨が降ろうと雪が積もろうと私たちは毎日、歩いて監獄と工場を往復することになった。

私たちは白いアンモニア肥料の粉が山のように積まれた所で十人一組となり、肥料袋の叺[かます]に一日千三百袋を詰め込む責任量[ノルマ]を与えられた。山のような肥料の前にハカリが置かれ、工場側の検量員が重さを計るために座っている。

作業の段取りはこうだった。まず一人が空の叺をとって口を広げると、二人がスコップで肥料を二回ずつぐらい入れる。そして四十キロになると別の一人が叺をハカリから下ろし、残りの六人がそれを運び、縄で縛って荷造りをする。

十人一組の作業なので、一人でも怠慢だったりヘタだったりすると、組全体の責任量を果たせないことになる。すると全員が班長からひどい目にあうことになるので、十人はお互いに励ましあったり、監視しあったりするのだ。まばたきするヒマもないほど、仕事をしなければならなかった。作業は朝八時に始まり、昼休みが三十分、夕方の五時に終わるので、毎日八時間半の労働だった。

私は激しい労働をしたこともなかったし、六か月間も平壌で拘束されていたため身も心も疲れきっており、この重労働に耐えるのは大変なことだった。だからといって、この監獄生活で他の囚人たちから、いろいろとひどい仕打ちをされるのはたまらない。そこで、必死になってがんばったために、一日の仕事を終えると、もう夢なのか現実なのか区別がつかないような状態になってしまうのだった。それでも私は、自分の意志で、しっかりした精神状態を保てるように何とか努力していた。

こうして夕方になると、一日の作業量を検査し人数を点検したあと、朝来たときと同じように二人ずつ手をつないで四列に並び、四キロもある収容所への道を歩いて帰る。そのときは、自分の足で歩いているのかどうかわからないほどだった。正門で再び人数点検をしたあと、運動場に正座して整列させられ、また注意事項が説明される。そして、面会を許された人たちが面会室に行ったあと、各自それぞれの部屋に戻る。とは言ってもわずか四~五坪の狭い部屋に三十二人も詰め込まれており、一日じゅう作業して汗まみれの身体を洗うこともできないし、疲れたからと横になることもできない状態で、ただ座っているだけだ。これこそまさに、監獄生活なのだと痛感させられた。

夕飯は朝飯と同じように、いろんな穀物が混ざった握り飯一つと、塩味のスープ一杯だけ。食欲がぜんぜんなくても、明日の作業を考えると食べておくしかない。同室の連中も疲れているのだろう、皆険しい顔つきだ。罪名も様々だった。就寝は夜十時だが、狭い部屋で頭と足を交互に入れ替えて寝る。お互いの足が隣の人の頭や腹の上に乗ることもあったが、三十二人がどうにか横になれた。便器は部屋の隅っこに置いてあったが、朝になると、一斉にみんなが使おうとするから、それこそ大騒ぎになった。

こうして重労働にも少しずつ慣れ、無事に出所できるまでは命がけでやろうとハラを決めた私だが、いつのまにか手にも、足にもタコができていた。私は肥料叺を縄で荷造りする要領だけは、なかなか飲み込めなくてたいへんだった。他の人たちが二叺できる間に、私は一叺さえできないということもあった。同僚たちの冷ややかな視線を感じ、責任量を果たせなくて迷惑をかけることが、いちばん辛かった。

そして、もっとも我慢できなかったのは、お腹がすいて死にそうなことだった。部屋の棚には、面会のあった人たちが差し入れてもらったミスカル(いろんな穀物を粉にしたもので韓国人の好物)が置いてあったので、それを盗んで食べようと思ったこともある。でも、いくら空腹だからといって、ここまできてドロボウをやっちゃいけないと考えて自制した。お腹がすいて眠れないとき、ミスカルの袋だけを見つめたまま、夜を明かしたことも何度かあった。
ところがある朝起きると、昨夜のうちにミスカルが盗まれたとみんなが騒いでいた。盗んだ者が見つかると、部屋じゅうの人たちが彼を囲んで袋叩きにした。こういう光景は懲役生活というより、餓鬼地獄ではないかと思った。

三十人あまりが詰め込まれている部屋の中では、何日かおきに、それこそたいへんなことが起きた。それは他でもない人間最期の瞬間である。骨だらけになり呼吸も思うようにできない状態で衰弱した人が、一握りの飯を大事にして放さず、中に入っている豆をつまんで口に入れようとする前に、息を引き取ることもあった。

韓国の言い伝えに、「息子が死んだときや、親が死んだときより、もっと悲しく情けないのは、お腹がすいたときだ」という言葉がある。食べることがどんなに大事か、私は身をもって体験させられた。

一升のミスカルは背広一着と交換できるくらい貴重品たった。毎月、家から面会に来て、差し入れをしてもらえる人はそれなりにやっていけるのだが、面会や差し入れがまったくない人の場合は、いつも死と直面した状況だった。

囚人番号五九六・文龍明

私の作業は相変わらず下手で、見かねた組長が叺の口を広げる仕事や、スコップで肥料を叺に入れる作業に回してくれたが、どれもうまくいかず上達しなかった。

そんなある日-。四十キロの肥料が入った叺の荷造りで悪戦苦闘している私の横へ、十人の組員のなかでもひときわ丈夫そうな三十歳くらいの人が来て、「教えてあげましょう」と言った。彼は慣れた手つきで自分の仕事を軽く片づけながら、私に手とり足とり荷造りの要領を教えてくれた。私はもっと仕事に慣れて上手になりたいと思っていたし、幸い健康で力だけはあったので、何日か続けて教えられているうちに、何とか一人前に作業の責任量がこなせるようになった。これはとても嬉しいことだった。彼は私より半年ほど前に興南監獄へ移送されてきたそうで、所内の事情や物々交換で生きる知恵など、いろいろ優しく教えてくれたりもした。

地獄で仏とはこのことだろうか。私は苦しく辛い監獄の重労働のなかで初めて、暖かい人の思いやりに接することができ、絶望のなかにほのかな希望が見えた思いがした。

その人とは部屋が違ったので、作業がすんで満員の部屋に戻れば、空腹の辛さや熟睡できない悩みはあった。でも、朝になって肥料工場の作業に出れば、その人と一緒に仕事ができる。地獄のような所でもお互いに心を交わせることができたので、一刻も早く作業に行くことが待ち遠しかった。

朝八時、運動場に出ると私は、急いでその人を探してその後ろに座る。点検が終わるとその人と二人一組になって、肥料工場まで手をつないで歩くことができる。これまでは雨の日など、それこそ囚人生活の悲惨さを思い知らされた徒歩行進だったが、いつのまにか私には、その人と毎朝会い一緒に仕事をするのが、獄中でせめてもの楽しい日課になっていた。

こうして二十日ほどが過ぎたある日の夜半、灰色の着物に韓国式の帽子をかぶった白髪の老人が夢枕に現われ、私の名を呼んで、「お前が毎日一緒に手をつないで歩いている人が誰か知っているのか」と聞いた。
私は、「その方は親切でとてもいい人なので、一緒に過ごして一緒に仕事しています」と答えた。すると老人は、「彼は、お前が小さいときから習っていた聖書のなかで、再びこの世に来ると教えられてきた再臨主である」と言って去った。

私は急いで起き上がり、四方を見渡したが、熟睡した仲間たちがいるだけで、老人の姿はどこにも見えなかった。

イエス様がゲッセマネで最後の祈りをして、ゴルゴタの丘で十字架にかけられて亡くなられたあと、三日後に復活され、四十日間あちらこちらに再臨した。そして、オリブ山(聖書のなかに出てくる山)で、大勢の弟子たちが見守るなか、雲にのって天に召されるとき、イエス様は、 「あなたたちはどうして私を見るのか。私はこのように天に上がるのと同じように、いずれまた再臨するだろう」と言われたのだ。

その人こそが再臨主であるという夢のお告げが気になって、私は寝られなかった。

朝まで考えていたが、複雑な心境で朝飯をすませた。私はいつもと同じように、運動場に出かけてその人の後ろに座った。そして、昨晩の夢の話をして、どういうことなのか聞いてみようとした。ところが、私が話しかける前に、彼が突然振り向いて、
「昨夜、夢を見たでしょう。夢の中で私が何者だと言われましたか」
と聞いてきた。なぜ彼が知っているのか不思議だったが、私は、「再臨主だと言われました」と答えた。

そのときから、その人は二十九歳で数え年で七つも年下だったが、必ず「先生」と尊敬して呼ぶようになり、その人も「正華」と私の名を呼んで、ますます親近感を感じながら、一緒に過ごすようになった。

その人が、囚人番号五九六をつけた 文龍明であった。

総班長に任命されて

それから十五日ほどたったある日、朝の集会で「九一九番、所長室に来るように」と呼び出された。九一九番は私の囚人番号である。なにごとか?と恐る恐る行ってみると、所長は私の顔を見て言った。

昨日、総班長が満期になって出獄したので、これからはお前が全囚人の総班長を務めてほしい」

ここには千五百人の囚人が収容されている。囚人十人に組長が一人、組長十人を把握するのが班長。総班長は十五人の班長を所管し、毎日の作業配置や分担を自主的に決定するなど、全囚人の代表として大きな責任を負わなければならない。

所長は、囚人全員の経歴や所内記録を見たうえで、専門学校出身で軍の大隊長をしたことがある私を選び、「後任はお前しかいない」と言うのだ。この大役を受けるべきかどうか迷ったが、文さんのすすめもあって受けることにした。

総班長になるといろいろなことがわかってきた。囚人たちがもっとも望む作業は炊事で、次に収容所内の雑役、旋盤工場の旋盤工と続き、最後に肥料工場がくる。旋盤工も重労働だが、働きながら鉄加工の技術を取得できるという利点がある。ところが、肥料工場での叺作業はただきついだけで、何の利点もない最低最悪の重労働だった。 にもかかわらず、一日三食とも小さな握り飯一つと塩スープ一杯だけでは、身体がもつわけがない。粗悪な食事のため栄養失調者が続出し、過労と飢えで一か月に百人くらいが死んでいった。単純に計算すれば一年あまりで全滅する勘定である。だから興南収容所には、その補充のために毎月百人ほどの囚人が各地の刑務所から移送されてきていた。

総班長になると、所内での自由がかなりきくので、折をみては文さんを訪ねて雑談をしたり、できるだけ楽な作業に回ってもらうよう手配したりできた。なにしろ夢の中で老人からお告げを受け、私が夢に見たことを先に知っていた不思議な力に驚いた私には、文さんはまさに再臨主であり、私はすっかり信じ込んでいた。

そんなある日、班長の朱興植が妙な話をもってきた。朱班長の担当の囚人が病気になり明日をも知れない容体になって、朱班長にこんな話をうちあけたそうだ。

その囚人は日本の植民地時代、大きな貨物船の船長として世界中を回っていたが、戦争が終わってからは故郷である麗水(韓国の南端にある)で暮らしていた。ところが、北朝鮮の親戚を訪れたとき、たまたま罪を犯して逮捕、投獄されることになったという。

その彼が死ぬまぎわに、絹の布に書かれた地図と、何やら英文が書かれた紙切れを朱班長に渡した。やがて彼は死んでしまったが、英文の読めない朱班長はその後、英語がわかる反共思想の囚人・金珍洙牧師に訳してもらった。その紙切れには、こういうことが書かれていたという。

「麗水の裏側にある墓場の中に子どもたちの墓がある。そこの前から三番目の子どもの墓の中に、時価数億ウォンの宝石が入った箱を自分で埋めた。もう私の命はないから、朱班長にさしあげるので、南へ行く機会があったらぜひ探しなさい」

朱班長はひと通りこの話をしてから、「総班長は私より先に出所できるのだから、ぜひ南の麗水へ行って探し出したらどうですか」と私に言った。面白い話なので私はそのまま文さんに伝えた。

私はその後、韓国側に住むことになったが、麗水には行ったこともないし、この話はすっかり忘れていた。ところが、この二年後の釜山時代、文さんは友人と二人で釜山から連絡船に乗って麗水へ行き、必死になって探したらしい。でも、墓の場所はわかったものの、肝心の子どもの墓は発見できなかったようだ。そして文さんは、麗水へ行ったことさえ私には話さなかった。

ずっとあとになってその事実を知ったとき、私は、本当の再臨主ならば宝石箱ぐらい発見できるはずだと思い、文さんの正体に新たな疑惑を抱く材料の一つになったものである。「再臨メシア・文鮮明の正体……」、それこそがこの本の主眼であり、私の告白の主眼なのだが、この頃の無知な私はただひたすら文鮮明を尊敬し信じきっていた。

エバはなぜ下半身を隠したか

総班長の腕章をつけた私は、作業場へ行く人数の点検と囚人たちの作業配置を決めたあとは、たいした仕事もなく自由に過ごすことができた。そこで、空き叺を積み上げてある倉庫へ文さん を連れ出して、彼から宗教的な話を聞くようになった。しかし、文さんの話は、幼児洗礼を受け若い頃には教会執事も務め、少しは聖書について知識があるつもりの私には、理解するどころかひどく反発を感じるようなものが多かった。

例えば―洗礼ヨハネは、野原で動物の毛皮を体に巻きつけ野蜜を食べながら修業をし、「天国が近づいたから懺悔しろ」と言ったとされているが、実は自分の責任分担を果たさなかったために首を切られて殺されたのだ―などと言う。今までのキリスト教では、洗礼ヨハネはとても立派な人だと教えられていただけに、私は強いショックを受けた。さらには、
「イエス様の母マリアも、責任を果たすことができなかった」
「イエス様は本来、十字架にかかって死ぬはずではなかった」
などと言う。

私がもっとも衝撃を受ける話を聞かされたのは、忘れもしない一九五〇年三月二十九日、土曜日のことだった。

その日は朝から雨で、いつものように二人ずつ手をつないだ囚人かも千五百人は、頭からズブ濡れになり、ひたすら下を向いて肥料工場へ急いだ。到着したあと、総班長の私はほぼ十分ぐらいで全員の点検と作業配置を決めた。その頃、文さん には、空き吹に藁を通すという病人か老人向けの楽な作業に回ってもらっていたが、そこへ行き、「総班長として、ちょっと用事がありますので来てください」と呼び出し、静かな倉庫の中の空き叺の山の上へ登り、二人で向き合って座った。総班長には作業場でのこうした自由が認められており、看守も囚人も文句をいう者は一人もいない。だから何時間でも話すことができた。

社会秩序紊乱罪で五年の刑を受けて服役中の文鮮明は、囚人番号五九六。部下の不始末の責任を問われ職務怠慢罪で懲役三年の私は、囚人番号九一九。二人の囚人は互いに向き合い、五九六が話をし、九一九は一所懸命に聞いたり質問をしたり、大事な部分はメモをとった。

この日の話は聖書の「創世記」の部分だった。創世記の要旨は、
六千年前、神様は、土で人のかたちを造りその鼻に息を吹き込んで、人として動けるようにした。その名をアダムと呼び、エデンの園に住まわせた。そして、ふさわしい伴侶を造るため、アダムが眠っているとき、アダムのアバラ骨を一本とって女性を造った。それがエバである。神様は二人に、エデンの園の中央にある木の実だけはとって食べてはいけないと命じたが、蛇がエバを唆したため、エバはついに禁断の木の実を食べ、夫であるアダムにも勧めて食べさせた。

そして、神を裏切り禁断の木の実を食べた二人は、木の陰に身を隠し、発見されたとき恥ずかしそうに無花果の葉で身体を隠していた。神様がアダムを創造しエバを造った目的は、エバが成熟したらこの世の中に罪のない子孫を繁殖させることだったが、神様に背いた二人は、やがてエデンの園から追放され、再び帰ることができなくなった。罪を犯し汚れたアダムは、汗を流して働かなければ生きてゆけなくなり、エバは、お産の苦しみという苦労をしなければならなかった。

二人の間にはカインとアベルの兄弟が生まれたが、やがて兄のカインは弟のアベルを殺すことになり、この世の中に初めて罪人ができた。

以上が聖書に書かれていることであり、私たちが教えられてきた解釈である。ところが、文さん は「聖書のこの解釈は根本的に違う」というのだ。世界じゅうのクリスチャンが間違っているという。

文さんの解釈はこうだった。
エバを唆した蛇とは天使長ルーシェルのことで、ルーシェルは、神様の摂理を知って甘い言葉で本成熟なエバを誘惑し、禁断の木の実を食べさせた。つまりルーシェルとエバはセックスをしたのだ。そして処女を犯されたエバは、神様に見つかる前に、サタンの血で汚れた身体のまま夫のアダムともセックスをした。今までは禁じられた木の実をとって食べたことが罪とされてきたが、それならば、神に見つかったとき、なぜエバは無花果の葉で下半身を隠したのか?禁じられた木の実をとって食べたのなら、罪を犯した口を隠すべきではなかったか。人は身体に傷がつくと傷口に絆創膏などを貼って手当をするが、それと同じ論理で、アダムとエバは神様が禁じたセックスをして、もともとはきれいだったはずの下半身に傷がつき、だから無花果の葉でその部分を隠したのだ。エバはそれまで裸でいても恥ずかしさを知らなかったではないか。それはつまり、下半身の性器の部分でセックスをしたことに原因があって、その部分に罪があるから下半身を隠したのだ。

今でも、男が女とセックスをするために努力し、うまくセックスができると、「どこどこの娘さん(婦人)をとって食べたよ」という表現をするのも、ここから始まっている。新郎、新婦が結婚式をあげて、正々堂々初夜を過ごしても、翌日、家族たちの前に姿をみせるとき、何となく心の中から恥ずかしさを感じるのが一般的である。これは、六千年も前に天使長ルーシェルがまだ成熟していない処女のエバとセックスをしたことに起因することである。

また性的な行為をするときに″酸っぱさ″を感じるということも、未熟なエバが天使長ルーシェルとセックスをしたからだ。

未熟な果物をとって食べると酸っぱい味がするのも、未熟なエバと天使長ルーシェルがセックスをすることで″酸っぱさ″を感じたのと同じことである。

神様は罪のない人間を世の中に繁殖させようとしていたのに、天使長ルーシェルによってその目的を妨げられてしまった。そして、カインがその弟であるアベルを殺したことで、この世の中に罪人の繁殖が始まった。神様はこれを絶対に放っておけなかったのである。だから、罪悪の溢れていたソドムとゴモラには火で審判し、ノアのときには洪水で審判した。それでも、罪悪でいっぱいの人間を救うことはできなかったので、ユダヤの地に二千年前、処女であるマリアの身体を通して、イエスを誕生させた。

神様がイエスをこの世の中に誕生させた目的は、その四千年前、アダムを通じて神様の善なる人間世界を造ることに失敗したため、イエスを第二のアダムとして誕生させ、第一のアダムを通じて達成させようとした目的を実現させるためである。

イエスと六人の女たち

そして、イエスは三十年間ヨセフの家で大工の仕事をしながら育ち、三十歳になってイエスは救世主としての道を歩み始めた。イエスは十二弟子を選び、第二のアダムとして神様の創造目的を達成させるためには、まず第一に、自分の母親であるマリアとセックスをして、第一アダムが天使長ルーシェルに奪われたものを取り戻し、復帰摂理を達成していかなければならない。イエスの母親であるマリアは、こういう天の摂理がわかっていなくて、肉親の息子としてしか考えられず、イエスとセックスをするチャンスをまったく与えなかった。

こういうなかで、イエスが行なった奇跡は、ガリラヤのカナ地方へ結婚の祝いの家に母のマリアと一緒に行き、水でブドウ酒を作ったことだ。その家の酒がなくなったので、母マリアは「どうすればいいか」とイエスに相談した。つまり、イエスが水でブドウ酒を作れることを知っていた母マリアは、イエスに頼んだのである。そのとき、イエスはマリアに、
「女よ、あなたは私とどういう関係があるのか」
と言った。イエスは、母マリアに自分とセックスをするという考えがまるでなく、よその家の宴会でブドウ酒を作ることだけを勧めたので、本当に許せないという思いで言ったのである。

聖母マリアがイエスとセックスをするということは、第一のアダムが天使長ルーシェルに奪われたエバを取り戻すという復帰の原理である。つまり、マリアが母子協助(母子間のセックス)をしなかったので、イエスが純血を受け継ぐことができなかったというわけだ。

その後、イエスは、マグダラ・マリア姉妹を非常に愛し、彼女たちもイエスに従っていたので、マグダラ・マリアと結婚して、神様の創造目的を達成しようとした。ところが、このマグダラ・マリアは、イエスの弟子であるイスカリオテのユダの恋人であり、いずれ結婚する仲だった。それなのに、先生であるイエスがマグダラ・マリアを愛してしまったので、ユダは嫉妬していた。そこでイエスは、マグダラーマリアの妹であるマルタ・マリアとユダを結婚させて、自分はマグダラ・マリアと結婚しようとしたのである。

ユダはイエスに反逆して、イエスをローマの兵隊に銀貨三十枚で密かに売り渡すことになったが、実はお金が欲しくて売ったのではなく、自分の恋人をイエスに取られたことに嫉妬して売ったのである。

イエスが弟子たちを連れて各地を巡っているとき、一行はスカルという町に着いて、弟子たちは食べ物を探していた。その間、イエスは疲れて井戸のそばに座って休んでいたところ、サマリヤの女の人が水を汲みに来た。イエスはこの女の人に、「あなたの夫を連れて来なさい」と言った。
女の人が答えないので、イエスは、「あなたには夫が五人もいるので、答えられないのだ」と言って、水を一杯要求し、再び話した。

「あなたが私にくれる水を、私が飲めばまたノドが渇く。私があなたにあげる水は、あなたのなかで湧水のように永遠に流れることになる」(注=聖書とは逆順だが文鮮明の話のママ)

イエスは、このサマリヤの女の人とセックスをして復帰摂理を実践しようとしたのだが、イエスの意志を知らない弟子たちが協力しなかったので、実現できなかった。

またあるとき、税吏とパリサイの人たち(聖書では、税吏とパリサイの人が一番悪い人とされているそうだ)が、姦通した女をイエスの前に連れて来た。イエスが「この女を許してあげなさい」と言えば、モーセの戒律に″姦通した女は石を投げて殺せ″とあるのでモーセの戒律に反することになる。また「石を投げて殺せ」と言えば、イエスがいつも「罪のある者がいたら、七回ずつ七十回でも許しなさい」と教えている言葉が嘘になる。実に意地の悪い問題で答えようがないのだが、このときイエスは、何も言わないで土に字を書いていた。人びとが近づいて見ると、そこには、
「誰でも自分に罪のない者がいたら、この女に石を投げて殺しなさい」
と書いてあった。集まっていた大勢の人たちは皆、何らかの罪をもっているので全員が散ってしまい、イエスと女だけが残った。そこで、イエスは女に言った。
「私もあなたを許すので、再び罪を犯すことのないようにしなさい」
このときもまた、イエスは、復帰原理に従ってこの女とセックスをしなければならなかったのに、実現できなかったのである。

次は、イエスが弟子たちと一緒に癩病患者であるシモンの家に行ったときのこと。皆で食事をしていたとき、一人の女が貴重な香油の入った壷を持ってきて感動の涙でイエスの足を濡らした。女は髪の毛で足の涙を拭ってから、イエスの足の上に油を塗った。弟子たちは、
「どうして貴重な油をそんな使い方をするんだ。それをたくさんのお金をもらって売れば、かわいそうな人たちのために使えるのに」とその女を非難した。イエスは、
「その女を責めるのはやめなさい。その女は私に、とても大事なことをしてくれたのだから」と言った。

イエスは、この女とセックスをして復帰摂理を実践しようとしたのだが、このときもまた弟子たちが協力しなかったので、その目的を達成できなかった。

イエスが人間の罪を背負って十字架で死んでいったことによって、その血の代価で罪人がきれいになって救われるというふうに、みんな信じているけれども、それは、神様の創造の目的と創造の理想を正しく理解していないからである。

神様が第二のアダムとしてこの世にイエスを誕生させたのは、第一のアダムが天使長ルーシェルに奪われたエバを取り返してもとに戻すためであり、ようするに「復帰摂理」を実践する使命を達成させるためである。ところが、イエスの母マリアは、イエスが復帰摂理のためにこの世に誕生したことを知らなかったので、イエスが聖母マリアと最初のセックスをするという、罪のない血を伝えられるようになるための重要な儀式のチャンスをイエスに与えなかった。第一に必要な「母子協助」が行なわれなかったので、イエスはこの世に生まれても復帰摂理を果たすことができず、結婚すらできないうちに、ゴルゴタの丘で十字架にかけられて死に、天に昇ってしまった。

イエスは、再臨を約束した最後の祈祷のとき、
「できるならこの盃一杯(十字架で死ぬこと)を止めて下さい。何でも父なる神のご意志に従います」
と祈ったが、これは死ぬことが怖かったからではなく、第二のアダムとしてこの世に来ながら奪われたエバを取り戻せず、母たちに復帰摂理の実践(セックス)もできずに死ぬことが無念だったからだ。

もし、イエスが十字架の上で死ぬことによって、その血の代価でイエスを信じる人たちが救われるという解釈が正しいのなら、そんな祈りをするわけがない。

イエスは肉体的には失敗したが、霊的には勝利して、再臨という宿題を残すことになった―ならば、再臨主はどこにやって来て、どうやって人間を救えるのか。雲にのってオリブ山を通じて来るのか。いや、そうではない。東方にある国、白い服を着た人びとがいて、四季がはっきりしている国、東方にお日さまが昇る国、それは我々の大韓民国であり、この国に再臨することは決まっているのだ。

再臨主は、第三のアダムとしてこの世に生まれる。イエスができなかった「復帰摂理」をこの世の中で実践し、人間の六千年の罪悪の歴史を完全にきれいにし、サタンの血で汚れた人間の血を聖なる神の血と交換することによって、この世の中を永遠に罪とは関係ない世界にすることで、神様の本当の意志を達成することになる。それが再臨主の役割であって、失われたエバの純血を取り戻し、万人の前で処女と「小羊の儀式」を行ない、真の父母(アダムとエバ)によって、全世界の人間の血が汚れのない血と交換されることになる――

セックスリレーで「血代交換」を

父母ともにクリスチャンの家に生まれて幼児洗礼を受け、教会執事までやった経験のある私は、文さんの聖書解釈には、耳を疑い首を捻らざるを得なかった。ところがその反面、夢の中で「文先生こそ再臨のメシアだ」というお告げを受けていた私は、半信半疑ながらもしだいに彼の話にのめり込んでいった。そこで、

「これから先生はどういうことを行ない、どうやって理想の天国を完成させていくのですか」と聞いた。

―― それは、イエスがこの世の中に生まれて達成できなかった、女の人たちとの復帰だ。まず、天使長ルーシェルとのセックスによって奪われたものを、それと同じ方法で、夫がいる人妻六人、すなわち六人のマリアを奪い取ることによって取り戻さなければならない。それは、復帰摂理のためには仕方がなくやらねばならない宿題であり、命をかけて行なわなければならない、重大な使命なのだ――

私は驚きと反発を覚えながら、質問した。

「先生、夫がいる人妻と、しかも六人もの人妻とセックスをするということは、その夫に殺される騒ぎになるかもしれないし、もし夫たちにわからなくても、姦通は神の教えである十戒に『姦淫するなかれ』と書いてあります。またこの国の法律でも人妻とセックスすると姦通罪になります。どうしてそんなことができるのですか」

―― いや心配ない。やがて世の中は極端に性が乱れてくる。道端で男女が平気でセックスをするようになり、通行人はそれを見ても今の握手ぐらいにしか思わず、気にもしなくなる。またその頃になると、人間の心理状態も変わり、自分の妻や恋人が他の男とセックスをしても、怒ったり嫉妬をしないようになる。

そうなれば、復帰原理を聞いた女たちは、復帰を受けたくて(セックスをしてもらいたくて)、自分から志願してくるようになる――

―― その時期が来たら、再臨メシアは、六人の人妻をマリアとして夫から奪い取り、汚れたサタンの血を浄めるため、血を交換する復帰をしなければならない。これを『血代交換』(けつだいこうかん)(注=いわゆる「血分け」のこと。後述)と言うが、復帰の儀式であるセックスには、今のサタンの世の中と違って一定の決まりがある。

再臨メシアが人妻の汚れたサタンの血を浄め、血代交換するために復帰の儀式として行なうセックスは、メシアが上になって三回ずつしなければならない。それは蘇生・長成・完成の意味がある。つまり六人との合計十八回のセックスにより、人妻たちはマリアとして生まれ変わるのだ。

六マリアを復帰したら、再臨のメシアは次に、セックス経験のない処女を選んでエバと定め「小羊の儀式」(正式な結婚)をする。アダムの再来であるメシアとエバは、真のお父様・お母様であり、その二人から生まれる子孫は、永遠に罪のない清潔な存在となる。そして、この世の中を、六千年前に神が創造しようとした理想の原点に戻すことができるのだ ――

「しかし先生、この世の中には天使長ルーシェルに毒されたサタンの血を引く人間が、五十億人もいるのです。その人たちのすべてを『血代交換』することが可能なのですか?」

―― 最初に再臨のメシアから復帰させられた女は、他の男の食口(信者のこと)と、女が二回上になって「蘇生、長成、完成」の三回にわたる復帰をしてあげることができる。復帰を受けた男の食口は、違う女の食口たちとも、女が上で二回、下で一回セックスをして復帰させる。またその女の食口が、他の男の食口に、女が上になって二回、下で一回セックスをして復帰させる。こういうやり方で広まっていくことになる。ただし、復帰を受けるには、その前に七年間は「聖別」(セックスをしない期間)がなければならない。それでこそ、復帰を受ける資格ができる。でも今は時期が時期なので、七か月間の聖別だけで可能になり、その後はもっと短くなって七日間だけの聖別で、男女お互いに復帰を受ける資格が与えられるだろう ――

私はそこで、この世の中には国籍も、言葉も、肌の色も、思想も違う、これだけ多数の人たちがいるし、韓国だけならともかく、どうしてそれができるのか? と聞いた。文さんは「復帰摂理の条件だけ作っておけば、国籍・民族・言葉とは関係なく実行できる」と答え、さらに続けた。

―― 人びとは世界各国から、東方に日が昇り、白い洋服を着ている四季の国に再臨したメシアのもとに、礼拝を受けるために集まってくるだろう。そのときになれば、真の父母のもとに世界じゅうの人間が一つの家族のようになり、国籍や言葉などに関係なく、全世界が近づいてくる。韓国人がアフリカに行きたいときは、アフリカのどこにでも行き、どこの家でも訪ね、その家で一日でも何日でも過ごすことができる。また、その家にあるすべての物を、自分の物のように使うこともできる。好きなだけ食べても飲んでも、誰も干渉しない。同じように、アフリカにいる黒人が韓国に来ても、何日間でもいられるし、私たちの物を何でも自分の物のように使えるし、好きなだけ食べても飲んでも、誰も文句を言う人はいない。

今までのサタンの世の中では、すべての物やお金をサタンが使っていたので、その使い方が間違っていた。真のの父母と一緒にいる食口たちは、この世の中のすべての物を自由に使えるのがあたりまえだ。サタンの世の中にあるすべての物やお金は、真の父母と一緒にいる食口たちが、たとえそれを盗んで使ったとしても、それが世の中の法律にひっかかったとしても、実際には何でもないことになる。これは本来、神のものであった物やお金をサタンが奪い取り、使っていたからである。そうなれば経済的にたいした苦痛もなくなり、すべての交通手段が自由に使えるようになり、世界のどこにでも行けるようになる。

今、私たち囚人千五百人が一日じゅう労働してやっとできる仕事も、そのときになると一人が三時間だけ働けば、全部できるようになる。世の中の人たちは食べていくために仕事するのではなく、遊びがてらに三時間くらい仕事をすればよくなる。

そして、アラスカのような寒い地方の食口は、その気になれば一年じゅう暖かいハワイのような景色のいいところに来て、自由に食べて飲み、愛しあうことができる。もしそこに飽きれば、四季のはっきりしている韓国のような国に来て、遊ぶことができる。また日本のような文化が発達している国などに行って、自由に見物し、生活して、愛しあうこともできる。そういう時期が必ず来るのだ ――

全世界の人びとが真のアダムと真のエバという二人の父母の子となって、理想的な社会を築き上げることを、文さん は「円和園理想」だと言った。現に刑務所の中で苦労している身にとって、それは夢のまた夢のような話であり、私はただボーッとなって聞いていた。

獄中で私は総班長の立場を利用して時間をつくり、文鮮明から何週間にもわたって話を聞いた。今から思えば、彼にとっては都合の良い伝道であり布教活動だったと思う。そして彼の説く創造原理や復帰原理とは、実は彼が教えを受けた金百文李龍道の理論のコピーであり、まったくの受け売りにすぎなかったことを、ずっと後になって知った。

また復帰という名目のセックスで文鮮明がいかに多くの女性を不幸にしたか、彼自身がいかに淫乱で勝手な性欲にふけったかを、本書の中で明らかにしなければならない。その反面で、社会悪と言える復帰の真実を告発する私自身、実は文鮮明の命令により、多くの女性と復帰(セックス)していた事実もある。

ともあれ、いましばらく無知だった私と文鮮明の当時の関係をお読みいただきたい。

平壌を騒がせた異端者

その日も私は、囚人たちと一緒に作業場に出て作業配置をしたあと、文さんと一緒に静かな倉庫へ行き、空き叺の積んであるところに二人で向かい合って座り、長い話をした。

今日は、ソウルから平壌まで来るようになった動機と、平壌に来て何をしたのか、何のために社会秩序紊乱罪という罪名で懲役五年を宣告され、服役することになったのかを聞いた。

私は夢の中ではっきりと、文さんは再臨メシアだという啓示を受けた。私の解釈では、再臨メシアというのは、この世の中の終末の日、審判するために来るのだ。そして、収穫のときに、出来のいい穀物はきちんと収穫し、出来の悪いものやカラなどは火に投げてしまうように、再臨メシアの審判によって、真の信者たちは天に召され、信仰しない人たちは地獄に落とされるのである。それが再臨メシアの使命だと聖書では教えている。

だから私は、文さんはどういうわけで、こういう監獄でこのような苦労をしているのかを聞いた。彼は長い時間をかけて、詳しく説明してくれた。

最初の逮捕・拘束

文さんはソウルの永登浦区上道洞に住んでいた頃、金百文という人が指導しているイスラエル修道院に通っていたが、金百文の聖書の原理解釈を学んでいくなかで、その原理に傾倒するようになった。そのうちに神様からの啓示を受け、北朝鮮へ行くように言われたという。 文さんが言うには、一九四六年六月六日のことである。

その当時は、北朝鮮にはソビエト軍が進駐しており、全体がほとんど共産主義に染まっていく時期であった。 文さんはそういう時期に、妻子をソウルに残したまま、リュックサック一つだけを背負い、三八度線を越えて平壌に来た。平壌に来て一番最初に、丁得恩(鄭得恩/チョン・ドゥクン정득은)という女の人に会った。


意気投合して話しているうちに、神様から啓示を受けた平壌城を第二のエルサレムとして作ることに合意し、お互いに協力することにした。このとき文さんは二十六歳、丁得恩は四十歳くらいだった。

二人は平壌市上水口里の黒橋の横にあった丁得恩の家で、原理を伝道していくことにした。何日もたたないうちに、この家には熱心な信者たちが十人あまり集まってきた。ここで文さんは初めて、創造原理について講義した―天使長ルーシェルが神様の創造目的を知ってしまい、エバを誘惑して堕落させたこと。イエスの母親であるマリアが、母子協助(セックス)しなかったので、イエスは十字架の上で死ぬことになった。イエスは死ぬためにこの世の中に来たのではなかったが、十字架の上で肉体は死んでしまい、霊だけが天に上がることになったので、また再臨することを約束したことなど―。

で、イエスは十字架の上で死ぬことになった。イエスは死ぬためにこの世の中に来だのではなかったが、十字架の上で肉体は死んでしまい、霊だけが天に上がることになったので、また再臨することを約束したことなどー。

このとき集まって来た信者は、丁得恩、玉世賢(オク・セヒョン)池承道(チ・スンド)、鄭先玉、金仁珠(キム・インジュ)金鍾和(キム・ジョンファ)らの女性と、金元弼(キム・ウォンピル)、鄭明先(妻:金鍾和)、車相淳などである。

文さんが集会を開き、聖書解釈の原理を講義していると、とくに女の人たちは大声で泣き出したという。その様子を見て、近所の人たちは変に思っていたようだ。ソウルからやって来た若い男が、十人あまりの人たちを集めて演説すると、部屋じゅうの人が大声で泣いたり叫んだりしていたからである。しかし文さんに言わせれば、創造原理と堕落原理の講釈、そして復帰についての講釈を聞けば、六千年も続いている神様の怒りを解くために、誰でも泣きながら祈るようになるのが当たり前ということだった。

共産主義の体制のなかで、こういう集会が許されるわけがない。近所の人たちや既成の教会の信者たち―とくに教会の牧師と長老たちは文さんたちのことを異端視した―が不可解な集会をしていると警察に通告したため、文さんは、平壌に来てから二か月目の一九四六年八月二日、大同保安署に逮捕され、約百日間拘束された。その間に苛酷な拷問を受け、一睡もさせなかったり、食事を二、三日も与えないなどと虐待されたが、特別な罪がないために釈放された。そのとき文さんはかなり衰弱していたが、信者たちの世話と漢方薬のおかげで回復したという。

人妻との結婚騒ぎで懲役五年

文さんはその後、景昌里にいる金鍾和という熱心な女信者の家に行ったが、彼女の夫である鄭明先と三人の子どもがいる家族だった。

この家で文さんは、復帰原理を実践したということだった。夫のいる人妻を天使長ルーシェルがエバを奪い取ってセックスしたのと同じように奪い取り、なんと夫と子どもが隣にいる部屋で、金鍾和と同棲生活を始めたのである。さらに文さんは、神様の啓示を受けたと言って、金鍾和と「小羊の儀式」(正式な結婚)をすることにした。信者たちは米を集め、モチを作り、洋服や布団を作るなどして、賑やかに儀式の準備をしていた。

ソウルから来た若い男が毎日のように、人を集めては泣きながら祈祷したり大声で賛美歌を歌ったりして、夜半じゅう騒いでいる。そのうえ、夫や子どもたちがいるにもかかわらず、ひとつ屋根の下で同棲している。それが今度は結婚式をあげると大騒ぎしているのだから、その騒ぎを見ていた村の人たちが、黙っているはずがなかった。村人たちが警察に通告したので、一九四八年二月二十二日、 文さん以下全員が逮捕された。結局、この事件のために文さんは、社会秩序紊乱罪で懲役五年を宣告され、興南特別労務者収容所 に来ることになった(五月二十日)。

あとで聞いた話だが、金鍾和は懲役一年の実刑で服役し、玉相賢は彼女の家が相当な財産家だったので二か月で釈放されたという。

また数年後、南のソウルへ避難していた金鍾和を訪ねて個人的に話す機会があり、私は当時の真相を聞いてみた。信者をやめていた彼女の口から出た話は、文鮮明の話とかなり違っており、興味深いものだった(後述)

朝鮮戦争と大空襲

一九五〇年に入ると刑務所の中は一段と厳しさが増してきた。

肥料工場の作業は、なぜか硫安の粉が石のように固くなってはかどらない。ところが、責任量は増える一方で、死ぬほど労働しても達成できない状況だった。食事もソバと雑穀のわずかな飯と塩水だけ。なぜか面会人からのミスカルやアメの差し入れも禁止され、空腹を癒すこともできなくなった。そのうえ労働時間が一時間延長され、六時終業になる。まさに「死ね」と言われているようだった。

千五百人の囚人のうち毎月百人ぐらいがバタバタ死亡し、工場の労働者たちは毎日、葬式をあげるだけで仕事が終わってしまった。そして、死んだ人数分だけ、囚人が平壌刑務所から確実に補充されてきた。

若い看守がめっきり減ったことに気づいたのは五月頃だった。どうやら軍隊に召集されているらしい。六月の初旬、肥料工場での作業中に会社の社員たちが、「これは秘密だが……」と言いながら小さな声で、

「ソビエトの方に肥料を運んでいった船が、帰りに高射砲などの武器をいっぱい積んできている。たぶん近く戦争が始まるのではないか」と話しているのを耳にした。

収容所内の警戒や作業所内の監視がいっそう厳しくなり、囚人たちは大きな声で話もできない雰囲気が続いていたが、六月二十五日、とうとう戦争が始まった。北朝鮮の人民軍が三八度線を越えて南へ進み、三日後にはソウルが陥落したという話だった。

囚人たちを年齢別に分けて軍隊に入れ、危険な最前線に送るのではないかという噂が流れたときには、不安のあまり収容所内が大騒ぎになった。そんななかの八月一日。午前十一時頃に肥料工場の上空をUN(国連)軍の飛行機が約三十分も偵察していった。私は軍隊時代の経験から、戒護係長の看守に、

「ここはきっと爆撃されます。収容所の方が安全だから、囚人たちを引揚げてはどうですか」と進言したが、戦争を知らない看守には通じなかった。仕方なく作業を続けていたところ、案の定けたたましい空襲警報のサイレンが鳴った。UN軍のB29が来襲し、十二時頃から約四時間、肥料工場は猛烈な爆弾の雨にさらされた。北朝鮮の山の中でトウモロコシ畑の農民だった看守たちは、腰を抜かしてアタフタするだけで、どうしたらいいかわからない。そこで私は

「もしまた爆撃があっても、国際法上、刑務所や収容所は爆撃しないはずだ。安心して収容所へ急ごう。看守の人たちは囚人が全員ついて来ているか、後ろから監督してください」と大声で指示し、先頭を走って収容所へ帰った。

肥料工場で働いていた総人数は八千人ぐらいで、囚人は千五百人だったが、帰ってから調べると囚人の死者はわずか七十人。工場全体では約三千七百人もの人が死んだ。実に恐ろしい大空襲だった。収容所に戻った私は、急いで文さんを捜し、爆撃でケガをしていないか心配したが、かすりきずもなく無事たった。

金日成「恩赦」

北朝鮮が、金日成政権の樹立で「朝鮮民主主義人民共和国」として独立したとき(一九四八年)の恩赦で、一年六か月に減刑されていた私は、大空襲の翌日(五〇年八月二日)、やっと満期を迎え、地獄の収容所から釈放され、自由の身となった。

同じ青空でも塀の中と外ではこうも違うのかと、涙のあふれる思いで空を見上げた。午前十時頃だった。肥料工場の横を通ると、爆撃の跡の悲惨な光景は想像以上だった。あちこちに開いた大きな穴から、死体やバラバラになった肉片が運び出されている。

この工場の中で、文さんは今日も強制労働させられているのかと思うと、自分一人だけ先に釈放されたことが申しわけなかった。出獄のあいさつに行ったとき、文さんから、
「平壌に着いたら、景昌里に住んでいる金鍾和を捜して、私は元気でいるから安心するよう伝えてほしい」と言われた。金鍾和とは、文さんが結婚しようとして投獄される原因になったあの人妻である。

興南の道路は北の軍需物資を積んだトラックがたくさん走っていた。人民軍は先制攻撃で勝利し、ソウルを占領したらしい。今は戦争中なのだ。一台の軍用トラックを止めて事情を話すと、平壌まで乗せてくれることになった。

[出典:六マリアの悲劇―真のサタンは、文鮮明だ!!/朴正華]

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