【六マリアの悲劇】まとめ(05)

六マリアの悲劇
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第五章:再臨メシアの正体

 当時の六マリアの一人、李英玉*(左)と食事中の文鮮明(1960年頃、青坡洞教会)

原理と実践の矛盾 私の手記は真実の記録

私は、興南収容所で、文鮮明を知り、一年六か月間を一緒に生活した。六・二五動乱(朝鮮戦争)で出獄した彼と二か月間にわたって南へ避難し、平壌から、ソウル、釜山まで来た。しばらくの間、私は慶州にいて、文鮮明は釜山にいた。

彼と再び合流してからも、この世の中の創造の歴史と、堕落の原因、そして、この世の中を復帰させ、神様が求めた清い世の中の創造目的どおりに戻す原理を聞かされた。

原理の主人公である再臨メシア、真の父母の名のもと統一協会は、今や世界百数十か国に広まっている。真のお母様であるエバになるということで一人を選択し、「小羊の儀式」(正式な結婚)を行なって、十一人もの子どもを産ませた。そして、その一番目の息子をお父様・文鮮明の後継者にしようとする世襲体制が作られようとしている。

文鮮明は、各国の学者などによってたくさん紹介された。彼を偉大な人物として尊敬しているような本もある。私はそういう本はほとんど読んだが、それらの本は、文鮮明が今まで、その目的と実践をどういう経過でやってきたのかについては、具体的に触れていない。ただ、現象的に表われたことだけを書いた、上っ面だけの内容だった。そうした本に書かれている内容について、私は批判するつもりもない。

ただ、私が本書に書いてきたことは、文鮮明と一緒にいながら、直接話を聞き行動してきた事実を、ありのままに記録したものであり、真実でないことは一つも加えていないことを、ここで責任を持って断言しておきたい。

文鮮明が興南収容所で、時間があれば私に話していた「原理」は、釜山水晶洞教会で原稿として書きあげられた。これが「原理原本」である(注=これは紙に鉛筆で書いたもので、これを大邱に来ていた鄭先玉*が保管しており、私が捿鎮鉱山にいたとき朴愛子が持ってきてくれた。そのとき私がノートに写したものを、今も持っている)。

この「原理原本」をもとにして、頭脳抜群の劉孝元が「原理解説」を書いた。そして、この「原理原本」と「原理解説」が統一協会の基礎になり、文鮮明が世界の百数十か国に進出するに至る基礎となったのである。

この「原理原本」と「原理解説」を全部引用することはできないので、とりあえず目次だけを資料として記録しておこう(巻末資料参照)。

何も知らない信者たち

しかし、この原理解説には、その原理と実践とが矛盾するところがあるので、重要なポイントを何項目か指摘しておこう。

どこの国でも、その歴史の始まりには神話がある。わが韓国や朝鮮半島には「壇君」をはじめとする建国の神話がある。日本には「天照大神」があり、中国には「徳王兄弟十一人」などがある。

しかし、私が従ってきた文鮮明は、一国の国祖ではなく、世界の再臨メシアだと言う。いままでたくさん出版された本のなかには、文鮮明を救世主だと書いたものもある。文鮮明は、世の中を救うために世界を統一しようと主張しているが、私が信じてきた「再臨メシア」は、だんだんその姿が大きくなっていくにつれ、その原理と実践がだんだん相反していっているような気がしてならない。二千年前、十字架の上で死んでいったイエスとは、あまりにも差がある。

文鮮明は第三のアダム、真の父母として、統一協会の食口はもちろん、世界じゅうの人びとから祀られ、百数十か国に広まっている。しかし、食口と呼ばれる統一協会の信者になっても、サタンの世の中で生活していたときと、生活が変わったところはまったくない。むしろ悪くなったり、悲業の死をとげた人もいる。私は、そのことにずっと疑問を抱いてきた。

たくさんある統一協会関係の出版物のなかで、実際に私が読んだものには、統一協会はこういう輪郭の教会であり、その教祖である文鮮明は原理という教義に出てくる再臨メシアである、という程度の表面的なことしか書かれていない。

したがって問題は、文鮮明がどれだけ、再臨メシアとしての役割を果たしているのか、救世主としてこの世の中を救っているのか、ということになってくる。ところが素顔の文鮮明は、今日までたくさんの人びとを犠牲にし、これからもずっと犠牲にしつづけようとしているので、これ以上もう黙って見ていられないと思い、本書を書くことにしたのである。

何も知らない統一協会の食口たちは今も、世界百数十か国から、文鮮明を真のお父様と思い、韓鶴子を真のお母様と呼びながら、この世界が統一されることを毎日のように祈っている状況なのだ。

私も、文鮮明が本当の再臨メシアになって、この世の中を救ってくれることを待っている食口の一人だった。しかし、もし文鮮明が再臨メシアではなく、「ヨハネ黙示録二〇章」に書かれているとおりだったら、そのことをどう考えればよいのかわからない。また、文鮮明が再臨メシアであるなら、真の新婦と「小羊の儀式」をあげ、真の父母になって十一人の子どもを生んでいるが、どうして真の父母から生まれた子どもが二人も死んでしまったのか。また他の女に生ませて入籍した三人のうち、一人も事故で死んだ。

「ヨハネ黙示録二一章四節」には、
「人の目から涙を全く拭いとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」と書いてある。

文鮮明が再臨メシアなら、復帰原理のとおり「小羊の儀式」を行ない、この世界のすべてを解放する日にちまで決めていたにもかかわらず、どうしてこの世の中はそのままなのだろうか。原罪のもとを全部なくし、復帰の儀式を経て、真の父母になったはずなのに、どうしてそこから生まれた若い子孫が死んでいくのか。また、その子孫のなかには、恥ずかしいスキャンダルを起こし、いやな噂までたてられる者もいる。

私は、文鮮明が原理を通じて、何をどういうふうにやってきたか、原理どおりに実践していたのか、などについて明らかにしたい。文鮮明の将来は、神様だけが決定できる問題である。私はただ、文鮮明が発表した原理にもとづき、その原理を実践する過程で一緒に暮らしていたときの事実について書いてみようと思う。

文鮮明がなぜメシア?

それでは、文鮮明はなぜ罪のない神様と同格の立場に立ち、復帰させることができるのだろうか。文鮮明がこのサタンの世の中で、ごく平凡な家庭に生まれてきたことから考えると、どうしても納得いかないことである。これに関しては、どれ一つとして納得できる部分はない。もう一度考えてみる必要があると思う。

私は興南の収容所で、一年六か月間を文鮮明と一緒に過ごした。この収容所での一年六か月間は、外の生活の十六年分ぐらいの期間だと、お互いに話し合っていた。そのとき彼に聞いた話である。

文鮮明が十五歳のとき(一九三五年)、復活節の前の晩、イエスが夢の中に現われ、イエスが達成しようとしたことをできないまま、十字架に掛けられて死んでしまったので、あなたが私の代わりにその使命を果たして欲しい、と言ったそうだ。文鮮明も最初は遠慮していたが、何回も頼まれたので受け入れたという。

このイエスから頼まれたこととは、のちに原理で言う復帰の実践であり、セックスをすることである。こういうことが実際にあったのかどうかは、本人しか知らない話なのでわからない。しかし、の世の中には、イエスの夢を見たという人は世界じゅうに大勢いるはずだし、夢の中のお告げによるイエスの話なるものが、このとんでもないセックス復帰の理由になりうるのか、どうしても納得できない。

丁得恩との不思議な関係


1952年釜山グループ写真。丁得恩が文鮮明の前に立っている

一九五五年(昭和三〇年)七月四日、文鮮明らが逮捕され、中部警察署の留置場に収監されたとき、平壌時代の丁得恩が訪ねてきて、私に彼女の家まで来て欲しいと言った(注=このおばさんもまた不思議な存在なので、少し長くなるが注意して読んでほしい)。私もちょうどその当時、文鮮明の平壌時代について話を聞きたくて、金鍾和を捜していたところだったので、丁得恩が住んでいる家まで一緒に行くことにした。

五十歳になる丁得恩は、元暁路三街に小さな家を借りて暮らしていた。ここで一週間を一緒に過ごした。そして、文鮮明がソウルから平壌に到着したあとの、丁得恩との神秘?に包まれた生活を聞くことになった。

丁得恩は、北の平安北道で一時期盛んになっていた李龍道牧師、黄国柱とは全然関係がなく腹中教とも関係はなかった。ただキリスト教を信じていたのだが、一九四六年六月六日、天からお告げを受けたという。その内容は、
「今、三八度線を越えて一人の青年が、カバンーつ背負って平壌に向かっている。その青年は、神様が大事な役目を託し、この世の中に送った人である」
ということだった。そして、その人が平壌に向かっているので、「出かけていって、その人を迎えてあげなければならない」と言われたそうだ。

丁得恩はとりあえず、南の方へ探しに行ったところ、寺洞という所で、ボロい服を着てリュックサック一つ背負った青年が、こっちに向かって来た。それが文鮮明(当時は文龍明)だった。

丁得恩は彼の前に行き、おじぎをしたあと、自分の家に案内した。丁得恩の自宅は萬寿台のふもとにあった。

文鮮明を案内してきた丁得恩は、自分が神様のお告げを受けたこと、先生が来るのを知り迎えに行ったことを説明した。さらに丁得恩は、自分が神から「聖母」として認められたので、文鮮明とセックスをすれば、文鮮明は神様と同格の立場になり、堕落した夫婦の立場にある女の人たちを復帰させることができるようになる、と話した。そして、文鮮明が下になり、丁得恩はその上に乗って、蘇生、長成、完成の三回のセックスを行なった。この復帰の実践の公式と方法は、まるで文鮮明の原理と同じだ。

聖母マリアの代わりに、聖なる丁得恩と復帰したことによって、文鮮明は、完全なる神のように罪のない人間になり、エデンの園にいたエバを取り戻す復帰の資格ができた、ということだった。丁得恩は夢の中で神様とセックスをしたので、自分は「聖母」だと言う。

あまりにもうまく出来過ぎた話だが、文鮮明の片腕の立場にあった当時の私は、ただ驚くばかりで感動していた。しかし今、もう一度冷静に考えてみると、創造・堕落・復帰の原理も固まっていないときに、原理も知らず、文鮮明とは初対面の丁得恩が、こんな儀式のようなセックスをしたとはどうしても考えられない。

前後の事情から二人に肉体関係はあったようだが、どうやら後からコジつけた作り話だと、今の私は信じている。その理由の一つに、平壌へ行った頃の文鮮明の行状が、原理を無視したメチャクチャなものだったことがある。生活安定のために必死だったかもしれないが、当時の(後でもそうだが)彼の武器は、未完成の怪しげな原理論と、それに惑わされて集まってくる女たちへのセックス攻撃しかなかったのではないか。百歩譲って、もしそれが本当なら、統一協会の印刷物は、なぜこの「丁得恩の大奇跡」のことを、一行も書かないのだろうか。

逮捕も当然のセックス布教

平壌時代の話を続けよう。この後、文鮮明は羅崔変の家に移り、次には、景昌里にある鄭明先・金鍾和夫婦の家に行き、そこで礼拝をあげるようになった。すでにセックスの関係があった池承道、玉世賢などとの様々な葛藤があって、丁得恩は独立し、他の信者を集めて礼拝をあげていた。

またここで、いろんな問題が生じてきた。その内容は、女の信者たちがそれぞれに文鮮明とセックスしていたので、お互いに「自分こそが文鮮明を生んだ(霊力でこの世に生んだ)聖なる母親だ」という主張が飛び交っていたのである。要するに、信者である女たちが文鮮明とセックスすることによって、文鮮明に復帰する資格が与えられた、ということだ。

既述したことだが、その後の文鮮明は、金鍾和の家で夫の鄭明先と子どもがいるにもかかわらず、人妻の金鍾和と同棲をした。そして何を思ったのかその人妻と「小羊の儀式」を口実に結婚する騒ぎになり、警察に逮捕されて、社会秩序紊乱乱罪で懲役五年を宣告され、興南刑務所で服役することになった。そこで文鮮明は私と一緒に生活していたのだが、このことに関して、統一協会の出版物ではこう書いている。

「何の罪もない文鮮明先生が服役させられた。その原因は、既成キリスト教団の嫉視と共産党の宗教抹殺政策によって内務省に拘束され、公判で五年の刑を受けた」

これがまったくの嘘であることは、読者にはご理解頂けると思う。当時共産党が実際に宗教抹殺政策を行なっていたなら、″既成キリスト教団が嫉視”する余裕などあるはずがない。そして、玉世賢女史の夫である禹夏変はその頃、平壌・将台現教会の信望ある長老だった。

また、この三か月前の一九四六年八月にも、文鮮明は北朝鮮の警察に逮捕され、三か月後にやっと釈放されている。統一協会はこれも、「原因は信徒を奪われた牧師たちの反感と嫉妬で訴えられた」としているが、同じく目にあまるセックス布教の結果であった。

私はこの本で、南の韓国(釜山、大邱、ソウル)を中心に文鮮明とともに歩んだ足跡と出来事を書いて来たが、文鮮明はすでに平壌時代に、多数の女性をセックスで食口にし、常に身の回りに侍らせていたのである。そして、それらの女性をやはり「六マリア論法」でたぶらかし、肉体と金品を捲き上げていたのだった。

色と欲と金と

1955年頃に撮影されたこのグループの写真では、崔淳華が文鮮明の前に立っている。文鮮明は元々崔淳華の姉・崔淳実と結婚し、その7年後に崔淳華と結婚するつもりだった。しかし、崔淳実は1959年、文鮮明と結婚する直前に統一教会を脱会した。
文鮮明は、聖書の中でのヤコブ (Jacob) のコースを修復することを自分の役目だと主張した。 ヤコブの二人の妻レア (Leah) とラケル (Rachel) になぞらえて、文鮮明は崔淳実をレアの役に、崔淳華の妹はラケルの役にしようとした。左端が元福教授、右端が金永雲教授です。彼らは二人とも梨花女子大學校の教授で、血分けの教義を信じていた。この大学には、文鮮明の教会に、多くの学生の女子学生を勧誘するのに役立った教授が5人いた。

夫の金を盗んでこい

一九五五年七月四日、文鮮明はソウルの警察に拘束されたが、裁判で無罪が宣告され、釈放された。これについても統一協会は、「罪のない人が拘束されたが、そのあと事実がわかり、釈放された」と宣伝している。当時、文鮮明と朝から晩まで一緒にいた私が、この間の事情や事実は一番よく知っているのだ。

文鮮明は実際に幾多の罪を犯していたのだが、私たちの機敏な対策で、食口たちが警察の調べに正直に応じなかったのと、偽証や嘘で口裏を合わせたため、決め手になる証拠が出なかったおかげで無罪になり、釈放されたのである。統一協会はその事実を隠しているが、この私自身も偽証し、食口たちの口裏合わせの手配に走り、証拠の隠滅を行なったのだから間違いはない。

具体的な例は山ほどあるがーー例えば金順哲という人妻を、
「自分は再臨メシアだから、自分と復帰すれば、あなたも六マリアの一人、イエスのマリアになれる」と騙して、セックスをした。立派な姦通罪である。また、

「この世の中はサタンが仕切っているが、この世の中のすべての財産は本来神様のものだから、サタンが使っているもの(夫のお金や家にある財産)は全部、盗んででも私に献金しなければならない。そうすることによって、この世の中が理想的な世界になり、神様は何千倍もの幸せを与えてくださる」

この話を信じ込んでしまった金順哲は、さんざん貢がされた。あるときは、文鮮明に強要されて当時の米ドルで一万五千ドルもの金を家から持出し、その金で二か月間、文鮮明を好き放題させた。さすがに夫も怒り、八方手をつくして捜していた。窃盗の立派な共犯である。これがどうして罪にならないだろう。夫が警察にその話をせず、姦通罪で告訴しなかったから助かっただけである。他のマリアの夫たちも皆、そうだった。

また、処女の娘たちに文鮮明は、私の妻になれば、世界の真の母親になれると言って信じ込ませ、編してセックスをしていた。こういうやり方で、金明熙という女子大生も、崔淳実も騙されて、文鮮明とセックスをした。快楽におぼれ、結婚を口実に次から次へと清純な娘たちを犯していた文鮮明が、どうして罪にならなかったのか?食口たちの涙ぐましい心情を統一協会は考えるべきである。

なぜ罪のない子どもが死ぬのか

ところで私は、文鮮明が再臨メシアを主張するなら、「脱税」という罪名でアメリカの刑務所に投獄されたことは、どうしても納得できない。

「ヨハネ黙示録二一章三、四節」に
「神様が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全く拭いとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」
と書かれているとおり、こういうことを実現させてくれるのが再臨メシアである。北朝鮮でも南朝鮮でもそうだったように、アメリカでの事件も、六千年間、神様の望みであった復帰の実践をしていて、サタンの世の中の法律にひっかかって投獄されることは、原理の「予定」であると、文鮮明は言うかもしれない。

ならば、原理どおりに処女を新婦として迎え、「小羊の儀式」を行ない、子どもを十一人も産ませたのに、その子どものなかには、交通事故で、あるいは違うかたちで死んだ者たちがいるし、世の中にいろんなよくない噂をバラまかれている張本人もいるのは、どういうわけなのだろう。

文鮮明を信じている人たちはなぜか、この当然な事実を歪曲して宣伝し、伝道している。そのために、かえって文鮮明の将来は、どんどん取り返しのつかない方向に向かっていると思う。私は、文鮮明が原理の実践と称してやっていた行為を、横で直接見てきた者として、その事実を明確にし、文鮮明が再臨メシアであるか、それとも人一倍女好きな金儲け主義者なのか、ということを明らかにすべきときがやってきたと思う。

文鮮明が神様と同格に復帰できるという根拠は、聖なる母?丁得恩が再臨メシアとしての文鮮明を生んだことと、文鮮明が十五歳のときの四月十七日、復活節の前の晩、夢の中でイエスから、
「私は、果たさなければならなかった復帰の役目をできなかった。あなたがその代わり、第三のアダムとして、再臨メシアの役目を果たしてほしい」
と言われたこと(統一協会の新聞にも明記されている)の二つがあげられる。もしそのとおりで、文鮮明が神として復帰の役目を実践したならば、創造当時のエデンの園が復帰され、統一協会の食口たちは、真の父母とともに涙もなく、幸せに暮らしているはずである。

復帰という名のセックス

まず六マリアの復帰問題から考えてみよう。

サタンによってエバを奪い取られたことで、神様は六千年間怒り続けてきたという。神様はエバを取り返すため、第二のアダムであるイエスをこの世に送ったが、イエスの生みの母親であるマリアは、イエスを自分の息子としてしか考えず、自分の息子がまず母親とセックスするために生まれてきたことに気がつかなくて、イエスとセックスをしなかった(注=このように母親が息子とセックスすることを、原理では母子協助と言っている)。そのためにイエスは、十字架の上で死んでいくしかなかったと原理は説明している。また原理原本には、

「イスカリオテのユダの恋人であったマグダラ・マリアをイエスが奪い、復帰させることによって、神様の恨みを払うことになっていたが、ユダがこれに服従せず、銀貨三十枚をもらってイエスを売り払ったため、イエスが十字架の上で死んでいくことになった」
と説明されている。

イエスが復帰しようとした六人のマリアを復帰させれば、原理どおり実践されることになると、私も理解していた。ところが、六人のマリアを復帰させたあとでも、文鮮明は手当たり次第、何十人もの女の人を復帰させていった。

例をあげると、梨花女子大の舎監先生だった韓忠ファは、文鮮明に復帰された後、結局、セックスの魔手におぼれて、学校をやめさせられてしまい、文鮮明に服従することになった。その頃、用事があって文鮮明と全州という所にいたとき、美人の女性と会うことになり、その女性と復帰するところを、私はすぐ横で見ていた。それが彼女だった。

韓忠ファは熱心なクリスチャンで、未亡人となり、サムエルという啞の息子を連れてまじめな生活をしていたが、原理に騙され、文鮮明に自分の身体を提供することが神の意志だと信じて、喜んでいた。しかし、その文鮮明がまた違う女と復帰しているのを知ると、その足でソウルに戻り、文鮮明と訣別した。

それまでの自分の軽率な行動と、色気違いになっている文鮮明に貞操を奪われたことを後悔しながら、そのあと、しばらくして死んでしまった。これは誰のせいで、誰の罪だと言えるだろう。

一九五五年、梨花女子大の五人の教授が退職に追い込まれて辞表を出し、十三人の学生が学校から追い出されることになった。このことはやはり、文鮮明と教授や学生との復帰事件にからんでいたことだった。

しかし、それ以前の釜山水晶洞時代に、すでに六マリアは決定されており、セックスの実践も終わっていたのだ。なのにまた、新たなマリアを復帰させようとして、問題が生じてしまったのである。そして、『復帰をする』ということだけが、あまり深く考えない女性食口たちのを通じて伝わり、まだ原理を詳しく知らない女の人たちは、ともかく復帰を受けることに必死になってしまったのである。こういう状況の統一協会について、外部では、
「統一協会では裸になって踊り、一度入信すると麻酔をかけ、二度と出てこれないようにさせている」という噂が広まっていくことになった。

たくさんの家庭が破壊された

ところで実際、文鮮明の原理の話を聞き、堕落原理と復帰原理を聞くことによって、各界各層から来ている人たちの生活に変化が訪れた。今まで子どもたちと一緒に平和な生活をしてきた夫婦が、妻が統一協会に入ってからは、服を脱ぐことも、夫とのセックスも拒否するので、トラブルが起きた。この人たちは、文鮮明に貢ぐための経済問題でも悩んだ。そして結局、離婚することになり、文鮮明の原理によって家庭生活が破綻することになる。

経済的な基盤のない家庭では、さらに頼られることになった夫が、妻に絶望して、子どもを捨てて家を出ていってしまうことになる。その当時、統一協会の渉外部長だった金寅哲は、こうして捨てられた子どもたちを孤児院に送ることが、大きな仕事の一つだった。こうして破綻した家庭は、私が知っているだけで、百七十家庭くらいになる。

その当時、文鮮明から復帰は受けたものの、文鮮明の行為を見たり体験して、それが神様の意志ではなく、色気違いの行為にすぎないと思った女の人たちは、夫には内緒のまま家庭に戻っていった。この女の人たちの心境は今、どういうものだろう。こうした事実を知っている女食口たちは、それでも長い間文鮮明に従い、それこそすべてを捧げて奉仕した。

私はその当時、統一協会のある男の食口から質問されたことがある。

「文鮮明先生の復帰は、さぞかし厳粛なんでしょうね」

そのときは笑って、「そうです。神様ですから」と答えておいたが、再臨メシアの。″復帰の儀式″なのだから。″厳粛なもの″だと想像するのも当然だろう。

だが実際は違う。神様であるはずの文鮮明は、おいしい餌を前に舌なめずりをする犬のようになり、むさぼるようにセックスをしただけである。ただの性欲の固まりだった。事実、文鮮明は精力絶倫で、「ひと晩に十回やったこともある」という。本妻だった崔先吉の話だから、これは間違いないだろう。

復帰を受けるときの婦人食口もそうだった。生身の女性だから当然だが、さんざん乱れ、やがて燃えつきる。大声をあげて失神した人もいた。私が介抱したのだから、これも間違いない。

サタンを否定している文鮮明の復帰(セックス)だが、所詮はサタンの世の中のセックスと何一つ変わらないのである。そうした文鮮明の正体をいち早く見抜いて、家庭へ「復帰」した妻たちは本当に賢明だった。彼女たちは、大きな被害を未然に防ぐことができたのだ。

女の恨みは夏にも霜を

ところが、文鮮明はいま、自分が再臨メシア、真のお父様になったと言いながら、復帰した食口たちのめんどうは一切みていない。

外国、とくに日本とアメリカで真のお父様として君臨するようになり、日本では霊感商法などで反社会的な金集めをやって大きな問題になっている。そして、これまで犠牲になってきた人たちには振り向きもしない。文鮮明を恨みながら統一協会を出ていく女性が、日々増えている状況である。文鮮明は将来、どんな方法で、どういう原理をもって、この問題を解決していくのだろうか。

アメリカの牧師たちに、原理のビデオテープを三十五万本作って発送していたが、それでこういうことが防げるようになるのだろうか。アメリカの牧師たちが原理説明会などを名目に世界各国を訪問して、何億ウォンものお金を使いながら布教したとしても、こういうことを防ぐことはできないだろう。

日本、アメリカ、韓国の有名な学者たちに高い原稿料を払い、文鮮明を再臨メシア、救世主として持ちあげさせようとしているが、韓国のことわざに「女の恨みは、五月や六月にも霜を降らす」(注=これは陰暦だから、五、六月は真夏になる)というのがあることを忘れてはならない。

青春時代に文鮮明によって復帰された女の人たちは、財産を全部注ぎ込み、夫からは離婚され子どもたちとも別れて、いまはもうすっかり年寄りになっている。
この人たちはほとんど、女中さんを雇って暮らしていたような豊かな家庭の奥さんたちだったが、再臨主?文鮮明に会って、彼にすべてを捧げてしまい、いまは食べるものにも困って、自分が女中をやらなければならなくなった人が、何十人もいる。また、恨みを抱えて一生送ってきた人たちは、何百人にもなるだろう。
私はこの女の人たち一人ひとりに会ってみようと思ったが、私の経済的な事情やいろいろな問題で実現できなくて、本当に申しわけないと思う。

処女に生ませた子どもたち

原理のなかでいちばん重要視される、真の母親になる処女の選択について、話したいと思う。

真のお父様を自称する文鮮明と「小羊の儀式」をあげる人が、真のお母様ということになるが、その儀式によって、エデンの園を堕落前の状態に戻し、神様の創造目的を達成することになる。人間社会の原罪を根もとから取り去ったあと、また罪のない清い世の中に戻り、苦痛もなく、死もなく、永遠に真の父母と一緒に暮らしていける世の中が創造される、というのが原理の内容である。

しかし、この真の母親である処女一人を選択する過程で、また不可解な問題がたくさんある。

文鮮明が平壌にいた頃、鄭明先の妻で三人の子どもの母親である金鍾和が、「小羊の儀式」の相手として準備をしていたところ、文鮮明と一緒に逮捕された。懲役五年を宣告された文鮮明が、興南刑務所に服役したことは何度も書いた。

釜山影島の辛聖黙の自宅では、金明熙という処女を復帰させたが、その後も関係を続け、金明熙は妊娠した。その事実を隠すために文鮮明は、呉昇澤という学生に因果を含めて金明熙を押しつけ、一緒に日本に密航させた。金明熙は日本で文鮮明の息子を出産し、貧乏のどん底で暮らすことになった。

さらに崔淳実という処女とも復帰し、男の子を産ませている。

ソウルに来てからは、六マリアの場合もそうだったが、文鮮明は、新婦である処女を選択するという名目で、崔淳華をソウル駅前の旅館で復帰したのである。崔淳華はそのあと、自分が真の母親候補の一番だと思っていた。そのときの共犯は金順哲だった。

崔淳華を煽動した彼女は、新婦=真の母親として選択され、復帰した証として金の指輪を作り、この哀れな処女に贈ったものである。
そして、文鮮明はこの処女たちを全部見捨て、洪順愛の娘、韓鶴子と「小羊の儀式」をあげ、韓鶴子が真のお母様になると言って結婚した。

今は、たくさんの統一協会関係の出版物のなかで、真のお父様になっている文鮮明と、真のお母様になっている韓鶴子が一緒になり、新しい世界を造るという目標を掲げ、たくさんの団体とたくさんの経済力を動員して、文鮮明を「牢獄の救世主」としてたたえ、文鮮明を再臨メシアとして見せるための様々な仕掛けをしているのである。

「七・四事件」を報道する新聞記事(1955年7月7日付『東亞日報』)

彼は自らを「神の子」だと偽りました。性的虐待を受けた多くの女性がいます。統一教会の指導者・文鮮明の挙動は、注目を浴び続けています。
続報 = 教主の逮捕に伴い、最近注目を浴びている、世界基督教統一神霊協会の正体とは?果たして文氏は、被害者にそう認識されることなく、性的暴行を行ったのだろうか?当局は、文氏に対する二つの容疑を開示した。一つ目は「兵役忌避」、そして二つ目は「(延世大学女子学生の)不法監禁」だ。文氏に関する包括的な議論と一般からの批判内容の後は、この宗教団体についての情報を紹介する。
・教義説教方式 = 新しい信徒は、72時間(満三日間)にわたり、教義の説教を受けなければならない。説教は、教主文氏によって行われる。毎週月曜朝10時に開始され、木曜朝10時に終了する。説教の途中で、教義に疑いを持ち、席を立とうとすると、教主文氏は厳粛な口調で「退場したら君は死ぬ」と言い、足止めする。また、教主文氏は「韓国人は神から選ばれた民で、平壌は世界のエルサレムである」と言い、自分は「神の子であり、女性は自分と肉体関係を結ぶことで教世主を生む」と説いた。
・獵色行爲 [リョプセク行為・猟色行為] = 文氏は話術にたけている。女性が彼を心から信用しているとわかると、自分の住居(協会の小さな建物の一室)に誘い、暴行するという。被害者と断定できる女性は4人おり、全員が中年(30歳以上)で、夫・娘がいる。また、全員が中流以上の家庭の女性である。被害者の一人の金順昌さん(仮名)は36歳である。彼女はきちんとした、裕福な上流階級の主婦だった。しかし、教主文氏の誘いに嵌まり、夫に捨てられる運命となった。
・同協會財政關係 [同協会の財政関係] = 現在協会は建物を賃借している。教会は、ソウルにいる250名の信徒から寄付を受けているが、それは大した額にはならない。そこで信徒は(商売を)始めた。下町の風景を撮影したブロマイドを印刷し、市内の至る所で販売するのだ。
・組織の状況 = 釜山、大邱などに支部があり、「ソウル」に本部を置いている。信者数は、合わせて700人に達している。そのうち250人は階級を得ている。教育の程度はかなり高く、信徒は男女半数ずつである。

法廷に並ぶ被告たち。✖印が文教主。
1955.9.21 東亞日報

統一教会事件昨日初公判
統一教会の教主文鮮明(ムン·ソンミョン)(本名 = 文龍明、36歳)は公判初日のため、ソウルの第4地方裁判所に現れた。午前10時半の審問は尹學老 ( ユン·ハクロノ ) 裁判官の下、姜瑞龍 ( カン·ソヨン ) 検察官が告訴した。(午後の審問は2時半に開始された。)当日の法廷は統一教会信徒とみられる女性で溢れていた。
文被告は複数の不倫容疑のため話題になっていたが、その日は兵役法違反の疑いのため被告として法廷に立った。これは被害者とされる女性からの告訴がなかったためである。彼とともに同じ教会に所属する被告も法廷に立った。彼らの容疑は次の通りである:金元弼(キム・ウォンピル)(28)(兵役法違反。年齢を6歳引き上げた疑い)、劉孝元(ユ・ヒョオン)(42)(兵籍申告不履行)、劉孝敏(ユ・ヒョミン)(36)(同上)、劉孝永(ユ・ヒョヨン)(35)(同上)。
開廷と同時に検察は告発内容を読み上げ、事実審理に進んだ。文被告は年齢の引き上げを認めた。法曹は年齢の引き上げが、徴兵の対象となる人物が32歳以上もしくは33歳の場合でも、兵役法違反になるかについて2つ論点を挙げた。対して姜検察官は告訴状にて、文被告が「キリスト教の教えに基づき、他人を傷つけ、殺めることを回避するため、年齢を引き上げ兵役を避けようとした」と指摘した。

1955.9.22 東亞日報

文敎主に二年求刑統一教会事件
20日(1955年9月)に始まった「統一教会事件」第一回公判での事実審理の後、姜瑞龍 (カン・ソヨン) 検察官はそれぞれ次のように刑罰の適用を求めた。
・文鮮明(ムン・ソンミョン)(教主)= 懲役二年
・劉孝元(ユ・ヒョオン)= 懲役二年
・金元弼(キム・ウォンピル)劉孝敏(ユ・ヒョミン)劉孝永(ユ・ヒョヨン)
= それぞれ懲役一年六月

裏切ったのは誰か

文鮮明からの紹介状

次は経済問題の内情について、書きたい。
前にも書いたように、一九五三年、私がソウルに上がってきた頃は、大邱から釜山に行こうとしても、汽車の三等席分の旅費もなく、女性の食口たちが出してくれたお金で、やっと往復できるような状況だった。

そのあと、ソウルの北鶴洞に家を借りて、「世界基督教統一神霊協会」を創立し、劉孝敏のアイデアでブロマイドの製作・販売を始めた。これが成功して、経済的に安定することになり、教会を興仁洞に移した。食口たちもだんだん増え、統一協会は大きくなっていっいった。

その年(一九五五年)「七・四事件」で文鮮明と幹部五人が拘束され、裁判を受けた。文鮮明が出獄したあと、青坡洞(現在も統一協会本部がある)に日本式の二階建ての建物を購入して、本部教会を移転した。その後、私は文鮮明から、
「ご苦労だった。しばらくのあいだ、捿鎮鉱山へ行って休みなさい」
と言われて、彼が書いてくれた紹介状を持ち、捿鎮鉱山へ行くことになった(五六年七月)。

私はそこで、考えてもいなかった鉱山の責任者になり、何か月間か過ごすことになった。この捿鎮鉱山は、統一協会の幹部だった鄭錫天が寄付して文鮮明の所有になり、彼が直接経営していた鉱山だった。この件については、また後で書くことにしたい。

私が鉱山に行っている間、劉孝敏は、散弾の空気銃を発明し特許を取った。この空気銃を製作してみると、かなり性能が優れていたので、本格的に製作・販売することになり、統一協会の経済的な基盤が固まった。

あくどい労働搾取

その当時、文鮮明の親戚で統一協会に入ってきた人は、文成均が初めてで、文鮮明がジープを購入したときに運転手として入ってきた。その次が文龍善で、鄭錫天長老が経営していた牙山の焼き物の窯元に行って仕事をしていた。文鮮明の親戚はこの二人以外には一人もいなかった。それ以前、私が文鮮明とあわただしく働いていた頃には、文鮮明の親戚は一人もおらず、名前も聞いたことがなかった。

ところが現在、文鮮明の親戚たちが、統一協会の経済を左右する状況になっており、内部でも大きな不満の声が出ている。これは原理に反することである。

文鮮明はかねてから、
「この世の中のすべての金と財産は神様のものであるから、夫の金を盗んできて私に献金しても、それは罪にならない。そして、もし可能なら銀行の中にある金を盗んできて、私たちが使ってしまったとしても、この世の中の法律としては罪になるが、神様の法律としては罪にならない」
と食口たちに言っていた。だからこそ、女性の食口たちは、良心の呵責など少しも感じないで、夫の財産を持ち出して、文鮮明に注ぎ込んだ。そのおかげで今の統一協会があるといっても、過言ではない。

こうして食口たちが苦労して、経済的な土台を作り上げたところへ、文鮮明の親戚たちが乗り込んできて、大きな顔で経済を仕切り、自由自在に使って贅沢な生活をしている。
その反面、最初の段階で経済的な土台を作るために苦労していた人たちは、ほとんどが脱会するか、追い出されている。現在、その当時の人で残っていて、経済的な地位に就いているのは、一成綜合建設の社長を経て、昨年(一九九二年)から一信石材に移った李秀郷社長と、一和食品の金元弼社長だけである。

李秀郷は当時まだ十八歳くらいで、文鮮明の裏側のことは何も知らなかった。また、北から私たちと一緒に南下してきたときには、二十二歳くらいだった金元弼は、文鮮明から「死ね」と言われればいつでも死ぬような、忠実なイエスマンである。

空気銃の製作を始めた頃のことだった。母親の入信で家庭がバラバラになって孤児院に送られ、そこで育てられた十五、六歳の子どもたちが、水沢里にあった統一産業㈱・鋭和空気銃製作所の工場で働くようになった(統一産業の当時の社長は金寅哲)。その人数は三百五十人くらいだったが、朝から晩まで働いて、彼らに支払われたお金は、月にだったの五百ウォンだった(日本円換算でわずか百円程度=一九八五年当時)。これは、まさに労働搾取のとんでもない実例である。

あるとき、いまは故人になった金喜玉執事の十七歳の息子が、孤児院から逃げ出して、お母さんを訪ね統一協会にきた。そして、この母子が、ソウルで住宅建設の仕事をしていた私を訪ねてきて、
「息子が、統一産業にはこれ以上いられないと言ってきかないので、朴先生の所で使ってもらえないか」
と頼んできた。息子は統一産業で働いていたが、あまりにもひどいので耐えられなくなって、逃げてきたのだった。この事実は、私がその息子を社員として使っているときに聞いた話なので、間違いない。

文の息子・興進と孝進

一九八三年、文鮮明がアメリカから帰国して、ソウルをはじめ七つの都市を回り、講演をしたことがある。そのとき、文鮮明の息子、文興進が交通事故で死亡した。その理由として、統一協会は、
「文鮮明先生が勝共講演をしているとき、サタンが文鮮明先生を殺そうと狙ったが、それを知った息子の文興進が、お父様の身代わりになって亡くなった」
と説明した。
そして、
「亡くなった興進は天に昇ったが、文鮮明先生がその息子さんを青年霊界総司令官として任命したので、彼は霊界の青年たちを連れて地球に降りてきて、文鮮明先生の再臨メシア活動を助けて、協力することになった」
と発表した。もはや神様がすべてを解決することを待つしかないが、この話には後日談がある。(後述)

文鮮明とその妻、韓鶴子は、この世に君臨する真のお父様・お母様であり、二人の間に生まれた子どもは、原理では罪も汚れもないはずなのに、交通事故で突然死亡したり、サタン同然の悪い噂が流れていた。その真の父母が生んだ文孝進のスキャンダルは、統一協会の内部だけでなく、社会的にもいろんな噂が流れ、問題になっていた。

これについても、統一協会では、
「息子の文孝進は、真冬に文鮮明先生が決めた聖地、聖なる土地で四十日間、断食、徹夜祈祷することによって懺悔し、文孝進の人格はきれいになった」という。

文孝進は文鮮明・韓鶴子夫妻の長男だが、成和社から出版された『成功する人たち』という文孝進の詩集を読んでみると、彼をその父親、文鮮明の後継者として作りあげようという仕掛けが明らかである。これまた理解できない問題である。

いま平壌では、金日成が、自分の政権を息子の金正日に渡そうとしているようだが、共産主義体制の世襲という信じられない暴挙と同じことを、統一協会の文鮮明もやろうとしている。このサタンの世の中で堂々と行なわれている世襲体制を踏襲して、息子の文孝進に再臨メシアの権力を渡そうとしているのだ。

『この世の中を救えるのは文鮮明先生しかいない』という本を書いた金恩雨博士は、書名を変えて、『この世の中を救えるのは文孝進先生しかいない』という本を出版するのだろうか?また日本人の那須聖は、『牢獄の救世主・文鮮明』という本の書名を、『青年救世主・文孝進』とでも変えるのだろうか?

私はこんな話を、ある人から聞いた。祝福を受けた家庭の子どもたちが四十日間、清平祈祷園で集会をやっていたときのことである。文孝進の主催で、百五十人あまりの人たちが出席していた。昔からの食口で尊敬されている李耀翰牧師が、原理について話していたところ、突然、文孝進が現われ、集会に集まっている人だもの前で、李耀翰牧師をこきおろし、父親の文鮮明が書いた原理と違うことを言っていると、ひどく怒ったというのである。

そのとき集まっていた食口たちは、文鮮明の後継者である彼が、「懺悔する前の、もとの不良息子」に戻ってしまったのではないか、と言っていたそうだ。

北朝鮮で金日成が、自分の息子の金正日に政権を渡すということで、世界じゅうからもの笑いになっている。加えて韓国でも、統一協会の文鮮明が、自分の息子に「再臨メシアの資格と権限を渡す」というのは、どう考えてもおかしい。

統一協会はこれまで、莫大な資金を使って、文鮮明を再臨メシアだと宣伝してきた。その具体的な例として、日本人・那須聖が書いた『牢獄の救世主』、『救世主現わる』など、たくさんの本が出版されている。那須聖が金をもらったかどうかは知らないが、統一協会の体質からみて、どんなにたくさんの金を使っても、その息子に全権を渡す口実を作り上げるだろう。

しかし私が知っているかぎり、原理のどこを読んでも、文鮮明が再臨メシアなら、その息子に再臨メシアを継がせるという原理はない。

このような統一協会の姿勢をみていると、そのときどきのご都合主義で勝手な理屈をつけ、常識では考えられないこと、人間の道理に合わないこと、そして何よりも大切なはずの「原理」に合わないことでも、平気でやってのけるから恐ろしい。

削られた創始者の名前

さらにまた統一協会は、歴史を改竄し、平気で嘘を書く。統一協会の胎動期から長い間、文鮮明を信じ、文鮮明のために死ぬほど苦労してきた多くの食口たちを、ただ追い出すだけでなく、勝手にサタンと決めつけ、名誉もプライドも奪い、裏切り者として罪人に仕上げてしまう。私はそういう人たちをたくさん知っているが、例を挙げれば限りがないので、そのなかからいくつか紹介する。

まず私、朴正華自身の問題から述べてみる。

『統一教会史<上巻>』に載っている私についての記録を見ると、こうなっている。
「朴正華が姉の家でただ犬一匹が残っているだけの空き家に一人でいるときに、金元弼が訪ねて行って、ケガをして足を引き摺っている朴正華を自転車に乗せ、文鮮明先生と一緒に避難してきたが、その先生を朴正華が捿鎮鉱山のときに裏切って、統一教会から出ていったのである」

このように、統一協会に記録されている朴正華は、裏切り者となっているのだ。
私に言わせれば、「何を寝呆けたことを言うか!」の一言である。これはすべての真相を包み隠し、文鮮明の都合の良いようにデッチ上げた嘘の記録である。だから、私はここで、その真相を書いておきたい。

まずこれまでの要点を整理するとーー

北から避難するときの経過(第二章)で詳しく説明したように、私は家族を捨て、ケガした身体にムチ打って、文鮮明と一緒に南の方へ下りて来た。一生苦楽をともにしようという獄中での約束を守るためだった。

その後は文鮮明を助け、経済的な問題で言葉に言いつくせないほどの苦労をしてきた。文鮮明と人妻の、復帰というセックスから生じる様々なトラブルにも私が対処し、いろんな苦労を重ねながらも生き抜いた。文鮮明と一緒にいた七年間に、二度にわたって警察の電気拷問まで受けている。

最大のピンチ「七・四事件」では、五人の幹部が逮捕されたなかで、捜査当局の執拗な尋問に対し、私は様々な手段を駆使して文鮮明の罪状を隠し、無罪になるように努力した。これまた統一協会の記録では、「何の罪もなかった文鮮明先生は、拘束されたが、無罪になった」と記しているが、実は食口たちのおかげだったことは前に述べた。

統一協会は文鮮明の神格化に懸命だが、一年六か月間の監獄生活や、釜山の水晶洞からソウルの青坡洞に至る七年間、文鮮明の片腕として一緒にいた私から言わせれば、文鮮明の人格は神格的どころか、喜怒哀楽が激しく、金銭欲と女好きだけが異常な、まさにサタンの世界の男だった。

気の弱い文鮮明は、私が警察で最初の拷問を受けた頃、誰かが彼を訪ねてくるといつも逃げ腰になり、落ち着かなかった。だから、私が代わりに出て用件を聞いていた。あまりにも気が小さくて弱虫のように見えたので、
「このサタンの世の中を清い世界に復帰し、もとのエデンの園を甦らせようとする先生が、どうしてそんなにビクビクしているのですか。そういうことで、この宇宙や世界を復帰させることができるのですか」
と、何回も文鮮明に言ったことがある。

いろんな苦労を経て、私の名前で借りたソウルの北鶴洞の家で、「世界基督教統一神霊協会」を創立した。一九五四年五月三日のことだった。これもまた統一協会では、なぜか日付を五月一日に変えて発表している。

このときに出席した幹部は、文鮮明、李昌煥、朴正華、劉孝元、劉孝敏、金相哲の六人で、この六人を統一協会の「創始者」と呼ぶことになった。ところが、いまの統一協会関連の出版物には、朴正華という名前はまったく出てこない。一番古い私に「裏切り者」のレッテルを貼って抹殺したのである。

「事件が起きた、すぐ逃げろ」

真相はまったく違う。「裏切った」のは、文鮮明自身だった。

それは、私が捿鎮鉱山にいるときに発生した。捿鎮鉱山で働いていたある日、趙東錫がやって来て「今、ソウルで事件が起きて、先生は逃げている」と話した。そして文鮮明は逃げるときに、
「すぐ鉱山にいる朴正華の所へ行って、早く他の所へ逃げるように伝えなさい。もし警察が鉱山まで行って朴正華を逮捕して、取り調べでひどい拷問でもされ、朴正華が私のことを告白させられたら、大変なことになる」と指示したそうだ。

この話を聞いて、私は考え込んでしまった。私はどこへ逃げたらいいのか。こんな山奥の鉱山も危ないということは、当然ながらソウルの教会も、食口の家も危ない。あれこれ考えた末に、とりあえず文鮮明に会って、私の身柄をどうすればいいか、相談してみようと思った。

趙東錫に「先生はいま、どこにいらっしやるのか」と尋ねると、ジープに乗って忠武にある龍華寺というお寺に行っているという。それを聞いて私はさっそく、そこへ行くことにした。火薬主任の全鍾萬から旅費を借りて出発し、夜中の十二時に忠武に到着した。ここで通行禁止の時間帯になってしまったので、その日は龍華寺まで行けなかった。

やむを得ず宿を決めて一泊し、朝一番で龍華寺に行ったが、ほんの一足違いで文鮮明は、宋道旭長老と趙一青、宋秉昊食口たちと一緒に、済州島の方へ出発したところだった。お寺の庭には、文鮮明たちが乗っていたジープのタイヤの跡だけが鮮明に残っていた。

どこへ行けばいいのか?いつまで隠れていればいいのか?これからどうすればいいのか?
何の情報もない。
途方にくれた私は、人目を忍び警察を警戒しながら、ソウルへ行った。そして密かに「ここにいるので、連絡を待つ」と、文鮮明に伝わるように手配した。

私は文鮮明からの連絡をひたすら待ったが、一か月たっても何の連絡も来なかった。私はその間、労働者たちが泊まるソウル駅前の汚れた簡易宿泊施設で、一日パンー個だけをかじりながら生きていた。

裏切ったのは文鮮明だ

一か月以上待っても、文鮮明からの連絡はいぜんとしてなかった。「おかしい」と、私は不審に思い始めていた。

私が捿鎮鉱山へ行ったのは、一九五六年三月二十八日。「七・四事件」で逮捕された文鮮明が無罪になったのは、前年の十月四日。その約九か月後のことである。当初は七~八人の坑夫がおり、文鮮明から必要経費も送金されていた。

その頃、用事でソウル青坡洞の本部へ出かけた私は、新しく入信したという陸軍の軍人二人を、文鮮明から紹介された。朴普煕と韓相國である。そのとき、文鮮明は、
「朴正華は、初めから一緒にやってきた片腕で、ナンバー2の男です。あなたたちは朴正華から、いろいろ習いなさい」と彼らに私を紹介した。

二人とも、その三年後に起きた朴正煕将軍による軍事政権クーデター1961年)で、初代KCIA(韓国中央情報局)長官になった金鐘泌の腹心だと知ったのは、ずっと後のことである。他にも二人入ったようだが、私は会っていない。また朴普煕は、その後アメリカへ行って活躍し、統一協会のナンバー2に昇った。そして、二人とも三十六家庭の一員である。

やがて文鮮明からの送金がプッツリ途絶えた。いくら請求しても、どれだけ待っても送金はなかった。もともと赤字で資金がないのだから、これには困った。作業を中止し、抗夫たちには帰ってもらった。あとに残ったのは、途中から来た金徳振と、大邱から手伝いに来ていた女性食口の三人だけ。

しばらくは売り食いでがんげっていたものの、やがて底をついて食う物もなくなった。あまりの貧乏にあきれて、飯炊きのおばさんは大邱へ帰ってしまった(そして脱会したらしい)。金徳振もソウルへ引き揚げていった。たった一人残った私の所へ、同じ部落に住む火薬主任の全鐘萬がときどき遊びに来ていた。

そんな状況のなかで、「事件が起きた、危ないからすぐ逃げろ」と、文鮮明の使いで趙東錫が来たのだった。私がここを逃げ出せば、もう誰もいなくなってしまう。忠武へ出発する前、後片付けと整理だけはキチンと済ませることにした。全主任には発動機を一台やり、旅費を調達したのだ。

ずっと後になってわかったのだが、このときの事件は、またしても文鮮明をめぐる複雑な女性関係が原因だった

私が山の中の鉱山で、食う物にも困っていた数年の間に、統一協会はアメリカへ進出し、日本にも統一協会を創立させた(一九五九年十月二日)。

さらに六十年四月十一日、文鮮明は韓鶴子という処女と念願の「小羊の儀式」で結婚。そして、三組合同聖婚式(同年四月十六日)、三十三組合同聖婚式(一九六一年五月十五日)と、いわゆる三十六家庭の組織を作った。三十六家庭の新婦たちの資格は、原則として、文鮮明が復帰した女性が理想だったが既成家庭もあったし、理想どうりにはいかなかった。

これまでの経緯を知り過ぎ、文鮮明の女性関係も詳細に知っている私は、やはり邪魔な存在だったのだろう。私を島流しならぬ山流しで兵糧攻めにし、食うや食わずの状況に追い込んでおき、その間に文鮮明は野望を満たすために、矛盾だらけの「原理」を推し進めていったのだった。

そんなときに、またまた起きた女の事件で逃げる彼が、
「山にいる朴正華を逃がさなければ危ない。警察がもし拷問にかけて、朴正華に吐かせたら大変だ」と、わざわざ酷暑の山中へ使いを走らせた。

この事実を考えただけでも、文鮮明が私を″過去の人″にしようとした真意が、はっきり読みとれるのである。文鮮明は、私を生き延びさせるために、逃がしたのではない。自分が生き延びるために、私を過去の檻に閉じ込めたまま逃がそうとしたのだった。そして、その日限り、新装開店した統一協会の奥座敷に、私を戻そうとしなかったのだ。

こういうことがわかったのは、本当にずっと後からのことで、何も知らない当時の私は、一日一個のパンだけで食いつなぎ、生き延びながら、真夏のソウルの、汗にまみれた簡易宿泊施設で、一か月もの間、じっと文鮮明からの連絡を待っていたのだった。一九六二年八月のことである。

これが事実で嘘はない。私は断じて文鮮明を裏切ってはいない。
裏切ったのは文鮮明自身なのだった。

[出典:六マリアの悲劇―真のサタンは、文鮮明だ!!/朴正華]

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