【六マリアの悲劇】まとめ(03)

六マリアの悲劇
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第三章:統一協会の創立前後


(前列)左から:崔淳華 李奇煥 池承道 玉世賢 文鮮明 姜賢実 金順哲 金在根 劉信姫
(後列)左から: 李成範 朴正華 趙東錫 李耀翰 羅英洙 李昌煥 劉孝元 金相哲 劉孝敏 李秀郷

女信者たちの熱意

釜山・水晶洞教会

私、朴正華は、1953年(昭和28年)5月15日、新しく購入した釜山水晶洞の家に文さんを訪ねていった。文さんはたいへん喜び、その間の経過と今後の計画について詳しく話してくれた。

「いよいよ偉大な仕事のために働くときが来た。心してがんばりなさい」と文さんは言った。そして、今までにもさんざん聞かされてきたこと ーー 6000年の歴史の過程、創造原理、堕落原理、復帰原理、再臨イエスの使命やその姿など ーー を紙に書きながら、個人教授のように教えてくれた。文さんはいつの間にか名前の龍をとり、文鮮明と変えていた。

その当時、同居していた主な食口たちは、金元弼、*鄭先玉、姜賢実、玉世賢、池承道、李奇煥、李鳳雲、李秀郷とその家族、文さんの妻・崔先吉(チェ・ソギル)と長男の聖進、李耀翰牧師などだった。

新しく入ってきた食口で礼拝だけに参加していた人たちは、*辛貞順、*金安実、金在柵、金福順とその家族、呉永春などだった。長男は別として、金元弼、李鳳雲、李秀郷、李耀翰以外は全部女である。

当時、金元弼は米軍基地で働いていたが、夕方になると写真を持ってきて、似顔絵を描く仕事をしていた。

名前は思い出せないが、蔚山から来たという若い夫婦が新しく入ってきた。ある日、その夫婦は一日じゅう伝道に出て、夜遅く帰ってきたが、精霊に熱中のあまり別人のようになっていた。ちょうどその夜は月蝕だったが、それを見てその夫婦は、天から光がさしたと大声あげるは泣き叫ぶはで騒いでいた。月蝕だからと説明し、やっと落ち着かせたこともあった。

また、ある日の午後、池承道、玉世賢、李奇煥などが霊界についての話を聞いているうちに、あまりの神秘にうたれ失神したこともある。

何日かあとに、文さんが私を呼んだ。

「今からは何とかして、経済的基盤を作らなければならない。どういう事業をやればいいのか、朴正華は真剣に考えなさい」

何かいい事業はないかと悩んでいた私は、慶州で御膳の商売をしているときに知り合った琴重基という人に会って相談した。すると彼は、

「友人と共同で専売庁(国が販売権を持っている商品を管理する役所)に縄を納品する契約を締結したのだが、資金が続かなくて契約量の残りを納品できなくなってしまった。このままではお金がもらえないんだが……」

と話して、残りの納品を私にまかせてもいいと言った。私は喜んでこの話を文さんに伝えた。文さんはすぐ、婦人の食口たちが献納した貴金属などを処分して、3700ウォンの資金を用意した。そのお金で、縄を生産している三千浦と興海に行って縄を仕入れ、釜山専売庁の倉庫に納品して、納品書をもらうことが私の仕事になった。農村に何日間も泊まりながら、縄を買い集めてトラックに乗せて運んだり、三千浦から船で運搬したりした。6月の20日頃に仕事を開始して、縄を生産する農家を探し回り、契約残量を徐々にこなしていった。

崔先吉夫人の大暴れ

 崔先吉(当時の文鮮明夫人)

1944年:文鮮明24歳、鹿島組(現・鹿島建設)の京城(ソウル)支店に電気技師として就職。
1944年5月:異端とされた神秘神霊主義のイエス教会で、李浩彬(리 하오빈)の司式で18歳の崔先吉と結婚。
1946年4月(陰暦3月1日):文聖進誕生。文鮮明は妻子を置いて北へ。
文聖進1973年祝福。相対者:金東淑さん(1955年生)金元弼と鄭達玉の子女。

そんなある日、三千浦へ李鳳雲長老が突然訪ねてきた。李長老は、
「水晶洞の教会がたいへんなことになっています。崔先吉さんが、文鮮明先生が婦人の食口たちと復帰の儀式(セックス)をやっているのを見て暴れ出し、食口たちを全部、追い出してしまいました。そして、水晶洞の教会を崔さんが家財道具ごと売り払って、教会がなくなってしまい、集会もできない状態になっているのです。できるだけ早く戻ってきて下さい」と私に言った。

私は急いで各地を回り、縄の契約残量を調達して専売庁に完納する手配をした。契約条件と縄の仕入値や経費を計算してみたら、三万ウォンもの利益が出ることがわかった。

仕事を終らせて釜山へ帰ると、文さんは崔先吉から逃げるように主な食口たちを連れてソウルへ行き(9月17日)、元弼も影島(釜山郊外の町。熱心な食口の家があり、伝道の拠点となっていた)に行ってしまったという。李鳳雲長老は、大地公園にあばら家を一軒買い、そこに引っ越してしばらく、臨時の教会として礼拝をしたりしていた。

水晶洞の教会には、すでに他の人が入って住んでいた。崔先吉の大暴れで釜山の水晶洞教会は、無残にも吹っ飛んでしまったのだ。私は仕方なく旅館に一泊し、翌日ソウルへ行った。

ソウルにいた食口たちに聞いて、清進洞にいる文さんを訪ねたら、喜んで迎えてくれた。とりあえず私は、その間の縄の納品結果を報告し、明日釜山へ行って納品書をもらってくれば、専売庁からお金がもらえるようになり、その利益は三万ウォンくらいになると説明した。

そのとき、清進洞の家に文さんと一緒にいたのは、玉世賢、辛貞順、梁允信、呉永春、金順哲、辛の娘の崔淳華など七、八人で、食口ばかりだった。
私はその翌日、汽車に乗って釜山へ行った。

釜山の専売庁支店で納品書を受け取り、また汽車に乗りとんぼ返りでソウルへ戻った。文さんには昼の十二時に到着すると電報を打っておいたので、その足で清進洞の家に直行すると、文さんも女の食口たちもどこかへ行ってしまっていて、行方がわからなかった。

その代わり崔先吉夫人が一人でそこにいた。崔夫人は家財道具などを全部処分するために縛ったり包んだりしていた。文さんにあてた私の電報を見て、私なら文さんの居所を知っていると思ったらしく、私を待っていたのだった。家財道具の中には、文さんの聖書や賛美歌、それと驚いたことに元弼が清書した原理原本まで入っているではないか。私は必死になって崔夫人に頼んだ。

「私が探せば、先生のいらっしゃる所がわかるから、わかったら必ず連絡するので、聖書や原理原本だけは私に返してください」

崔夫人が私にそれらを渡してくれたので、持ってかえることができた。もしそのとき、原理原本を取り戻せなかったら、あとで原理解説を整理するのに相当な障害になったと思う。

そのあと、玉世賢、辛貞順などに会ったが、彼女たちも文さんのいる所を知らなかった。むしろ彼女たちも、私がソウルに戻るのを待って聞けばわかるだろうと思っていたのだった。

あとでわかったことだが、文鮮明の復帰の儀式に名をかりた目に余る乱脈なセックスに腹をたてた崔先吉夫人は、水晶洞教会で大暴れして、女の食口たちを叩き出した。恐れをなした文鮮明は、女たちを連れてソウルへ逃げ、清進洞に隠れ家を借りて女たちと住んだ。

崔先吉は文鮮明の最初の妻でした。彼女は、文鮮明が二人の信者と血分けの儀式を行っているのを目撃しました。彼女は自宅に帰り、文鮮明がそこに保管していた野球のバットを持って教会に戻りました。そして、それを使い教会の建物を傷つけ、世界基督教統一神霊協会 (統一教会) と書かれた看板を破壊しました。

しかし、そこもわずか一週間で崔夫人に突きとめられてしまった。私が釜山の専売庁支店から帰る直前、文鮮明はあわてふためいて女たちを四散させ、命より大切なはずの原理原本の草稿もそのままに、崔夫人から逃げ出したのである。

女の食口たちに囲まれて暮らすことは、つまり乱れた「女護が島」を意味する。なぜなら文鮮明を取り巻く女食口たちは、復帰原理に沿って身体を開き、再臨メシアを自称する文鮮明とセックスを最低三回はしなければ、女として復帰の資格が与えられないからだ。

当時、文鮮明を先生と仰ぎ、その原理を盲信していた私は、しばしば復帰の実践現場であるセックスを目撃したり、宗教儀式にそぐわない女食口たちの、狂態や嬌声を見聞したこともある。だが、あくまでもそれは、再臨主としての務めだと解釈していた。

一方で、どうしてもわからなかったことは、なぜ再三にわたって尻に帆をかけたように崔夫人から逃げ出すのか?だった。メシアなら妻の前でも堂々、とやればよいのに、妻一人伝道できなくて、どうしてこの世が救えるのか?と疑問が湧いてきたのも事実だった。

それともう一つ。あれだけ大切な、伝道には欠かせない原理原本を放り投げて逃げ出した文鮮明に、言行不一致の疑いを持ったのも事実である。

清進洞から逃げた文鮮明は、また別の場所で女と一緒だったが、それがまたとんでもない事件に発展していくことになった。

警察での電気拷問

その日は、清渓川にある旅館で一泊することにした。
ちょうど寝つく頃に、外からドアを叩く音がした。出てみると、「この部屋に朴正華という者が泊まっているか」と言う。
「私が朴正華だが」と言ったら、鍾路警察署の刑事だと言って身分証明書を提示し、聞きたいことがあるので警察署まで同行してほしい、と言われた。突然のことで、どういうことだかわからなかったが、ついていくしかなかった。そして、警察署で調べを受けることになった。誰から聞いたのか知らないが、

「お前はなんでも知っているはずだ。文鮮明は今どこにいるか教えろ」

そう言われても、私は知らなかったので、「知らない」と言うしかなかった。あの手この手の尋問にも「本当に知らない」で通していたら、その刑事は、「そうか、それならわかるようにさせてやる」とバッテリーを持ってきた。そして、バッテリーにつながっている二本の電気の線を私の両手の親指に括りつけ、取っ手を回し始めた。
身体全体に異常な苦痛が走り、とても耐えられなかった。

「これでもまだ知らないと言うのか!」ともっと強く回した。身体全体がビリビリとけいれんし、私の身体ではないようだった。取っ手を回したり止めたりしながら、ののしったり、ときには猫なで声で話したり、ほぼ三時間ぐらいもやられ続けた。

私は、「殺せるものなら、殺してみろ。知らないものは知らないんだ」と大声で叫んだ。すると隣の部屋から少し偉そうなのが出てきて、「しゃべり方を聞くと、平壌の人のように見えるが、そう?」と聞くので、「そうだ」と答えた。

その人は、「自分も平壌の出身だよ。動乱が終わったあと、南の方に来て警察署に勤めている」と言った。そして、拷問している連中に、「そんなにしなくても尋問できるのではないか。この人は嘘を言っていないようだ。放してあげなさい」と言って、拷問を中止させた。朝まで尋問を受け、朝九時すぎになって、やっと釈放された。

天の意志に関する試験

警察署から出た私は、苦い朝食を食べたあと、厳徳紋を訪ねてYMCAの横にある二階建ての建物に行った。そのとき彼は、そこで設計事務所を開いていたのだ。私がソウルに来たことを彼はとても喜んで、文さんがいる所を地図に書いて詳しく説明してくれた。

専売庁の仕事をすませた私は、その日の夕方、文さんに会いにいこうとした。ところが、玉世賢など婦人の食口たちにつかまり、私と一緒に文さんのところへ行きたいと言う。警察も捜しているので今はとても無理だと話して、何とか説得しようとしたが、言うことを聞いてくれない。

ちょうどそのとき、土砂降りの雨が降ってきた。彼女たちが右往左往しているすきに、私はバスに飛び乗ってしまった。

安養で下りて一キロくらい行くと、道路に面した南向きの小さな一軒家があると聞いていたので、すぐに捜すことができた。家の中に入ると、文さんは金順哲と一緒にいて、とても喜んで迎えてくれた。まず私は、専売庁関係の仕事の経過と、昨日の警察の件を簡単に報告した。

そのあと文さんに、金順哲に作らせた天の意志に関する試験を受けるように言われた。問題を見て答を書いたら、文さんは、「よし、合格だ」と言い、「昨日、厳徳紋も試験を受けた。彼も合格したので、彼は霊的に神の長男であり、正華はその次に合格したので次男である」と言った。そのとき金順哲は、霊界の啓示とかで布団を作っているところだった。部屋いっぱいに綿が広がっており、それを寝る前にかたづけるのがたいへんだった(後述)。

怒った金順哲の夫

私は二日間そこで過ごし、またソウルに戻った。ソウルでは、金順哲の夫が火のように怒って、文さんを捜そうとあちらこちらに手配していたところだった。このまま今の家にいるのは危険なので、そのあくる日、私も一緒に文さん、金順哲の三人で釜山へ行くことになった。

人目があるので用心しなくてはならなかった。釜山までの直通切符が買えなかったので、まず安養から水原まで行って一泊。そのあと、大田、大邱、馬山でそれぞれ一泊。五日目にやっと釜山に到着した。とりあえず三人で、西面の巨済旅館にしばらく泊まることにした。

文鮮明と金順哲(右)

その二日後、誰にも知られないように苦労して釜山まで来たのに、見えない糸でつながっているのか、なぜかバレてしまったようだ。金安美という女の食口が旅館まで訪ねてきた。彼女は六マリア(文鮮明が復帰した人妻たち=後述)の一人だったが、文さんがあとから六マリアになった金順哲だけをつれて釜山の方へ行ってしまったことに腹を立て、ここまで虱つぶしに捜してきたという。

金安美と金順哲はお互いにもめ始めた。自分たちの霊的な地位を争って、女同士の闘いが一段とうるさくなった。早い話、嫉妬の火花である。私は金安美を呼び出し、文さんの状況を説明した。

「先生は今たいへん複雑な状況に置かれていて、すきがあるとサタンがいつも邪魔しようとしている。そうなると、先生がやろうとする計画の障害になる。先生はしばらく、このまま釜山にいらっしゃるつもりだから、とりあえず、静かにそっとしておいてほしい」と懇願すると、金安美は怒って自分の家に帰ってしまった。

私たちは釜山で五日泊まって、またソウルに戻った。今度は呉永春が手配して親戚の家を借り、文さんは新堂洞の坂の途中にある家に住むことになった。

金順哲は自分の家に帰ったが、怒った夫に殴られて足が折れるという大ケガで白麟済病院に入院した。文さんと私は呉永春と一緒に病院へ見舞いに行ったが、なんとなくいやな予感がしたので、また来ることにしてすぐに引き上げた。

あとで呉永春の話によると、文さんと私が病院を出てすぐ、金順哲の夫が入ってきて、「いま出ていった男たちは、文鮮明と朴正華ではないか」と問い詰められて、ごまかすのがたいへんだったそうだ。もしそのとき、夫が文さんと出くわしていたら、大事件になっていたに違いない。

それにしても、文さんを巡る女性問題の続出には、さすがの私もまいっていた。復帰原理を口実に人妻も処女も、目の前に現われる女たちは遅かれ早かれ、文さんとセックスする関係になった。そうなれば当然、夫や親は怒るだろう。なかには、母親と二人の娘の三人と関係したこともある。大事件に至らなかったのは、これも神のご守護なのだろうか?

この間、清進洞の家で起きたすべてはこうだった。

釜山にいた文鮮明がソウルに逃げて来たあと、本妻の崔先吉は夫がいる所を捜し出し、清進洞に訪ねてきた。釜山では、崔先吉が婦人の食口たちを全部追い出して、文鮮明が自由に出られないようにし、トイレに行くことまで厳しく監視しているという状況だった。

そのときちょうど、興南の監獄にいたときの弟子である金源徳が文鮮明を訪ねてきた。この様子を見て彼は、聖進の母親であり本妻である崔先吉にこういうことをしちゃいけないと怒り、文鮮明を連れ出したそうだ。崔先吉が金源徳の話を素直に聞いたのは、その当時、治安局に勤務していた現職の警察官だった金源徳が、文鮮明に何かあって警察に連行されたりすると、すぐ釈放してくれたりした前例があったからである。

しかし、懲りない夫をソウルまで追ってきた崔夫人は、清進洞の家に私か来れば文鮮明の居場所がわかると思い、家財道具を整理して私を待っていたのだ。そして、私についていくつもりだったそうだ。

ところで清進洞の家から逃げ出した直後、文鮮明は金順哲とソウル本駅の前にある旅館に行き、霊的な儀式だという名目で、処女の崔淳華と復帰原理の儀式を行なった。要するに三人はそこで、霊的な儀式ではなく、肉体的な儀式=セックスをしただけなのである。

厳密に言えば復帰の儀式は、その横で他の食口が証人として見ていなければならない。この日は金順哲が証人として協力した。崔淳華は処女だったので、将来は「小羊の儀式」をあげて、つまり正式に結婚して文鮮明の妻になれると思い込んでいた。

事実、金順哲は崔淳華にこのとき、「未来のお母さまへ」と言って高価な指輪まで贈っているのだ。このことは、私が当事者の文鮮明から直接聞いたので、間違いない。

釜山・影島の集会

女子大生、金明熙の悲劇

その頃、私は大邱を拠点にして、文さんと一緒にあちこちの食口たちに原理講義をするために各地に出向いて行った。また、文さんの指示で釜山やソウルに行って、食口たちに文さんの話を伝えたりしていた。

その当時は、まだ汽車旅行がとてもたいへんな時代だった。ソウルから釜山までちょうど十二時間かかった。秋風嶺から大邱までは、軍事上車内の明かりを全部消していたので、真っ暗になった。夜半になると暖房まで消えてしまい、窓ガラスもほとんど割れていたので、冬はとても寒い。ガラスのない窓からは、燃料に使う石炭の煙や臭いが吹き込み、トンネルに入ったときなどは窒息寸前の思いだった。

ソウルで文さんと一緒にいたある日、釜山の李鳳雲長老から連絡が入った。
「釜山で先生の講義を聞くために、部屋も準備して、たくさんの人が待っています。なんとか釜山まで来てください」
とはいっても、釜山までの旅費がなくて困っていたところへちょうど呉永春が来た。彼女が旅費を工面してくれたのでその日の晩、文さんと一緒に出発、あくる日の朝八時、釜山に到着した。

李雲長老をはじめ十人余りの食口たちが迎えに来ていた。文さんが釜山まで来たのでみんな喜び、あいさつをしたあと、タクシーで市内の影島へ行った。
この日は、1953年12月24日だった。

案内された場所は、あばら家ではあったが、比較的広い部屋できれいに整頓されており、食口たちの誠意が表われていた。この家の家主は辛聖黙という人で、劉信姫と夫婦だった。

朝食を終えると、文さんはいつものように原理講義を始めた。
劉孝元(リュウ・ヒョウォン)という人は、結核性の股関節癒着で背骨がかたくなってしまい、座ってられないので、横になって講義を聞いていた。この人はとても気まじめそうで、誰かが横で咳をすると、表情でそれを止めたりした。二十人くらいが講義を聞いていたが、部屋の中はとても静かで、厳粛な雰囲気だった。

劉孝元

食事以外には休憩時間もなく、講義は夜半の一時、二時まで続いた。それでも、聞いている人たちの態度は終始、乱れなかった。

この日、初めて講義を聞きに来ていた人は、劉孝元、劉孝永の兄弟、辛聖黙、劉信姫の夫婦、金寛成、車執事など。食口たちは、辛貞順、玉世賢、李奇煥、池承道、梁允信、呉永春、李鳳雲長老、そして家族たちだった。

そしてもう一人、金明熙という女子大生が初めて参加していた。彼女は食口である梁允信の姪で、延世大学の学生だった。とても優秀で将来性のある学生だったので、大学の総長にもかわいがられていたらしい。そして、そのアメリカ人総長が帰国するとき、彼女に一年分の学費をプレゼントしてくれた。そんな大金を自分が持っていると危ないと思った彼女は、叔母の梁允信に全額あずけたのだ。

ところが、梁允信は、食口たちの経済事情がとてもたいへんだったので、教会のためにそのお金を使い込んでしまった。大学が始まり、お金を全部使われてしまったことを知った金明熙は怒った。そして、叔母の入信している教会がどういう教会で、何を教えていて、先生という人はどういう人なのかを見てから抗議しようと、朝から晩までびくともしないまま、彼女はじっと文さんの講義を聞いていた。

夜半に散会となり、参加者の大半はそれぞれの宿へ戻った。その家の一室で、文さんと私の男二人、玉世賢、辛貞順、呉永春、梁允信、池承道、金明熙の女六人が一緒に寝ることになった。これが釜山影島集会の初めての夜だった。

金明熙

実はここで初めて明かすことだが、金明熙はこの夜、文鮮明とセックスしたのである。
同じ部屋の一番端に文鮮明、その次に私、そして六人の女たちが名前をあげた順で横になった。私は疲れていたのになかなか寝つけなかったが、いつの間にか眠り込んでいた。ところが妙な気配で目が覚めた。私の横に寝ていた文鮮明の所から、悲鳴とも喘ぎ声ともとれる女の声が聞こえた。しかもそれは、反対側の端に寝たはずの金明熙の声だった。

文鮮明のセックスは何度も目撃してきた私だが、これには本当に驚いた。復帰原理で煽られた彼女が仕掛けたのか、密かに文鮮明が呼んだのかは知らないが、少なくともこれが復帰の儀式などでないことだけは間違いない。だが弱い立場の私は、ひたすら隣の行為に眠ったふりをするしかなかった。

他の五人の女たちは、一人はマリアであり、他の四人もすでに文鮮明と関係があったが、詳しくは後述する。
また、その後、金明熙は文鮮明の子を妊娠し、実に悲惨な人生を辿ることになった。

捜査機関に追われる日々

そのあくる日も、同じように先生は講義をしたが、劉孝元は相変わらず一所懸命、メモをとりながら聞いていた。ヒゲをのばしていた金寛成は、漢方医だと自己紹介した人だが、やっぱり一所懸命に聞いていた。家主の辛聖黙も、講義に夢中になっていた。彼の妻の劉信姫も一所懸命に聞いていたが、彼女はその後ソウルへ行って、文さんと復帰を実践することになった。約三週間がすぎると、食口たちは文さんの講義を繰り返し聞いていたので、賛美歌と祈禱をするときは別人のようになり、聖霊が充満して大声で泣いたりした。

この家では人が集まると、朝から晩まで泣いたり騒いだりしていたので、やがて近所の人たちの非難の声が高まり、変な人たちがいるということで、捜査機関に調査を頼んだという噂も聞こえてきた。さらにまた、平壌からの食口の家族の中に、南に来て捜査機関に勤めている人がおり、チャンスがあれば先生を陥れようとする動きもあったので、釜山影島の集会を止めることにした。

実際にこの頃は、どこへ行っても誰かに追われているような日々が続いた。私と文さんはあちこちを回って、悩んでいる食口たちとその家族を励ましていたが、やっと部屋を借りられても、一週間くらいすると、「文鮮明がどこどこにいる」という噂になり、捜査機関から人が来て、調べられる状況が続いていた。

そうなる理由は、文さんが以前に北朝鮮で社会秩序紊乱罪で服役した事実があるので、南の方へ行って、また懲りずに家庭を破壊する罪を犯しているのではないか、ということになり、北にいた食口の家族たちで、南に来て捜査機関に入った人が、報復を兼ねて追及して回っているからであった。

世界基督教統一神霊協会創立

劉孝元が「原理解説」を執筆

1954年2月頃、大邱にいた文さんが私に言った。

「ソウルの教会の基礎を作らなければならない。だからお前は釜山へ行き、劉孝元を連れて先にソウルへ行きなさい」

私はすぐ釜山へ行って劉孝元に会い、文さんの話を伝えた。彼は喜んで、ソウルへ行くことに同意した。劉孝元は身体が不自由だったので、汽車に一晩じゅう乗ることを心配したが、梁允信が「自分も劉孝元さんと一緒にソウルまで行くから」と同行してくれた。

その日、夜行列車に三人で乗った。十二時間の汽車旅行だったが、劉孝元はまったく疲れた様子も見せず、それどころか希望に満ちた表情で汽車に乗っていた。劉孝元は日本帝国主義時代、京城帝国大学医学部(現ソウル大学)の学生だったが、病気のために健康を損なって仕方なく中退したという。素晴らしく頭のよい人で、私はこの人こそ将来、文さんのために大きな仕事がでざる人だと確信していた。

ソウルに上がってすぐ李昌煥を訪ねると、喜んで私たちを迎えてくれた。ちょうど劉孝敏(劉孝元のいとこ)も来ていたので、一緒に鍾路にある李昌煥の義理の弟の家へ行った。

私たちはその日から、原理解説の出版に向けて準備を始めた。金元弼の清書した原理原本を順番に並べて、それを劉孝敏と私が書き直し、これを劉孝元が熟読して整理・構成しながら原理解説を執筆するという段取りだった。

もし一か月前の清進洞の家で、崔先吉から原理原本を取り返すことができなかったら、この作業はとても難しくなっていただろう。

食事は東大門にある李昌煥の兄が経営している大衆食堂で食べた。鍾路にある旅館に泊まり込んで作業する日が十日くらい続いた。私たちはどんなに苦しくても耐えられたが、旅館の主人と食堂の主人たちは、私たちをなぜか嫌がっている様子だった。

大邱の文さんを訪ねて事情を報告したところ、五万ウォン出してくれて、
「釜山から行った梁允信と一緒に部屋を探し、劉孝元と今の仕事を続けてほしい」
と言われた。すぐにソウルへ戻って、城東区北鶴洞に部屋を借り、とりあえずの本拠にした。

ここに寝泊まりしていた食口は、私、劉孝元、劉孝敏の三人だった。劉孝永が海でニベやイシモチなどの魚を釣ってきて、皆で喜んで食べたこともある。李昌煥は毎日来ていたし、辛貞順、呉永春、梁允信、玉世賢、李奇煥など女の食口たちも毎日のように来て、いろんなことを協力してくれた。

 当時の主な幹部たち
(前列)左から:金寛成 李耀翰 文鮮明 朴正華 劉孝敏
(後列)左から:劉孝元 姜少領 李漢城 李鳳雲 辛聖黙

そんなある日、文さんが突然、大邱からソウルに来た。ところがその日の夜、市の警察から来たという六、七人の男が、身分証明書を見せて、「市警まで一緒に来てくれ」と言った。そこにいた全員が連行されたが、別にこれといって調べられることもなく、一般的な宗教問題について聞かれただけだった。そのうち通行禁止の時間(当時の韓国は、夜の十二時から明け方まで通行禁止になった)になってしまったので、その晩は市警に泊まり、朝になって帰ってきたことがある。わけのわからない連行事件だった。

家に帰ってから梁允信と一緒に、いろんな家財道具を買いに行った。こうして一緒に買い物をしていると、彼女は理想的な相手のように思えた。でも、梁女史は年齢が私よりずっと下だった。人生は長いはずなのに、彼女は数年後、私より先に亡くなってしまった。人の運命は誰にもわからないものだ。彼女が私たちの教会に入ってから、いろいろなことがあったが、復帰原理の過程を経験しようとたいへん努力した人だった。

食口たちがだんだん増えて、今までの部屋では、食口たち全員が一緒に働き、過ごすことができなくなった。そこで、同じ北鶴洞にあった門が三つもある大きな家に引っ越した。文さんはその家の南側に別に部屋を借りた。食口たちがたくさん集まり、釜山にいた李秀郷、金相哲や、李昌煥も一緒にいた。

忘れられないことが一つある。ある政治家が、知恵遅れの娘を一人、私たちの教会に連れてきた。この教会にしばらく預けておけば、治るかもしれないと期待していたようだった。八歳になるその子どもは、食事をしていると必ずウンチをしてしまうので、みんなたいへんだった。それでも、一緒に祈禱を受けたりすれば、奇跡が起こるかもしれないと私たちも思い、一所懸命がまんして、がんばったものだ。しかし一年が経過しても、様子はまるで変わらなかったので、親はその子を連れて帰った。

この頃、李秀郷は、私たち食口の生活費のために働きに出て、写真に色を塗る作業をしてお金を稼いできたこともある。李昌煥は、教会の伝道文を英文で作成して、世界各国の有名な人たち、とくに有名な牧師など百人余りの人たちに発送したこともある。その内容はこんなものだった。

「東の国に再臨メシアが来た。崇拝しよう。疑う者は、祈禱を通じて聞いてみよう」

そして文の最後に、李昌煥自身の写真を貼って、発送していた。こういう作業で朝から晩まで忙しかった。

劉孝元は毎日、原理解説の執筆に没頭していた。劉孝敏と私は、ひたすら原理原本を書き写していた。

劉孝元があるとき、「この原理は矛盾がいっぱいあって、よくわからないところがある。このままではだめだ」と私に言った。二人で、文鮮明に徹底的に質問したところ、彼は答えられなかった。劉孝元は「あとは天に任せるしかないな」と首を振りながら、自分流に執筆していった。

金相哲はこの頃、イギリスの大学に留学することになり、旅券の手続きをする書類を書いてくれと私に頼むので、書いてあげたりした。

金在根というおばあさんもいた。大邱からソウルへ来て、真冬でも井戸へ行って冷水をかぶることを、毎日していた。年寄りだったので、病気をするといけないと心配していたが、とても元気で一所懸命がんばっていた。

この頃、釜山では、満州で朝鮮独立運動をしていた宋道旭という人が入信してきた。兵役を忌避していた金元弼は、影島の宋道旭の家の二階に部屋を一つ借りて、隠遁生活を強いられていた。

釜山にはこの当時、食口たちはそんなにいなかった。
ソウルでは昼間、辛貞順、呉永春、梁允信、金順哲、金仁珠などの婦人食口が来ていたが、朴貞淑という未亡人が新たに、劉孝敏の伝道で入ってきた。彼女には幼い娘さんがいたが、ソウルに来るときに、釜山の宋道旭の家に預けて養育してもらっていた。朴貞淑は、食口たちの食事の支度を手伝っていた。

この当時は、食口たちの生活費がたいへんだった。劉孝敏は、もともと写真屋で腕もよかったので、市内や地方を回りながら各地の遺跡などを写真に撮り、それをブロマイドにして販売する商売を思いついた。とりあえずやってみたら、予想外の売れ行きだったので、私たちはブロマイド製作に全力を注ぐことになった。

私は写真の光沢を出す作業を担当し、夜半まで作業していた。朴貞淑もまた、台所の仕事が終わったらすぐ、写真を洗う作業にがんばっていた。食口たちが力をあわせて、突貫作業でブロマイドを大量に製作した。この仕事が当たり、いっぺんに経済的余裕が出て、食口たちの生活費を全部まかなえるようになった。

統一協会創立の日

1954年5月3日、城東区北鶴洞三九一にあった教会の一室で、文さんを李昌煥、劉孝元、金相哲、朴正華、劉孝敏の5人が囲んでいた。いよいよ文さんを中心にして、全世界に原理を伝道するための仕事を開始する日が来た。

私たちはどういう名称にすればいいか相談した。とりあえず、世界のキリスト教を統一するという目的に沿って、「世界基督教統一……」と頭にもってくることになった。そのあとを「心霊協会」にするか「神霊協会」にするかで議論になったが、私は「神霊協会」とするのがいいと主張し、最終的に「神霊協会」に決まった。

こうして、原理を掲げて全世界の基督教を統一しようという宗教団体、「世界基督教統一神霊協会」が、この世の中に初めて創立されることになった。初代協会長には、いろいろ相談の結果、李昌煥が就任した。だが彼は三か月で脱会してしまった。(注=現在は5月1日が創立日とされているが、実際には5月3日だったのである)

統一協会の創立者たち
(前列)左から:朴正華 文鮮明 白雲鶴 金源徳 劉孝元
(後列)左から:金相哲 李耀翰 李昌煥
太字が創立者 — この五人の他に劉孝敏が含まれる

梨花女子大事件のころ

教授と学生たちが大挙入信

ソウルの名門校・梨花女子大学の音楽教授、梁允永(Yang Yoon-yeong)が入信してきたのはこの頃だった。彼女は三日間文さんの講義を聞いていた。すると、奇跡が起こり聖霊に満ちた彼女は突然、今までサタンによって邪魔されていた壁を蹴飛ばすとわめきながら、足で壁を蹴ったりして大騒ぎしたのである。

梁允永

誓い/作詞作曲:梁允永

そのあと、新堂洞の梁允永女史の自宅で、劉孝元が毎日のように原理解説を講義した。そして次に、梨花女子大学の寄宿舎の舎監ある韓忠嬅が入信してきた。また同じ大学の英文科教授、崔元福と金永雲、延世大学の教授・朴商来、学生の柳景圭、黄煥采、呉昇澤も入信した。

釜山からソウルに来た食口のなかに、劉信姫という女性がいた。あの影島集会のとき、家を提供してくれた辛聖黙の妻である。

劉信姫

彼女はある晩、教会の隣に部屋を借りていた文さんの部屋を訪ねた。部屋をノックしたところ「誰なのか」と声がしたので、「信姫です」と名乗り、「入りなさい」と言われて中へ入った。そして、その場で復帰の実践を受けたそうである。

このときは、すでに三回復帰を受けていた金仁珠が、復帰のやり方を教えて、証人として立ち会った。金仁珠に勧められた劉信姫は、勇気を出して復帰を受けたということだった。このあと劉信姫は、たくさんの男性食口たちと復帰した。

私も実は、劉信姫と復帰(セックス)をした一人だった。彼女はすぐあとに登場する金徳振とも復帰をし、さらに金徳振は他の女性と復帰し、その女性がまた……。たちまち七十数人の輪になってしまった。その後、牧師になった金徳振 は、あまりにも乱脈な統一協会のセックスを自ら告発し、「本にして発表する」と宣言して、大騒ぎになったのである。(後述)

金徳振という男

その頃私は、毎晩十時頃まで、写真の光沢を出す作業をしていた。ある夜、黒いUN軍のコートを来た青年が訪ねてきて、「先生に会いたい」と言った。どこから来た誰なのか聞いたら、金徳振と名乗り、北の崇実専門学校の文科出身で、スパイ罪で軍事裁判にかけられ死刑を求刑されたが、判決は無期懲役で服役中に再審で無罪になり、南の東村陸軍刑務所から出てきたところだという。そして、刑務所の中で会った李錫彬という人から、文さんに渡して欲しいと「お父様へ」という手紙を預かってきていた。

私は彼を文さんのいる梁允永の自宅に案内した。彼には音楽的才能があり、作曲と作詞ができた。彼は入信するとすぐに、*聖歌(賛美歌)の作曲と作詞をしたりして、文さんもその音楽的才能をほめ、食口たちのなかで第一番目に、文さんから洋服をいただく光栄を受けた。

*現在、作詞作曲者不詳として統一聖歌から名前を抹殺されている
【作詞作曲】成し遂げよう 光は東より すべて捧げて 一つに集え われら統一勇士 新エデンの歌
【作曲のみ】成和青年歌 勝利者の新歌 聖励の新歌 悩める心に 復帰の園 聖苑のめぐみ 東の勇士 我は行く 苦難と生命 成和勇士の歌

食口たちも増えた。金賛均、鄭燐正、安昌成、姜貞遠、車萬春、李小淡、柳光烈、李鎭泰、朴承圭、李月星、金原敏、黄恩子、池生蓮、柳東姫などである。その次に入って来たのは、池源大、安定国、金順華、申美植、鄭大和、金周華、李寛善、李起、朴奉愛、南宮哲、李英一、崔貞順、李仁馥、金和英、金正恩、史吉子、朴英淑、徐明鎭、李正浩、金榮輝などだ。

教授に続いて、梨花女子大学の学生も十四人入信していたが、異端的な信仰を理由に、十三人が大学から退学処分を受けることになった(その前に教授たちは辞表を出し退職していた)。退学になったのは、申美植、史吉子、金正恩、徐明鎭、朴承圭、池未淑、鄭大和、朴榮淑、朴承姫、李桂淳、姜貞遠、崔淳嬅、金淑子である。

退学処分を受けた梨花女子大学生(1955.5.23)

(後列)左から:徐明鎭 李桂淳 史吉子 池末淑 朴榮淑 姜貞遠 鄭大和
(前列)左から:催淳華 林承姫 金正恩 申美植 朴承圭

梨花女子卒業式/文鮮明と催淳華

北鶴洞にあった最初の本部教会
玉世賢(左)と姜賢実(右)

大邱でまた電気拷問

本部教会は翌1955年の1月、北鶴同から同じ城東区の興仁洞にある新しい家へ移り、さらに三か月後の4月27日、中区の奨忠洞に移った。

移転してから間もない5月13日、教会に治安局の刑事二人が訪ねてきた。彼らは教会に泊まり込んで、私たちの様子をうかがっていた。警察の捜査員も張り込んでいた。警察の捜査にはだいぶ慣れてはいたが、こんどはちょっと違うなと感じるほど、多くの捜査員が投入されていた。そんな緊迫感を知らないで、地方から来た年配の女性食口たちは陽気に騒ぎ、踊りまくっているので、状況を話し注意したこともある。

大邱にいた文さんの所へ行き、この状況を報告して今後の対策を相談するため、私はソウル駅に出かけていった。駅には金明熙が来ており、黄煥采などが見送りに来ていた。私は金明熙が釜山に行く目的を知っていたので、大邱まで一緒に行くことにした。

前にも述べたが、金明熙は延世大学の学生だった頃、釜山の影島で文鮮明に処女を奪われた女性である。詳しくは後述するが、このとき、彼女のお腹は臨月寸前でかなり目立っていた。因果を含められた同窓生の呉昇澤と一緒に、日本で出産するため、釜山から密航するところだった。そして、たいへんな苦労をすることになるのだ。

大邱に着いてまず、李耀翰牧師の家を訪ねたところ、部屋はからっぽで誰もいなかった。私はいやな予感がして、あわてて出てきたところ、どこからか見張っていた刑事が出てきて、身分証明書を提示しながら、
「この家にどういう目的で訪ねてきたのか。李牧師とはどういう関係なのか。文鮮明のことをよく知っているのか」などと聞いてきた。身分証明書を提示しろというので、見せたところ、
「あなたが朴正華なのか」と言われた。大邱警察署まで連行されて、一晩じゅう調べられた。その内容は、私なら文鮮明の居場所がわかるはずだから教えろ、ということだった。私は、本当に知らなかったので、「今はどこにいるかわからない」と言った。もし知っていたとしても、私は言わなかっただろう。

夜の十時頃に連行されて、朝十時まで調べられた。そのときもバッテリーを両方の親指につなげる電気拷問を受けた。ソウルで1回、今回が2回目であった。

その後、警察から出てきて聞いた話だが、私のすぐあとに金安実の兄が、警察がいることを知らないで李牧師を訪ねてきて、私が引っ張られていったのがわかったそうだ。このとき文さんは、李牧師と大邱の食口たちを連れて、竜門山に向かっていたため、警察から逃れることができた。

ブロマイドの製作・販売

この頃、劉孝敏の提案で、全国を巡回しながら名所の景色や遺跡などを撮影した写真と、ソウルの街並みや俳優たちを撮った写真をブロマイドにして、販売していたことは前述した。

写真撮影と現像技術、材料購入などは、本職の劉孝敏が担当し、暗室での仕事を金元弼、劉孝元、李秀郷などが手伝った。私は夜半じゅう、写真の光沢を出し、乾燥させる作業をやっていた。興仁洞の本部教会は一戸建ての家だったので、部屋が五つもあり、応接間と台所をかねた部屋まであった。ブロマイドの製作と、原理講義をする場所としては、非常に便利なところだった。庭には木もあって、なかなかいい家だった。この家に引っ越してから入信する人が増加し、統一協会はだんだん大きくなっていった。

当時の新聞や世論は、私たちのことをこう言っていた。
「“統一協会”に一度入ったら、どういう方法でかわからないが、二、三日で洗脳され、家族を捨てて入信するようになる」

なかには教会の実体を調べようとして、小さな部屋に赤いランプがついていて、夜半じゅうずっと人が出入りしているのを見て、「あの部屋が、人を惑わせて誘惑する場所に違いない」と言われたこともあるが、実はその部屋は、写真製作のための暗室だった。

ブロマイド製作は、夜半に写真に光沢をつける作業をして、明るくなる前に完成させておいた。明け方になって通行禁止が解除されるのを待って、いの一番に露天で売り歩く子どもたちが仕入れに来るので、ブロマイドはすぐに、全部売り切れてしまった。

このようにブロマイドがよく売れたので、かなり経済的に余裕ができた。教会では、毎日七十~八十人くらいの人が食事していたが、そのために毎日、お米を一叺くらい炊いた。

当時の婦人食口たちには、たいへんな苦労だったろうし、食事代もだいぶかかっていた。そのための経済的な支えは全部、このブロマイドの販売でまかなっていたのである。

ブロマイドを切る作業の女性食口たち:金明熙(右)

ソウルの街ではしばらく、おもしろい光景が見かけられた。避難民の露天商たちが、それまでは板の上にアメリカのタバコを乗せて売っていたのが、その代わりに何百種類ものブロマイドを乗せて売るようになった。路地のすみずみに板を並べて売ってくれたお陰で、ブロマイドの販売収入は少なくなかった。

ある日の早朝、いつものように、ブロマイドの光沢作業をしていると、誰かがドアを叩いた。出てみると、男三人が原理を聞くために来たと立っており、一番前に立っている人がなんと、金寅哲だった。

この人とは、私が北朝鮮の内務省第二旅団で海州中隊長をしているときに知り合った。彼はマルボシ運輸株式会社の海州支店長を勤めながら、海州旅館を経営していた。私がその旅館に約二か月泊まったときに、二人は飲み友達になった間柄だった。

偶然にこういう場所で再会し、本当に驚いた。お互いに喜んでいろいろ話したが、一方で心配も湧いてきた。もし彼が、北朝鮮軍の三八度線近くで大隊長を務めていた私の前歴を密告すれば、捜査当局は北のスパイ容疑という口実で、私を拘束するかもしれない。そうなれば教会に迷惑をかけ、重大な影響が出るだろう。

とりあえずこのことを文さんに報告し、あとは彼の行動に注意することにした。しかし、金寅哲は熱心に教会に通って重要な幹部になり、私の過去のことは一言も話さなかった。それから20年くらいあと、彼に会う機会があったとき、当時の私の心境を告白して、お互いに大笑いしたことがある。

三代目の秘書役、宋道旭

釜山の影島で入信した宋道旭執事は、虫よけの薬の商売をしている人だった。日本帝国主義の植民地時代に、満州で朝鮮独立運動をしてきた人である。教育はあまり受けていなかったが、しっかりした体格、竹を割ったような性格で、行動力があり、判断力もあった。文さんの秘書役は、まず私が長い間務め、そのあと劉孝敏が務めていた。そして、三代目が宋道旭である。

彼は宋執事から宋長老に昇格、同時に文さんと一緒に歩く身分になった。私が捿鎮鉱山にいるとき(後述)、彼が文さんの使いで来て、さんざん自慢話を聞かされたことがある。その自慢気な態度は、怖いもの知らずだった。あまりにも大きな顔をして大言を吐き、えらそうなことを言っているので、私は鄭錫天長老の前で、宋長老に忠告したことがある。さらにまた、地方を回るとき、純心でマジメな食口たちを驚かせたり、納得できないような大げさな話をしないよう忠告した。

そのときのことがつい昨日のように思えるが、今は宋長老も鄭長老も亡くなってしまった。天国にあがって今頃、どうしているだろうか。

当時の食口で一番最初に亡くなった人は、ソウルの金永道さんで、上海から帰国した人だった。それから、宋基周、趙東錫、金炳玉、劉孝元、宋道旭、鄭錫天、柳景圭、辛貞順、梁允信、金在根、羅淳烈、李奇煥の順で、その他にも婦人の食口たちが何人か亡くなっている。

ささやかな憩いのとき

興仁洞教会でブロマイドの作業をしていたときのことだ。ブロマイドを販売したお金の中から五百ウォンくらい取っておいて、土曜日の夕方になると劉孝元や李秀郷などと一緒に作業の疲れをいやすため、東大門市場に出かけて行き、露天で婦人たちがタライで豚肉や腸詰めを売っているのを食べた。おいしいツマミで、おいしい焼酎を一杯だけ飲んだ。そうすると元気が出るようだった。仕事に疲れてくると、土曜日になったら豚肉と腸詰めで元気を出しましょうと、お互いに励ましたものだ。それもまた、つい昨日のように思い出される。まさに時間の流れは、流れる水のように早い。

ブロマイドの製作では、何よりも劉孝敏の頭脳と技術を認めざるをえない。最初の頃、写真技術に無知な私には、ブロマイドの製作や販売など子どもの遊びくらいにしかみえなかったのだが、いざ始めてみると予想外に収入が多かった。また、大量生産するのに必要な材料などを、そのときどきに応じて、的確に要領よく購入する劉孝敏の精密な計画性には驚くしかなかった。

こうして、興仁洞時代の食口たちは、教会の拡張をはかるための経済的基盤を、熱心に作業することで支えてきたのである。
またその後、劉孝敏が発明して特許を得た「鋭和散弾空気銃」の大量生産にも成功した。このとき入った収入は桁違いに大きく、何十億ウォンにもなった。

今は脱会して食口ではないが、劉孝敏は、羅淳烈(現在は故人)と一緒になり、三十六家庭の一員として祝福(結婚)を受けた人で、三人兄弟の子どもがいる。(後述)

幹部逮捕事件の真相

文鮮明の逮捕

梨花女子大の五人の教授(梁允永、韓忠嬅、崔元福、金永雲、李正浩)、梨花女子大生十四人、さらに延世大学の教授、朴商来などが大挙入信してから、梨花女子大学側ではこの事態に憤慨して、捜査機関に訴えて、その真相を調べることを要求した。

前にも書いたが、1955年4月27日に本部教会が奨忠洞に移転したあと、5月13日、検察から捜査員一人と、治安局の特殊情報課から刑事二人が教会に来た。彼らは教会に泊まり込んで、原理講義を聞き、それにどういう問題があるのか一所懸命さぐっていた。また、出入りしている食口たちの身元をチェックしたり、日常生活についても監視していた。彼らは約二か月間、私たち食口と寝食をともにして、徹底的に調査していた。

警察出身の趙東錫を通じて、警察の捜査方針をさぐった結果、文さんをはじめ、何人かの幹部が拘束されることが予測できた。

文さんは、三角山のふもとに借りていた家で、朴商来と一緒に隠れ住んでいたが、7月1日、最終方針を決めるために私たちを集めた。私、劉孝元、劉孝敏、趙東錫、盧東輝、金順哲、呉永春、金仁珠、辛貞順などが文さんの所へ行って、いろいろと対策を相談した。そのとき、金順哲は、

「先生を警察に渡すことはできない。しばらく日本へ行ってもらうようにしたらどうか」と主張した。資金などもすべて準備できると言う。いろんな話が出て、方針がなかなか決まらなかった。結局、今回は逃げきれそうにないし、私たちが警察へ行く方が今後のためにプラスになると判断して、そう決定した。

その頃、口が軽くて問題になっていた金徳振は、金順哲、金仁珠の二人が監視することになり、中区山林洞に借家を一軒借りて住まわせた。私もその部屋で三日間、監視役として一緒にいた。

1955年7月4日、ついに文さんが拘束された。

ここまでに二か月以上の内偵と捜査があった。治安局特殊情報課の金當道が担当官で、まず当時の協会長、劉孝元が調べを受けた。協会長に対しては、原理の内容についての調べが行なわれた。原理のどういう部分が、大学教授や大学生たちに学校を離れさせ、統一協会に入信するようにさせたのか、統一協会は何の目的のために信仰しているのか、などについて、一日じゅう調べを受けた。

次は私が調べを受けた。

「文鮮明との関係はいつからなのか」「興南監獄で一緒だったときの状況は」などと聞かれたので前に書いた〔第1章〕ようなことを、要約して話した。

「前は文龍明だったのに、なぜ釜山に下りてから文鮮明と改名したのか」と聞かれたが、私にはわからない、と答えておいた。

私たちにどういう罪が成り立つのかを捜査当局が検討していた頃、一つの問題が浮かび上がってきた。

「北から来た者には、正当な理由がないかぎり『市民証』が発行されないのに、なぜ文鮮明は持っているのか」「年齢も詐称している」ということだ。

1回目の調べでは触れられなかったが、その後、文さんが自分の証明書の作成経緯について追及されて、非常に困っているという話を聞いた。次の日私は、治安局に出頭し、「北鶴洞教会のとき、役所の事務長に頼んで申請書類を準備し、私が先生の市民証を出してもらった」と説明した。

本当は、裏で金を払って買収し、偽造した書類で発行してもらった。私の市民証もそのときに作った。年齢詐称は兵役忌避のためだった

さらに、そこで、「大勢の信者たちが、一緒に暮らすのにかかる費用は、どこから出るのか」と聞かれ、「ブロマイドを製作・販売して、その金で生活している」と答えた。その次には、「経済担当は誰で、組織はどういうふうに作られたのか」と聞かれた。

「経済の担当者は私、朴正華であり、先生の指示に従い、すべてのことを処理してきた。ブロマイドについては、写真屋だった劉孝敏が材料の購入や製作のために全力を尽くし、劉孝永、金元弼、李秀郷、朴正華などが手伝って、朝までに完成させておくと、明け方に小売人たちが来て、全部仕入れていった。その金を生活費として使うことができた」

そのあと、いよいよ姦通問題(混淫関係)についての調べが始まった。

「信者のおばあさんたちが、朴正華は大サタンだと言っているが、それはどういう意味なのか」と聞かれたときには、本当に困ってしまった。私が黙っていると、担当官が大きな声で挑発しながら、

「あなたは、文鮮明と長い間一緒にいたので、彼がやっている行為を全部見てきたはずだ。それをすべて言いなさい。文鮮明は再臨メシアで、イエスが十字架の上で死んだように、彼も罪の報いで死ぬという話だが、それが本当なのか答えなさい」とテーブルを叩いて詰めよった。

私は、「私が大サタンだ、という話は聞いたこともない。食口のおばあさんたちが、どうしてそういうことを言ったのか、私にはわからない」と答えた。すると担当官は、「大邱から来た信者の金在根おばさんが、そういう話を言っているのを、自分たちの調査官が聞いてきた。あなたが知らないはずないだろう」と言った。

この問題はそのあくる日、大邱のおばあちゃんが、「神様のお告げを受けたので、そのまま言っただけだ」ということを、自ら治安局に出頭して、担当官に説明した。

この頃、「朴正華は大サタンだ」という声が一部にあったのは事実である。それは、文鮮明のことを裏のウラまで知りつくしている私が、もし捜査当局に話せば、文鮮明は絶対に助からないからである。そうなると、「再臨メシアの文先生は、キリストと同じく十字架で死ぬ」ことになり、だからその鍵を握っている朴正華はサタンだという、いかにも純真なおばあさん食口の発想だった。それだけ、文鮮明の拘束は、食口たちに危機感を与えていたようだ。(第7章の「劉孝敏」の項参照)

その真意を知ったら、担当官はもっと徹底的に、集中して私に吐かせようとしただろう。

調べの狙いは混淫関係

混淫関係については、さらに厳しく集中的な調べが続いた。担当官はだんだん深くさぐるようになり、「あなたたちの原理によれば、エバが天使長ルーシェルとセックスをし、エバはさらにアダムとセックスをしたことで、原罪ができたという。そして、この原罪を復帰するためには、罪のない神様のような人がこの世の中に現われ、その人によってセックスが行なわれれば、その罪が清くなる―要するに復帰するということだが、これは本当なのか」

「その原理に従って文鮮明は、女たちに、自分が再臨メシアだから、自分とセックスすることによって復帰された人間になると言い、たくさんの女性、とくに人妻などとセックスをしているようだ。あなたは、それを目撃したことがあるのか」

と問い詰められた。もちろん事実を言うわけにはいかないので、私は、

「原理の問題に関しては、協会長の劉孝元さんが担当しているので、詳しい内容は彼が知っているはずだ。私は経済部門を担当しているので、そういうことは考えたこともない。文先生を監獄の頃から信じて、従ってきただけだ。たくさんの女性、とくに人妻とセックスしたという話は、とんでもないことだ。見たことも、聞いたこともない」

と嘘を言い切った。すると担当官は、

「あなたたちの教会には、二つの意見があるようだ。一つは原理を無条件に支持する人たちだ―文鮮明とのセックスで血を入れ換えることによって、本当の復帰になり、罪とは関係ない人間として生まれ変わる。こういう夫婦から生まれた子孫たちが、この世の中を支配するときこそ、完全復帰されたエデンの園と同じ、罪のない世の中になるということを信じている。

もう一方では、文鮮明も私たちと同じ人間で、平安北道定州郡徳彦面上思里二二二一の文裕慶の二番目の息子として生まれたが、どうして彼が罪のない、原罪と関係のない再臨メシアになって、血を入れ換えることができ、復帰させることができるのか、という疑問を持っている人たちがいる。つまり、文鮮明も所詮、罪のある人間で神ではないし、復帰で人を救うことなどできないという意見だが、どう思うかね」

「セックスで復帰できる、できないという話は、誰かが企んで広めた噂です。そういう事実はありません」

「文鮮明は北朝鮮にいたときに、いったい何をしたのか。また南へ避難してきて、釜山や大邱でも捜査機関の調査を受けたことがあるという話だが、どういうことだったのか、知っているか」

「文鮮明先生は、北にいたとき、キリスト教の聖書原理を研究していて、新しい真実を信者たちに教えていただけだ。その話を聞いて、既成教会の信者たちがたくさん集まってきた。その信者たちの家族が南の方に避難してきて、文先生が釜山、大邱などで原理の話を伝道していることを知って、捜査機関に通告し、そのために多少の問題が生じたようだ」

「ところで文鮮明には、妻と子どもがいるという話だが、どうなのか」

「奥さんの崔先吉さんと、長男の聖進君がいる。つい最近まで釜山にいたが、今はソウルに来ているはずだ」

「その奥さんが、文鮮明がたくさんの女と性的な関係を持っているという噂を聞いて、釜山でもそうだったが、またソウルにきて、家財道具などを全部始末し、女たちが来るのを妨害した、という話があるが事実なのか。これは混淫関係の証拠になるんじゃないか」

「奥さんが釜山からソウルに来て、そういうことをしたのは事実だが、単に信仰の問題で起きたことで、絶対にセックスの関係ということはありえない。そうした事実はない」

幹部五人を起訴

私の次には、男の食口として劉孝敏と劉孝永が調べを受けた。金元弼がその次に調べを受けたが、彼は今まで兵役を忌避していたので、それが問題になってしまった。

婦人の食口たちの調べが始まった。玉世賢が最初に調べを受けた。女性の調べは昼間だけで、一日に一人ずつ調べられた。辛貞順、呉永春、梁允信などが次々に調べを受けた。その内容はすべて、混淫関係(セックス関係)の事実捜査だった。

五日には金元弼が拘束され、六日には劉孝敏、劉孝永が、十三日には劉孝元が、そして十八日には女の崔淳華が拘束された。結局、文さんを含めて、六人が拘束されることになった。その当時、教会の渉外担当は盧正祐、趙東錫の二人が担当していた。趙東錫は治安局に出向いて、「朴正華先生が拘束されると、何十人にもなる食口たちの生活に影響が出るので、とりあえず保留にしてほしい。検察から出頭命令が出たときには、いつでも出頭させるから」と約束したため、私は拘束されないことになった。

このとき、文さんは中部警察署の留置場に収監されていたが、中部警察署では金徳振の義理の弟、金善煥が警察官をしていたので、比較的簡単に面会ができた。

崔淳華はまだ若かったので、担当官の混淫関係の調べで誘導尋問にひっかかり、拘束されることになったが、起訴にはならず、一週間後には釈放された。

1955年7月29日、男たち五人は全員、兵役忌避だけで起訴された。

検察から出頭命令が来るかもしれないと、私は不安な気持ちで待っていたが、幸いにそれはなかった。

そうこうするうち、趙東錫が私のところへ来て、
「治安局にはアメリカのウソ発見機が導入されているので、もし朴先生が治安局にまた引っ張られ、調べを受けることになったら、これまで隠していたことが問題になるでしょう。それが暴露されたらたいへんなことになりますから、裁判が終わるまで、どこかに隠れていた方が賢明ではないでしょうか。先生もきっと、賛成なさるはずです」
と言い、至急隠れることを提案した。私は考えた末、その提案を受け入れることにした。

捜査の手から逃亡

そして、文さんからも連絡が来た。奨忠洞教会の文さんの机の引き出しの中に五万ウォンの小切手があるので、いざというときに使いなさいということだった。私はそれを持って馬山へ行き、馬山療養院にいる梁允信を訪ねていった。馬山療養院にはその当時、梁允信が看護婦長として在職していた。私は約十五日間、そこに居候していた。

私が馬山にいるときに突然、李元周という人が、彼の弟である李徳善、釜山から来た辛聖黙と朴奉植、それに梁允信の実の娘・金貞淑などと一緒に訪ねて来た。全員、私たちの教会の食口だった。

私たちはいつも集まっては、ソウルでの文さんと幹部たちの裁判について心配していた。十日ぐらいすぎてから、李元周はどこかにいってしまったが、しばらくして変なことになってしまったのである。それは、李元周が突然、「自分こそ再臨メシアであり、文鮮明は再臨メシアではない」と言いだしたことだ。

彼の家に集まった人たちは、その話を全部信じ込んで、昼も夜も泣きながら祈っていた。李元周は原理を悪用して、梁女史の娘・金貞淑をはじめ、大勢の女性と実際に復帰のセックスをしながら、「天の恨みをはらしてあげなければいけない」などと言っているそうだ。梁女史は動転して、療養院の仕事もできなくなり、その療養院から追い出されることになってしまった。彼女がソウルに家を借りて移ったので、私も大邱へ移動した。

大邱に移ったものの、ここにも教会があるので、逃亡して隠れている身には、どうしても安心できない。そこで、親戚が住んでいる済州島西帰浦に行った。ここで新聞を読みながら、ソウルの裁判の動向を知るしかなかった。

1955年9月20日、ソウル地方法院で、尹学老裁判長、姜瑞龍検事による一審公判が開かれ、同年10月4日の結審公判で、文さんは無罪を宣告された。この報道を新聞で読んで、文さんを守った者として、とても嬉しかった。劉孝元は罰金五千ウォン、劉孝敏、劉孝永の二人は、「第二国民兵法違反」(兵役忌避罪)で、懲役1年(執行猶予2年)を宣告され、釈放された。金元弼だけが、兵役忌避罪で懲役1年の実刑を受けた。

このときの調べの目的は、復帰という混淫(セックス)の事実関 係の立証だった。しかし、婦人の食口たちが自分たちの下半身の話をするわけがなく、その夫たちもまた男のメンソツが許さないので、文鮮明を告訴しなかった。結局、関係者全員が偽証したため、文鮮明は助かったのである。婦人の食口たちが、文鮮明とセックスの関係にあったことは、もちろん事実である。

[出典:六マリアの悲劇―真のサタンは、文鮮明だ!!/朴正華]

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