【六マリアの悲劇】まとめ(07)完

六マリアの悲劇
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第七章:証言-私達が体験した事実

劉孝敏:統一協会の経済的基盤に貢献しながら裏切られた

劉孝敏(ユ・ヒョウミン):文鮮明の初代秘書役だった朴正華のあとを継ぎ、二代目秘書役。いとこの劉孝元・劉孝永兄弟とともに、統一協会の発足から基盤づくりに大きな貢献を果たした。三十六家庭のメンバー。一九七二年脱会。現在ソウル在住。会社社長。七十二歳(199)。

統一教会聖歌15番「我は供物」/作詞作曲:劉孝敏

私(劉孝敏)は統一協会が正式に創立される前の、一九五四年(昭和二九年)一月四日に、釜山でいとこの劉孝元、劉孝永と一緒に文鮮明の信者になった。朴正華さんはその頃、食口(信者)の中心的な存在で、文鮮明の片腕として活動しており、本人もたいへんな努力をしていた。

しかしその一方で、朴正華さんを外そう、遠ざけようとする動きがあったのも事実である。その原因は、「朴正華はあまりにも知り過ぎている。もし彼が捜査当局にすべてを話すことになったら、文鮮明先生は重罪になるだろう。また、彼が反対すれば計画が進まないので、このままでは文鮮明先生の計画の邪魔になる」

だから朴正華は要注意人物で、これからの「原理」伝道のためには「大きなサタンだ」という声が上がっていた。

文鮮明と劉孝敏

この本の中で朴さん自身も、「大邱のおばさん食口たちが、朴正華はサタンだと夢のお告げを受けたとかで、騒ぎだした」と書いている。しかし、これは朴正華さんを遠ざけるための口実であり、裏で文鮮明が仕掛けた陰謀だったと思う。朴さんは文鮮明の女関係や金銭問題を、あまりにも深く知り過ぎていたために疎んじられ、邪魔になってきたのだろう。

これは文鮮明と統一協会の常套手段で、私の場合もそうだった。
私が入った当時、文鮮明をはじめ集まった食口たちは、その日に食べるものにも困っている状況だったので、北朝鮮時代に写真館をやっていた技術を生かして、私はブロマイドを製作・販売する仕事を提案した。これがうまくいって一日に一万枚の売上げになった。一枚七ウォン前後で卸したのを、小売人や戦争孤児たちが店や街頭で十ウォンぐらいで売っていた。毎日七万ウォンもの現金収入になったので、台所はいっぺんに楽になった。

朴正華さんが書いているとおり、男の食口たちは分担して作業をして、女の食口たちは写真を切り揃える仕事に没頭していた。この仕事は二年ほど続いたと思う。

空気銃は一九六一年から始めて本格的な生産に入り、日本へも輸出したが、工場渡し価格で一丁が一万ウォン(今なら三十万ウォン)で十五万丁以上売れた。計十五億ウォンだから、統一協会にとってかなり大きな財源になった。新式の空気銃を発明した私が「統一産業」の社長になれなかったのは、一九五五年七月の逮捕(七・四事件)で私が有罪(懲役一年、執行猶予二年)になっているから、ということだった。

それで金寅哲が社長、文鮮明のいとこ文昇龍が工場長、その弟が生産部長となり、発明者の私は「組立部長」という世にも奇妙な役職をもらった。銃の特許は文鮮明のものになり、会社の主要役員は身内ばかり。彼らは一人に一台の車を持って派手に乗り回しているのに、私はトボトボと徒歩で動くしかなかった。

文鮮明、劉孝永、劉孝敏と金元弼

信仰より身内中心の金儲け主義、としか考えられない体質だった。やがてそれは、もっと露骨なかたちで現われた。私に、「あんたは写真が得意だから、写真館でもやらないか」と言う。冗談じやない、写真館ぐらいその気になれば、自分一人でもできる。私は強い反発を感じた。要するにこれは、空気銃の事業も軌道に乗ったし、発明した私はもう必要ないから、「辞めなさい」ということだ。

一九七一年のある日。私はアメリカから帰国したばかりの文鮮明に会って、いろいろ相談してみようと思った。それで側近中の側近だった崔元福(元梨花女子大学教授)に連絡すると、「劉孝敏さんなら、時間を決めなくても会えるだろう。少し待てば大丈夫だ」と言うので、行って部屋の中へ入った。大勢の人が順番に会うので待たされ、ようやく最後に文鮮明と私の二人だけになった。

さあ、今日こそじっくり話し合って今後のことを決めたい、と身繕いをした私の後ろを、文鮮明はスーと通って隣室へ消えた。トイレにでも行ったのかな?と思ったが、待てど暮らせど帰ってこない。ついに彼はそれっきりで、私の前へ戻ってこなかった。

いくら温和な私でも、これには頭にきた。全身がかっと熱くなって震えてくるのが、自分でもよくわかった。私は文鮮明や統一協会のために、できるだけの努力や奉仕を重ねてはきたが、何ひとつ教えに反したり迷惑をかけたことはない。ただ経済問題や女の問題をあまりにも知り過ぎていただけだ。つまり文鮮明のほうが私を煙たくなり、裏切ったのである。これで私はキッパリと縁を切って、脱会した。

劉孝敏

朴正華さんの体験とまったく同じで、私には彼の悔しさがよく理解できる。
文鮮明と統一協会の本質を物語る事件について、私はもう一つ具体的なことを証言しておきたい。それは一九五五年の「七・四事件」、文鮮明と私たち幹部が逮捕された事件のことである。

七月四日の文鮮明に続いて六日、私も逮捕された。逮捕理由は「兵役忌避容疑」。
私たち北朝鮮から南に避難してきた者には戸籍がないので、身分証明書を作ってもらうとき、「第二国民兵」としての兵役を免れるため、実際の年齢より五~六歳くらい年長に申告していた。
そこが違反とされたもので、文鮮明自身も朴正華さんに指示して偽造させていた。

私たちは口裏を合わせて、偽造に協力したと供述していたが、一方で文鮮明は、「自分の知らない間に、弟子たちが勝手にやったこと」と責任逃れを繰り返していた。
私たち弟子が、″神さま”の年齢を勝手に変更などできるものではない。実際には、すべて文鮮明の指示に従ったまでだった。

ところで、この「兵役忌避容疑」は、文鮮明以下の幹部を逮捕し取り調べるための口実で、いわゆる別件逮捕だったことがまもなくわかった。捜査官の質問が日を追って、妙な方向へ移っていった。

「お前たち夫婦の仲はどうなのか?セックスは週に何回するのか?月に何回か?女の信者とは何回したか?………」

私は「それが兵役忌避と何の関係があるのか」と大声でやり返し、捜査官と口論したこともあった。しかし、捜査官の調べは執拗で、机の上には文鮮明と女性食口たちの関係を書いた図を置き、セックス関係の確認を求めてきた。

私は終始一貫、知らぬ存ぜぬで過ごしたが、内心ではその正確さに舌を巻いたものだった。留置場の中にいる私たちは、外の様子がよくわからなかったが、朴正華さんたちの隠蔽工作の結果か、調べを受けた女性たちは、
「私は文鮮明先生と、やっていません」
「私は夢の中で、セックスをしたように思います」
などと、適当に嘘を並べていた。

警察はほぼ的確に、文鮮明を巡る女性たちの相関図をつかんでいたものの、本人の親告や亭主からの告訴を得られなかったため、この件での起訴立件をあきらめたーーのが真相だった。
だから「七・四事件」は単なる兵役忌避問題ではなく、統一協会の奥座敷に隠されたセックス問題の捜査が警察の狙いで、統一協会の言う「何もない無実の容疑」ではなく、「危うく事実が天下に公表されるのを、免れた」のである。

ちなみにこのとき逮捕された幹部の留置番号は、文鮮明三九〇番、劉孝元三八〇番、劉孝永一七〇九番、私一一七五番だった。金元弼も逮捕され、彼だけが実刑の判決を受けて収監された。
いずれにしても、統一協会と訣別し、距離を置いて冷静に文鮮明や協会の実情を見ると、いろいろな矛盾や疑念が見えてくる。

世の中の大勢は明らかに民主主義の流れであるにもかかわらず、統一協会の体質は、信仰の濃淡に関係なく、文鮮明に尻尾を振るだけの取り巻きを周囲に配し、身内を重用した、独裁体制である。これは歴史の流れを押し戻し、文明に逆行するものと言えよう。
しかも、食口たちが身を削って集めた巨額の金は文鮮明一人が管理しており、どこにどれだけ隠匿しているのか、現在の最高幹部でもわからないという。非民主的で横暴な、独裁一本の典型的実例である。

また、統一協会の印刷物はどれも、「文鮮明師が一九四八年に北朝鮮で逮捕されたのは、共産党の宗教抹殺政策によって、内務省に拘束された」と判で押したように発表している。
私は北の平安北道・宜川邑(郡)で写真館を経営していたが、戦乱の風雲を避けて一九四七年八月、写真館も各種の機材も放置し、一人で南下した。二十八歳のときだった。それまで私は北のキリスト教会の執事をしていたが、まったく弾圧などはなかった。これは統一協会の嘘の歴史であり、朴正華氏が詳しく書いているとおりである。

また本書の中で紹介されているように、私自身もいわゆる三十六家庭の一人なのだが、どう辻棲を合わせようとしても、三十六家庭には何の摂理もない。それでもまだ当時は、夫婦の組合せを真剣に考え鍾路の白雲鶴(観相家)や李命鶴(四柱家)などとも相談して最終決定をした。

ところが最近の合同結婚式は、まるで麻雀の相手でも決めるかのように安直で、いい加減なものだ。これでは真の祝福とは言えないーと私は痛感している。

六マリアの一人だった

劉信姫(ユ・シンヒ)

一九五四年から数年間、六マリアの一人。文鮮明の原理を信じて復帰を受け、五~六人の男性とも復帰を実践した。いま回顧して「ほんとうに愚かだった」と後悔し、「文鮮明は死んで当然の男だ」と断言している。

――劉信姫さんは釜山の影島で、ご主人の辛聖黙さんや五人の子どもさんと平和に暮らしていた。それで文鮮明の布教集会に部屋を貸したんですね。

〔劉〕そうです。一九五三年の十二月二十四日でした。最初は三日間だけという約束でしたが、結局二十日間にもなってしまいました。そのとき、いとこの劉孝元・孝永兄弟、いとこの劉孝敏さんたち、頭の良い人たちが入信したので私たち夫婦も入信しました。

――心の底から文鮮明の説教を信じたわけですか。

〔劉〕再臨主の偉い人だと思っていましたし、詳しくは理解できませんでしたが、とにかく頭から全部信じてしまったのです。

1954年:文鮮明と劉信姫 (右端)

――それでまもなく、夫婦でソウルへ行きましたね。子どもさんたちはどうしたのですか。

〔劉〕主人 (辛聖黙) が先に家を出て行ったので、私が家族会議のように、子どもを集めて話したのです。

「お父さんもお母さんも、メシアのためにとても忙しくなった。それであんたたちの面倒を見ることができなくなった……」

上の子は中学二年生で、一番下の娘はまだ六歳でしたが、五人の子どもたちは理解してくれて、手をつないで孤児院の中へ入っていきました。ほんとうに可哀相なことをしました。それから七年間、孤児院で暮らすことになったのです。

当時の主な幹部たち
(前列)左から:金寛成 李耀翰 文鮮明 朴正華 劉孝敏
(後列)左から:劉孝元 姜少領 李漢城 李鳳雲 辛聖黙

――もう四十年近く過ぎましたが、いま子どもさんたちは?

〔劉〕皆クリスチャンとして、普通に真面目にやってくれています。でも末の娘とはよくもめるのです。「お母さんのせいで教育もまともに受けられず、たいへんな貧乏生活を送らなければならなかった」と、私を責めるのです。

――文鮮明と復帰のセックスをした女性で、こうやって顔を出してインタビューに応じてくれた人は、おそらく劉信姫さんが初めてだと思いますが、今の心境は?

〔劉〕今まで外部の人に沈黙してきたのは、子どもたちに復帰の事実を知られるのが怖かったからです。私はもう年齢が年齢だから耐えられても、子どもや孫への悪影響を考えると……。本当はとても恥ずかしいことなのですけれど、やっぱり死ぬ前に事実を明らかにすべきだと思っています。

――文鮮明との復帰について詳しく話して下さい。

〔劉〕女食口の一人に唆されて、夜遅く真暗な文鮮明の部屋へ行きました。そこで復帰を受けたのです。私の場合は、ほんの短い時間で、アッという間に終わりました。サタンの血を浄めるためには、あと二回復帰を受けなければなりませんでしたが、私は一回だけでやめました。

――それはなぜ?

〔劉〕文鮮明はいろいろな女との関係が多くて、次はいつ私の番が回ってくるかわからなかったし、嫌な話を聞いたからです。

それは私と同郷の女性に、かわいい娘がいまして、小さい頃から手をつないで山や川へ行ったり、教会へ祈りに行ったりしていたのですが、その娘が大学生になったところで、文鮮明が自分の部屋へ連れ込み、復帰という名目で、処女だった娘の貞操を無理やり奪った、というのです。その娘は泣きながら私に話してくれました。
いくら復帰という名目でも、やることはセックスの行為です。うら若い娘を傷ものにしたことに変わりはありません。それで私はあと二回の復帰を断念しました。

――文鮮明から復帰を受けたあと、劉さんは何人かの男性と復帰しましたね。

〔劉〕その当時は、文鮮明から復帰を受けた女性は他の男性を復帰しなければいけない、と教えられ信じていたからです。だから五~六人の男性と復帰しました。

――ところで、劉さんは六マリアの一人だった、と朴正華さんが書いていますが。

〔劉〕六マリアの話は聞いていましたが、誰がそうなのかは知りませんでした。だから私がどうなのか、自分ではよくわかりませんでした。私より立派な女の人がたくさんいましたし、文鮮明のまわりにはいつも、三人ぐらいがベッタリ付いており、私とは格が違う人たちだと思っていましたから。

――その三人とは誰ですか?

〔劉〕李得三、金順哲、梁充信さんたちです。文鮮明がことのほかかわいがり、後に財産を狙って財閥と結婚させた朴貞淑さんが入ってきたのは、そのあとからです。

(不明)、姜賢実 朴貞淑 文鮮明 玉世賢 李得三 金順哲

――文鮮明は次々と新しい女性を身辺に侍らせていたそうですが、女性同士のゴタゴタはなかたですか。

〔劉〕ありましたよ。女ですから嫉妬や独占欲は当然あります。それで女同士の激しい争いがあったときなど、文鮮明がそういう女性を殴ったこともありました。

そして肉体も財産も奪って用済みになった女は、どんどん身辺から追い出してしまうのです。私も追い出された一人です。

――六マリアはその時どきの定員で適当に入れ替わって、結局は財産や新しい女が目あてだったのでしょうか。新旧交替は文鮮明の独断で行なわれていた?

〔劉〕私たちには横のことがわからなかったのです。それであるとき、身辺から追い出された女ばかり五人ぐらいで話し合ったことがあります。その情報交換でわかったのが、実に大勢の女性に被害を与えていたことです。処女に妊娠させて子どもを産ませたり、人妻や母親と娘などの貞操を片っ端から奪って、家族がバラバラになったり、裕福だった人が財産を奪われて裸然になったり。様々な悲劇が数えきれないほど続出していることがわかり、皆がほんとうに憤慨させられました。文鮮明は正真正銘の悪い男だと知りました。

――まともな神経ではありませんね。

〔劉〕そうだと思います。人が集まったときなど、原理の説明は私のいとこの劉孝元が一所懸命に、汗を流してやっているのに、文鮮明は女性たちとイチャイチャしているのです。それで女の信者たちには、劉孝元の方が尊敬されており、人気がありました。その劉孝元兄さんは手術をしなければ、もっと長生きできたと思います。医学部出身だけに病状をよく知っており、手術をすれば死ぬことを知っていました。だから嫌がったのです。

ところが文鮮明は、「病気ぐらい本物のメシアなら治せるはずだ」と言われるのを恐れたのです。事実そんな声もありました。だから嫌がる孝元さんに、むりやり手術をさせて死なせてしまったのです。それで、人気の高い孝元さんにトップの座を奪われることもなくなり、文鮮明はさぞかし安心したことでしょうね。

――今、自分の過去を振り返ってどう思われますか。

〔劉〕今思うことは「恨」の一字で、ほんとうに後悔しております。それに何と言っても子どもたちに申しわけがありません。

私もほんとに愚か者でした。もっと賢ければ、そのときに善悪の区別がついたのに、愚かだったからこうなってしまった。今の私は夫とも離婚し、子どもとも離れて一人ひっそりと暮らしております。

私ばかりでなくあの頃、文鮮明の身辺で奉仕させられた女性で、幸福になった人は一人もおりません。みんな文鮮明の欺瞞に騙され、身も心も財産もボロボロになって、明日の生活にも困っている人ばかりです。

そういう人たちと会って話すとき、私たちの願いはただ一つ。
「文鮮明は再臨メシアではない。死んで当たり前の男。一日も早く死んでほしい人間だ」ということなのです。

セックスリレーの実践者

金徳振(キム・トクチン)

平壌の崇実専門学校出身。日本の音楽学校で学んだこともあり、音楽畑ひと筋。統一協会で使用中の聖歌十九曲を作曲。文鮮明の教え通りに、セックス原理を実践した生き証人。現在ソウル在住。警察牧師。八十歳。

私はね、ある韓国陸軍高級将校の保身のための謀略で、北のスパイということにされて、陸軍第一刑務所へ無期懲役囚(四三八番)で入れられたのです。それが無実だと証明されて、一九五四年の十一月二七日に、無罪釈放されました。

それで出所するとき、刑務所で私が歌を教えていた李錫彬という男が、
「自分は再臨主文鮮明の弟子だから、出所してソウルへ行ったら訪ねて、必ずこの手紙を渡してください」と一通の手紙を預けたのです。封筒の表に「父上前上書」、裏には「弟子、李錫彬」と書いてありました。

妹の家でしばらく世話になりながら、さて文鮮明は今どこにいるか?その当時はまだ統一協会なんて誰も知らない。居所がわからなくては手紙を渡すことができない。そこで親しい友だちの中部警察署長に、「部下に命じて至急捜してくれないか」と頼みました。

みすぼらしい小さな家に訪ねて行って、私はこういう者で、刑務所の中からこんな手紙を預かってきたと言うと、文鮮明に会わせてくれました。あいさつを交わしていると隣にいた女性が、
「先生、礼拝の時間です。礼拝をしなくては……」

そして私にも「一緒にどうですか」と言うので、「はい」と返事をして参加しました。狭い場所でオルガンも何もありません。最初に歌った賛美歌というのが、
″六千年の恨みがある、戦いの園、勝利の月桂樹を捜し求めて……″
文鮮明が作詞したという「復帰の楽園」とかで、この世をエデンの園に復帰するというような歌詞でしたが、なんとその歌を日本の軍艦マーチのメロディーで歌っているのですよ。驚いた私は、終わってから言ってやりました。

「世界を統一する生き神様というのに、われわれ朝鮮人の仇である日本の国の、しかも最も軍国主義を代表する″軍艦マーチ″で、自作の賛美歌を歌うとは何ごとですか?こんな愚かなことがどこにあるのですか?なぜあなたが再臨メシアなのですか?」

いろいろ質問すると、文鮮明は顔を真っ赤にしていましたが、「金さん頼みがある。自分で作詞したものがまだ他にもあるので……」と言って、私に作曲を依頼しました。すぐにOKしてその後、
約二、三年間で私は統一協会の聖歌を作曲しました。文鮮明作詞が五曲、劉孝元作詞が一曲、私の作詞が十三曲。合計十九曲が私の作曲で、今でも世界じゅうの統一協会で熱心に歌われていますよ。韓国で作られた聖歌の本は「作詞・作曲、金徳振」を消してしまいましたが、日本の本には「作詞・文鮮明、作曲・金徳振」が五曲と、「作詞・作曲、金徳振」十四曲の合計十九曲が載ってます。

さて、話は少し戻りますけど、文鮮明を訪ねた翌日から、美しい女性たちが妹の家に私を訪ねて来るようになりました。「金先生、私たちの教会へ通ってください」というわけです。

作曲を引き受けたこともあるし、通い始めたら待遇が良い。皆でブロマイドを作っており、東大門市場で売っている信者もいる時代でした。そんな貧しいなかで、私に背広を何着も作ってくれたので、嬉しくて一所懸命に作曲したわけです。

そのうち、嫌でも文鮮明の原理を聞かされるようになりました。簡単に言うと、
「六千年前、エデンの園でまだ高校生ぐらいの年で未成熟だったエバを、サタンの天使長ルーシェルが犯してしまった。これが世の中に罪悪をもたらした原罪である。聖書に記されているとおり『目には目を、歯には歯を』で、今度はサタンを騙して世の女性たちを、復帰させなければならない」

要するに文鮮明は、若い頃に神の啓示を受けた再臨メシアなので、セックスで破綻された世の中を、自分が女性とセックスすることで元の姿に復帰させ、血代交換(血分け)をしなければならない……と言うのです。

しかし、これは表に出せない秘密の教義なので、対外的な説教ではそのたとえとして、こう話していると言っていましたーーイエス・キリストが十字架にかけられるまえ、神に向かって「できればこれを避けて頂きたい」と祈った。原理では、神は九五%までは人間を引導してくださるが、残りの五%は人間自身で考え解決しなければならない。イエスにも神は自分で解決しろと言ったので、血の涙を流す苦労の末に悟った。
「お父さま、お父さまの意のとおりになさってください」
いやあ、この原理をいち早く私は悟りましたねえ。人間の身体をした神様(文鮮明)のセックスの輪をどんどん拡げていくことが、神様の希望を叶えることになる―。もともと不良で、青春株式会社社長を自称して女遊びをやりまくっていた私は、ピンときた。

これは罪ではなく、良い仕事なんだと。学生時代に日本で、喫茶店の女の子などを誘惑してその晩に犯したときなどは、罪の意識を感じたこともあった。だけど統一協会の復帰原理は、一所懸命にセックスに励めば励むほど、神の摂理に従うことになる―。

そこで私はまず、文鮮明とセックスして復帰した劉信姫さんから、「神様の尊い血」を分けてもらうことにしたのです。今はもうお婆ちゃんになったけれど、当時の劉信姫さんはとても美人で、頭の良い純粋な人でした。だから文鮮明に教えられた原理を心から信じているので、他の男性に血分けする義務があると思っていたのでしょう。だから、「金徳振先生、ねえ、私の血を分けてあげましょう……」と言って、彼女の方から擦り寄ってきたですよ。もちろん二つ返事で私も「OK」。

それで私は、劉信姫さんと有難くセックスしました。彼女は夫のある身だったけど、欲求不満もあったんでしょうかねえ。不良で助平で、大勢の女性と経験してきた私のテクニックに、もうメロメロになって喜んでくれましたよ。
「今までで一番良かった。文鮮明先生より何十倍も良かった」と言ってね。
復帰原理の実践とは言え、これはもう普通の男女のセックスそのもので、女が上とか下とかは関係ありません。その後も、別の女性と好きなようにやった。

原理の本を書いた劉孝元さんたちのようにおとなしく真面目な人たちは、文鮮明が自分で犯して復帰させた誰々と寝なさい、と指示されるまで待っていましたが、私から言わせればボンクラたちですよ。私は違う。九五%は神の教えだが、残りの五%は自分で考えました。

文鮮明と復帰のセックスをした女は、他の男と血代交換のセックスをしなければならない。男は第二の女とやり、女は第三の男とやり、そして第四の女へとリレーをしていく……。こうして拡がっていくのが原理じゃありませんか。それによって世界じゅうの男女が血代交換され、身体の血代交換が進行し拡大することが、すなわちサタンの血を追放することになる―と、原理で文鮮明が教えているんですよ。

だから私は遠慮なく自信をもって、東奔西走で励みましたねえ。ソウルはもちろん大邱でも釜山でも、キレイなべっぴんさんばかりを厳選して、十五~六人はやりましたかねえ。ソウルで私が五人の女性とセックスしたのが、一週間後には何と七十二人の輪になったそうです。これも立派な原理実践の成果ですよ。

ところが、文鮮明や劉孝元さんから「ダメだ」と言われました。その理由は、
「メシアの文先生から受ける復帰のセックスは、蘇生・長成・完成の原理で三回セックスしなければならない。お前はまだ一回しかしていない劉信姫とやったから、無効だ。何百人に輪を広げても意味がない」

それで私は怒りましたよ。「この野郎、そんな嘘があるか!」とね。サタンにエバが犯されたとき、神は何もできなかった。サタンに勝つには条件さえ合えば良いではないか。それが文鮮明と三回しなければ、女性は復帰できないとは何事か。この犬畜生め、と怒って喧嘩したのです。

それからあと、私は大邱へ行って永信中高等学校の音楽教師をやってましたが、ある日、文鮮明の首弟子だった朴正華さんが大邱へ来たのです。文鮮明が大邱の美人信徒・萬玉謄と私を、正式に結婚させよと指示したそうです。もちろんこの女性と文はセックスした仲です。ところが偶然にもある所で、李錫彬にばったり会いました。刑務所で私に文鮮明宛の手紙を頼んだ、あの男ですね。

李錫彬は出獄してから自分の罪を悟り、今は大邱市内の小さな教会の伝道師をしている、という。そして、
「この機会にあなたも自分と同じように、一般の女性と再婚して、天の神様のお許しを受け、キリストの福音を伝播する伝道者になったらどうですか」

朴正華さんも同調してくれましたので、李錫彬が勤める教会の長老の長女、姜恵環執事と、私は再婚しました。貧しかった私が結婚式で着た上着は、朴正華さんから借りたものでした。それから今日まで、神のお許しとお恵みで私はとても幸福で、七十五歳のときに、かわいい孫まで授かったのです。

再婚して二年目に、私たち夫婦は大邱からソウルへ引越して、私は城東高等学校の音楽教師になり、夜は神学校の生徒として勉強しました。ちょうどその頃、親友の金景来さん(現在は韓国基督教総会事務局長)が新聞記者で、「統一協会の正体」という記事を大きく書いたのです。

その新聞記事を読んだとかで、思いがけない婦人が私を訪ねてきたので、ほんとに驚きましたねえ。その婦人とは、文鮮明の本妻だった崔先吉さんなんですよ。

崔女史は、文鮮明の人格や統一協会の性の乱脈を知り、呆れ返って離婚して、可哀相なヤモメになっていた。そのとき崔女史は私に、こんな話をしましたよ。

「金先生、この機会に文鮮明という男が、再臨主ではないことはもちろん、人間でもない、恐ろしい蛇のような奴であることを全世界に知らせましょう。

文鮮明は女好きの性欲の固まりで、私が文と結婚して息子(聖進)を産むまで、夫婦関係を毎晩十回以上しても、元気溌渕だった。これは彼が蛇のように、異常に精力が強いからです」

私もまったく同感でした。統一協会は宗教ではありません。淫乱なセックス教団なのです。文鮮明と喧嘩してから大邱へ移るまで、私は朴正華さんのいた鉱山へ追いやられたことがありました。一年半ほどいてソウルへ戻ってから、友だちが借りてくれた部屋で男六人、女三人で楽しく、″復帰ゲーム″をやったことがあります。統一協会の原理を実践しただけですが、そこには宗教らしさは一つもありませんでしたね

私は悟りました。文鮮明のセックス原理は間違いだと。彼はこの原理を振りかざして、お母さんとその娘二人を犯し、下の娘さんには子どもまで産ませています。極悪非道な行為とはこのことではありませんか。

今度こそ文鮮明も統一協会も、神の裁きを受けるときが来ました。そしてたくさんの犠牲者たちに、その罪を償わなければならないのです。

私自身も不良青年時代に罪を重ね、統一協会に入ってからは原理を盾に、好き放題に淫行を重ねた罪は、幾千万の厳罰を受けても仕方がありません。天の神様に心から懺悔し、ひたすら悔い改めて、警察牧師としての仕事と孤児の救済などに全力で奉仕している毎日であります。

あとがき

私は一九八五年からこの原稿を書き始めた。

『野録・世界基督教統一神霊協会史』と表題も決めた。日本流に言えばさしづめ『ドキュメント・統一教会史』といったところである。

目的は、文鮮明と十三年間にわたって行動をともにした記録を克明に書き遺し、その虚像を多くの人に知ってもらうためだった。再臨メシアを自称する文鮮明のおよそ宗教人にあるまじき行為を、統一教会創設の前後、私は最もよく知り得る立場にあった。

とりわけ、身辺に多くの女性を侍らせながら、復帰原理を名目に人妻であれ学生であれ、片っ端からセックスを行ない、妊娠させた娘を日本に密航させて出産させた事実など、人間として許せることではなかった。

しかし当時の私は文鮮明の直弟子であり、結果的に彼女たちが幸福になってくれればと、原理の教えを信じて見守るよりなかった。

文鮮明の悪行を知り過ぎた私は、一九六二年、彼の卑劣な裏切りで縁を切り脱会した。そしてほぼ二十年後、今や大幹部となった当時の同僚や部下に請われ、本部教会に足を運ぶことになった。

教会側の期待は、私を貴重な昔の生き証人として利用すること。ただし一定の枠内のみについて信者の前で語らせることだった(獄中から南下するときの文鮮明の苦労話など)。私にも密かな目的があった。統一教会のその後と、苦楽をともにした大勢の信者たちの消息を知ることである。そして知り得だのが、文中で述べてきたとおりの悲劇ばかりだった。

原理を信じ文鮮明に従えば幸福になるはずの女性食口たちは、明日の糧にも困るほど追いつめられ、生きた屍のような余生を送っている。文鮮明のために哀れな枯木となったのである。

私が原稿に着手した動機はそこにあり、彼女たちもまた一日も早い出版を願ってくれた。私が知る若い頃の彼女たちは皆、豊かな財産家で輝いていた。だからこそ文鮮明につけこまれたのだが、貞操を奪われ、財産を失い、家族と離散し、子どもたちにも疎まれている現在の彼女たちには、独りで淋しい老後を送る以外に道はない。

その原因と過程をよく知っている私は、事実を公表する義務と責任を痛感させられた。

だが、一方で不安と懸念もあった。軍事政権という韓国の政情である。統一協会と裏で通じた陸軍の一部権力が、まともに出版を許すはずがあるまい。

本書に「推薦の辞」をいただいた卓明煥さんが実例である。統一教会批判を続けてきた卓さんはある日、KCIAに拉致監禁され、生涯消えることのない大きな傷跡を背中に負わされた。卓さんはそれでも引かず頑張り続けてきたのだが、問題は私の場合である。もとより権力の弾圧や暴力は厭わないが、病み上がりで高齢(脳梗塞・現在八十一歳)の身、どこまで闘えるかだった。遺書がわりに生命がけで書くのだから、今さら生命も惜しくはないが、出版を実現する前に殺されたのでは目的が果たせない。そんなわけで、ぼつぼつ原稿を書き足しながら、私は時期の到来を待ち望んでいた。

時は流れ、真面目なクリスチャンの長老として人望ある、金泳三大統領が誕生した。金大統領の英断で今、韓国は目を見はるスピードで政界はもちろん、各界各層の浄化が進んでいる。そんな折もおり、遠く仁川の拙宅を訪れてくれた恒友出版の斉藤繁人社長と出会い、心から信じて本書の出版を託すことになった。長い年月の念願が叶い、私はほんとうに喜んでいる。

出版に当たっては、六千枚にのぼる韓国語原稿の整理分類・翻訳・執筆・編集と大変な作業が続いたが、予想より逼かに早く進行したことに驚き感謝している。

紙上を借りて、改めてご協力を頂いた韓国と日本の同士たち、翻訳の金基銑さん、釜山から日本の大学へ留学している金芝英さん、恒友出版の木下さんほかのスタッフの皆さんに衷心よりお礼を申しあげたい。

私は本書の印税を、文鮮明の犠牲となって老後を苦しむ人たちの救済にお役にたてばと、寄附するつもりである。

最後に、本当の幸福をつかめないまま物故された、「文鮮明と統一協会の犠牲者」たちの霊に、深い祈りを捧げたい。

一九九三年十月吉日 朴正華

[出典:六マリアの悲劇―真のサタンは、文鮮明だ!!/朴正華]

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