【六マリアの悲劇】まとめ(06)

六マリアの悲劇
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第六章:真のサタンは文鮮明だ

生き証人の利用価値

再婚して新天地へ

私は文鮮明に裏切られ、ソウルの駅前の簡易宿泊施設で辛うじて生き延びていた。そんな私を救ってくれたのは、厳徳紋だった。私は彼の助けで釜山へ行き、住宅建設の仕事をするようになった(彼は早稲田大学の建築出身で、今や世界の建築家百人の一人)。

それでもまだ私は、文鮮明から一度くらいは何かの連絡があるだろうと待っていたが、二年経っても三年経っても、文鮮明からの連絡は一度もなかった。

文鮮明が神様とは違う、俗な性格の男であることを、人一倍知っていた私だった。それでも組織の頂点に立っている以上は、分身として働いてきた私を、絶対に放置するはずがない。興南の獄中から「生死をともにしよう」と誓って、ここまで助け合い、生命をかけてきた二人だ。心の片隅でそれを信じていた私だったが、十四年間にわたった文鮮明との縁もこれまでで、寝ても醒めても私の人生だった統一協会からも離れることに決めた。

この頃、私は厳徳紋の妹と結婚した。彼女の夫はソウル地方検察庁の検事で、立派な人物だったが、六・二五動乱で、北の人民軍に家の前で射殺された。子どもが三人いた。

私はまた家庭を持つことになり、地に足の着いた、第三の人生に踏み出すことになった。第一の人生は北朝鮮時代、第二は興南刑務所から統一協会の時代である。このとき、私は四十五歳、妻は三十七歳だった。

それから十年間、私は釜山で住宅建設の仕事に没頭した。当初からの計画だった三百軒の住宅建設やアパートの建築も終り、無事に責任を果たすことができた。

次の約十年は、元統一協会の食口だった人に頼まれ、埋立工事に協力した。新京の工業専門学校土木科出身で、軍の工兵隊にいた私にとって、土木工事は専門分野である。

大勢の作業員を指揮監督し、楽しく仕事して過ごしていた。そして立場上、部下との親睦の酒を毎日、豪快に汲み交わしていた。ところが、これがいけなかった。

病いに倒れて

一九八一年(昭和五六年)、私は脳溢血で倒れ、約二か月間、仁川キリスト病院に入院することになった。家内の兄、厳徳紋の妻の高喜鍽と、姉の厳順泰が、私に、
「あなたと文鮮明先生には、天が結んでくれた深い縁があるので、統一協会から離れてはいけません。離れたために、あなたは病気になったのですから、今からでも懺悔して、統一協会に戻りなさい」と勧めた。

私も思いがけない病気で、少し気が弱くなっている状況だった。生来のクリスチャンではあったが、信仰心が薄れていたのかもしれない。
私は、仁川の松島にあった私の家の裏山に入り、三か月間祈禱した。私が祈ったのは、「今までの私の生き方が正しかったのかどうか」、「文鮮明を信じてきた私の過去が、正しかったのかどうか」ということだった。また、「病気になったこの身体で、これから私は、どう生きていけばよいのか」と心を込めて祈り続けた。

病気の後遺症で不自由な身体になった私だが、仕事の第一線から退いたので、時間だけはたっぷりある。統一協会のその後も知りたかった。そして、熱心な食口たちが集まる近くの統一教会へ行って彼らと語り合い、少しでもよい方向に導くことに努力しよう、と思うようになった。私が足を運ぶようになった仁川地区教会の牧師は、文弘権という人だった。

何か月間か通っていたある日、礼拝が終わったあと、ある中年の女の人が私のところに来てあいさつした。「私がわかりますか」と彼女は言ったが、いくら考えてもわからなかった。すると彼女は、「大邱教会にいた柳勧師の娘です」と言った。そう言われて思い出してみると、私が捿鎮鉱山にいて、大邱教会まで礼拝に行っていたとき、まだ高校生だった柳執事の娘さんだった。

今は、ここの教区長の文弘権牧師の奥さんになっていた。柳勧師という人は、信仰心があつくて、いろんな苦労を経験しながらも、一所懸命に教会へ通っていた人で、その子どもは全員、教会の役員になっていた。

一九八三年、歳をとっている食口たちの慰労旅行をかねて、聖地巡拝旅行があった。七十歳の私も老人食口の一人として参加した。そのとき、柳勧師に二十何年ぶりに会い、その間の話や、子どもたちの熱心な信仰生活のことを聞くことができた。

ソウルの本部教会から連絡がきたのは、旅行から帰った頃だった。「大事な相談があるので、どうしてもソウルへ来てください」という。

久しぶりに会った幹部

南大門にあるグランドホテルのコーヒーショップに、当時、勝共連盟の会長だった金寅哲と、国際部長兼渉外を担当の安炳一、金徳振牧師、劉孝敏、そして私、朴正華の五人が集まった。

この日、本部教会が私に来てほしいと言った理由は、
「金徳振の行動を抑えることができるのは、朴先生しかいないので、何とか説得してほしい」ということだった。金徳振牧師は警察の留置場などで、容疑者や犯人に神の教えを説き、素直で平穏な心境になるよう伝道する仕事に専念していた。

金徳振は前述した通り、作詞・作曲に優れた才能を持っており、統一協会の食口だったときに統一協の聖歌十九曲を作詞・作曲していた。ところが統一協会がその歌を、作者の名前も載せず無断で、韓国語、日本語、英語で何百万部も印刷し、販売していた。その出版権や著作権の問題を提起するために、金牧師が龍山警察署に、「世界基督教統一神霊協会」の協会長である李載錫を告訴しようと準備していたのである。

また金牧師は、彼が統一協会にいた頃、文鮮明から直接復帰を受けた劉信姫から、復帰のセックスを受けたあと、リレー式に彼も十人あまりの女の人たちを復帰させたという。こういうやり方で復帰を受けた人が、また他の人を復帰し、その復帰された人が他の人を復帰させると、セックスの輪がどんどん広まってゆき、世界じゅうの人間がすべて復帰することになる。彼には、この復帰原理の実践方法について、自分の体験をそのまま書いた原稿を、各新聞に発表したいという意向もあった。

同時に、五千万ウォンの損害賠償請求訴訟を民事裁判にかけ、金徳振牧師が五百万ウォンの供託金を出して「聖歌」の使用禁止処分を申請する計画もあった。
金牧師はこれらの計画を、弁護士と相談して準備していたところで、この計画を何とか抑えるために、この日の会合がもたれたのである。

私は金徳振と親しいし、彼の心情や怒りもよく理解できたが、一食口として統一協会へ通い出してもいたので、
「もう少し統一協会の様子を見よう。問題提起はいつでもできるのだから」
と金徳振を説得し、ひとまず訴訟を止めさせることができた。

そのとき、安炳一と金寅哲が私に、
「朴先生、あなたは仁川にいるより、ソウルの本部へ来た方がいい」
と言うので、それから三年間、私は本部教会に通うことになった。

統一協会創立の生き証人

ソウルの本部教会では、最長老の私に何か肩書をつけようと、あれこれ提案してくれたが、私はすべて断わった。統一協会の胎動期から関わってきた私は、一人の年老いた食口として、統一協会の健全な発展に役立つことなら、私にできる協力はしようと思っていた。自分たちで産んだ子どもの成長を見守る、親の心境でもあった。

私は一九八一年から五年間、熱心に教会に通った。一所懸命、お祈りもした。
また、統一協会には、「朴正華は再臨メシアと一緒に、苦難の道を歩んできた生き証人」と宣伝され、あちらこちらで証言することになった。
日本へも行き、十数か所で四十回にわたり、約五千人の前で講演した。

ただし、私の証言には必ず条件が付いた。講演する内容は、「興南監獄から、南へ避難したところまで」で、それ以外のことは話さないでくれという。要するに文鮮明が、いかに苦難の道を乗り越えてきた偉大な人物かを、多くの人に印象づけることが目的なのだ。私は複雑な心境だったが、事実あったことだけを語った。

でも、私は統一協会の熱心な食口は好きだった。どんな宗教でもそうだが、上の幹部が腐っていても、末端の信者はマジメで純粋な人が多い。そんな人だちと触れ合えることが楽しみだった。

一九八五年七月八日、私は、統一神学校、学生会長などの要請で「避難」を実演した。文鮮明と一緒に平壌から釜山まで下りていった避難過程を再現するため、臨津江から永登浦まで歩いてほしいということだった。私は臨津江に到着し、昼食を食べたあと、雨が降りしきるなか不自由な身体で、十八キロくらいの距離を歩いた。

このために、あとで足が腫れあがり、病院へ行くことになった。七十四歳という歳のうえ、あまりにも長い時間歩いたので、血液の循環が悪くなって、昔骨折した所が腫れあがってしまったのである。病院では、この腫れあがった毒がお腹の方に回ると、死んでしまうと言われた。

最初の治療で、薬代が二万ウォン、針代五千ウォン、交通費四千ウォンなど約三万ウォンかかつた。完治するまで私の経済状況からは、支払い不可能な金額だった。学生会長に連絡してみたが、何の返事もないので、仕方なく、万一のためにとっておいた小切手を銀行に入れ、一か月に百万ウォンという費用をかけて、やっと治療することができた。

統一神学校の校長だった李耀翰牧師に事情を詳しく話し、治療費の分担をお願いしたが、李牧師にも、「自分としてはどうすることもできない」と冷たく言われてしまった。
李耀翰牧師ほどの長老でも、これほど明確な問題を「どうすることもできない」のは、人を利用するだけ利用して、あとは使い捨てにする文鮮明の体質と、独裁支配が変わっていない証拠である。

文鮮明の嘘と日本の信者

こんなこともあった。
一九八三年のある日、統一協会の国際部から私に連絡があった。「ちょっと聞きたいことがあるので来てほしい」ということだった。
行ってみると、『中央日報』(韓国の代表的日刊新聞)に載った写真を見せてくれた。「この写真知ってますか」と国際部長の安炳一が聞いてきた。その写真は、髪の毛の短い人が冬用の帽子をかぶり、何か荷物を背負っている人をおんぶして、ズボンを捲りあげて川を渡っている写真だった。

「この写真は、文鮮明先生が朴さんを背負って、川を渡っている写真ではないですか」と安炳一は聞いてきた。
私は、「その当時、写真を撮る余裕などなかったし、先生におんぶされて川を渡ったことはありません」とはっきり答えた。すると国際部にいた職員たちも、さすがに何も言えなくて、この件はこれで終わったと私は思っていた。

ところで、その翌年の五月、私は日本へ行くことになった。
東京・渋谷の本部教会に案内されて行くと、一階の応接間に飾ってある「文鮮明先生の初期の歩み」という展示コーナーに、『中央日報』に載っていた写真を、壁の大きさに拡大したものが掲示されていた。日本の本部教会の幹部たちが集まってきて、その写真の前に私を立たせて、記念撮影をした。

この写真について、彼らが私に説明してくれた。アメリカにいる文鮮明がこの写真を最初に見て、
「これは、私が避難するときに、朴正華を背負って、真冬の寒いときに裸足で川を渡る場面である」と話したそうだ。その張本人が来たというので、日本にいる食口たちが感激し、当時の話を聞かせてほしいと頼んできた。

私は本当に困ってしまって、何と言えば良いかわからなかった。韓国の統一協会の国際部で言ったように、「こういう写真は撮影したことがない。文鮮明先生が私を背負って、裸足で川を渡ったことはない」と言ってしまえば、文鮮明が嘘をついたことになる。そうなれば、日本の食口たちは失望するに違いない。

そう考えると私は、仕方なしに嘘をつくしかなかった。それで私は、「龍媒島にいたとき、青龍半島から帰ってくるときに、満ち潮になって仕方なく、先生におんぶされて渡った」と答えた。

そして、
「そのとき、十五、六人くらいの食口がついてきて、私たちの姿を撮影しておいた。李承晩大統領の夫人のフラソチェスカ女史が、動乱の写真を集めており、『中央日報』に提供したものだろう」と説明した。日本の食口たちは感激していたが、私は良心の呵責を感じ、とても苦しかった。

この写真はソウルの展覧会でも展示された。その際、このような説明文が添えられた:
「中国の共産主義勢力から逃れるため、一部凍った漢江(忠州市)を渡る 韓国人の難民男性。背中には老いた父を背負う。写真撮影 : 1951年1月14 日、米軍伍長J.J.マギンティ。」

この写真がまた、一九八五年三月三十一日付『東亜日報』の「秘話六・二五=丁一権回想録」に掲載されたが、『中央日報』に載ったものより、もっとはっきりと見えた。その写真を見ると、映っているのが文鮮明と私でないことがはっきりとわかる。

このように事実でないことを事実のように作り上げるのは、統一協会にとってはごく普通のことで、彼らが宣伝するときの常套手段である。

原理は金百文の盗用

ソウルの本部へ通うようになってから、私は、創立当時に苦労した多くの食口たちに会う機会ができた。脱会した人も多いし、まだ中でがんばっている人もいた。年老いた婦人たちがもっとも気の毒だった。

復帰原理を口実に、文鮮明に体をもてあそばれ、財産も家族も失って、生活に困る状況になってしまったその人たちは、文鮮明を恨み、こんな人生にした神様も悪いと嘆いていた。

統一協会は、表向きは凄い勢いで拡張しているかのようだが、日本でもアメリカでも、金にまつわる醜聞がっきなかった。

一九八四年の七月二十日、文鮮明は脱税の罪で、アメリカ・コネチカット州のダンベリー刑務所に収監された。一緒に収監されて五か月近く刑務所で文鮮明と生活した日本人の神山威(その後、日本統一協の会長に就任=九二年)は、「刑務所での文鮮明先生の態度は立派だった」などと発表したが、それは文鮮明が、刑務所に入るのが三回目であり、「もうすっかり慣れている」だけの話なのだ。

興南では、平壌の女性だちとの乱脈な行為で、社会秩序紊乱罪。ソウルでは食口たちの偽証や、私たちが必死で動いた証拠隠滅のおかげで、無罪になったとはいえ、事実有根。本来なら長期刑になるところだった。

アメリカの脱税事件の他にも、不動産取得をめぐる妙な噂も飛びかっている。一年余を獄中で過ごして、翌年の八月二十日に釈放されたが、この期に及んでも統一協会は、「文鮮明先生は無実だった」と叫んでいる。

三十五万人ものアメリカの牧師に「統一原理」のビデオや本を贈呈したり、莫大な金を使って出所祝いするよりも、もっと足もとを照らした行動こそ、本当の原理ではないのか。

しかも、統一協会が、宝のように大切にしている「創造・堕落・復帰の原理」は、文鮮明の発案ではないのだ。イエスラエル教会・金百文のもとへ崔先吉夫人と通っていた文鮮明が、金百文の論理をそのまま盗用したのである。

うろ覚えで論理一貫しないまま、紙に鉛筆で書かれた文鮮明のメモを、私と劉孝敏が書き取って清書し、劉孝元が苦労して構成・執筆したものだ。統一協会の原理は、死んだ劉孝元が本当の著者であり、本来なら劉孝元こそ教祖である。その大恩ある劉孝元の優秀な頭脳と人格に嫉妬した文鮮明はその後、あらゆる手段で意地悪を重ね、ついには死に至らしめた事実もある(後述)。

統一協会の原理は、文鮮明が金百文の論理を盗用して、劉孝元がまとめあげたもの、と私が指摘する根拠は、金百文の著作『精神神学』『根本原理』を読めば一目瞭然である。

兄妹結婚の疑惑

忘れられないことがある。あるとき、釜山にいる宋秉昊の家族が突然、私に電話してきて、「釜山の大学病院に宋社長が入院中で、朴さんにぜひ会いたい、と言っている。宋社長は危篤状態です」と言う。私はすぐに飛んでいきたかったが、そのときは私も病気で、身動きができない状態だった。だから、

「もう少し待ってください。病気が治ったらすぐに飛んでいきますから」
と話したのだが、あとで、その三日後に亡くなったという消息を聞いた。この亡くなった宋社長が生前、何回か私に文鮮明について話したことがあった。

「文鮮明が妻の鶴子以外の女に生ませた息子と幹部の娘が結婚したが、これは兄妹結婚ではないか?その幹部夫妻は、十六~七と歳の差が大きくてとても結婚の相手にはならないのに、三十六家庭(後述)の一つになった。
実はそのとき、妻の方は文鮮明との復帰で妊娠していた。その当時は適当な食口がいなかったので、金明熙とか崔淳実のときのように頼める人がいなかった。そこで仕方なく、元幹部に預け、文鮮明が妊娠させた女食口と結婚させることにしたのだろう。文鮮明の子どもであるその息子と、幹部とその妻の二人の間に生まれたとされてはいるが、実は文鮮明の子どもである娘が結婚するのは、兄妹結婚に間違いない」

韓国の習慣上、兄妹結婚というのはとんでもないことで、あってはならないことだ。私は一所懸命、「そうじゃない。何かの間違いだろう」と彼を納得させようとした。

この宋社長は、釜山で私が文鮮明を紹介して、食口になった。ソウルの延禧専門学校(現在の延世大学)出身で、とても親しくしていた。釜山の税関課長を辞めてから、通関事務所を創立した社長だった。

統一協会がいよいよ『原理解説』を出版することになったとき、私が頼んで五十万ウォンの資金を出してもらったこともある。

最初のうちはとても熱心な食口で、ずいぶんと献金していたが、「文鮮明という男の正体を見た。自分は失望した」と怒って、脱会してしまったが、その後も文鮮明のことを追究していた。

その宋社長が、自信をもって「事実だ」と言う以上は、反論もできなかった。
また当時は鉱山にいて、三十六家庭の経過を知らなかった私には、また反論の材料もなかった。

原理を実践した金徳振

文鮮明と統一協会の復帰問題で、どうしても書き遺しておかなければならないのは、前にも触れた金徳振の問題である。

捿鎮鉱山の時代、趙東錫がソウルから金徳振を連れて大邱に来た。連絡があったので私が大邱に行くと、文鮮明から、
「金徳振はソウルで問題が多いので、鉱山にいる朴正華の所へ連れていきなさい」
と言われたので、連れてきたという。

金徳振は本来、音楽に才能のある芸術家として、素直な性格を持った人だた。私は金徳振と一緒に鉱山へ戻ったが、どういうわけでこうなったのか、彼に聞いた。すると彼は、
「文鮮明の原理を聞いて、文鮮明から復帰を受けた女から、自分も復帰を受けた。そして自分も、他の女の人に復帰してあげることになったが、それは原理どおりに実践しただけだ」と言った。文鮮明から復帰を受けた劉信姫から、金徳振は原理どおり三回にわたって復帰を受けたそうだ。

その劉信姫から復帰を受けた彼は、鍾路五街の厳順泰の家で五人の女たちを復帰させた。その女たちがまた、違う男たちを復帰させ、わずか一週間のうちに、七十数名の男女が復帰儀式に参加することになった。

こういうやり方で、だんだん広まっていったところ、復帰という男女のセックスの噂が、協会長の劉孝元や文鮮明の耳に入った。その結果、問題の金徳振を、捿鎮鉱山の私の所へ追放して、二度とソウルへ現われないようにすることを、決定したということだった。

鉱山へ来た金徳振は、鉱山のトンネルの中には入ろうともしなかった。部屋に一人でこもって、ただひたすら原理にもとづいた作詞や作曲をしていた。

私は金徳振に最初、「何があったのか正直に話してほしい」と聞いた。すると「私は原理どおりに実践しただけです」と彼は言った。そのとき私は、
「たしかにあなたは原理どおりに実践したのだから、あなたには何の間違いもないと思う」と私は話した。それから約二年間、私は彼と一緒に過ごした。

金徳振は文鮮明からの送金が途絶えて、食う物もなくなったとき、またソウルの方へ行き、復帰の実践を再びやり始めた。劉孝元が私に連絡してきたので、私はソウルに行き、復帰の実践をしていた金徳振を大邱に連れていって、現在の奥さんと結婚させるようにしたのである。

考えてみれば、金徳振は原理どおりに実践しただけだ。何が悪かったのだろうか?

文鮮明は原理の説教をして、数えられないほどの家庭を破壊したが、金徳振も文鮮明の原理どおりに実践しただけである。その人を山奥の鉱山に閉じ込めて、ソウルに二度と現われないようにする、ということが理解できない。

金徳振を私に預けるということは、彼を殺してしまえ、という意味なのだろうか。どうしても納得できなかった。しかし、そのときの私にはどうすることもできなかった。

三十六家庭の役割

続出した「再臨メシア」対策

改めて考えてみると原理どおりに言えば、文鮮明が復帰した女性が、男の食口たちを復帰させ、その男の食口たちが、また違う女の食口を復帰させる、という方式で、世の中の人間すべてを復帰し、血代交換させるのは当然ということになる。こういう過程のなかで、
「自分こそが再臨メシアだ。あの文鮮明はインチキでサタンだ」
と唱え、自分の復帰を受けなければ本物ではない、と主張する人が何人も各所に出現し、その人たちに復帰を受けるために集まる信者たちも増えるようになった。

こういう事態になって、文鮮明は考えた末、「三十六家庭」というのを作り出した。
文鮮明が世界の人間をすべて復帰し、血代交換させることは無理なので、この三十六家庭だけを直接復帰(血代交換)させることにした。そのあとは、真の父母が「聖水」をまいて、新しく結婚する新郎新婦に祝福を与えるという形に変え、「合同結婚式」を行なうことにした。

三十六家庭というのはこういう経路で作られたのだが、では、なぜ「三十六」なのか。
「旧約時代」の十二支派、「新約時代」のイエスの十二弟子、そして文鮮明の原理を「成約時代」と称し、その十二弟子、合計三十六家庭を定めれば、旧約・新約・成約と全世界を網羅することに通じる、というわけである。

そして三十六人の新婦は、文鮮明が復帰した女性でなければ、資格がないとされていたが、理想どおりにはいかなかったようだ。

復帰とはセックスのことだが、その目的は「血代交換」である。
「第二のアダムであるイエスが達成できなかったことを、第三のアダム(要するに文鮮明)がこの世の中に再臨して血代交換をする。

これは要するに、メシアが世界の代表として、六人のマリアと三十六家庭の妻たちとセックスをすれば、汚れた血がきれいになるということで、この儀式を血代交換と言う。そして、血代交換をした三十六家庭から生まれてくる子どもは、罪のない天使ばかりであり、こういう人たちが世界に広まることによって、罪悪のない世の中が生まれる」ということだ。

現在では、三十六家庭と六マリアのように、文鮮明と直接、復帰の血代交換を受けた人はいないと思う。さすがのタフな文鮮明でも、とても食べるわけにいかない人数だ。だから今は、文鮮明が「聖水」を撒くことでその代りにしており、セックス三回の方法は同じにしている。

また、日本では血代交換を「血分け」という表現で認識されているようだが、統一協会には「血分け」という言葉はない。どこかで誤って伝えられたのだと思う。

この三十六家庭は、血代交換をした神聖な家庭ということで、統一協会の食口たちの憧れの対象になっている。何か大事な役割があると、たいていこの三十六家庭からその責任者が選ばれるという重要な位置にある。

この家庭のなかで、どちらかが亡くなっている家庭が五家庭、脱会した家庭が八家庭ある。これら十三家庭の存在が、文鮮明の原理がどこか間違っていることを考えさせてくれる。

原理によれば、失われたエバを取り戻し、六マリアも取り戻せば、真の父母とともに暮らすことができるようになり、堕落していた人間が復帰され、創造本来のエデンの園に戻り、幸せな生活ができるようになる。

その原理どおりに考えると、二度とこの世の中では、この三十六家庭と統一協会の食口たちは、死ぬこともなく、苦痛もなく、堕落することもありえない、ということになるが、どうしてこの三十六家庭のなかの十三家庭が、死んだり、脱会したりすることになるのだろうか。これは、その原理に間違いがあるからこそ、こういう結果が出たのだと思う。

犠牲になった功労者

また、文鮮明が再臨メシアだと言うなら、初期から自分の家庭を犠牲にして、興南刑務所まで通い、自分の髪の毛で靴下を編んでくれた玉世賢。自分の人生の半分以上を文鮮明に捧げた九十六歳になる彼女が、間借り生活でやっと生きている状況を、文鮮明は何としても助けなければならないのではないか。

また、宋道旭長老の妻だった朴奉植執事も、文鮮明が夫の宋道旭長老と呉永春執事を結婚させたため、独りになってしまった。その後再婚した夫もすぐに亡くなり、行く所がなくなった朴奉植執事は、教会で暮らしていた。そして、年寄りはもういらないという教会の方針で、教会からも追い出され、食べるのもままならない状況にある。

熱心に文鮮明を祀ってきた女の人たちを、どうしてこういうふうに見捨てることができるのだろうか。初期に自分が復帰させるときには好き勝手なことをやり、その若さと美しさとお金がなくなるとすぐ捨てて、他の女に移っていき、もう二度と会おうとしなかった。
原理にはそういうことは書かれていない。
これは、女の人だけの問題ではない。私、朴正華のように、折れた足を引き摺り、一緒に南へ避難してきた者に対しても、嘘の話を作って裏切り者にした。私はどんなことがあってもこの原稿を仕上げて、真相を明らかにしようと決心した。

いくら考えても、私が文鮮明を裏切ったのではなく、文鮮明が私を裏切ったのは明らかである。

文鮮明より数段上の人格者―劉孝元

次に劉孝元さんについて明らかにする。

文鮮明がメモ書きした原理原本と、これをもとに劉孝元が構成・執筆した「原理解説」によって、統一協会のすべての食口たちが、この原理を伝道できるようになった。三十六家庭を選ぶときは、彼が苦労して、それぞれの組み合わせを決める役割を果たした。

劉孝元は、旧京城帝国大学の医学部の出身で、自分が患者の身であっても、病気については詳しく知っていた。彼は当時、結核性の関節炎を患っていて、かなり衰弱した状態であり、手術をすればすぐに死ぬ身体であることも知っていた。

ところが、そのことを知っている文鮮明が来て、神の命令だといって、手術するように命令した。文鮮明はそのとき、「それでも手術しないということは、神の命令に逆らうことだ」とまで言ったそうだ。

劉孝元は泣きながら手術することを拒否した。
「自分は注射で生きている。どうすればよいのか」と、私は相談を受けたことがある。が、やはり文鮮明には逆らえず、仕方なく手術を受け、案の定、死んでしまった。
このときの文鮮明の非道なやり方は、内部でも「間接殺人だ」とさえ言われたくらいだ。

劉孝元の葬式のとき、文鮮明は、式が終わったあと幹部たちの前で「私と劉孝元は、どういう関係なのかと思ったが、もう逝き去ったな」と言った。頭が良く人格者で信者の人気抜群だった劉孝元は、文鮮明にとって頼りにはなるが、いちばん危険な存在だった。が、それにしても不遜で非常識な言動過ぎはしないだろうか。

さらにまた、当時アメリカにいた大幹部が、
「自分がお告げを受ける人を通じて聞いた話によると、三十六家庭のメンバーだった李基錫、朴鍾九(注=この二人は当時、すでに死んでいた)、の二人は霊界でとてもいい席に座っていたが、劉孝元さんはいちばん末席に座っている」と話した。さらに彼は、『統一世界』という雑誌にこの話を載せ、清平祈禱院でも発表したが、本当に残酷な仕打ちとしか言いようがない。

劉孝元こそ統一協会最大の功労者なのに、用がすんだら寄ってたかっていじめぬき、死んだあとも鞭を打つのである。

財政を築いた実業家―劉孝敏

劉孝敏のことも話しておきたい。
劉孝敏は、初期の経済的事情が非常に苦しいときに、ブロマイド写真を製作・販売するアイデアで当時の食口たちの生活を支えるなど、統一協会の発展に貢献した人である。また、散弾の鋭和空気銃を発明し、それを製造・販売することで、統一協会の経済的な土台を作ることになった。

これがだんだん発展し、「統一産業株式会社」として創立することになり、代表取締役には金寅哲が就任した。ところが、肝心の貢献者である劉孝敏には、たったの千株が与えられただけで、空気銃の発明特許権は文鮮明の名義にされ、組立部長という肩書だけを与えられた。


1970年代、韓国の文鮮明の銃器製造工場のうちの一つで見かけられた日本人信者たち。

劉孝敏はその後、乙支路の鋭和空気銃センターで、白九変に総務の仕事をあずけ、ずっと外回りの仕事をしていた。しかし、三十ウォンのお茶代まで領収書を要求されるほど厳しく監視されたそうだ。文鮮明の指示だろうが、私と同じようなかたちで、彼を統一協会から追い出そうとする、企みだったと思われる。

とうとう劉孝敏は、統一協会と縁を切って、一九七一年に脱会してしまった。私の次に文鮮明の秘書役となり、一所懸命に働いた影のような存在が脱会するのは、劉孝敏が第二号である。

このように一番最初の秘書である朴正華を裏切り、二番目の劉孝敏を居づらくして脱会させ、第三の宋道旭や、教会最大の知恵袋で功労者の劉孝元が死亡したことを考えると、これは神の予定なのか、文鮮明の計画なのかと考えさせられる。

私が文鮮明と一緒にいた一九五三年から、一九五六年に捿鎮鉱山へ行くまでの、つまり統一協会発展の一番苦労した頃には、文鮮明の親戚は一人もいなかった。その後も、途中から文成均、文龍善の二人が入ってきただけだったが、統一協会の経済が大きくなると、ほとんどの経済支配が文鮮明の親戚に握られることになった。実は文鮮明が再臨メシアではないことを、一番よく知っているのは文鮮明自身である。統一協会の財産を安心できる自分の身内に渡して、将来の生活基盤を確立する計画を実行しているのではないか、と私は思うようになった。(第七章参照)

左から劉孝敏、著者、劉孝永(1992年頃)

話題の多宝塔を輸出した社長-劉孝永

私はあるとき、一信石材社長の劉孝永(注=九二年に引退し脱会)に会って、食事をしながら話を聞いたことがある。

劉孝永の話では、自分が経営している「一信石材株式会社」で一所懸命、知恵をしぼって研究した結果、多宝塔を「100分の16」のサイズに縮小したものを製作し、日本で販売してみたら予想外に好調で、毎月二十億円前後分を輸出していたそうだ。

多宝塔生産工場

ところが、この収人がほしくなった文昇龍は、多宝塔の製造部門を乗っ取り、その残りの部分だけを劉孝永社長に担当させることにしてしまった。

「多宝塔部門の収入が、会社全体の九五パーセントを占めていた。他の諸事業は残りの五パーセントにすぎない。いままでがんばってきた私には五パーセントだけ渡し、あとの九五パーセントを文昇龍が横取りしようとした」
というのだ。これはとんでもないことである。この会社、一信石材は、劉孝永社長が社長兼大工兼労働者で、自ら掃除までしてここまで育ててきた会社である。それなのに、
「まるで関係なかった人が乗っ取ろうとしているので、とんでもないことだ」
と言って、劉孝永はすごく怒っていた。

生産工芸品である大理石の多宝塔を生産する工場に訪れる文鮮明

この話を聞いた私は、釜山-大邱-ソウルの時代、北朝鮮での刑務所時代のことを思い出した。

その当時は、文鮮明を再臨メシアと仰ぎ、原理を聞いて、新しい食口を集めるのに必死だった。この食口たちと一緒に原理どおりの新しい世の中を作るために、毎日のように労働した。女性たちは財産も、嫉妬も考えず、原理だけに一所懸命だった。自我を捨て、家族を捨てて、ただ原理の達成を祈りながら、朝から晩まで努力していた。

文鮮明の不正と犯罪

ところが、その苦しい時代が過ぎ、経済的な余裕ができると、聞いたこともない文鮮明の親戚が寄ってたかってのさばり、文鮮明一族の天下になってきた。

文鮮明は朴某という人に資金を渡し、その朴の名義でこっそり不動産を購入していたが、これが税務署の調査にひっかかり、なんと一億二千万ウォンの税金が朴にかけられることになった。

驚いた朴の自供で、統一協会の文鮮明が不動産を不正に購入していたことが、初めて明らかになったのである。こういう行為が、メシアを自称する男のすることだろうか。

文鮮明が、脱税関係でアメリカの刑務所に服役した一件も、統一協会によれば、「文鮮明先生は何も罪がないのに服役した」ということになる。その服役しているときにも、莫大な金をバラまいて過ごしていたと暴露されたが、他人の名義で不動産を不正購入する手口や、金になる企業はほとんど文鮮明の親戚に奪い取られている現実を見るとき、いったいこれが宗教なのかと、考えざるを得ない。

文鮮明が私に話してくれた原理と理想世界、そしてその理想世界の「共生共義主義時代」とはいったい何なのだろう。

文鮮明一族の独裁は、「もっと金を送れ」「早く現金を送れ」という声になって世界へ飛んだ。ことに隣国の日本では、統一協会の実態を知らない食口たちが、理想世界の実現を信じて金集めに走り、霊感商法という反社会的な大問題に発展した。

創成期の苦労を知らない一族がなせる弊害、という他はない問題である。「法に触れて盗んでも神様は許してくれる」と、女食口を唆した文鮮明の身内らしいやり口で、物欲・金銭欲にいっそう拍車がかかっている。

そしてもう一つ。

「朝鮮は日帝支配で被害を受けた。その日本に仇を討つためにも、日本の金を洗いざらい捲き上げよ」と文鮮明が豪語していた事実(何人もの幹部が聞かされた)を、日本の純粋な食口たちは知っているのだろうか。原理の理想社会など、ただの夢物語であるし、再臨メシアのお父様など、ただの虚像にしかすぎないことを、早く知るべきである。

いったい統一教会とは何だろう?宗教か、単なる拝金企業なのか。文鮮明の狙いは何だろう?メシアを自称しているだけなら、原理はどうなってしまうのか?

文鮮明の行為が、原理に従って復帰をしたと言うのなら、原理どおり六人のマリアで十分ではないのか。六人のマリアの貞操を奪い取ったうえ、さらに、復帰するという名目で数えきれないほどの女性を犯し、財産を搾取したことは許せない。真のお母様にすると編して、処女の崔淳華をソウル駅前の旅館で犯し、また金順哲も同じ口実で犯し、そのうえ金明熙という処女も同じ口実で復帰して、妊娠させ、学生だった彼女の人生を破壊してしまった。

こういうことは、再臨メシアを自称する文鮮明の大きな犯罪であり、統一協会にとって重大な問題ではないのか。

金明熙の悲惨

延世大学の優秀な学生だった金明熙の場合を特記すると―
金明熙を妊娠させたことに気づいた文鮮明は、自分の立場が危うくなることを怖れ、彼女を同じ大学の学生で食口になった純粋な青年、呉昇澤と一緒に日本へ行かせることにした。外国での生活を保障すると約束して、釜山から漁船で密航させたのである。密航資金は文鮮明が手渡した。

日本での二人は言葉も通じず、密航者の身で入院もできないため、ひどい環境のなかで出産した。

若い呉昇澤は、赤ん坊のヘソの緒を自分の歯で噛み切って、子どもを産ませたそうである。持ってきたわずかな金を使い果たしてしまい、文鮮明からの生活費もこなかった。待ちくたびれた呉昇澤は、日本へ密航させられるとき、文鮮明が呼ぶまでは韓国に戻らない約束をしてはいたが、文鮮明のところへ戻るために再び密航した。言葉も通じない場所でたいへんな苦労をしていた二人は、まず呉青年が韓国へ帰って直接文鮮明に話し、生活費などをもらうつもりだった。

呉昇澤は、文鮮明に会って自分たちの窮情を話し、生活費を求めたのだが、文鮮明はこれを一言で断わったのである。こんなひどい話は聞いたことがない。普通の人でも、こういう状況に置かれた人に、こんな仕打ちはしないだろう。まして「再臨メシア」ともあろう人が、自分で責任をとるのが当然であるにもかかわらず、こういう非道な裏切りを平然とされたので、呉昇澤は怒った。彼はただちに、それまで再臨メシアと信じ仰いできた文鮮明と訣別した。

実はこのとき、文鮮明は「そんな金はない。自分たちで考えてやれ!」と言ったのである。私は文鮮明の隣にいたのでよく覚えている。

文鮮明の言葉に呉昇澤は怒り狂い、「何を言うか。よし覚えていろ!貴様はサタンだ!」と、床を蹴って飛び出していった。

金明熙が妊娠した当時、延世大学から入信した三人の学生のなかで、事情を聞き相談を受けた呉昇澤が、文鮮明メシアと統一協会のためと信じて、「私が引き受けましょう」と言ったのである。彼はこの身代わり役をクリスチャンの父母にも話さず、釜山で金明熙と落ち合い、小型の漁船で九州へ密航したのだった。

呉青年が怒って飛び出したとき、その場に七、八人いたが、誰も内心ではひどい話だと思いながら、何もしてやれなかった。私は今でもその事に、良心の呵責を感じる。

西も東もわからない日本で、金明熙はひたすら、金を持って戻る呉昇澤を待った。待てど暮らせど帰らぬ日日、赤ん坊をかかえた金明熙の苦労は大変なものがあった。

そんな金明熙の母子を、九州の大村収容所で発見した韓国人の黄某が、彼女を韓国に連れて帰った。金もパスポートも持たない金明熙は、大村収容所へ入れられてから、三か月が過ぎていたそうである。

金明熙が子どもを連れて帰ってきたので、文鮮明は仕方なく子どもだけは自分の籍に入籍した。
子どもの名前は文喜進という。この子は黄某という人の奥さんが隠れて養育していたのだが、交通事故で死んでしまった。

1959年に撮影された金明熙(左)と文喜進
喜進は1955年8月に東京で生まれ、1969年8月にソウルで死去した。

それ以外にも「小羊の儀式」を挙げるという口実で、処女の崔淳実を復帰し、彼女にも子どもを産ませた。その子も、ある幹部の息子として養育されているという話だ。
こんなことが許されていいのだろうか。

もう一人の「お母様」

納得できない事実は他にもある。崔元福の問題だ。

この人は、「七・四事件」のときに文鮮明が拘束され、教授たちが辞表を出し、大学生たちが退学になるという騒ぎが起きているときに偶然、私と会うチャンスがあって、非常に心配してくれた人である。「自分も力になりたいが、どうすることもできない」と残念がっていた。

彼女はすでに統一協会に入信して大学を辞め、その後、家庭も捨てて文鮮明のもとへ走った。

なぜか食口たちは、崔元福を「お母様」と呼ばされていた。しかし、この「お母様」というのは、原理のどこに出てくるのだろうか。

六人のマリアは、イエスがセックスをしなければならなかったのに、それができなかったのでイエスは死んだ。そこで第三のアダムがこの世に来て、六人の人妻をマリアに復帰させるという口実で文鮮明がセックスをし、その肉体も財産も奪いとった。そして処女一人を選択し、「小羊の儀式」と称する結婚式を挙げた。そして、文鮮明と妻の鶴子を「真のお父様」「真のお母様」と呼ばせている。

真のお母様はすでにいるのに、「崔元福お母様」という名称は、原理のなかのどこから引っ張り出した存在なのだろうか。どうしても理解できない。文鮮明は六人のマリアを選択し、その他にも行き当たりばったりのセックスをしていたが、そのなかの一人を特別に「お母様」と呼ばせる理由はない。ただ、文鮮明自身が好きで、熱を上げていた女だから、「お母様」と名付けたのだろう。ひどい話である。

あとで聞いた話では、真のお母様のお母様、つまり文鮮明の妻である韓鶴子の母親、洪順愛が、「アメリカに行っている崔元福は二号だ、妾だ」と騒ぎ立てたので、仙和芸術学校の校長として、崔元福を韓国に帰らせることになった。この学校は、朴普煕の弟、朴魯煕が理事長でいたが、校長という名称もただ上っ面だけの話で、文鮮明が慌ててつけた口実に過ぎないと思う。

表に「原理」を降りかざし、裏へ回ればおよそ宗教人らしからぬ文鮮明の言動は、あいも変わらぬ女の問題や不動産の不正購入、脱税事件、「人の金を盗んで来ても、神は許す」という教唆など、書きつくせないほどあるが、もう一つ私の体験を書いておきたい。

左から崔元福、文鮮明、韓鶴子

私の恥、乱交の体験

私は第三章で、
「文鮮明から、金順哲に作らせた、天の意志に関する試験を受けるように言われた。問題をみて答えを書いたら『よし合格だ』と言った」
と書いたが、実はこのとき文鮮明の目の前で、六マリアの一人である金順哲とセックスするようにも命じられたのだった。

私はすでに、文鮮明が復帰した六マリアの一人から復帰を受けていたので、文鮮明の原理から言えば有資格者だった。その私に文鮮明は、金順哲とここでヤレと促した。メシアの命令には従うしかなく、私はその場で金順哲とセックスをし、「合格した」のである。

前述のとおり、夫に内緒で、家から多額の金を持ち出した金順哲は、怒った夫に追われていた。そこで危険を感じた文鮮明と金順哲と一緒に、私も途中五泊しながら釜山へ行ったのだが、そのときも同じことを命じられた。

夫の怒りをよそに二人は、金順哲が持ってきた金で豪華な物見遊山の旅だった。そして毎夜の二人のセックスを、文鮮明は私に「見ろ」と言い、「お前もやれ」と命令した。

そこには宗教もなければ、原理もない。性欲に爛れた男女三人の、乱交パーティーでしかなかった。文鮮明の言う復帰の正体を、私はそのとき嫌というほど体験したのだった。

また、釜山の影島の夜、雑魚寝をしている私の横で、文鮮明は臆面もなく処女の金明熙を抱いた。翌朝、私に気付かれたと知った文鮮明は、「人に言ってはダメだ。黙っていてくれ」と言った。

再臨メシアを自称するなら、原理どおりにやったまでのこと。堂々としていればいいのに、なぜ隠そうとしたのだろうか。
顧みて考えてみれば、他にも妙なことはいっぱいあるが、原理が泣き出しそうな事実の一つである。

「赤い龍が世の中を乱す」

自称再臨メシアの文鮮明は、その原理を金百文から習い、平壌に行って破廉恥な事件を起こして逮捕され、服役したあとソウルに来た。

一九五四年に「世界基督教統一神霊協会」を創立、様々な人たちを犠牲にして統一協会は大きくなり、日本へは崔奉春(日本名、西川勝)が密航(一九五八年)して、布教した。また金相哲と金永雲がアメリカへ行き、たくさんの食口たちを集めることになった。そのおかげで、日本でもアメリカでも、食口たちは文鮮明をお父様と仰ぎ、再臨メシアと信じている。

しかし、そのかげで、原理とは結びつかない文鮮明の行動で、たくさんの女や男たちが犠牲になり、死屍累累たる中から恨みの声が聞こえるようである。そして今は、「復帰の実践の秘密」や「実践の恥部」を知らない者たちを前面に出して、仮面をかぶっている。

アメリカの刑務所に入ったことを、光栄ある大きな奇跡などと宣伝し、獄中にあっても莫大な金を使っていた。その金は、大勢の食口たちが命がけで稼いだ尊いお金なのだ。

数年前、アメリカの女信者が、朝鮮人参茶を売るために黒人の家を訪ねていき、集団で輪姦されて殺された、というような犠牲を払ったお金である。黒人たちは証拠をなくすために、道路にその遺体を運び、車で何回もひいて捨てた事件だが、遺体のポケットから、統一協会の会員証が出て、身元が判明した。

こういう悲惨な犠牲で入った金を湯水のように使いながら、文鮮明は再臨メシアを自称しているのである。

日本でも食口たちが総動員され、霊感商法や珍味売りで尻を叩かれながら金を集めており、その金は全部、アメリカの文鮮明に送られている。

その送られてきた金を使う名目に文鮮明は、とんでもない計画をデッチあげているのだ。それが「国際ハイウェイ建設計画」である。玄界灘に海底トンネルを通して、日本、韓国、中国、ロシア、ヨーロッパを結ぶ国際ハイウェイを作ろうというのである。統一協会の内部でさえ「実現不可能」と失笑の声があるのに……。

再臨メシア?文鮮明がこの世に現われ、国際ハイウェイを建設するとは、いったいどういうことなのだろう。国際ハイウェイ建設などを計画する前に、血代交換を行なって真の父母になったはずの再臨メシアは、何よりも罪悪のない世の中を作り上げ、エデンの園を取り戻すのが、本来のその役目ではなかったのか。

文鮮明はアメリカの新聞やマスコミで、自分のことを「牧師」と名乗った。文鮮明は神学校に通ったこともないし、牧師としての資格を与えられたこともない。もし統一協会系の神学校で得た資格ならば、質問したい。

文鮮明は最初から、「自分は再臨メシアであり、第三のアダムである」、そして「自分の役目は、血代交換をとおして、もとどおりの罪のない世の中に作り上げるのが、使命である」と言い続けてきた。ならば、再臨メシアが牧師に変身して、どうやって使命を果たすのか?自ら今までの欺瞞を露呈した、語るに落ちる話であろう。

文鮮明が北から南に下りて、名前を変えた理由についても説明する。

聖書の「ヨハネ黙示録」に、「この世の中には赤い龍が現われ、この世の中を混乱させる」と書かれている。自分の名前に「龍」が入っている文龍明は、そのことに気づいて、慌てて名前を「文鮮明」に変えたのだった。これは、自分が「赤い龍」=サタンであると認めたことになる。

私自身の恥を天下に晒して書いたこの告白に嘘はない。文鮮明こそこの世にはびこる「真のサタン」だと私は言いたい。

この「赤い龍」文鮮明によって、世界各国のたくさんの人たちがこれ以上、欺瞞され、犠牲になることを防ぐために、私はこの原稿を、命をかけて発表する決心をしたのである。本当の神様の審判を、心から祈る次第である。
〔一九八五年八月三十一日~一九九三年九月三十日記述〕

[出典:六マリアの悲劇―真のサタンは、文鮮明だ!!/朴正華]

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