原理からの回復:元修練所所長~田口民也氏の手記

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統一協会・原理運動・霊感商法・勝共連合

田口民也氏:1966年・千葉

皆さんおはようございます。昨日札幌をたって、昨日の夜着きまして、昨夜、皆さんのお話、会議に出席させていただきまして、その熱心さに驚いて、もう私は出る幕がないなと、気遅れしながら今立っています。来る途中何を話したらいいのか考えてきましたので、お話したいと思います。

救出のために

まず私が統一協会にどういうふうにして入っていったのかという事を最初にお話して、皆さまの救出活動の参考にしていただきたいと思います。七年、八年或いは十年間、或いは二十年間も統一協会にいた人が、皆さんの教会、あるいは教区に来られて、御相談されると思うんです。特に二十年、十五年と長かった人は脱出は早いかもしれません。二・三年やっている人よりも早いかもしれません。けれども、その後の立ち直りというのが、活動期間が長ければ長いほど、回復にも、非常に時間がかかるのではないか。そういうことの参考に、私の体験がなればと思います。

と言いますのは、私は秋田工業高校時代に統一協会に入りました。私の無二の親友を統一協会に誘って、一緒に行きました。私が先に献身して、彼があとに献身したのです。私か伝道した何人かはもうやめていないんですけれども、その私の無二の親友だけ残って二十三、四年間ぐらいなるでしょうか。統一協会の中でやっています。そういうことで私の心の中に、痛みがあって彼をなんとか救出しなければいけない。私と統一協会との関わりは、まず自分個人ではもう終わらないという気持がありますから。特に長い間、統一協会にいる人の救出ということは私の、特に私の個人的な課題のように感じています。そういう方が統一協会に通っておられて、教会の門を叩く例が、今もあると思います。そういう方のために私の過去の経験がお役に立てれば、と考えてお話しさせていただきたいと思います。

入教当時・洗脳

私が入ったのは十八才の高校生の頃です。秋田で夏休みに本屋さんで本を読んでいた時に声をかけられました。二人の女性に声をかけられました。秋田に初めて開拓伝道に来ていた二人でした。その二人に声をかけられて、一部屋の一軒屋につれていかれました。そしてわら半紙、黒板も買えない統一協会員がですね、わら半紙で『原理講義』を話していく。そして学校の帰りに週に一遍くらい寄ってわら半紙の講義を聞く。で、そのわら半紙の講義を終わるとそのわら半紙を貰って、家に帰っていた。そしてその時は「なんだこの程度かな」と思っていたんですけれども、だんだんむこうの方が熱心になってきて、家に電話がかかってきて、呼び出され、そして喫茶店でも講義する。それを聞きながら、一通り講義を終わった、そういう記憶があります。そしてその時には全然、虜(とりこ)にはなっていないと思うんですけれども、ただその雰囲気のあったかさと、その熱心さに非常に魅かれていったという段階です。

彼らはそれこそゼロの生活をして、パンの耳をもらってきて、そして魚屋では魚の頭のガラをただで貰ってきて、八百屋からは、八百屋さんが捨てたものを、ただで貰って来て、食生活にしているという、所謂ただの生活、ゼロの生活をずっとしてるんです。そういうのを見てて、そんなにする人たちというのはどういう人たちなんだろうか、非常に魅かれてしまったのです。私は統一協会の伝道を受ける前、秋田のルーテル同胞教会に中学生の一年の頃から通ってまして、それでキリスト教的なものをチラッと知っていました。日曜日と水曜日に、行く程度でした。親友と一緒に行って、その親友はルーテル同胞教会でクリスチャンになりました。私の場合は不熱心で、頭の中で考えるだけでした。そういう状態の十八才の子供に、統一協会がアプローチした。ですから典型的な、ちょっと聖書を知ってて、原理に入っていったという典型的な、今思えば子供だったんじゃないかなと思います。

それで高校三年生の冬休みに、東京の修錬会に行かないかと言われましみた。一週間なら、行って来ようと、東京の修錬会に秋田から行ったわけです。私を伝道した人たちが、足りないお金は自分たちが廃品回収したお金でもって、穴埋めして旅費を出したという熱心さがありました。そして私は東京の修錬会に行きました。一週間で終わればそれ程でもなかったんですけれども、その次にすぐ次の二週間ぐらいの修錬会にまた継続して誘われました。断りきれずに全部だして二三日間の修錬会に行ってしまった。それで完全に洗脳されてしまった。

洗脳終わって、家へ帰ってきたらもう自分の家の前の道路が完全に揺れていました。完全に自分の足が地に、本当に地につかないというのはたとえじゃなくて本当のことですね。まっすぐ歩けない。それでフラフラ、フラフラと、学校から家へ帰って行ったその道が、もうまっすぐになっていなんです。今も忘れない。帰ってきて家へ入ったらパタンと倒れて寝てしまったというぐらいの強硬な修錬会を受けました。ですけども一度人ってしまったこの思想と言いましょうか価値観というのは、そういう疲労とか、そういう濠々たるものが消えても残っていて、今度は統一協会員として教えられた価値観で動いてしまうという不思議なことになってしまったんです。

親の反対とあきらめ

それからすぐ私は、秋田の駅頭で、みかん箱を一個出して、その上で、街頭演説。昔よく統一協会がやりました。『統一原理による統一世界』という旗を立てて、左手で持って、右手でこう辻説法のように始めたわけです。そうすると秋田というのは狭い町ですから学校の生徒は通る、親戚は通る。私の姿を見てビックリして気がへんになったと。それでその頃は珍しかったせいか、街頭に立つと群衆が来るんですね。人が回りを囲むんです。得意になって「愛と誠の統一世界」とか言ってやってたわけです。そうしますとたくさん人が来る。その人垣の中で親父が私の胸ぐらをつかんでみかん箱からおろして、私をバンバーンと左右ぶん殴りました。それで家族に交番に連れていかれて、説得されました。何回もそういうことが起こりました。統一協会にもう、入りびたりになっていましたので、親父が夜中に兄貴とおふくろと三人で、寝ているところへ来て、また起こされて叩かれる。そんな事もありました。それでも不思議と叩かれても全然痛くないという世界にいて、何かかえって元気が出ていたんです。それで、親父も困ってしまいました。今の親御さんが心配しておられることが今から二十数年前の秋田で、私の十八才の頃に起こっていたのです。

それから私は親に編されて精神病院に入れられて、完全に監禁されました。それだけ父親、母親が、泣いたわけです。それで、入れられたんですけれども、完全に私の中ではおかしい状態が起こってました。洗脳の結果ですね。精神病院に入っても絶対出れるんだという不思議な確信があるんです。それは全くおかしげな確信なんです。普通考えられないことが、頭の中に浮かんでくるんです。例えば祈ったら、この鍵が自然に開くんだとか、そういうことを自分の頭の中で考えているんです。

その精神病院は十六日間いました。親が面会に来た時に、見送るふりをして、ドアがあいた瞬間にそこをくぐりぬけて、外へ飛び出して塀を乗り越えて、脱走しました。白い服を来た看護士が追い掛けてきて、町の中を走り、もう何時間も走りました。それで最終的には、格闘の末捕まって、また精神病院にもどされるという大乱闘がありました。泥だらけになって帰ってきた私の姿を見た両親。精神病院の人口の所で両親と兄貴の三人が立ってました。私の泥だらけの姿を見て、お袋が泣いていたんです。それで私は諦めて、これで集団房ではなくて、「独房にこれから入れられるんだな」と諦めてたが、その姿をあまりかわいそうだと思った親が、これはもう精神病院にいれてもだめだなと諦めたんでしょう。そして次の日に出してくれた。それで家に帰った。家へ帰る条件として、八百屋をやってる兄の手伝いをするという条件で精神病院を出してもらって、しばらくりんごとかみかんを兄と一緒に車で売っていた。こうして暫く家の中にいました。

人事発令・家出

そうこうしているうちに、統一協会から連絡があって、人事移動という発令を受け取ってしまうのです。昔の赤紙と同じで、絶対行かなければならない。それで仙台に行きました。もうそういう紙が来ると、今までなんでもなかったのがピッとなって、仙台に行かなければだめだ、とそういうふうにうえこまれていました。仙台にはヒッチハイクで行きました。十八才の子供が、ヒッチハイクではじめて仙台に、夜中に行ったわけです……

(絶句して涙をおさえる。)
すみません。あの、秋田から……あの……(絶句、千を目にあてたままこらえきれず泣き出す。休憩。)

自分が統一協会に、秋田から仙台に、向かう時に、一生懸命反対した親が、あれほど、精神病院に入れるほど反対した親が最後に諦めてしまって見送ってくれたんです……。そのことを思い出してしまって(涙声)本当に申し訳ありません。

それで仙台に行きました。仙台、その時は今の小山田秀生氏が仙台の教会長で、その中に配属されて、三か月ほどいました。それから千葉に行きました。千葉は一色み子という人の下で三か月、それから大阪に人事移動。秋田から仙台。仙台から千葉。千葉から大阪と、お金がなかったのでヒッチハイクで動きました。それからはずっと長く、脱会するまで関西だけにおりました。当時の統一協会は普通の伝道する「教会人事」とそれから「経済人事」とふたつのどちらかに分けられる。私の場合は大阪では「経済人事」にまわされリヤカーで廃品回収ばっかりだったんです。その後、花売りをやっていた四・五人のなかに「経済部」として入れられて、私は市場に行って花を仕入れて、そして街頭で露店商のように花を売るということをやらされました。一年ぐらい、ずっと非常につらい、もうほんとに睡眠時間二・三時間あればいいほうの生活を経済部としてやってたわけです。

序論講師になる

そういう中でどういう訳か、今もいる松本ママと通称言われている当時の関西の地区長の松本道子氏から、「田口さんは少し講義をしてみなさい」と言われて、「経済部」から「教会人事」の方に戻されたといいますか。まわされました。そして『原理解説』の序論だけを講義する序論講師をおおせつかったのです。大阪の鶴橋の統一協会で『序論』ばかりをやる。『序論』は大体一時間ぐらいの原理のアプローチなんですけども、それを朝・昼・晩、朝・昼・晩、一人でも新しい人が来たら話をする。とにかくそれしか話さない。人が伝道して連れてきたら『序論』を話す。三人集まれば話すというのじゃなくて、一人でも人がいれば、とにかく一時間の序論を話す。序論講師で少し鍛えられて、今度は地区修の講師と、今で言えばニディ、四ディの講師となっていったのです。

四十日開拓伝道

親泣かせの原理運動というのが一九六七年だと思いますけども、夏休み、テレビ・マスコミ等で騒がれました。あの時は統一協会の方針で三万人以上住んでいる日本の市町村には教会、あるいは伝道所をたてよという命令がありました。それで私か明石市に行きました。みんなでいろんな決め方、くじをひいたり、いろんなことやって、明石市の担当になりました。それで四十日です、統一協会は御存知のように数字が好きな協会なんです。四十日以内に三人の子女を伝道すればそこに教会をたててあげるからやれ。そういう条件で、行きの切符だけであとは何ももたない。食べるお金も何ももたない。片道で明石市についたら一切のお金なくなる。皆そういうふうにしたのです。それで野宿。着いたその瞬間に野宿をして、そして伝道をする。四十日間、飲まず食わずで伝道して三人の人を献身させる。そういうことで三人を何とか献身させて、明石市に伝道所をつくり、そこに一年ほどおりました。

キリスト教工作

その時に体験しだのはキリスト教に対する工作です。その当時は教会に対する、今もですけれども、キリスト教に対する工作を徹底的に教育されました。その時に明石市の、明石市の方いらっしゃるかもしれませんけれども、教会という教会をしらみつぶしに全部まわりました。自分は何も飲まず食わず水しか飲んでないんですけれども、『原理講論』持って行って、先生たちに会って、話をするというようなことをやりました。そこでクリスチャンだった人を三人伝道してしまいました。最終的にはその三人もやめましたからよかったですけれども、そういうようなことが一九六七年にありました。

で、そういうやり方をしたのでマスコミが非常に騒ぎました。野宿をして伝道しました。たまたまテレビで山谷で開拓伝道している統一協会員がテレビに映ってたんです。私か明石の公園でベンチで寝て伝道していたのですけども、同じ風景がテレビに出る。こっちも興奮してきて、いや、負けちゃいられないと、興奮していたのを思い出すんです。最初の頃ですから、考えられないようなことを平気でやりました。サバイバルに強くなって、耳パンをただで貰えるし、お魚も野菜も、全部ただで貰えるということで生きてきたんです。借りた小さい部屋のおしいれの中には、大きい袋の中に耳パンが入っているんです。それさえあれば、なんとか生きていける。水とそれさえあれば生きていける、ということで、大きな袋に入れてありました。

牧師との出会い

お名前出していいと思うんですけれど斉藤剛毅という先生が、いま九州にいらっしやいますけども、その方が当時、明石市のバプテストの教会にいらっしやいました。

その方に、「私は統一協会員だけども、こういう『原理講論』というのがあって……」と先生に伝道したのです。その斉藤先生が私のアパートに、一部屋のアパートに来られて、では、その『原理講論』でも貸してみてくれ、と言われました。数日間したらまた来られて、『原理講論』を開いてみますと朱線だらけなんですね。はじからはじまで読んでおられて、それに対して私はもうガクッとしました。こんな熱心な先生がいるんだなあと。そして斉藤先生は「田口君、この統一原理というのを読んだよ、だけどこれは……」、先生はカール・バルトを出してきまして「大したことないよ」と、バルトも言ってるよというようなことでした。私はビックリしたんですね。へー、そのバルトって誰だろうと思いました。とにかく朱線が隅から隅まで引いてあるのには驚いたですね。この先生の言うことだけは、〝既成教会〟とか言って、蔑んだ見方はできないなと、その時に本当に思ったですね。

斉藤先生は、本当にあなたが一生懸命やっているのはわかると、私のこと心配して下さるんですね。おしいれを開けると耳パンの袋が一個ある。こんなの食べてるのか、そんなに苦しいのだったら来て御飯食べなさいと言うんですけど、私は「私は私ですから」と言って、意地になってました。しかし先生が私の生活のことをずっと心配しておられるのは非常に私にとっては感動しました。キリスト教会も統一協会が教えるほど悪い人ばかりではないと判ってきたのは斉藤先生との触れ合いからです。

でもやっぱり統一協会の魅力というのは、なんて言いましょうか、最初ものの見えない、奥が見えなかった時の魅力ですけど、それは何かこう骨があると言いましょうか。何かひとつのことに真剣になればとことんやるということが、もう他にないということで非常に誇りに思っていたわけです。ところがそういうことがバプテスト教会の斉藤先生に出会って、あれっ統一協会だけが筋が通っているんじゃないなあ、と始めて判った。キリスト教会の先生の中にも、本当に立派な先生かいらっしゃるということが判って来たわけです。非常に印象、今も残っている先生です。

宝塚修錬所特修講師になる

一年ほど明石市で開拓伝道しました。そのうちまた統一協会の考えが変わって、今度はずっと縮小政策に入って、神戸に行ったり、姫路に行ったり、それから古巣の大阪に戻って来ました。地区修錬会を何回か手がけているうちに、当時統一協会の教育の最終仕上げの修錬所であった、宝塚にある特別修錬所でやってみないかと言われて、宝塚に赴きました。今考えると、まだ二十三才ぐらいなんですね。若造が宝塚の修錬所長というのは、本当に人がいなかったんだなあと思います。そこでは北海道から九州まで、一週間の教育を終わった人を最終的に献身させる。目的は献身です。ビデオ聞かせるとかではなくて、所謂完全に百パーセントのフルタイムの献身者をつくりあげるための意図をもって、設置された特別修錬会です。そこの講師をやったのです。大体毎月百名位の学生、若い人たちが来て、私か講師となって、各教会のスタッフを教育していくという事になりました。講師というのはちょっとした特権階級です。講師の上には誰もいない。自由にやってよろしい。山の中で、完全に隔離してやるわけで、話は『原理講論』の話をするのですけども、それに対する監視はないんですね。

今はどうかわかりませんけど、当時は全然監視がない。何をしゃべってもいい。最終的には献身させればいい。それは自分がやられた通りにやっていけばいい。自分も特別、講師になるための教育を受けたわけではなくて、自分がやられた通りにやっていくというやり方でやってきました。

若者たちを虜(とりこ)にするコツですが、先ずこれは原理そのものがそういう流れになっていて誰がやっても、ちゃんと洗脳されていくようなメカニズムが出来上がっていると私は思います。まだ原理に入って一箇月の人がやっても話さえできれば、ある程度洗脳できるものというか、そういうふうに『原理講論』そのものがそういうメカニズムになっていると思います。ですから私みたいなその当時二十三才のものがやっても、これは責任を逃れる訳ではないんですけども、百パーセントの確率で皆献身していくという状態です。

ただ参考までに、私の工夫したのをお話すると、先ず『序論』でもって一般論的なニードをかけていくのです。ニードをかけるというのは今、ビデオで言えば世界情勢か何かやってるそうですけれども、そういうのが序論で、一応一般的なニードをかけていく。

次に『創造原理』をもってくる。これは創造原理の一節から最後まで、人間がいかに価値があっていかに素晴らしい存在であるかということを徹底的に若い人に訴えかける。子供は小さい時から親に「お前はダメだ」とか「お前はこういうのはだらしない」とか「お前は勉強できない」とか言われて育ってきて大人になって来ていると思うんです。その講義の中に、「あなたは一番大事な存在で、あなたは一回しかこの地上で生きられない。あなたは最高の存在です」。それを徹底的に、とにかく二日間ぐらいかけて、親も先生も誰も教えなかったぐらい歯の浮くような、ヨイショをするわけです。そのヨイショたるやもうスッゴイ。西洋哲学の価値観の真・善・美と言いましょうか、とにかく最高の話を、『創造原理』の二日間でしていく。そうするとみんなやっぱりいい気持ちになるんです。「自分は、そうだ、真・善・美の価値がある、唯一無二の存在だ」というふうに物凄く持ち上げられます。

それで次の『堕落論』で御存知のように罪の問題を植えつけていくのです、堕落論の話をすると殆どの人は上げられた状態から落とされてしまう。もう天から地にまっさかさまに落ちるぐらい落ちて行って、そのコントラストが強ければ強い程、その講習、つまり修錬会というのは成功します。そういうメリハリをつけてやっていたんです。

それで第三章の『メシア論』になってくると、堕落した人間を救うために神様がイエス・キリストをこの地上に遣わした。ところがイエス・キリストを、弟子たちが裏切った。ユダヤ人が不信仰し、弟子たちが裏切ったことによってその目的を果たさずに十字架で死んでしまった。救いはなされなかった。修錬生たちはイエス様ということは名前だけはみんな知ってる。そのイエス様が十字架にかかって無念の涙を流して死んで行った。罪意識で、もうどうしようもない時に、救い主イエス様が救わなかったという話を聞くと、もう槌っていたものをとられたようなもんでガックリくるんです。

それから『終末論』、『メシヤ論』、『復活論』、『予定論』と入って行きながら、キリスト教の主な教理、つまり神学的なものをひとつひとつ崩していきます。その基本は全部『創造原理』で、『創造原理』がきちっと修錬生たちに入っていればあとの復活論、終末論、メシア論、予定論、価値論、それが全部すっと入ってゆく。キリスト教神学を最初に切ってしまう。

そして最後に長大な内容なんですけどもご二日ないし四日かかる『復帰原理』という講義に入っていきます。旧約聖書のエデンの園の話から、今の第二次世界大戦までの、人類六千年の歴史というのをやります。久保有政氏という方が、『歴史と終末』という本で書いておられますけれども、あれも何か非常に似た本ですね。原理の中での『復帰原理』というのはアダムからアブラハムまでを二千年、アブラハムからイエス様まで二千年、イエス様から今日まで二千年という六千年というふうに大きく分けて、それを細かく三日乃至四日かけて説明していく。

最初にまず歴史観、歴史の原則というのを話していくのです。その歴史というのは蕩減復帰原理である。蕩減が人類の歴史の法則であると、そういう説明をしてその根拠として、聖書の、アダムの家庭の蕩減復帰摂理を説明していって、アダム家庭では失敗した。次にノアの家庭も失敗した。アブラハムの家庭も失敗した。失敗した失敗したというのがずうっと続いていくのです。人類の歴史は失敗と罪悪の歴史である。それでイエス様のお生まれになるまでをもう一回お話します。しかし、イエス様がお生まれになっても救いはなかった。そしてイエス様以後、キリスト教二千年の宗教史をやるのですが、その中でも救いはなかった。これを三日も四日もやるもんですから、みんな、精神的に自分でもわかんない状態、苦しい状態に入ってしまいます。そんなことをずっと百人くらいの生徒に、修錬生たちに、一年ぐらいやっていました。

講師というのは朝の八時頃から夜の十二頃まで、御飯は食べますけども、殆ど一人でしやべりっぱなしです。そういう生活をしていました。十六日間が修錬会ですから、月のうちの半分は自分の自由時間が持てます。次の人が来るまでの間、私は次の講義のための勉強をしておくという時間がありました。私の統一協会時代に、これが持てたことが実は統一協会を脱会する大きな原因になったんです。私は秋田工業の土木科しか出ていませんので、結局一般教養が足りないんです。来ている方は殆ど大学生なんです。原理だけしやっべっていればみんな献身していくのですけれども、やはり私としては尾鰭をつけたいというか、もうちょっと充実したものにしたいと思って、特に聖書を一生懸命読みました。『復帰原理』というのはアダムからアブラハムまでですから、これは聖書に書いてあるのを読めば、説明できます。アブラハムからイエス様までこれはイスラエルの歴史です。イスラエル史とイスラエルの宗教史を『原理講論』の他に読んで肉付けをしていきました。それからイエス様から今日までの二千年はキリスト教史です。キリスト教の書店に行ってキリスト教史を買ってきて、西洋史の中のキリスト教史を、一生懸命読んで、『原理講論』に肉付けしていった。そういうことをやりはじめていったのです。

虚偽をみつけた

そうしたら、おかしいと思う点が出てきたわけです。例えば統一王国時代で、サウル・ダビデ・ソロモンという三代続いている時代です。それがイエス様以後は、フランク王国のチャールズ大帝が対応することになっているんです、歴史の同時性として。ところが「チャールズ大帝の子供はどうだったんだろうか」と。これは『原理講論』にはもう書いてないのです。それでキリスト教史で、フランク王国というのはどこにあったんだろうかということを調べて、「フランスだったのか」とわかった。チャールズ大帝というのはどんな人物で、その子供はどぅだったのか。サウルとダビデとは義理の親子関係があるのです。ダビデからソロモンとなると、ソロモンは本当の親子である。サウル、ダビデ、ソロモンと同じようにチャールズ大帝から三代はというと、それは『原理講論』には書いてないんでキリスト教史をずっと調べて、それもキリスト教史の中でももっと専門的なフランク王国だけ読んでいったら、全く同時性ではないわけです。そこのところ気になりましたから、一生懸命フランク王国を勉強していったんです。どこ読んでもそれらしいところは見つからない。それで「おかしいなあ」。同時性は崩れちゃうんです。それでその辺は自分の中の胸に秘めて、嘘の話をせざるを得ない。

一番自分が脱会する原因になったのは、統一原理の中で近世四百年です。マルチン・ルッ夕ーから今日まで四百年間、文鮮明が生まれると称する四百年間、これが『メシア再降臨準備時代』ということで説明します。その時にカイン型、アベル型と両方の思想がありまして、第一次カイン型、第一次アペル型、第二次、第三次とこう順番に話してゆくわけです。第一次カイン型思想としてルネッサンス、文芸復興ですね。そして第二次カイン型思想として所謂フランスのデカルトの理性論、英国のベーコンの経験論、いろんな神を否定する側の哲学です。そういう人たちが『原理講論』に出てくるんです。神を肯定する側の哲学者、これが第二次宗教改革として名前が出てきます。そこにキェルケゴールとか、ヘーゲルとか、カントとか出てくるんです。私も一般教養が足りないもんですから、そのへんもうちょっと肉付けしなけやいけないと思って、どれ読もうかなあと思ってキェルケゴールの本を買ってきて読みはじめたんです。それにパスカルも読みました。

深く学ぶと

特にアべル型の、神を認めた実存主義というものに興味を持って、松浪信三郎の文庫本を読みました。そして原理の言わんとしていることは何だろうかと、考える時間と読む時間がありますので、いろんなことを考えたんです。

そうすると原理は先ず第一段階として、個性完成と言っているけども、一体中身は何だろうか。個性完成と言っていることの中身は何だろうか。自分も六、七年実践活動しているが、自分にとって個性完成って一体何だろうか。そう考えてみますと結局、人を編して花を売ったり、廃品回収したり、やってることが個性完成に繋がって。いくと、そう自分で言い聞かせるしかないのです。あるいは統一協会の上の人間、アベルに対して、カインである私が従順をして蕩減を少なくしていくということが個性完成なのか。原理で言っている個性完成というのはそもそもどういうことなのか。こう考えて行きますと、意外と中身がうすっぺらだっていうことを感じてきました。実践の中では忙しくてそういうことを考えないのですが、個性完成の中身に関して、非常にうすっぺらな感じがしてきたんです。

人間論

それで個性完成って一体何だろうか。その当時はまだ原理を肉づけしようということで読んでいったものが、逆に哲学者の言ってることの方がもっと中身が濃いことに段々気がついていったんです。一番私が印象に残っているのは、キェルケゴールの『死に至る病』でした。その中にこう書いてあります。

「人間とは何か。人間とは精神である。精神とは何か。精神とは自己自身に関わる関係である」。

それを読んだ時、これは一体何を言っているんだろうか。「人間とは精神である」。これは原理も有神論だから、同じだ。こういう見方をするわけです。「精神とは何か。精神とは自己自身に関わる関係である」。これは原理で言う授受作用のことを言っている。こういうように全部考えて、これは正しい。原理的に言って正しい、というように捉えていって、それで「自己自身に関わる関係である」。そうだ、これは正しいんだ。まんざらキェルケゴールも間違ってないな、という見方をしていたのです。

罪観

『死に至る病』の中に罪について書いています。罪とは何か。

「罪とは、神の前で自己自身であろうと欲することである」。

もうひとつは、
「神の前で自己自身であろうと欲しないことである」。

原理でも罪ということを堕落性本性といって、四つの堕落性本性で話すものですから、非常に関心があります。キェルケゴールという人は「神の前で自己自身であろうと欲すること」、これが罪だという。一体これは何を言っているんだろうか。原理にこれをあてはめてみますと、その自己自身という言葉は、創造本然という言葉なんです、本来的自己と言ってもいいでしょう。原理で言えば創造本然。創造本然という言葉をあてはめていくと、創造本然、本来の人間になろうとすることが罪だということになる。

原理では本来の自己になろうとしないことは罪だけど、本来の自己になろうとすることは罪じゃないと言っているのに、キェルケゴールは変なことを言ってる。キェルケゴールつてのはなんておかしいことを言ってんだろう。それからずっと『死に至る病』を読んでいくと、実はそれは自己自身になろうと欲するというのは神さまを認めない、自分が本来的自己になろうなんていうこと自体が罪なんだと、人間の中に実存的にそういうものがあるんだ、そういう深いことをキェルケゴールは言ってるんだと、うすうすわかって来て、「そうか、ものの見方というのはただ白黒だけではきめられないんだ」ということがちょっと頭の中に入ってきたんです。

私のまわりの統一協会員の人間を見ると、もう一面的でやってるわけです。単純思考と言いましょうか、もう一直線でやってるんです。自己自身であろうと欲すること、所謂創造本然の人間になろうとすることも罪なんだぞ、という見方もある。それは一体どんな見方なんだろうか。それはあのキェルケゴールに言わせれば、「神の前で」という言葉がポイントになってるんです。神の前にいるかいないかということなんだ。「そうか、こうあんまり言われた通りにバイバイ、バイバイ」とですね、統一協会の時代にはバイバイ、バイバイと言いましたけれども、それだけではダメなんだということです。これが原理でいう個性完成という言葉と結びついて私は少し幅広く考えられるようなってきたんです。

キリスト教的雰囲気を画策

そして、統一協会の中に宗教性、キリスト教的なものが欠けている。私もルーテル教会に三年通っていたために、ちょっとキリスト教的な雰囲気だけは知っていたのですが、自分のやっている統一協会は段々宗教的でなくなってきて、経済活動ばっかりやっている。みんなカラカラになっている。もう毎日、ノルマ、ノルマでやって、心がカラカラなんです。そこでキリスト教的なものを採り入れないともうカラカラなってしまうと思いました。

私はトマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』に非常に心ひかれてました。宝塚の修錬所で暇があったから、ああいう本をじっくり読んで瞑想ができたんです。本当に瞑想に役にたつ本で、「瞑想しなさい、瞑想しなさい」とたくさん書いてあるんです。読んでちょっと途切れたら瞑想する、そういうようなことでキリスト教的なもの、イエス様の十字架のことはさておいて、キリスト教的な雰囲気というものは必要だと感じたんです。

統一協会の宝塚の修錬所長をやめて、山を下って京都に行った時には、完全にキリスト教的な雰囲気、雰囲気だけですが、濃厚に出ていて、田口が喋ると統一協会とちょっと違うと、噂がたった程です。そして田口が日曜日のメッセージをすると、聖歌ばっかり歌ってる。私もその当時、統一協会流の〝聖歌〟っていうのを持ってましたけど、そのへんは意外と自由だったものですからキリスト教会の聖歌を、例えば「カルバリの十字架」を何回も歌って、「田口は聖歌ばっかり歌ってる」と言われた。

今、家内が後ろで聞いてますけども、その頃は家内が統一協会に入ってきた頃で、「普通のキリスト教だと思った」と言ってました。そういうキリスト教の雰囲気をわざと画策した時もありました。私の上の地区長、若山地区長とか、太田洪量も私の上にいまして、非常にけむたい。ちょっと変わったことやる。田口が喋るとキェルケゴールが出てくる、そういうようなことを言われた記憶があるのです。

一番私が原理講義の中に採り入れたのは、エーリッヒ・フロムの『悪について』です。これが私を決定的に統一協会と決裂させた本なんです。手垢でボロボロになる程読んだんです。『悪について』という本の題名に先ずひかれたですね。修錬所長時代に時間があるものですから、関連する本を読みたい。統一協会の『原理講論』は悪という問題に非常に関心がありますから、そういう本があるともう無条件で誰が書いたか関係なく、買ってくる。ですから本当に笑い話なんですけど、坂口安吾の『堕落論』というのがある。『原理講論』と似たことが書いてあるんじゃないかと思ってこれを買ってくる。とにかく『原理講論』に関係あるものだけ読んでいく。

それで出会ったのがエーリッヒ・フロムの『悪ついて』だったのです。統一原理では創造目的にプラスになることが善である。神の復帰摂理にプラスになることが善で、マイナスになることが悪である。単純なんですね。それで、私は講師になる前、六・七年の実践の中で、大体こういう事が善悪の考え方だなって、統一協会流の考え方は自分で把握していたんです。そしてフロムの『悪について』を読むと、全然中身が違っている。「方向性から見た善悪」という点では同じなんです。フロムも原理と同じことを言ってる。最初はそういうような段階から入って行って、ひとつひとつ自分自身とあてはめてみると、完全に統一原理の言ってることは壊れちゃうんです。今は、統一協会を脱会する人が家へ来られたり、札幌へ来られたりする時は必ずこの『悪について』をおすすめするんです。『悪について』を、参考にして『悪について』で回復していく。私かそういう体験したもんですから、自分でおしつけちゃうんです。是非これ読んで頭の中切り換えた方がいいということです。

エーリヒ・フロムはナチに追われてメキシコに亡命して最後にアメリカに行った臨床心理学の先生です。やっぱりナチズムというものを研究されている。そして普通の一般市民が何故ユダヤ人をあれほど残酷に、殺していくのか。羊であった一般市民が狼に変身していく、羊が何故狼になるのか。人間は狼なのか羊なのかというテーマで書いている。読んでいくと、自分自身が実は今、狼になっているんだな、ということが段々見えてきます。

統一協会を知らないで普通に高校生まで生きてきたものが立派な狼に変えられていく。洗脳されてゆく過程と自分に光をあてられたように感じました。『悪について』という本が、非常に気に入りました。『原理講論』の講義が終わってから特別講義として、「悪について」という話をしました。みんなびっくりするんです。班長たちは「あれっ、へんなことを言うな」と思ってたでしょう。どこかへ通報されたかもしれません。「悪について」という『原理講論』に書いてないことを話したり、そういうようなことをやった記憶があります。

そういうのを一年間ほどやって、段々段々統一協会を批判的客観的に見れるようになってきた。そういう中で八年やってますと、もう上の考えることが手にとるように分かってくるんです。今度なに言うかなというのは大体分かってくる。熱弁を振るって、彼らにモーティベイトかけて、かりだそうとする。今度は何千万だとか何億だとか金が必要だと意義づけをして、駆り立てるけれども、段々お見通しになっちゃうわけです。みんなもカラカラになっている。本当に仕方なくやってる。そうのを見てきて、やっぱり統一協会というのはおかしいと思うようになりました。

見たり!文鮮明の素顔

文鮮明という個人の人柄ですが、私も四回程会いました。一番最初会った時は、大阪だったんです。鶴橋です。その時は教会と言ってもちっちゃい鶴橋の教会で、トイレも共同です。今、文鮮明は神さまみたいに崇められていますけれども、当時全国で全部集めても六百人もいなかった時代ですので、大阪も、百人もいたかどうかなんです。ですからトイレも共同。でも文鮮明がトイレ人ってて、我々が神様の後ろで待ってるわけです。そういう実態を見ていますと、この人間がどういう人間なのかということが段々分かってきた。

初代原研会長の小宮山嘉一氏と文鮮明が、松濤本部で大論争をやったことがあったのです。『原理講論』を書いたと言われている劉孝元氏も来てました。それから今の統一協会の韓国教会長である金栄輝という人が十二弟子をひきつれて日本に来たのです。

その頃、小宮山嘉一氏が、統一球原理というまた別のことを考え始めたんです。立正佼正会の法華経と合体させたものを文鮮明の前で講義したのです、これを認めてくれと。文鮮明に対して、小宮山嘉一氏が物凄い迫力あったですね。久保木修己氏を伝道したということもある、学生原研のトップだった人で、非常に迫力があった人です。真理の前ではメシアも素直になる筈だということで彼はやりはじめたんです。

そしたら文鮮明は素直にならなかった。文鮮明の顔色が変わった。その時初めて人間の顔を見た。メシアというのはもうちょっと泰然自若として、何をしても瓢々とするべき筈なのに、やっぱり顔色変わった。この人も我々と同じ怖がる人なんだ、やっぱり怖いものは怖いんだなということがチラッと見えました。そういうふうに段々、統一協会から言わせれば文鮮明に蹟いていったということなんです。まあ実態が段々見えてきて、統一協会から訣別していった。

最後には茨木事件です。私が修錬所で講義している間に、山田君という学生が死んでしまった。私が被告ということで裁判なり、それから四年間程裁判は継続して、最終的には有罪になって執行猶予つきの有罪で結審するんです。私はその裁判開始から一年後に統一協会を脱会しました。そして家内と結婚して、今日ある訳です。その時、とにかくキリスト教的なものは二度と触れたくないと思った。二度と編されない。十年間、聖書は一切読まないという生活でした。『恵みの雨』という雑誌にも書きましだけど、統一協会を出て三年間は三ヵ月に一辺ぐらい裁判があるもんですから、統一協会からその度に電話がかかってきて、出てくれというので、札幌から大阪の裁判所に出て行く。そういうことで三年間程は統一協会にまだかかわったと言いましょうか。一年程は家のまわりにずっと監視がついて、そして朝仕事に行こうとすると車の前に立ちはだかって車を動かさせない。私もゆっくり車を動かす。そういう圧力が一年程ずっと続いてきて、本当にノイローゼみたいになって、その頃から睡眠薬がわりにお酒をガブガブ飲むようになりました。早く寝るためにです。それから三、四年したら一升瓶も飲めるようになったというような、そんな状態になりました。熟睡するためにお酒も睡眠薬も使いました。それで十年後にイエス様にお出会いして救われるという、そういう経過を辿っていきました……

文学を通しての出会い

統一協会を出ましてから、一年程監視の中で生活しました。その中で、私は統一協会を抜けたということで八年間の文鮮明と私の師弟関係と言いましょうか、師弟関係がなくなり、つっかえ棒がとれた。師にあたる人が非常に欲しいんですけども、一度受けた傷と言いましょうか、そう簡単に師を取り替えられない。自分で寂しさと同時に慎重さがあって、それを埋めるものとして自分なりに模索したのが、文学だったんです。手当たり次第に文学書を読み始めた。

先ず、好きだった夏目漱石を読みました。最初の『倫敦塔』、それから『苑露行』とか、そこからもう余り知られてない短編から、最後の『明暗』に至るまでとにかく日記まで読み漁った。一通り読み終わったら今度、ドストエフスキーの一番最初から最後までもう一回読み漁る。そういうようなことでなんとか心の空虚感を満たそうと文学三昧をしてきました。

その中で、辻邦生という人の『安土往還記』という本読みました。当時の安土桃山時代を背景にした信長という無神論者と、イタリアからわざわざ宣教に来たフロイスやヴァリニャーノ、そして船員という主人公を据える。これはキリスト教というものを非常に客観的に見ている小説で、非常にショックを感じました。

狭い世界でしか考えない私の統一協会時代の八年間というのはいわゆる宣教という生き方をしていたのに、辻邦生の描くその主人公の船員というのはそれを客観的に描く。キリシタンの時代ですから今の日本とは違うんですけども、そういう見方もあるんだなあと非常なショックを感じた。そして辻邦生に「現状をあるがままに受け止める」という考え方があって、どんな事が起こっても、それを逃げたりしないでありのままに、それを人生として、運命として受け止める。

それから絶対に逃げない。そしてそのありのまま受け止めることが至福の時である。彼は延々とそればっかり言ってるのです。それに自分は非常に共鳴して、自分の過去の統一協会時代を恨んだり、馴されたとか失敗したとか、いつまでも考えないで、今、あること、自分の青春が八年間をそういうふうに過ごしたけども、それも人生だったんだ。それを悔しく思わないで、それもそのまま受け止めてみようかという考え方になっていった。ですから私にとって森田療法的な内面の癒しです。なんか起こった場合に、その起こったことそのまま受け止めよう。統一協会時代ではそういうことは考えられなかったです。

統一協会の時代は、何か起こってくるとこれは何かのタタリじゃないか、何かの蕩減じゃないか、私か何か悪いことしたからこういうことが起こったんじゃないか、相手が何か罪を犯したから、私に災難がぶりかかったんじゃないか、と全部因果論で捉えてしまって、戦々恐々として脅えながら生きなければならなかった。辻邦生の考え方はそうじゃない。ありのままを受け止める。百%そのまま受け止めよう。非常に難しいけれども、何とかそれをやろうとやってきたんですね。

そして統一協会を出ても、キェルケゴールを読み、フロムを読んでいたんです。それが統一協会からキリスト教に行く橋渡しになりました。しかし急にはキリスト教には行けなかった。結果的には行かなかったんですけども、その橋渡しとなったのはいくらかあったんです。それはいまお話した辻邦生や、ドストエフスキーや漱石だったのです。

ドストエフスキーの『罪と罰』という小説を読んだ。高校時代も文学青年だったものですから、ドストエフスキーはひととおり全部読んでいたのです。『罪と罰』だけは自分で勝手に恋愛小説だと思いこんで、こんな甘いのは読みたくないと、そのひとつだけ残して後は全部、カラマーゾフまで読んでいた。ところが一応ドストエフスキーを全部読もうと初期から読んだんで、『罪と罰』に当たった。ひとつ残してるので、これも読もうと思って『罪と罰』を読みました。

最後に読み終わって、特にマルメラードフというソーニャのお父さんがアル中で、自分の娘を街娼婦に出してそのお金でもってお酒を飲んでいる。そういう生活をしているマルメラードフの告白の中にですね、世の終わりが来て、イエス・キリストが再び来られた時には、我々のような者までイエス・キリストが招かれる、こう告白するんです。その時に、「おい、そこにいる豚ども、こっちへ来い」とイエスさまがおっしゃるというんですね。「おいそこにいる豚ども、自分の娘を街娼に立てて、自分で酒を飲んでいたけども、しかしお前たちも来い」というふうにイエス様が招くというふうに書いてあるんです。これを読んだ時に、「えええ、そんな」と思った。統一協会流に言うならば、自分の娘を街娼に立てるまでアル中をやめることができない、そんな者をイエス・キリストが、呼ぶ筈ない。なぜドストエフスキーという人はこんなことを書くんだろうか。それが印象に残ったんです。「これおかしいなあ。こういうことがあるんだろうか」と。もしかすると私もその当時、一升瓶で酒を飲んでましたから、酔いながら、もしかしたら私も「そこにいる豚どもよ」と言われるんじゃないか、密かな期待を持ち始めたんです。そういうイエス様に対する少しずつですけれども、小さい出会いがあった、この十年間の間に。

そして『罪と罰』の最後にですね、「罪とは何だろうか」、罪とは、「自分が罪人であるということが分からないことが罪の罰である」、そういうことを言っている。その小説の題の『罪と罰』というのはそういうことなのか。語呂あわせでもって『罪と罰』と付けたのかと思ってました。それは本当は罪人であるということが分からないこと。あのラスコーリニフが二人の人、老婆と女中を殺して、そしてソーニヤにいろいろ慰められるんだけれども、自分が悪いことをしたということが分からない。最後にシベリヤに流刑されて行く。引っ張られていきながら、自分には罰が来ない。このことを悩んで終わっているんです。これは恋愛小説じゃない、凄いな。私は読みながら、泣いて、マルメラードフのところで泣いて、そして最後の罪とは何かということを言っているところで泣いて、ドストエフスキーはこんなことを言っていると家内に興奮して話しました。家内の方はキョトンとしていました。そういうことがキリスト教との触れ合いになって行ったのです。

妻がエホバの証人に

私はこっそりキリシタン物は読んでいたけれども、家内には「一切聖書なんか読むんじゃない」と厳重に言ってたんです。家内は統一協会でキリスト教的なものも知っていたし、キリスト教的なものが非常に好きだった。それでエホバの証人がトントンと来た時に、私に内緒で七年間も実はこっそり家でやってたということが、分かったんです。それで私は激怒したんです。統一協会という異端でコリゴリしたのに、またエホバの証人に行くなんてとんでもない。統一協会の中でもエホバの証人というのは下の方に見ていましたから、もっと下になったのかと。勝手な気持ちが私にはあって「何てことだろう」と。私も非常に驚きまして、何とか家内を説得しないと、大変なことになると思って聖書を読み始めたんです。これは説得しなきゃいけない。エホバの証人というのは二応は聞いているけども中身は全然知らない。これを上まわるものがなければいけないと思って聖書を読み始めたんです。けれども全然説得できないんです。感情が先に走って家内と喧嘩ばっかりするんです。それで、私は家内がエホバの証人に行っているということで最後喧嘩になって離婚しました。離婚届けにハンコ押して子供の手をお互いに引っ張って、裂く程にこう引っ張りましたが、家内の方について行っちゃって私独りで独身生活を一年ぐらいしてしまいました。ですけれども子供のことを考えて一年ほどして、再出発するわけです。三十五才ぐらいになっていました。

ある日教会へ

私も趣味の多い男でフランス語やったり、文学三昧したり、ヨーロッ八行ったりと、統一協会出てから、自分のパッショッンでとにかく好きなことをやりました。

その頃おなかが出てきて、少林寺拳法をやっておなか縮めようと、ニ年程行って段とったんです。その日も少林寺拳法の稽古の日でした。稽古着を肩に下げて、道場まで車で行って、練習する予定だったのです、その時物妻く心がイタァクなつて、はらわたがイタァクと言いましようか、もう誰かが私のはらわたに手を入れて、右と左に入れて手拭いをしぼるみたいに、私のハラワタをしぼるような痛みがあるんです。心が物凄く痛くて、少林寺拳法に行くどころではなかった。

それで、私は電話ボックスに飛び込んで、電話帳をめくって一番近い教会に電話したんです。救急車呼ぶみたいにです。そして「もしもし教会ですか。私あの、田ロと言いますけども、これからうかがっていいですか」。もう曜日も何も関係ない。日喟日でも何でもない日に電話して、先生がいいですよ、というので、車で探して行ったら、小さい一軒の家だったんです。「これも統一協会かな」、間違ったら大変と驚いたのですけれど、十字架があったので、「あっこれは間違いないな」と入っていきました。そしたらバプテストの教会で、田中先生という方がいらしやった。私は自分が統一協会にいたなんてことは恥ずかしくて言えない。だから普通の顔をして入って行って、悩みがあるような顔はしないで、雑談しながら偉そうに話して帰ってくる、そういうようなことをやってたんです。それで帰り際には心の痛み、おなかの痛みはなくなっているんです。さよならって言って帰ってくる。また三ヵ月ぐらいするとまた痛くなってくる。それでまた「先生いいですか」と電話する。神さまに鈎つけられて引っ張られてゆくみたいに、教会に行った。行っても元統一協会だなんて二呂も言わないで、「いい天気ですね」と話して帰ってくる。そういうように逃げていたんです。家内にも当然教会にこっそりと行ってるなんてことは一言も言わないでいたのです。

クリスマス伝道集会で受洗

そうしてぃるうちに田中先生がわが家に来られて、十二月のクリスマス伝道集会にいらっしやいませんか、とパンフレットを家へ持って来られた。その時、家内にわかってしまった。「あなたなんですか」と言われて、「私は苦しくなければいかない。呼ばれても、私は行かない」と言ったんです。そうしたら家内がそのパンフレットを見て、行きたいと言い出したんです。仕方がない家内について行こうか。父兄のつもりでついて行こう。そして十二月のクリスマス伝道集会二日間出席しました。

教会に入った途端に、聖歌が流れてきました。その聖歌は「明日を守られるイエス様」という歌です。「明日はどんな日か私は知らない」という歌だったのです。私はそこで玄関でもう釘付けになってしまって、「あっ、これは韓国の歌だ」。中に入る前に、もうアレルギーがおこって、もう入れない。「明日はどんな日かあ」。アリラン調なんです。これは韓国から流れてきたものだと思って驚いて、警戒しなければいけない。でも家内の付き添いで来たもんですから、仕方なくイヤイヤながら入って行った。だけども心の中ではもう絶対気をつけなければいけない。日高先生という方が九州から来られてメッセージされた。先生は物凄い熱弁の先生で、髭生やした先生でした。熱弁で迫って来られれば来られる程、統一協会と比較するんです。「統一協会よりは凄くない」。

一回目の説教終わって招きがありました。そしたら家内が手を上げたんです。それで隣にいた家内に、何を一回ぐらいのメッセージで、手上げて招きに応ずるとは何事だ。長男まで手上げたんです。これは裏切られたと思った。信教の自由だ、しようがない。義理で一回だけ行けばと思ったんですけども、しようがない家内が千をあげたために二日目も行かざるをえなくて、またついて行った。

二日目の時は日曜日で聖日礼拝と、それから夜にメッセJジがあって、二回あった。一回目聖日礼拝終わって昼に、日高先生と田中先生が私のところへ来て、「田口さん、いいかげんにあなたもイエス様を受け入れなさい。奥さんと子供さんも受け入れたんだから、あなたも受け入れなさい」。「いや受け入れると言っても私は全然ピンときません」。ルーテル教会時代と同じでした。私にはピンときませんとお断りする。

最後の、三回目の、日曜日の夜の伝道集会はニコデモの、「人新たに生まれずば」というメッセージでした。日高先生がメッセージされました。私は「ああ一生懸命、先生たちが、田口さんあなたもいいかげんに信じなさいとおっしやったけれども、私にはピンと来ないなあ。もう説教も終わる。家内は于あげちゃったけども、私はキリスト教と聖書と久し振りに出会ったけれども、これでお終いだな」と諦めました。「これでもう縁がないな」と。将来どうなるんだろう、家内は千上げたけれど、私はその気ない。どうなるだろう、という気持ちでいました。そして先生の方を見ないで諦めてあっち向いて・いたんですね。

そしたら、その講壇からお話しているその言葉の中の一つの言葉が、私の方に、何といいましょうか。これは私の、私だけの体験で、皆さんにとっては「そんなことは」とおっしゃるかもしれませんけども、空の方からと言いましょうか、講壇のもっと高いところからですね、突然光りが私にぶつかってきたんです。それでその光りと共に、「聖霊はイエス・キリストの御霊である」という言葉、先生がおっしゃった言葉の中のその言葉だけが、光りと共に、私にバチイツーとぶつかたんですね。

「あれっ」と。私はその時に、何か光が来たってことだけは分かったけれども、一体何がどうなったんだろう。そうしているうちに私の目から涙がボロボロボロボロと、勝手に流れだしたんです。「あれっ、どうしたんだろう。私はどうして泣き始めたんだろうか」。それから、どんどんどんどん涙が出てきた。その時に自分は恰好つけてるけれども、神さまの目からみたら裸同然で、すべて神さまはお見通しであるという感じにぐっと迫られたんです。

「恰好つけてるけれどもお前の本当の姿ってのはどうなんだ。そんな恰好つけてる姿はお前の姿か」という感じです。こう迫ってくるものを感じて、私の過去の悪いことが目の前に浮かんでくるんです。そして「ああ、オレって人間は、いやそうか、聖書で言う何かわかんないけど、罪人ということはそういうことなのか」。自分の心の中に浮かんできたことを言葉にすればこれは「罪人なんだな」という言葉なんですね。それでウォンウォン、ウォンウォン泣いていた。

泣き止まないんで放っておこうということで、先生たちはもう別室に行かれました。私のいた部屋は電気消されて、勝手に泣かされていたらしいんです。私独りだけ泣いていたらしいんです。それでその時に本当にイエス様にお出会いした。イエス様が私のところに立って下さって、「お前が今見たその汚いものを全部許したんだ」。「まさかそんなことを絶対許すなんてもんじゃないでしょう」と。「だけどお前の見たそれを全部許したんだ」。「エーツ、許したっていうあなたは誰ですか」。こういう感じだったです。「私を許すなんていう人はいるんですか。もしかするとあなたはイエス様ですか」。本当にそういう出会いだったんです。私はその時「うわあ嬉しいなあ」。もう何とも言えない、お母さんの懐に抱かれたようないい気持ちになりました。本当にいい気持ちになって、「ああそうか、全部許して下さったのか」。「わあーよかったー」。それで物凄い喜びが、起ってきました。それから、もう嬉しくて嬉しくて嬉しくて。

それで涙が止まってから、気がついたら真っ暗でした。それで向こうの方で笑い声と、なんか茶碗の音とかするんで行ってみたら、みんなでお菓子食べてお茶飲んでました。「今なんかあったんですか。私、どうしてこんな暗い所にいるんですか」と聞いたら、「いやあ田口さん、さっきから二時間か三時間泣いてるよ」と。「エーツ、私、さっき涙出てきて五分ぐらい泣いたような気がしたんですけれども」と言ったら、「いや冗談じゃない。二時間も泣いてたよ」つて言うんです。それでそういうことも起こったのか。そのは本当に雲の上歩いているような感じで家へ帰りました。帰ったその日の夜に久し振りに文鮮明が夢の中に現れてきたのです。

夢に現れた文鮮明

統一協会を出た時、私は文鮮明が夢に出てきて、もう蹴られ叩かれました。その時はキンピカの服を着て、あの〝祝福〟の時に、統一協会の結婚式の時に文鮮明が着てるあの冠と、白い服着ていますね。もう派手な、ハデハデが好きなんですねあの人は。その恰好で脱会直後私のところに来て、家の中に入って来るんです。「田口、テメエコノヤロー、お前を絶対永久に許さない」と言って蹴飛ばすんです。夢の中でですけれども、恐怖、恐怖だったんです。それでお酒をゴンゴンガンガン飲んで何とか忘れようとしたわけです。そのうち夢の中に現れなくなった。しかし、十年目に、クリスチャンになったその夜に、再び文鮮明が夢の中に現れた。

その姿には、あのきらびやかな格好は全然ない。キッタナイ服来てるんです。それで顔に泥が塗ってあるんです。顔に泥、地面這ったような汚い格好してボロボロのぼろ着てるんです。あれっと私はびっくりしました。きらびやかな格好でくる筈の文鮮明が乞食の格好して来てるのですから。私は夢の中だけれども、びっくりしてアレッと思って、丁寧語を使ったんです。やっぱり師として八年間いた習慣がまだ抜けなかったんでしょうか、「どこから来られたんですか」と。私は本当に心配して、「どこから来られたんですか」。なんかあんまりひどい格好してるんで、どっか寄って来られたんですかというような気持ちで、「どこから来られたんですか」と聞いたんです。敷居をまたがないんです。それでいつもだったら入ってきて、「テメエコノヤロー」つて言って蹴飛ばすのに、入って来ないんです。それで「どこから来られたんですか」と聞いたら、悲しそうななさけない顔して、後ろ振り返ってパッーといなくなっちゃったんです。

「あれっ、おかしいなあ、人の家へ来てなんも言わないで帰って行った。おかしいなあ」と真面目に考えました。それで朝目覚めて、家内に、「久し振りに文鮮明が夢に出てきたよ」と言いました。今までと違って乞食の格好して、なんにも言わないで、その時文鮮明が言ったのは二言、「あちらこちらゆきめぐって来た」。その時私は、ヨブ記の二章知りませんでした。「ああそうですか」と答えたことは覚えているんです。「あちらこちらゆきめぐってきた」と言った時に、「ああそうですか」。「ああそうですか」というのは、それは大変だったですねという意味で言ったんです。それでパッと背中向けてあっちへいなくなった。それで家内に「いやあおかしいこと言うんだ、夢でこんな対話して」と。家内もヨブ記二章を知りません。それで「おかしいね」つていうようなことを話ししました。教会へ行って、「先生、こんな夢みました。あれから家へ帰って夢見たら、こんな夢だったんですよ」と。そしたら先生がヨブ記をパアッと開いて、ここ読んでごらんなさい。「ええっ!」と思ったんです。「サタンじゃないか。文鮮明はサタンじゃないか」と。こう初めてその時、これは一般的に通用するかどうかわかんないんですけれども、私にとっては非常にショックだったんです。それが本当に私の場合事実として起こったものですから、これは人様がなんと言っても、これは事実として起こったものですから、私にとっては「不思議なことがあるもんだなあ」と思っていたんです。

キリスト教神信仰に立つ

それからクリスチャン生活が始まっていきました。それでお祈りしていぐのですけれども、十年間の潜伏していた統一協会の影響が、鎌首を持ち上げてくるんです。その凄まじさというのは、夜寝ていると心臓が苦しくなったり、うなされたり、とクリスチャンになった途端に、おかしいことが起こるんです。私が苦しくなった時には家内に助けてもらってお祈りしてもらったり、私がスッと楽になると今度は家内に起こってくるんです。それで家内に向かって今度は私か、「イエス様どうぞ守ってください」と祈って平安になったり、そういうことが一年ぐらいぶっつづけに起こりました。

それで、そうこうしているうちに、韓国の趙ヨンギ先生の、純福音の教会に、断食聖会があるんで行ってみないかと言われて行ってみました。もう統一協会時代も三、四回韓国に行きましたが、クリスチャンなってから半年もしないうちに韓国に行ってみて、そこで世界最大という教会を見て、「ああ、韓国で統づ協会なんてのはたいしたことないんだなあ」と。

そのセミナーの「聖霊論」の中の、悪霊についての短い話の中で、文鮮明のことが出たんです。趙先生の話の中で、「韓国産の悪霊が、日本を荒らしまわってる」と。昔の古傷に触られた。しかし、その趙先生の話の中で物凄い真剣な場面があったんです。「神様は文鮮明という人物を絶対許されない。自分をキリストの再臨として、神の主権を侵害している」という言葉、「神の絶対主権に対して挑戦しているんだ」という言葉を聞いて、「ううウむ」と思いました。「神の絶対主権に対する侵害」、そういうことなのか。その時私は統一協会にいたということは、神様の絶対主権に対して、知らないとはいえ反逆していた。

その時は独りで祈りました。神様の前に許しを乞うた。知らないこととはいえ自分としては青春かけて、楽しい思い出もあった、それはそれとしてとっておこう。クリスチャンはまたクリスチャンだ。そういうような割り切り方をしていた。それは神様の前で、イエス様を悲しませていたことであり、神様の絶対主権に対して、逆らっていた行為で、許されなかったんだ。自分の中にあった統一協会への曖昧な部分を、その言葉で私は「神様、イエス様ごめんなさい」。知らないとはいえ、八年間も文鮮明の手下となっていたことを本当にイエス様ごめんなさい、と一言出たんです。その時、非常に力が出て、初めてイェス・キリストが神だということが分かりました。

私はクリスチャンになって、聖霊様が神様だということは、あの「聖霊はイェス・キリストの御霊である」という言葉で、大体わかった。父なる神様も神様だということは分かっていた。ところがイェス・キリストが神だということについてですが、原理では完成人間としか言ってませんので、イェス・キリストを無原罪の人間ということだけで、まっこうから対立します。私の頭の中では、この宇宙に沢山星があり、その宇宙の全部の星をつくった神様が、地球にたった独りのイェス・キリストとして生まれたというのはまったく作り話だ、と考えていたんです。イェス・キリストが立派な方だということは分かるけれども、神だとはとても考えられません。クリスチャンになって半年して、お祈りしながらでも、イエス様は人間だと思ってクリスチャン生活をしてたんです。だから三位一体のひとつだけ欠落してた。

ところが、イエス様ごめんなさい、と言った瞬間に、イェス・キリストが神だとわかってきた。不思議にです、本当にひとつひとつ神さまから示されて、悔い改めるのもちゃんと神様がセットして下さった。それで三位一体が三位一体らしくなった時に、私に物凄く元気が出てきた。それまでは教会に行っても隅っこの方でボソボソしてたんです。ところが物凄い力出てきて、それから伝道もできるようになったんです。そして統一協会という団体が反キリストであり、この文鮮明という人物は終わりの時に現れる反キリストの前ぶれ程度の小物にしかすぎない。

なんだこの程度の小心な男が若者を馴して自分が再臨のキリストであるかのごとくやっているだけにすぎない。そしてこの男もイエス様の前ではもうどうしようもない男だ。イエス・キリストが私の中で非常に大きな部分を占めて、文鮮明というのは本当の罪人、私も罪人ですが、もっと救い難い罪人のひとりだと考えることができ、解放されていきました。神様の前では文鮮明も罪人で、救われなければいけない存在だ。統一協会にいた人間として、その統一協会の人間を救出するということができるようになったのは私も罪人であり、イエス様の前では統一協会の人間も罪人である、ここにあるんだなあということです。そして本当に元気が出てきたんです。

救出活動ヘ

クリスチャンになって六年目に、一昨年七月にAさんから連絡あって、救出活動をやってるんだ、来てみないかと言われて、行って話してみると、ああ、昔の自分を見る思いなんです。精神病院にいれた私の親と同じように、親が泣いている。子供は私と同じように夕力をくくっている。そういう姿を見て、なんとかできることならば、私の悲劇を繰り返してもらいたくない。そういう気持ちで、『原理講論』を松濤町にある愛美書店に行って、買ってきて、もう一回『原理講論』を読みました。ちらっと読んだら、何百回と講義してるもんですから、すぐ言葉が出てきて、説得する時に今非常に役に立つ。『原理講論』の言葉がバタバタバタと出くる、忘れていた筈なのに出てくる。そして、説得してるというような状態なんです。本当に神様は不思議なことをされる。イエス様は本当に不思議なことをされる。

誰かが、田口さんは、本当に恵まれている。自力で脱出されて、自力で立ち上がられて、やっておられる。羨ましい、とお手紙を下さるんです。「そうでしょうか、そうですか」と私は言いたいんです。私の心では、もうこんな目には会わせたくない。また会ってもらいたくないという事が本音です。私は、こんなことは絶対味わってはならないという感じを持っています。特に私の最初にお話ししました親友のS君が原理を出てくるまでは、自分のできることはやりたい。彼が救出されてからは、次のことを考えたいと思います。個人的なことを言って申しわけないんですけども、私の最愛の親友が帰ってくるまでは私と統一協会との関わりは終わらないと思って、今もやっている次第です。長い時間どうもありがとうございました。

質疑応答

〔A〕大変具体的に、洗脳の状態を説得された側から伺わせていただきまして、とても参考になりました。私の次女が統一協会に八年前から献身しておりまして、まだ牧師先生の説得を受けない状態で拒否しつづけておりますけれども、こういう感じであの人たちがみんな夢中になってしまうんだということがよくわかりました。ありがとうございました。

それでひとつ伺わせていただきたいのは、脱会したものは霊界に行ってひどい目にあうと、脅かして呪縛にかかっているように見受けられるのですが、本人はそうではないと否定します。どうもそうらしいという感じを見受けますが、統一協会ではどういうふうに教え、教育しているのでしょうか。

〔田口〕創造原理の中の無形世界と有形世界というところと、それから復活論の霊の協助現象というところで、死んだならばひどい目にあうとはっきり言っています。中で活動している時は、そう怖いとは思いたくないんで、そういうことは一切忘れていると思うんです。ところが原理を出る瞬間にそれをパッと思い出す。統一協会の中にいる時は安心しているのですけれども、出る瞬間に恐怖を思い出すようになってる。自動的にです。(そういうメカニズムにということですね。)霊感商法は、彼らの復活論という考え方の中から出てると思います。できましたら将来、日本基督教団の先生方が、『原理講論』に対する神学的な批判の本を出したらどうでしょうか。統一協会が非常に一般教会みたいに潜在化してますのでそれに対して、教団として、キリスト教界全体として、これはおかしい協会だ、真向からキリスト教会と対立するものだという本を出してほしいです。それは非常に彼らにとっては脅威になると思います。とにかく復活論というものは彼らのメチャクチャな考え方で、キリスト教会の復活とは違うので、思い出してお話しいたしました。

〔B〕先生(田口)が原理におられた時は、全国合わせて六百人ぐらいということを言われていましたが、出られた時点では、何人ぐらいの統一協会員がいたのでしょうか。

〔田口〕せいぜい千名ぐらいだったと思います。京都の知事選で統一協会員の二割か三割は投人された。二割、百人ぐらいですね。だから六百人から千人ぐらいだったと思います。全然増えないままずっと現状維持してたのです。

〔B〕キリスト教会に対する対策があるのですか。

〔田口〕統一協会は最初からキリスト教対策を始めています。今はもう総合商社みたいになってますけど、我々のいた時代は、結局主権復帰というこでした。今はどのへんまでポンドなのかわかりませんけれど、とにかく韓国の政権を奪取する、日本の政権を奪取する、アメリカの政権を奪取する。このことを徹底的に教えられた。そのためにまず、宗教と政治と経済、この三本柱をとる。宗教はキリスト教工作、勝共でもって政治運動、経済は経済活動と、この三つでやっていくんだという理念です。その三つが全部充実することが神の国の、地上天国の実現なんだと、こういうふうにして意義づけられていた。

〔B〕キリスト教対策っていうのは最初からですか。

〔田口〕一番最初からです。キリスト教の位置づけをイエス・キリスト時代に置き換えると、イエス様が一番最初にユダヤ教をキリスト教にしようとして失敗したから、十二弟子みたいな漁夫とか取税人とか、そういう人間のレベルに落ちていった。失敗したからなんだと。君たちキリスト教と関係ないところから来たのも、キリスト教会がソッポ向いたからで、二次的、三次的摂理であんたたちが来たんだ。統一協会の歴史の中では、最初キリスト教にアプローチしたけども誰も振り向かなかった。だから立正佼成会へ行ったんだというような説明をします。そして今度クリスチャンが文鮮明を主と信じなかったから、クリスチャンの代わりに大学教授が蕩減をしている。それで平和教授アカデミーとか、クリスチャンの使命を身代わりとしてやっているという。文鮮明は、胤(よだれ)が出る程キリスト教に横恋慕している男なんです。クリスチャンから主と崇められたいのです。そういう欲望の凄く強いパラノイアの人間です。

〔C〕よくぞお話し下さった。田口さんは大変苦しい思いをなさって、そのお苦しみはある程度、分かる気がします。その上で伺いたいことなんですけども、救出のポイントとそしてアフターケアという言葉が許されればアフターケアのポイントを教えて下さい。

〔田口〕ポイントと言っても、私も一昨年からやったばっかりで、先生たちより経験が浅いと思います。私かこの二年間でお会いした方々がいうのは、田口という男が口角泡を飛ばしてしゃべっている、それだけなんです。とにかく情熱をもって喋った結果、それが段々積重なってくると、いつのまにか変わってしまっている。

私は部屋に入って、必ずお祈りしてから始める。というのは彼らがクリスチャンに対する偏見を教えられてるからです。部屋に入って、先ず挨拶する前に、すぐお祈りしてイニシアチブをとる。イエス様に対する情熱、彼らが文鮮明にかけてる情熱以上の情熱をもって、「イエスさま、感謝します」という祈りから始めていく。それでその人には絶対わかっていただける。「お祈りしましょう」と言って向こうも祈り始めたら、これはなかなか曲者です。これはちょっと時間かかるなあ。だけど向こうは大体だらしなくて、「なんだ」となっていたら、イニシアチブはこちらにくる。やっぱり最後は人間対人間、人格対人格じゃないか。説得の中身とかというものではなくて、人格と人格のぶつかりあいではないか。いかに誠実に情念をもってやるかです。

〔B〕よく分かりにくいところというのは、勝共活動ですね。あれが一体どういう背景になっているのかということがわからないんです。経済活動にまわってる人のケースが当然、多いんですけども、勝共に来てる人たちの実態がもうひとつわからない。そのあたりを教えてください。

〔田口〕最近のその統一協会の状態については、先生たちの方が詳しいと思います。勝共、結局、文鮮明という男は非常に小心な男で右翼が怖くて、その恐怖感が勝共連合を作らせた。統一協会が出来て、いろんな意味づけしてますね。根本的には文鮮明の内面の、不安とか恐怖から生まれてるという感じがします。ですから形を見ると何か、CIAがどうだとか何か非常に巨大なもののごとく思いますけれども、彼らの本質は、答えになってるかどうかわかりませんけれども、脅えているだけに過ぎない。もう蜃気楼で、暴力は怖いですけど、彼らの方が怖がっているんだということです。

勝共連合なんていうカッコいいものをやってますけど、我々に教えられたのは、目的としては自民党を乗っ取って、日本の政権を取ると。そのためには手段を選ばない。その目的が、はっきりしてるもんですから、たとえ〝世日〟が赤字になろうが、おかしげな経営をしようが、とにかく目的のためにはそれをやる。それは完全に狂った、バランスを完全に欠いた文鮮明という人柄から出ている。どこかで彼らはバランスを欠いている。目的が誇大妄想ですから。勝共連合は無駄な活動をしている。徒労に徒労をしているだけなんです。その勝共理論が、最初はなりものいりで入ったんですけれども、全然共産主義者を原理に入れるなんてことはできるような代物ではないということです。なりものいりで入ってきた勝共理論が、全然役にたたない。勝共連合何やってんのか私もよくわかりません。

〔D〕明石の教会の優しくしてくれた牧師先生いらっしゃいますね。あの先生がもう少し原理に詳しく、もっと出会って説得されていればどうなったと思いますか。

〔田口〕多分、私はそこに入って行ったと思います。その当時やっぱり十八才で家を出て、非常に寂しい状態でした。また開拓伝道という星を見ながら、独りでいたもんですから、非常に寂しいですね。そういう時に優しい言葉をかけられて、グッときだ。原理に対してよりも、もうちょっと優しくやられたら、私は多分統一協会やめたと思います。まだ十八才、十九才のまだお母さんが恋しい時期ですから。意地でやってた、意地と何か使命感でやってたようなもんです。すぐ崩れるような状態だったです。

〔A〕長時間、ありがとうございました。

[出典:六マリアの悲劇.com]

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