【わが父 文鮮明の正体】まとめ(06)

わが父 文鮮明の正体
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第5章:「イーストガーデン」で見たもの

「イーストガーデン」にもどったとき、統一教会員の目から見れば、私は既婚婦人だった。しかし、どう見ても、相変わらず学校教育の必要な子供でもあった。文鮮明の家庭における自分の劣った身分について、私がいまだになにか疑いを抱いていたとしても、私の教育についての話し合いは確かに私の立場を明確にした。

私の夫は十九歳でいまだに高校を終えていなかったが、彼を別にすれば、学齢にある文師の子供たちは夕リータウンの私立学校に通っていた。文夫人ははっきりと言った。おまえのために年に四千五百ドルのハックリ・スクールの学費を払うつもりはない。公立学校でたくさんよ。

二月はじめ、ピー夕ー・キムが車で私をアービントン高校まで連れていき、十年生に入学させた。私たちはまず、ノートー冊と鉛筆数本を買うため、コンビニエンス・ストアに立ち寄った。私は洪蘭淑の名前を使うことになっていた。私の結婚や文一家との関係はだれにも知られてはならない。ピー夕ー・キムは校長に、自分を私の後見人だと紹介した。私の成績表は彼のところに送られる。

ソウルのリトルエンジェルス芸術学院では、私はクラスで上から一〇パーセントの成績に入る生徒だった。しかし、アメリカの高校に通うという予想は、私を恐れで満たした。私は典型的な郊外の高校の騒々しい廊下を、ピー夕ーキムについて歩きながら、私を追い越して駆け出していくテイーンエイジャーたちの笑い声とラフな服装を見ていた。この元気いっぱいの集団とダンスバーテイの光景に、私がどうしたら適応できるだろう?英語を話す教師の言葉をどうやって理解すればいいのか?学校ではまじめな学生、家庭では従順な妻であることをどう両立させればいいのか?この二重生活のなかで、私は孤独以外になりようがあるだろうか?

私は文師夫妻に朝食の食卓で挨拶するために、毎朝六時に起きた。邸宅の厨房では、朝は大騒ぎだった。文師夫妻が何時に下におりてくるかは、だれもはっきりとは知らなかったが、夫妻はおりてくるとすぐに食事が出てくることを期待していた。二人の料理人と三人の手伝いがメインコースを準備していた。しかし、よくあることだったが、文師夫妻が別のものをほしがると大慌てだった。私は夫妻が大勢の教会幹部たちと食卓に到着する前に、キッチンで軽食をとった。彼らが現れるとひざまずいてお辞儀をし、いってもよいと言われるのを待ち、運転手に学校まで車で送ってもらった。

朝はたいていの場合とても疲れていた。なぜならば孝進は十二時前に帰ることは決してなかったし、帰るとセックスを要求するからだった。彼はしばしば酔っばらい、テキーラとしけたたばこのにおいをさせながら、コテージハウスの階段をよろめきあがってきた。私は、放っておいてくれることを期待して、寝たふりをしたが、それはめったになかった。私は彼の要求に奉仕するためにそこにいた。私自身の要求は問題ではなかった。

朝は部屋のなかをつま先立ちで歩き回った。もっとも夫を起こす危険はほとんどなかったが。彼は昼過ぎまでぐっすり眠っていた。ときには私が学校からもどってきてもまだ寝ていた。彼は起きあがると、シャワーを浴び、それからマンハッ夕ンに出かけて、お気に入りのナイトクラブ、ラウンジ、コリアン・バーを巡り歩く。十九歳だったが、なじみの韓国人経営のバーで酒を出してもらうのには困らなかった。当時十五歳だった弟の興進と十六歳の妹の仁進を、深夜の酒飲み旅行に連れていくこともあった。

一度だけ、私を誘ったことがある。私たちは車で、たばこの煙の充満するコリアン・ナイトクラブにいった。文の子供たちが常連なのは明らかで、ホステスはみんな親しげに挨拶した。ウェイトレスが孝進にゴールド・テキーラのボトル一本とマールボロ・ライトを一箱もってきた。仁進と興進は孝進と一緒に飲み、私はそのあいだ、コカ・コーラをすすっていた。

私は泣くまいとしたが、必死の努力にもかかわらず、涙が出てきた。私たちは、こんな場所でなにをしているのだろう?子供時代ずっと、私は統一教会の会員はバーにはいかない、文鮮明の信徒はアルコールを飲まないし、たばこは吸わないと教えられてきた。「真のお父様」が世界中を旅して非難している行動を、文師の「真の子女様」がおこなっているあいだ、どうして私は彼らと一緒にこの場所にすわっていることができるだろう?

私が足を踏み入れたびっくり館の鏡のなかでは、彼らの行動は問題ではなかった。私の行動が問題だった。「おまえはなんでこうなんだ?」と孝進はうんざりして別のテープルに移る前に聞いた。「みんなが楽しんでるのを台無しにしてる。おれたちは楽しみにきたんだ。おまえの子守をしにきたんじゃない」仁進は私の横の椅子に腰をおろした。「泣きやめないと、孝進はすごく怒るわよ」と彼女は私に厳しく警告した。「あなたがこんなふうに行動していたら、彼はあなたを好きにはならないわ」私が気を落ち着ける前に、夫は「いこう、こいつを家に連れていくぞ」と怒鳴った。

「イーストガーデン」までの長いドライブのあいだ、だれも私に話しかけなかった。私は暖房のききすぎた車のなかで、彼らの軽蔑がひしひしと感じられた。「泣かないで」と私は自分に言い続けた。「すぐに家に着くわ」私をおろす直前、孝進は私の同級生のひとりを拾った。彼女は「祝福子女」で、文兄弟の遊び友だちだった。彼女は後部座席に身体を押し込み、私がいるのにさえ気づかなかった。彼らは、ニューヨークへ帰ろうと大急ぎのあまり、車道にすべった車輪の跡まで残していった。

それは、泣きながら眠ったあれほど多くの夜の最初の一夜だった。ベッドの横にひざまずいて、私は何時間も神に助けを祈った。「もしもあなたの意志を実現するためにここに私を送られたのなら」と私は祈った。「どうぞ私をお導きください」私は幼い心のすべてで、もしもこの世で神を失望させれば、来世では天国に神と一緒の場所を拒否されると信じていた。神の御許にいけないのであれば、この世の幸せな生活に、なんのいいところがあるだろう?

翌朝早く、「お母様」が私を自室に呼びつけたとき、私のひざは力ーペットにこすれて擦りむけていた。孝進やほかの子供たちはまだ家に帰っていなかった。「お母様」は知りたがった。彼らはどこにいるの?なぜおまえは一緒でないの?彼女の前の床にひざまずき、私は前夜の出来事を語りながらすすり泣いた。この恐ろしい重荷を「お母様」と分かち合えることは、ほっとすることだった。もしかしたら、なにかが変わるかもしれない。文夫人はとても怒ったが、私が期待していたように孝進に対してではなかった。彼女は私に対してかんかんに腹を立てた。おまえはばかな娘だ。自分がなんのためにアメリカに連れてこられたと思っているのだ?孝進を変えるのがおまえの役目なのだ、おまえは神と文鮮明を失望させた。孝進が家にいたいかどうかは、おまえしだいだ。

どうして彼女に言うことができただろう、彼女の息子が家にいても、ものごとは少しもましではないことを?彼はコテージハウスの居間を、自分のロックグループ「Uバンド」のために占領した。私は彼らの徹夜の練習がいやだった。彼らが演奏したり、ステレオで音楽を聴いたりすると、家全体が揺れた。孝進はクラシックの音楽教育が私をスノッブにしたと言い張ったが、私が彼のバンドを嫌ったのは、彼らが演奏する音楽のためというよりも、私たちの家庭での彼らの振る舞いのためだった。

バンドのメンバ—は夕方集まり始め、近くに住む他の「祝福子女」が加わることが多かった。ギターのチューニングの音が聞こえるとすぐに、マリファナのにおいが、私が宿題をしている二階にあがってきた。

孝進やその友だちは、私が衝撃を受けるのをおもしろがっていた。それはわかっていたが、実際のところ、彼らについての私の感情は相矛盾するものだった。禁じられた行動に加わりたくはなかった。しかし、教科書をもって二階にいるとき、私はあまりにも孤独だった。私は彼らに加わりたくはなかった。けれども加わるよう誘われることを熱望した。私は上下逆さまの世界に暮らしていた。私は、これまでずっと教えられてきたことを信じて同世代からばかにされ、私自身のものでない過ちで年長者から叱責される。

どうして文夫人に告げることができただろう、子供たちのバー通いは、彼らの罪のなかではもっとも軽いものなのだ、などと?彼女が私に小言を言うあいだ、私はロをつぐんでいた。文夫人が私の母を自室に呼びつけて、私の過ちを並べ立てたのは、そのすぐあとだった。蘭淑は学校に結婚指輪をしていったり、孝進の昔のガールフレンドについて聞いてまわったりしている、と仁進が言っている。

私はそんなことはなにもしなかった。けれども自分自身を擁護しようとすれば、文師夫妻の前で、彼ら自身の子供を批判しているように見えた。そして、それは許されなかっただろう。私は母にそう説明しようとしたが、母の唯一の忠告は、もっと注意して、「真の家庭」の感情を害さないようにしなければならないというものだった。用心深く話さなければならない。祈らなければならない。より価値ある人間となるために。それは不可能に思えた。私はいたるところで批判され、公平な審問なしで有罪と判決された。あまりにもたびたび偽りの告発をされたために、私は簡単には人を信じなくなった。

父と兄が韓国からきてくれれば、とどんなに願ったことか!文夫妻は結婚式のあと、父をソウルに送り返した。兄もまだソウルにいて、高校卒業とアメリカで妻と合流するためのビザがおりるのを待っていた。こちらにきたら兄が自分自身の生活で忙しいのはわかっていた。彼はハーバ—ド大学入学のことを話していた。兄が学業で成功することはメシアの名誉になるから、文師は喜んで彼をいかせたがっているように見えた。私は兄のためにわくわくしたが、自分のためには悲しかった。私は、私を憎んでいる人びとに取り囲まれて、「イーストガーデン」に留まっていなければならない。

文師の三女、文恩進は例外だった。彼女は私より一歳年下で、やはり仁進とはあまり仲がよくなかった。私たちは、私が「イーストガーデン」にきた直後に仲良くなった。この最初の数力月間の恩進の親切を、私はずっと感謝し続けるだろう。すべてがあまりにも新しく、私は間違ったことをするのではと、心配でたまらなかった。たとえば「イーストガーデン」で最初に出席した日曜朝の敬礼式のとき、私は長い白の教会服を着たが、文家全員はスーツやドレス姿だった。私は悔しかった。その気持ちは、目立った格好をしてしまったティーンエイジャーにしかわからないだろう。私は自分の無知に困惑し、こんな簡単な習慣についても、だれも私に教えてくれなかったことに傷ついた。恩進はその役を引き受け、家族の集まりや教会の儀式ではどんなことがあるのか教えてくれた。

敬礼式は文師夫妻の寝室に隣接する書斎でおこなわれた。私はこういった式で、自分が七歳のときから暗唱してきた誓いの言葉を、文の子供たちが知らないのに気づいてびっくりした。敬礼式のあと、教会の「兄弟姉妹」たちが「真の家庭」に軽食を運んでくる。ジュース、チーズケーキ、ドーナツとデーニッシュ。文師は地元の会員を集めて、六時にベルべディアで日曜の定例説教をしたが、私たちがベルべディアにいく時間まで、私は文師夫妻の給仕をした。

私のような若い娘にとって毎週、文鮮明の説教を聞くことができるのはひとつの名誉だった。彼は韓国語で話したので、私には簡単に理解できた。アメリカ人会員は、彼の補佐たちがするおおまかな通訳に頼った。文師の説教のなにが私の心を打ったのか、それが理解できればいいのにと思う。彼はとくに洞察力があったとか、目立ってカリスマ的だったとかいうわけではない。実のところ、彼はそのどちらでもなかった。たいていの場合、彼は道徳的な正義の人となることによって、神と人類につくすよう私たちを鼓舞した。それは気高い神のお召しだった。

日曜の朝、ベルべディアのあの部屋にいた私たちのほとんどが、いかにおめでたかったかとはいえ、私たちの善良さによってのみ世界を変えられると本気で信じていた。私たちの信念にはある無邪気さと優しさがあったが、統一教会員を「カルト主義者」と非難するとき、それはほとんど考慮されていない。私たちはあるカルトに誘惑されたかもしれない。だが、私たちのほとんどはカルト主義者ではなかった。私たちは理想主義者だった。

文の他の子供たちがニューヨークでお酒を飲んでいるあいだ、恩進と私は夜遅くまで、邸宅のキッチンでお菓子を焼き、韓国語でおしゃべりをした。恩進は料理が上手で、気前がよく、チョコレート・チップス入りのチーズケーキや手作りクッキーを、邸宅の地下を事務室にしていた警備員たちに配った。

家事職員団を構成していた教会員たちは、文の子供たちからプレゼントをもらうより命令を受けるほうに慣れていた。「真の家庭」は、職員を年期契約の奉公人のように扱った。厨房の「兄弟姉妹」やべビーシッ夕ーたちは天井裏のひと部屋で、多いときには六人も眠った。わずかの報酬があたえられたが、本当の給料はなかった。警備員や庭師、文の所有地の世話をする何でも屋の男たちにとっても、状況は少しはましかどうかというところだった。文一家の態度は、おまえたちはこれほど「真の家庭」の近くで暮らせるのだから幸せ者だというものだった。この名誉と引き替えに、彼らは文家のもっとも幼い子供からもあれこれと指図をされた。「それをもってきて」「あれをとって」「私の服を拾って」「ベッドをなおして」

文鮮明は自分の子供たちに、自分は小さな王子、王女なのだと教え、彼らはそのとおりに振る舞った。それは困惑させられる光景だったし、職員が文の子供たちから受ける侮辱を甘んじて受けている様子には目を瞠らされた。私と同じように、彼らは「真の家庭」には欠点がないと信じていた。もし文家のだれかが私たちに対して不満があるとすれば、それは彼らの期待ではなく、私たちの無価値を反映しているのだった。このような思考態度を考えて、私は恩進の親切にはとくに感謝していた。彼女は私を見下すような態度は決してとらなかった。彼女は私を私自身として好いていてくれるようだった。

仁進は妹の恩進と私の友情を快く思っていなかったが、仁進もまた自分の目的に合うときには、私に親切にすることもできた。彼女は一度私のところにきて、夜、こっそり外出できるよう、服を貸してくれと頼んだ。彼女の部屋は邸宅の両親のスィートルームの隣にあり、「お父様」とばったり出くわす危険を冒したくない。どうしていけないの?と私は尋ねた。彼女は私に、先日午前四時ごろ、忍び足で自分の部屋に帰ったときの話をした。まだ暗かった。部屋の反対側の椅子にすわる「お父様」を見たとき、自分にはやましいところはないと思った。

仁進は私に言った。文鮮明は彼女を何度も何度もたたきながら、自分は彼女を愛するがゆえにたたいているのだと強調した。彼女が「お父様」の手でたたかれるのはこれが初めてではなかった。彼女は言った。警察にいって、文鮮明を児童虐待で逮捕させる勇気があればいいのにと思ったわ。私は彼女に一番いいブルージーンズと白いアンゴラのセ—夕ーを貸し、その話によっていかに衝撃を受けたかを隠しておこうとした。

「真の家庭」内での新生活のなかでもとくに、文家の子供たちとその両親のあいだの不和は私を啞然とさせた。私は早いうちに、これが暖かく愛情あふれた家族だという考えは間違いだと気づいた。彼らが霊的に完璧な状態に到達しているとしても、日常の彼らの関係にそれを見いだすのは難しかった、たとえばもっとも幼い子供でさえ、日曜の午前五時の家族の敬礼式に集まるよう言われていた。幼い子たちは眠く、ときには不機嫌だった。女たちは最初の数分間、子供たちをなだめようと努めた。私たちがすぐに子供たちを黙らせられないと、文師はかんかんに腹を立てた。文鮮明が自分の子供のひとりを黙らせようとたたくのは何度も目撃したが、初めてそれを見たときの嫌悪感を思い出す。もちろん、彼の平手打ちは、子供たちをますます泣かせるだけだった。

孝進は「お父様」と「お母様」に対する軽蔑を決して隠そうとはしなかった。彼は両親を便利な現金の引き出し口座以上には見ていなかったようだ。結婚当初、私たちには当座預金口座も決まったお小遣いもなかった。「お母様」が不定期に、ただ私たちにここで一千ドル、あちらで二千ドルとお金を手渡した。子供の誕生日や教会の祝日には、日本人その他の教会幹部たちが、「真の家庭」への「献金」として何千ドルも手にして屋敷にやってきた。現金は直接文夫人の寝室のクローゼットの金庫に入れられた。

のちに、文夫人は私に、孝進の家族を養うための金の提供は日本の基金調達者に割り当てられており、この基金はそのために定期的に送られてくると言った。この仕掛けがどうなっているのか、私にはさっぱりわからなかった。お金は直接私たちのところにはこなかった。一九八〇年代中ごろ、「真の家庭信託」に預けられた金は、孝進その他の成人した子供たちに、毎月、電信送金されてきた。孝進は、毎月約七千ドルほどを受け取っていたが、それは私たちが夕リー夕ゥンのファースト・フイデリテイ銀行に開いた共同名義の当座預金口座に直接振り込まれてきた。このお金の特定の出所について、「日本」以上のことは私には決して明らかにはならなかった。

孝進は定期的に「お母様」のところに大金をもらいにいった。私が言えるかぎりでは、彼女は一度も「だめ」と言ったことはない。彼はお金を私たちの寝室のクローゼットにしまい、バーにいくときはいつも、彼の現金保管所から現金をつかみだした。

ある晚、いつものようにマンハッタンに夜遊びに出かけようとした孝進がわめきだし、部屋中にものを投げ始めたことがある。私は脅えた。「殺してやる、この売女め」と孝進はクローゼットをかき回し、衣類をハンガ—から、ネク夕イをネクタイかけからたたき落としながら叫んだ。「私がなにをしたの?」と私はつっかえつっかえ言った。「おまえじゃない、ばか」彼は「お母様」のことを言っていた。「あいつはおれの人生をめちゃめちゃにしようとしている」彼のお金がなくなっていた。彼は、「お母様」が息子の飲酒を制限するためにコテージハウスにきて、お金をもっていったと考えた。私には信じられなかった。文師や文夫人が、自分の子供たちのすさんだ行動になにか制限を加えようとした証拠はなにも見ていなかった。

くしゃくしゃにされた衣類を拾い上げながら、私は靴のあいだにはまりこんだ札束をクローゼットの床に見つけた。コートのポケットから落ちたにちがいない。六千ドル以上あった。孝進は金を私の手から奪い取り、侮辱の言葉をとぎれなく吐き続けて「お母様」を非難しながら、ほとんどドアを蝶番からもぎ取りそうな勢いで、バーへ出かけていった。

私にとって学校は難しくはあっても、コテージハウスの混乱に比べれば、正気の避難場所だった。英語の授業では、私はそれがなにを意味するのかまったくわからないままに、単語を覚えた。生物学では、先生が直接私に話しかけるのをぼんやりと見つめ、私がまったく理解できないのに、クラス全体が笑いざわめいた。かつての優秀な生徒の片鱗を自分に見たのは、数学の時間だけだった。この四十分間、私たちはみな「数」という世界言語を話した。私は二年生だったが、代数学では十二年生に入った。十二年生の授業が、私が韓国で四年生のときに修めていた範囲と等しかった。

私は韓国出身の「祝福子女」たちとお昼の食事をし、ときには一緒に勉強もした。孝進の妻という私の地位は、私たちの関係を堅苦しいものとし、本当の友情を妨げた。そのカフェテリアのテーブルは、私がうまく適応できないもうひとつの場所だった。ある午後、韓国人同級生ふたりが私と勉強するためにコテージハウスにやってきた。彼女たちは家を案内してくれと言った。私は、「Uバンド」のギ夕ーやアンプ、ドラムでいっぱいの練習室を見せた。寝室と文夫人が私のために机と本棚をおいてくれた勉強部屋を見せた。

「でも、あなた、どこで寝るの?」と女の子のひとりが尋ねた。「もちろん、寝室よ」と私は言い、言ったあとで、ふたりがクィーンサイズのベッドをじっと見ているのに気づいた。教会の会員として、彼女たちは私と孝進の結婚を知っていたが、おそらく実際に夜の夫婦生活があるとは思っていなかったのだろう。その考えがそれほど愚かな仮定でないことは、いまの私には理解できる。ニューヨーク州の承諾年齢(結婚・性交への女子の承諾が有効だとされる年齢)は十七歳である。孝進は強姦罪で逮捕されかねなかった。

「祝福子女」のひとりがテレビをつけ、X指定(成人向き)のビデオが画面に現れたとき、私の当惑は恥辱に変わった。私は、孝進がビデオを使うのを見たこともなかった。私はテレビのキャビネットを調べた。それは同じような映画でいっぱいだった。あとで私がポルノ・フィルムのことを問いつめたとき、孝進はただ笑っただけだった。彼ははっきり言った。自分は、遊びでも実生活でも、変化のあるセックスが好きだ、おまえも知ってるはずだ。おれはひとりの女、とくにおまえのようなお上品ぶった信心深い小娘では決して満足できない。

孝進は私の性的未熟さを自分の母親にこぼしさえした。彼女はある日、私を呼んで、妻としての私の務めについて話した。とても気詰まりな雰囲気だった。昼間は貴婦人、夜は女であれ、という彼女の婉曲話法についていくのは難しかった。私たちは昼間は夫の友でなければならない。だが夜は夫の気まぐれを満足させねばならない、と彼女は言った。さもないと、彼らは脇道にそれる。夫が脇道にそれるのは、妻が彼を満足させられないからだ。私は孝進の望むような女になろうと、もっと努力しなければならない。私は混乱した。文鮮明が私を選んだのは私の無垢ゆえではないのか?いま私は妖婦になることを期待されているのか?十五歳で?

私は真実を見始めていた。私たちの結婚はごまかしだった。孝進は結婚に妥協した。けれどもこれまでの生活を改めるつもりはなかった。私は孝進がよくいくコリアン・バーのホステスと関係しているのではと疑ったが、なんの証拠もなかった。彼が一晩中帰ってこなかったとき、なにをしていたかと尋ねれば、メシアの息子に質問するとは厚かましいやつだという答えが返ってきた。私は目を開けてベッドに横たわり、彼の車の音を聞いたと思ったが、それは風の音にすぎなかった。

結婚直後に、私は彼の早熟なライフスタイルについて肉体的な証拠を得たが、それに気づくには無知すぎた。結婚後数週間のうちに、性器に痛みをともなう水疱ができ始めた。このような恐ろしい痛みの原因がなにか、私には思いもつかなかった。おそらくそれは性行為の当たり前の反応なのかもしれない。おそらくは神経的な反応かもしれない。

もちろんそんなものではなかった。文孝進は私にヘルベスをうつした。何年ものあいだ、私は発疼が出るたびに、レーザー治療を受け、局所薬を塗らねばならなかった。レーザー治療が、感染部位の敏感な皮膚を不注意に焼いてしまったあと、私は一晩中、暖かな浴槽に入って過ごした。孝進はその夜、私が浴槽のなかで、死の苦しみに泣いているのを見ながら、痛みの本当の原因は決して教えてくれなかった。私の婦人科医が、私は性感染症に苦しんでいるとはっきり告げたのは、何年も経ってからのことである。彼女は言った。あなたは知っておく必要があります。なぜならばエイズの時代に、孝進の不貞は、彼の魂にとって危険なだけではないからだ。それは私の命にとっても危険だった。

けれども一九八二年春には、私はただ孝進が私を愛していないということしか知らなかった。結婚式から数週間も経たないうちに、彼は私に、おたがいの人生をめちゃめちゃにしないために、私たちは別々の道をいくべきだと言った。私は呆然とし、涙ながらに答えた。「そんなこと、私たちにはできないわ。お父様が私たちをマッチングなさったんです。お父様は私たちは一緒に生きなければならないとおっしゃいました。私たちは簡単に別れることはできません」このとき孝進は、私の選択には反対したこと、私とのマッチングは一度も望まなかったこと、結婚に同意したのはただ両親を喜ばせるためだけだったことを告げた。彼は言った。自分には韓国にガールフレンドがいる。そして彼女をあきらめるつもりはない。

彼の不貞と彼がそれを誇示するときに見せた喜びのどちらをよりつらく思ったかわからない。目立たぬようにしたかったのであれば、孝進は彼女と内緒で話すこともできたはずだ。そのかわりに、彼は私の目の前で、コテージハウスの居間から彼女に電話をしてサディスティックな喜びを味わった。「イーストガーデン」で私を仲間外れにしたいときは、友人や家族に英語で話しかけた。私の家で私を傷つけたいときは、ガールフレンドに韓国語で話した。「おれがだれと話してるか知ってるだろう。だったらあっちへいけよ」と彼は笑い、そのあと、電話線の向こうにいるガールフレンドに彼の愛を大声で語るのだった。

結婚後数週間して、孝進はなぜいくのか、いつ帰ってくるのか、私にひとことの言葉も残さず、ソウルに出発した。彼は何力月も帰ってこなかった。ある朝、彼の弟の誕生祝いのあいだに、私は突然気分が悪くなったが、そのときも彼はいなかった。私の母は私が思いもみなかったことに本能的に気づき、私を助けて食卓から立たせた。私は妊娠していた。

私は子供で、自分の妊娠に対しては子供のように反応した。どうしたら学校を卒業できるだろう?ほかの生徒たちはなんと言うだろう?私に母親となる準備ができていないこと、私の結婚の不安定な状態など、より大きな疑問は私が面と向かうには難しすぎる疑問だった。私の状態が同級生たちに気づかれる前に、学年を終えることができるかどうかを心配するほうが簡単だった。

もうすぐ父親になると知っても、孝進はソウルから急いで帰ってこようとはしなかった。彼は私に電話もしなければ、手紙を書いてもこなかった。一度彼に電話したが、「お父様」のお金を無駄にしていると怒られただけだった。彼は乱暴に受話器をおいたので、韓国人の交換手は、私にラィンが切れましたと告げねばならないほどだった。私はまるで平手打ちを喰らったように感じた。妊娠について話すために電話をしてくるときは、孝進は私ではなく、「お父様」の補佐ピー夕ー・キムと話した。春のある朝、キッチンに入ろうとしたとき、私はピー夕ーキムがその電話の内容を私の母に告げているのを聞いた。盗み聞きしているあいだ、私は息を詰めていた。次にはなにが起こるのか?盗み聞きした内容は、私には思いもかけないことだった。

孝進はピー夕ー・キムに言った。自分たちは法的に結婚していないのだから、自分にはなんの義務もない、というのがおれの立場だ。自分は教会員ではないガールフレンドと結婚するつもりだ。文師夫妻が赤ん坊と私の面倒をみたいというなら、勝手にどうぞ。自分は抜け出したい。母はほとんどロを開かなかったが、ピー夕ー・キムと母の話を聞きながら、私はとても脅えた。孝進にはそんなことができるのだろうか?私と私の赤ちゃんにはなにが起こるのか?文鮮明がひとつに結びつけたものを孝進はどうして分けることができるだろう?

まもなく韓国からもどってくると、孝進は私にひとことの謝罪や説明の言葉もなく、コテージハウスから出ていった。「お父様がおまえと赤ん坊の面倒をみてくれると確信している」と彼は冷たく言った。厚かましくも電話をかけてきて、その夜、自分のへルペス治療のための処方箋を取りにくると言いさえした。私はあまりにも怒っていたので、彼がくる前にコテージハウスの電球をすべてはずした。だから彼は医薬品箱まで手探りでいかねばならなかった。子供っぽいいたずらで得た満足は短かった。彼はいってしまい、私はひとりで、しかも妊娠していた。

彼がどこにいるのか、私には思いもつかなかった。あとになって知ったのだが、彼は私たちが結婚祝いに受け取った金で、「フィアンセ」をアメリカに呼び寄せ、マンハッタンにふたりのためのアバー卜を借りていた。韓国から「イーストガーデン」に帰ってくると、彼は文師夫妻に、自分は自分が選んだ女と暮らすつもりだと告げた。両親のどちらも、彼を止めるために、なんの試みもしなかった。私はいつも文師夫妻は自分たちの息子のことを恐れていると思っていた。孝進の機嫌はあまりにも変わりやすく、彼の気分はあまりにも不合理だったから、文師夫妻は彼との対決をあくまでも避けようとしたのだろう。

そのかわりに、「真の御父母様」は私を呼びだした。私は彼らの前でひざまずき、頭をさげ、視線を落としていた。私は彼らが私を抱きしめてくれることを期待していた。彼らが私を安心させてくれることを祈っていた。反対に文師は私を激しく非難した。これほど怒った彼を見たことはなかった。彼の顔は怒りでゆがみ、真っ赤だった。おまえはどうしてこんなことが起こるままにしていたのか?孝進からこれほど嫌われるとは、おまえはなにをしたのか?おまえはなぜ孝進を幸せにできないのか?私は文鮮明が私を殴るのを恐れて、顔を上げなかった。文夫人は彼を落ち着かせょうとしたが、「お父様」は怒りを鎮めなかった。おまえは妻として失敗した。おまえは女として失敗した。孝進がおまえを捨てたのはおまえ自身の過ちだ。なぜ孝進に自分も一緒にいくと言わなかったのか?

私自身の考えはあまり意味をなさなかった。どうして孝進と一緒にいくことなどできただろう?彼と彼のガールフレンドと一緒に暮らすために?私は高校を卒業しなければならない。私は文師の怒りに恐れをなしたが、また不当に非難されて傷ついてもいた。孝進が愛人をもったからといって、なぜそれが私の過ちなのか?文師の息子が父親に従わないからといって、なぜ私が非難されなければならないのか?

私はこういった思いを口にするほど愚かではなかったが、でもそう思っていた。彼らの前では謙虚であり、彼らの虐待を受け、話しかけられたときだけ話すのが私の運命だった。涙が私の類を熱く濡らした。私は「再臨の主」の前で黙り、ひざまずいていた。けれども私に対する彼の不当な攻撃に、内側は煮えくり返っていた。ようやく彼は「出ていけ」と叫び、私は急いで立ち上がった。涙でなにも見えず、コテージハウスまでずっと走っていった。

私は完全に見捨てられたと感じた。私の母はまったく私の役には立たなかった。彼女は、私たち全員を罠に捕らえていた同じ信仰体系に、がんじがらめになっていた。もし文鮮明がメシアなら、われわれは彼の意志を実行しなければならない。私たちのだれにも選択の自由はなかった。この状況にいるのが私の運命だった。私はできるかぎりなんとかうまく切り抜けねばならなかった。神だけが私を助けられた。コテージハウスの自分の部屋で、私はすすり泣き、私を見捨てぬよう大声で神に祈った。もし私の苦しみを鎮めることができなくても、これに耐えられるほど私を強くしてくれるよう神に祈った。

私は自分の弱き涙に自己嫌悪を感じた。私は神の前で泣いたことが恥ずかしかった。神は私をこの聖なる使命のために選んだ。そして私は神を失望させただけでなく、自己憐憫にも負けた。私は神に、私の信仰を強化し、神が私に送った苦悩を受け入れる謙虚さをあたえてくれるよう祈った。

一度そのようなとき、私は母が階下にいて、私の祈りを聞いているのに気づかなかった。私がおりていったとき、母の目も私の目と同じように真っ赤だった。母にとって、娘がこれほど苦しむのを目にし、助ける力がないと感じるのはつらいことだったにちがいない。けれども、私は母の感情を推測しているだけである。私たちは自分たちの感情について一度も話したことはない。おそらく私たちは、もしおたがいの苦痛を認めたら、自分たちがさらに深い絶望に追い込まれることを恐れたのかもしれない。

私は結婚の早い時期に、自分の感情を隠すことが自己保存の鍵だと学んだ。私は昼間を、見たところ屈託のない女学生として過ごし、夜はひざまずいて、絶望の祈りを捧げて過ごした。その春、私は毎日午後になると、邸宅前の広い円形の車道を歩いて、自分の考えを整理しようとした。

ある日、私が歩いていると、文鮮明師の最古参の弟子のひとりが私についてきた。文家のだれも私に慰めをあたえてはくれなかった。私はとがめを科せられ、それを義務として受け入れねばならなかった。教会の長老は舗道を私と歩きながら、私に心配しないよう言った。おまえの悲しみは赤ちゃんの害になるかもしれない、と彼は注意した。孝進は正気を取り戻す、と彼は約束した。私は自分の屈辱がこのように知れ渡っていることに当惑したが、尊敬されている長老の親切はありがたく思った。

その春、兄がようやく韓国からやってきて、ベルべディアで妻と一緒になった。この愛人問題が勃発したとき、彼は着いたばかりだった。ある午後、文師は仁進と兄と私を自室に集めた。「私たちは孝進がしたことのために、彼を家族から追い出すべきだろうか?」と文師は私たち全員に尋ねた。もっとも彼が自分の娘、仁進の答えのみを期待しているのは明らかだった。仁進は、孝進は若くて乱暴だが、理性の声を聞くだろう、時がくれば家に帰ってくるだろうと主張した。統一教会の法定推定相続人を否認するのは、「真の家庭」にとっても同様、教会にとっても破滅的なことだ。兄は同意した。私はなにも言わなかった。

「お父様」は言った。もし孝進が帰ってきたら、私たちは全員彼を許し、彼が自分の責任に適応していくのを助けなければならない。とくにおまえはなんの恨みももってはいけないと、文師は指示した。彼は、私にとってこれは困難の時であると認めはしたが、夫に対する私の心を和らげるよう神に祈るのは、赤ちゃんに対する私の義務だと言った。彼と文夫人とは孝進を連れ戻すだろう。残りの私たちは、孝進が帰ってきたら、暖かく迎えてやらねばならない。

翌朝、文夫人は、「祈り屋」のひとりを、夕リー夕ゥンの軽食堂「デリ」に連れていった。私が知らなかったことは、「お母様」はそこで孝進の愛人と会うよう話をつけていたことだ。愛人は私の夫のために闘うつもりで喧嘩腰でやってきた。彼女は文夫人に、自分たちは宗教が自分たちの行く手に立ちはだかることを許さない、孝進は自分のために統一教会を離れる準備をしていると言った。

聞いたところでは、それは猛烈な剣幕だったという。しかし、ガールフレンドは札束の詰まった財布とカリフォルニア行きの航空券を手に軽食堂を立ち去った。文師夫妻は金を払って、女を追いやった。彼らは彼女をロサンゼルスのある韓国女性に預けた。彼女はすぐに、成功を求めてその女性のもとを逃げ出した。

文師夫妻はとても満足した。彼らは孝進を「イーストガーデン」の家に帰らせた。彼を出ていかせた原因である、根本的な問題を見ずにいることは気にしなかった。彼が出ていったときよりもなお怒って帰ってきたのにも気にかけなかった。見たところ、すべてが正常にもどったようだった。そして文鮮明と韓鶴子には見かけこそがすべてだった。

孝進が帰った直後のある朝、私は「真の御父母様」の朝食の食卓に挨拶にいった。私は彼らがあのブッダ・レディと一緒にいるのを見てびっくりした。前の秋、ソウルで孝進と私の縁組を祝福した例の仏教徒の占い師である。文夫人は、未来が孝進と私になにを用意しているかを告げるよう促した。「蘭淑は羽根のある白馬だ。孝進は虎だ。これはいい組合せだ」と彼女は言った。「蘭淑は人生に困難な時があるが、彼女の運勢はとてもいい。孝進の運勢は彼女の運勢と結びついている。彼は蘭淑の背中にすわり、ふたりで飛ぶときのみ偉大になれる」

文夫人は、ブッダ・レディの楽観的な予言にとても満足したので、外出して私にダイヤとエメラルドの指輪を買ってくれたほどだった——占い師は文夫人に、緑が私の幸運色だと言っていた。数日後、ブッダ・レディは私に会いにひそかにコテージハウスにきた。「あなたが大きな権力をもつ女性になったとき、私を思い出してください。私があなたの前に幸運を見たことを思い出してください」と彼女は言った。

私の前にあったものは、ブッダ・レディが予測したものとは似ても似つかなかった。孝進は両親がその愛情生活に干渉したことにかんかんになっていたが、彼はまた現実主義者でもあった。彼は愛人を追ってカリフォルニアにいける立場にはなかった。金もなく、仕事もなく、高校の卒業証書もなく、両親のほかになんの生活の糧もなかった。結局のところ、孝進は口先だけだった。「お父様」のお金から切り離されることと比べれば、まことの愛も色褪せて見えた。

孝進とこのガールフレンドは何年も文通を続けた。彼はしばしば私が見るようにと、彼女のラブレ夕ーを開いたまま置きっぱなしにした。彼女が一九八四年にロサンゼルスの新しい恋人と引っ越したと聞いたときは、ひどく取り乱し、頭を丸坊主にしたほどだった。

しかしながら一九八二年春には、彼はコテージハウスに悲嘆に暮れたというよりは怒って帰ってきた。冬のあいだに孝進が私に対して感じていた無関心は、なにかもっと冷たいもの、恐怖を呼ぶものになっていた。人生において彼には選択の自由がないこと、私はその体現だった。彼がこの世界でもっとも必要とし、もっとも軽蔑するふたりの人間、すなわち彼の両親に対する彼の依存を、私は意味していた。文孝進は、私たちふたりが一緒に過ごした人生の残りの部分を、私を罰することで過ごした。

[出典:わが父 文鮮明の正体/洪蘭淑]

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