【わが父 文鮮明の正体】まとめ(08)

わが父 文鮮明の正体
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第7章:投獄された教祖

文興進

一九八三年十二月二十二日、寒さと湿気のなか、ハドソン川渓谷は夜明けを迎えた。灰色の天気は「イーストガーデン」(東の園)の気分を反映していた。「お父様」と「お母様」は何日も前に韓国への犬々的な講演旅行に出発。文師は反政府運動の拠点清州の集会で話す。全斗焕の抑圧的な軍事政権との密接な関係ゆえに、文師の安全には危惧が抱かれた。

「お父様」は私たちに、自分は敵の宿営地にいくのだ、なぜならば直接対決だけが、地上に遣わされたサタンの使者、共産主義者を敗北させることができるからだと言った。私たちは文鮮明が世界でもっとも勇敢な男だと信じた。「祈り屋」たちは「聖なる岩」で昼間を過ごし、旅の成功と安全を祈った。

文鮮明にとって、宗教と政治のつながりは、日本占領下における子供時代以来、明白なものだった。私たちの国が共産圏と民主圏に分断されたことは、彼の聖職者としての務めにさらなる政治的境界線を明確にした。共産主義者は、伝道説教師としての彼を投獄した。彼らは宗教の多様性を不法とした。彼らは敵だった。文鮮明師はその公的生活を統一原理の普及と共産主義の撲滅に捧げた。文鮮明にとって、一方の目的は他方の目的と分離不可能だった。

もし孝進が自分の両親のことを心配していたとしても、彼の行動には、それを示すような変化はなにもなかった。その夜早く、彼はニューヨークのバー巡りに出かけていた。真夜中に電話のベルが鳴ったとき、私は赤ちゃんとふたりだけで家にいた。電話は警備員のひとりだった。

「事故がありました」と彼は言った。私はすぐに「真の御父母様」のことを思い浮かべた。「いいえ、お父様ではありません。興進様です」

興進ですって?
文師夫妻の次男はふたりの「祝福子女」と夜の外出からもどる途中だった。ニューヨーク州バリー夕ウンの統一神学校から遠くない凍結した道の上で、興進の自動車が故障中のトラックと激突した。興進と友人たちは、ハンティングに熱中していた文師の息子たちが校内に作らせた射撃場を使うために、よく神学校にいった。三人全員が病院に収容された。

兄とピー夕ー・キム、そして私はニューヨーク州ポーキプシーにある聖フランシス病院の緊急治療室に直行した。私たちのだれにも、なんの心の準備もできていなかった。二人の友人は負傷したものの、重傷ではなかった。しかし興進は衝突の際、脳に激しい衝撃を受けていた。私たちが到着したとき、彼は手術室で脳外科の手術を受けている最中だった。

私はピー夕ー・キムが廊下の公衆電話へと歩いていき、韓国の「お父様」と「お母様」に電話をするのを見ていた。彼はすすり泣いた。「お許しください。私はあまりにも役立たずです」と彼は始めた。「あなたは私にあなたの家族を任せられた。それなのにひどく恐ろしいことが起こってしまいました」電話は長くはなかった。文師夫妻は次の便で帰ってくると言った。

それまで私は重病人や瀕死の重傷者に出くわしたことはなかった。私と同年齢の少年、それも興進のような優しい青年が、あらゆる種類の管や機械につながれて集中治療室(ICU)に横たわっているのは身震いのする光景だった。彼は意識がなかった。完全に不動のまま横たわり、自力では動けない彼の身体に、人工呼吸器が酸素を送り込む音だけが響いていた。彼の危機的状態を、医師から告げられるまでもなかった。

翌日、私たちは全員「真の御父母様」を迎えるために、ニューヨークの空港にいった。私は文夫人の蒼白の顔の打ちひしがれた表情を決して忘れられないだろう。ピー夕ー・キムの電話を受けてから、彼女が一睡もしていないのは明らかだった。私たちは病院まで文師夫妻に同行した。そこでは教会の会員たちが、集中治療室待合室に送り込まれ、興進のために徹夜の祈りを捧げてぃた。

文師は興進の病室に入る前に、まずみんなを慰めた。文夫人は息子とふたりきりになりたがった。奇蹟は起こらないだろう。興進は脳死状態だった。一九八四年一月二日、文夫妻はその人生でもっともつらかったにちがいない決定をしなければならなかった。私たち全員が病院のベッドのまわりに集まるなか、十七歳の興進を生かしていた人工呼吸器のスイッチが切られた。彼は意識を取り戻すことなく世を去った。文夫人は命のなくなった彼の身体にすがりつき、その涙がベッドの真っ白なシーツに染みを作った。文師は乾いた目をして彼女の横に立ち、慰めえぬひとりの母親を慰めようとしていた。

残りの私たちは兄弟の死にたっぷりと涙を流したが、文師は私たちに興進のために泣かないよう命じた。彼は霊界にいき、神と一緒になった。私たちもいつの日か、ふたたび彼と結ばれるだろう。私たち全員は、「お父様」の強さ、息子の喪失よりも神への愛を前面に押し出すことのできる彼の力を称賛の念で認めた。母になったばかりの私は、文鮮明の反応に感銘よりも不可解な気持ちになった。

興進のためにべルべディアで大規模な葬儀がおこなわれた。文夫人の指示で、家族内の女性や娘は白いドレスを着た。男性は黒いスーツに白ネクタイを締めた。教会員は白い教会服を着た。階上で式の準備をしているとき、私はいつものぎこちなさを感じた。私は「真の子女様」ではなく、ただの嫁だ。だから自分がどこに属するのかよくわからなかった。私は自分の場所を、家族の端に見いだした。厨房の「兄弟姉妹」たちが、私たちが失った少年の思い出に興進のお気に入りの料理をすべて準備した。ハンバーガー、ピザ、コカ・コーラ。テーブルはまるでティーンエイジャーの誕生パーテイの用意がされたように見えた。

私はそれまで葬儀に出席したことがなかった。興進のひつぎは蓋を開いて、居間に置かれていた。それは広い部屋だったが、二百名の人で超満員ですぐに暑くなった。三時間のあいだ、友人や家族が興進の善良さ、優しさについて弔辞を述べた。「お父様」に泣かないと約束したにもかかわらず、私はあからさまにすすり泣いた。泣いたのは私ひとりではなかった。文師は「真の家庭」全員に興進にお別れのキスをするよう指示した。幼い子供たちは当然ながら脅えていた。私は一番小さい子供たちの何人かを抱き上げて興進の頰にキスさせ、自分も同じようにした。彼は恐ろしいほど冷たかった。

「お父様」が部屋の前に進み出ると、一瞬のうちに、すすり泣きの声がやんだ。彼は列席者たちに、興進はいまや霊界の指導者であると告げた。彼の死は犠牲の死である。サタンは、反共十字軍を率いる文師に、次男の生命を要求することで攻撃をしかけている。興進に先立つアベル(旧約聖書のアダムとイブの子。兄カインのねたみをかつて殺される)のように、興進はよき息子だった。孝進は「お父様」の比較に傷ついたように見えたが、彼自身、自分が聖書の力インのほうに似ていることを知っていた。

「お父様」は言った。興進はもうすでに霊界にいる者たちに『原理講論』を教えている。イエスご自身も興進に深い感銘を受けられたので、自分の地位からおりて、文鮮明の息子を天の王と宣言された。「お父様」は興進の立場は摂政であると説明した。彼はメシア、文鮮明の到着まで、天の王座にすわっているだろう。

十代の少年が瞬間的に神格化されたことに、私は啞然とした。私は興進が「真の子女」、「再臨の主」の息子だと知っていた。だから彼が天国に特別な地位を占めると信じるにやぶさかではなかった。けれどもイエスに取って代わるとは?

「イーストガーデン」の邸宅の屋根裏部屋で、迷った子猫を探すのを手伝ってやったあの少年が天の王とは?私のような生え抜きの信者にとってさえ、それはあんまりというものだった。それでも、私は自分のまわりを見回した。集まった親類や客たちは、この啓示に重々しくうなずいていた。私は自分の懐疑心を恥ずかしく思ったが、それを否定する力はなかった。

興進のひつぎは運び出されて霊柩車に載せられ、韓国への長い旅のために空港に運ばれた。文師夫妻は息子の遺骸に付き添ってはいかなかった。文師の長女と孝進が弟のために祖国に帰った。興進はソウル郊外にある文家専用墓地に葬られた。

すぐに世界中から「イーストガーデン」にビテオテープが届くようになった。さまざまな恍惚状態にある教会員たちが、自分は霊能者で、興進が彼らを通して霊界から語りかけてくると言っていた。これらのテープを見るのはあまりにも奇妙な体験だった。私たちは「お父様」と「お母様」と一緒にビデオのまわりに集まり、見知らぬ人が次から次へと、興進の霊が語るのだと言って話すのを見ていた。彼らのひとりとして深い宗教的洞察を見せた者はいなかった。だれひとり「イーストガーデン」での興進の生活をよく知っていると確認できるような知識を示した者はいなかった。けれども全員が「真の御父母様」をほめたたえ、天でイエスが興進に頭をさげたという「お父様」の啓示をさらに確固たるものにしていた。

私はこれらのテープを信じなかっただけではなく、これほど多くの人が「真の家庭」の悲しみを利用して、これほどあからさまに「お父様」の寵愛を得ようと試みていることに腹を立てた。私は無邪気だった。これこそが文鮮明の愛情を勝ち取る可能性のもっとも高いやり方だった。明らかに「お父様」は世界中で自然に起きたこれらの「憑依」現象に興奮していた。息子がこれらの人びとを通して語っていると、本当に信じていたのか、それとも彼らのぺテンを自分の目的のために使ったのか、それは私にはわからない。

文興進の神格化における神学的問題のひとつは、文鮮明が天の王国は独身の個人ではなく、結婚した夫婦によってのみ到達可能だと教えていることだった。「お父様」はこの問題に迅速に対応した。興進の死後二力月もしないうちに、結婚式がおこなわれ、文鮮明は死んだ息子と、創設当時からの弟子のひとり朴普熙の娘、朴薫淑に祝福をあたえた。薰淑の兄弟、朴珍成も祝福をうけ同日、文仁進と結婚した。一九八四年二月二十日の合同結婚式は奇妙としか形容のしようがないものだった。

仁進は「お父様」が自分を珍成とマッチングしたことにかんかんになっていた。彼女にとって、珍成は我慢のならない青年だった。仁進には大勢のボーィフレンドがいた。祝福は彼女の眼中にはなかった。彼女は、朴家の人間に一番目立つ肉体的特徴から珍成を「魚の眼」と呼んだ。

実は、仁進は年下の青年にのぼせ上がっていた。その前年、ワシントンDCで統一教会の会議に出席したとき、仁進と私は会場のホテルで同室になった。ある晚遅く、私が眠っていると思った彼女は、バージニアのこの青年に電話をかけた。彼女はそっとささやき、私の知る彼女には似つかわしくない少女のような笑い声を立てた。私は彼女が青年とべたべたとふざけ合い、「祝福子女」はキスはしていけないと考えられているけれど、私たちは例外よと言っているのを聞いた。

それは危険な恋だった。そのとき、ふたりのどちらも、自分たちの父親が同一人物だとは知らなかった。少年は文鮮明の非嫡出子だった。私は一年前に母からそう告げられていたが、その夜の話から、だれもまだ、彼らに事実を教えてはいないことは明らかだった。少年が文師と教会員の情事から生まれたことは「三十六家庭」のあいだでは公然の秘密だった。母は私に、それはロマンチックな関係ではなかったと説明した。それは神に定められた「摂理」の結合だが、俗世間には理解できない結合だ。あらゆる誤解を避けるために、少年は生まれたときに、文鮮明のもっとも信頼する顧問のひとりの家庭に預けられ、その息子として育てられた。本当の母親はバージニアの彼の近くに住み、子供のころは、家族の友人役を演じた。文師は父親であることを公に認めてはいないが、少年本人と文家の第二世代には、一九八〇年代末に真実が告げられた。

これまでも血縁関係のない教会員の家庭に乳児を預けることは、つねにおこなわれていた。教会で子供のできない夫婦には、何人も子供のいる会員からいとも簡単に赤ん坊が譲られた。われわれ全員は人類という家庭に属し、唯一の「真の父母」は文師夫妻なのだから、だれが実際に子供を育てようと、そこになんの違いがあるだろうか?統一教会は養子縁組のような法的な細かいことは省いて、お隣さんに余分の庭用ホースを貸すように、気楽に子供たちを分かち合った。

八四年二月、私たちは二組の結婚式のため、二年前の私自身の結婚式のときのように、ベルべディアの邸宅に集まった。白い儀式服を着て、文師夫妻はまず娘仁進と朴珍成の結婚式を執り行なった。式の直後、朴薫淑が飾り立てた図書室に、白い正式のウエディング・ドレスとべールを着て現れたとき、人びとはしんと静まり返った。若く美しい女性、彼女は二十一歳で、バレリーナとしての野心に燃えていた。文師は、ジュリア・厶ーンの舞台名で踊る薫淑の才能に光をあてるため、韓国にユニバーサル・バレエ団を創設する。

朴薫淑

彼女は通路を通り、額に入った興進の写真を「お母様」と「お父様」のところまで運んでいった。私の夫、孝進が死んだ弟の代わりに、花嫁の横に立った。彼は興進が言うことのできない誓いを繰り返した。薰淑はとても美しい花嫁で、私は彼女が生きた花婿とは決して結婚できないことを気の毒に思った。けれども、眼を彼女から孝進に移したとき、私はなにか別のものが自分のなかにわき上がるのを感じた。それはねたみだった。私は考えた。自分が愛していない男、自分を愛してもいない男と惨めな生活をするよりは、死んだ男に愛されるほうがどれほどましなことか。

実際に、この式は統一教会外部の人間には奇妙に見えただろう。しかし、文師は、よく生者を死者と結婚させた。年長の独身会員はしばしば霊界にいった会員とマッチングされた。文鮮明はイエスを韓国人の老女とマッチングしたが、これは彼の傲慢な行為のなかでも最高のものだろう。統一教会は結婚した夫婦だけが天の王国に入れると教えているので、この門をくぐるためには、イエス自身にも文師の介添えが必要だったのである。

「聖婚式」の数年後、ジュリア・厶ーンとはるか以前に死んだ興進とは親になった。もちろん彼女が実際に子供を産んだわけではない。興進の弟、顕進とその妻が、ジュリアに生まれたばかりの子信哲を自分の子として育てるよう、ただ譲ったのである。

しかしながら、民生当局はこういったいわゆる奇蹟の出来事に気づかなかった。興進の死後四力月目に合衆国最高裁は、文師の連邦税脱税の有罪判決再審を、見解表明なしで却下した。全米キリスト教会協議会、アメリカ市民自由連合、南部キリスト教徒指導者会議のような組織によって提出された十六通の法廷助言者の書翰は、この裁判を宗教実践の自由に対し、重大な意味をもつ宗教迫害の一例としていた。もし文鮮明が目標にされるのなら、次にくる不人気な伝道者はだれか、と考えるのは当然の成り行きである。

「判決例は、政府にいかなる宗教組織の内部財政をも検査させることになる」とユニテリアン普遍救済教会のジョージ・マーシャル師は警告した。

マーシャル師は、国中で開催された集会で、文支持のために声を大にした四百名の宗教指導者のひとりだった。ネブラスカ州ルィビルのバプテスト派牧師エドワード・シルべン師は、文の状況を自分自身の状況と比較した。シルべン師は、裁判所から出された原理主義的キリスト教の不認可校閉鎖命令に従わなかったために、八力月間投獄された。シルべン師は言った。「人びとは私に尋ねる。『文師のための集会に出るのは奇妙な気分ではありませんか?』けれども私は、あなたがたと一緒に強制収容所にいくよりは、ときたまあなたがたの自由のために闘うほうを選びます」

ニューヨーク市民自由連合代表ジXレミア・S・ガットマンは、彼が「私的な宗教問題への弁護の余地なき干渉」と呼ぶものに抗議するため、宗教指導者や市民運動指導者による特別委員会を組織した。

オリン・G・ハッチ上院議員を委員長とする合衆国上院司法委員会は文の裁判を蕃議し、次のような同意に達した。

われわれが新入国者を意図的な犯罪行為として非難していること、とくに教会の資金を自分名義で銀行口座に所有することは、われわれ自身の宗教指導者たちの大多数がふつうにおこなっていることである。カトリック司祭はこれをおこなっている。バプティスト派牧師もおこなっている。そして文鮮明もおこなっている。

われわれがそれをどう見ようと、英語を解さない外国人がこの国で提出した最初の申告書について、彼を犯罪的脱税で有罪としたのは事実である。われわれは彼に、われわれの法律を理解する公平な機会をあたえなかったように思える。われわれは矯正の最初の手段として、民事の刑罰を求めなかった。われわれは疑わしい点を被告有利に解釈してやらなかった。むしろわれわれは一万ドル以下の納税義務について新しい理論を採用し、それを有罪判決と十八力月の連邦刑務所収監とした。私の小委員会がこの裁判を注意深く客観的に両側から見直したあとで、私は強く感じる。正義よりはむしろ不正義が行使された、と。文裁判は、もしひとりの視点が充分に不人気であれば、この国はそれを寛容する道ではなく、それを有罪とする道を見つけるだろうという強い信号を送っている。

アメリカ・ル夕ー派協議会のチャールズ・V・バーグストローム師はハッチ上院議員の委員会で証言したが、文師の税問題を判断するについてはもっと控えめだった。

「私は彼が公平な裁判を受けたかどうか疑問を抱いている。法廷は、ひとりの判事がこの裁判を裁定するという文師の要求を拒否し、判事は陪審に対し、裁判の目的のために、彼を宗教人とは考えないように告げた。けれども私はまたこうも尋ねなければならない。なぜ彼はそんな大金を手にしなければならないのか、と」

教会内部のだれにとっても、答えは明らかだった。統一教会はキャッシュ・ビジネスである。私は日本人の教会幹部が、定期的に現金の詰まった紙袋をもって「イーストガーデン」に到着するのを見た。その金を文師は懐に入れるか、あるいは朝食の食卓で、教会所有のさまざまな企業の重役たちに配った。日本人はアメリカにキャッシュを持ち込むのになんの問題もなかった。彼らは税関の係官に、アメリカにきたのはアトランティック・シティで賭事をするためだと言った。

それに加えて、ニューヨーク市のいくつかの日本料理店も含め、教会が経営するさまざまな事業はキャッシュ・ビジネスだった。私は教会の各本部から「イーストガーデン」に現金が運び込まれるのを見た。それは直接、文夫人のクローゼッ卜の壁掛け金庫にしまわれた。彼女はここからとくに決まった日ということもなく、五千ドルを厨房職員に渡したり、五百ドルを石蹴り遊びに勝った子供にやったりした。

教会内部では、文師が宗教人としての免税特権を、実業界における金銭獲得の手段として使うことはなんの問題にもならなかった。利益の追求は彼の宗教哲学の中心である。文師は心は資本主義者であり、信者を支援するためのビジネス・ネットワークを建設せずしては、世界の宗教を統一はできないと教えている。この目的のために、彼は食品加工工場、漁船団、自動車の組立ラィン、新聞、工作機械からコンピユー夕ーソフトにいたるまで、あらゆるものを作る会社を創設するか、買収するかしてきた。

法廷で法律家がなんと言おうとも、内部ではだれも文師が教会と事業の資金をごっちゃにしていることに異議を唱えなかった。それはだれの問題でもなかった。教会顧問たちが、事業や政治活動への教会資金の流用を話し合っているのを、いったい何度耳にしたことだろう。彼の宗教、実業、政治目標は同じもの、統一教会のための世界支配だったからである。間違っているのは合衆国の税法であり、文鮮明ではない、メシアの使命は人間の法を超えるのだ。

文師の哲学は充分に寛大に聞こえた。「世界は急激にひとつの村になりつつある。すべての人間の生存と繁栄は共同の精神に依存する。人類は自分自身を、人間のひとつの家族と認識しなければならない」統一教会以外の市民的自由主義者の味方が気づかずにいたのは、文鮮明が、そして文鮮明だけがこの家族の長であるということだった。

教会資金を彼の反共政策資金に使うことは、統一教会の哲学の規定の一部だった。一九八〇年、文師は CAUSA(ァメリカ統一教会連合)を設立する。教会によれば、これは「非営利、非党派の教育的社会的組織で、自由社会の基礎として、神が肯定する倫理と道徳の全体像を提示する」反共戦線だった。これをふつうの言葉で言えば、CAUSA はエルサルバドルとニカラグアの共産主義運動に対抗するために、莫大な資金を提供するということだ。

文師は自分の反共信念のルーツに注意を喚起することをためらわなかった。「神が肯定する世界の人びとのあいだでの統一が必要なことは、文師がキリスト教信仰のために一九四〇年代末に北朝鮮の共産主義者により投獄され、拷問されたときに、彼の目に明らかになった。CAUSA はアメリカと世界の自由のための彼のコミットメン卜の当然の帰結である」

一九八〇年代には、ラテンアメリカが文師の反共熱の焦点だった。反共シンパを支援するためにその地方に派遣した伝道師たちは、教会服はまとっていなかった。彼らは「お父様」が、文鮮明あるいは統一教会とのつながりをあからさまにせず、目立たぬように設立した多くの「学術」団体の後援のもと、ビジネス・スーツを着てやってきた。「ラテンアメリカ統一連合」「科学の統一に関する国際会議」「世界平和教授アカデミー」「ワシントン政策研究所」「アメリカの指導性に関する会議」「国際安全保障協議会」などの肩書きで、文師の伝道の手先は表向き学術的な顔をしていた。これらの団体がスポンサーになった会議の講演者たちの多くはメディアや政界、学界の有名人だったが、たいていの場合、自分たちの経費、ホテル代、食事代が文鮮明によって支払われていることを知らなかった。

個人的には文師夫妻は税金の支払いにほとんど肉体的な嫌悪感を抱いていた。教会の弁護士は時間のほとんどを、どうやって課税を避けるかを考えて過ごした。これが「真の家庭信託基金」がアメリカの銀行ではなく、リヒテンシュタィンの口座に設定されている理由である。

あとから振り返ってみて初めて、私は、自分自身の利益のために法を操ろうとして宗教迫害を主張した文鮮明の偽善を見る。当時、私は感じやすい十代、新米の母親、信心深い信者だった。その年、私はより永続的なビザを確保するために、初めて韓国に帰った。文師夫妻が移民としての私の身分を合法化するときがきたと決めるまでの三年間、私はアメリカに不法に滞在していた。それは私ひとりではない。「イーストガーデン」は、メイドや厨房の「兄弟姉妹」やべビーシッ夕ーや庭師など、観光ビザできて、ただ統一教会のサブカルチャーに溶け込んでしまった人びとでいっぱいだった。

そのころ、私は、私たちが法を破っていることを本当には理解していなかった。それは私の問題ではなかった。神の法は市民の法を凌駕し、「お父様」は地上における神の代理人だった。前年の文師の裁判の重要性さえ、私にはわかっていなかった。だが、刑務所?それは理解できた。「お父様」が実際に一年半閉じこめられることになって、私たちは全員悲嘆に暮れた。

一九八四年七月二十日午前十一時、文鮮明はコネチカット州ダンべリーの連邦刑務所に収監された。刑務所当局に身柄を預ける前日、「お父様」は「イーストガーデン」の邱宅で、百二十力国からきた教会幹部と会った。彼は幹部たちを安心させた。自分はただ作戦本部を家から刑務所に移すだけだ。ダンベリーでの生活環境は「イーストガーデン」とはだいぶ違っていただろう。彼は四十名から五十名の在監者とともに寄宿舎のような建物に住み、刑務所のカフェテリアで床をふき、テーブルを片づける仕寧をあたえられた。

彼には一日おきに面会が許された。私は従順に文夫人に同行し、彼らふたりの給仕をした。私は自動販売機から食べ物を取り出し、「お母様」の指示で、試練のあいだ「お父様」に追加の力をあたえるため、インスタント・スープに黒い朝鮮人参のエキスを入れた。さまざまな企業の重役や教会幹部が、指示を仰ぐためにしょっちゅう訪れた。統一教会の事業はとぎれることなく継続した。

私たちが「お父様」と面会するときはいつも、彼は子供たちに宿題をあたえ、詩とか作文を書かせた。私たちは次の面会時、それを彼に読んで聞かせる。私は彼が私にくれたひとつを覚えている。「淑女の生活」というものだ。

仁進は対外的に父親の擁護者役を果たした。ポストンで開かれた信教の自由のための集会で、彼女は三百五十名の支持者に、文鮮明の状況はソビエトの反体制物理学者ノーベル平和賞受賞者のアンドレィ・サハロフの状況に等しいと言った。「私にとって、いまは耐え、理解するのがとても難しい時です」と彼女は人びとに語った。「一九七一年、父は、神の声に従ってこの国にきました。この十二年間、父はアメリカのために涙と汗を流してきました。父は私に、神は世界を救うためにアメリカを必要としていると言いました。いま、父は六十四歳で、罪なくして有罪です。刑務所に父を訪ね、父が囚人服を着ているのを見たとき、私は泣きに泣きました。父は私に泣いたり、怒ったりしてはいけないと言いました。父は私や彼のあとに続く何百万もの人びとに、怒りと悲しみを強力な行動に変え、この国をふたたび真に自由な国にするよぅにと命じました」仁進はその夜、舞台上で元上院議員ユージン・マッカーシーと並び、マッカーシーは「お父様」の収監を自由への脅威だと告発した。文師の禁固は統一教会には大宣伝になった。一夜にして、彼は軽蔑されるカルト・リーダーから宗教迫害の象徴になった。善意の市民的自由主義者が文鮮明を自分たちの大義の殉教者とした。彼らもまた欺かれていた。

ノースカロライナ州ライリーのショウ神学校は投獄中の「お父様」に名誉神学博士号を授与した。学校は文鮮明を「社会正義、人間の苦しみからの解放、信教の自由、世界の共産主義に対する闘いなど、さまざまな分野における人道的貢献」で表彰した。副校長のジョゼフ・ぺージは、文師の栄を讃えるについて、ショウ神学校に対する統一教会からの三万ドルの寄付は理事会の決定に「絶対に」なんの影響もあたえていないと強調した。

入獄中に、文師は孝進を韓国に派遣し、創設当時からの会員の息子や娘である「祝福子女」のために、特別の修練会を指揮させた。「これまでは、それぞれが自分自身の方向に進み、彼らのなかにはなんの規律もなかった」とのちに文師は演説のなかで言っている。「しかし、いまや彼らはある秩序のなかでひとつにまとめられた。このことが私の入獄中に起こったのは重要である。なぜならばイエスが十字架にかけられたあと、弟子たちはすべてばらばらになり、逃亡したからだ。今度、私の入獄中には、世界中からきた祝福子女は逃げるかわりに、中心点においてひとつにまとまつた」

「お父様」が入獄中に、正統キリスト教徒たちのあいだで尊敬を勝ち取り、統一教会の第二世代への支配力を強めているあいだにも、その息子は死後の威信をますます高めていた。興進からのメッセージの報告は急増していた。もっとも、そのなかのいくつかは深遠と言うにはほど遠かった。ひとつは統一教会の公式便箋に書かれていた。「ベイエリアの兄弟姉妹、やあ!こちらは興進様とイエスのチー厶だ。僕らは君たちのあいだに足場を作り、ここカリフォルニアに本当のサンシャインをもたらす必要がある」これはある教会会員が恍惚に似た状態で書き取ったのだという。

「われわれの兄弟は興進様からメッセージを受け取った。聖フランシスコ、聖パウロ、イエス、マリア、その他の精霊も彼のところにきた」と教会の神学者金栄輝はこのような霊媒のひとりについて書いた。「彼らはすべて興進様を新しいキリストと言っている。彼らはまた興進様のことを天の若王と呼んでいる。彼は霊界では天の王である。イエスは彼とともに働き、つねに彼に同行している。イエス自身も興進様が新しいキリストであると言っている。彼はいまや霊界の中心である。このことは彼がイエスよりも高い地位にいることを意味する」

話を地上にもどせば、文師は十三力月の入獄のあと、一九八五年八月二十日に釈放された。彼の釈放は、宗教界の新しい友人たちから歓声で迎えられた。道徳的多数派協会のジェリー・ファウエル師と南部キリスト教徒指導者会議のジョセフ・ロウリー師の両方がロナルド・レーガン大統領に電話をして、「お父様」に完全な恩赦をあたえるよう言った。ファウエル、ロウりー、その他有名な宗教指導者を含む二千名の聖職者が、ワシントンDCで彼の栄誉を讃えて、「神と自由の晩餐会」を開いた。「イーストガーデン」では、「お父様」はまるで懲役からではなく世界講演旅行から帰ったかのように迎えられた。昔のリズムがもどった。朝食の食卓での会合が再開された。しかしなにかが違っていた。刑務所から釈放されたあと、ベルべディアにおける日曜朝の文師の説教には、はっきりとした変化が感じられた。彼はしだいに神のことを話さなくなり、ますます自分のことを語るようになった。ただ神の使者というだけでなく、一種の歴史的人物としての自分自身の姿にとりつかれたように見えた。かつては霊的直感を求めて彼の説教を熱心に聞いたのに、いま私はしだいに不安になり、関心が薄れていくのを感じた。

八五年の終わり、彼が自らと韓鶴子を秘密儀式で、世界皇帝と皇后に即位させたとき、文師の傲慢は絶頂に達した。ベルべディアにおける豪華な秘密儀式には何力月もの歳月と、何十万ドルもの金がかかった。

教会の婦人たちには、二十世紀初めまで約五百年続いた李氏朝鮮の帝王の衣服について調査が命じられた。部族の王がかぶった王冠をまねた純金と翡翠の王冠のデザインを命じられた者もいた。私の母は、何ヤードもの絹やサテンやブロケードを買い、これらの高価な素材を王宮の衣装に仕立てるため、韓国で裁縫師を見つける役を割り振られた。文鮮明の十二人の子供、嫁と婿、孫の全員が、王子や王女のような衣装を着せられた。

最後には文鮮明の戴冠式は歴史の再現というよりは、李氏朝鮮を舞台にした韓国テレビの大衆的なメロドラマのように見えた。私は神聖な宗教礼拝よりも時代物のドラマのために衣装を着たかのように、ばからしく感じた。文師は、このような巨大な自己中心主義的行為が世界からどのように見られるかを充分に承知していたので、実際の儀式での写真撮影を禁止した。来賓はすべて高い地位にある教会幹部で、カメラを持参した人は、闖入者を入口で追い返していた警備員に、それを取りあげられた。

金の冠と手の込んだ衣装とで、私には文鮮明がまるで現代のカール大帝のように見えた。違いはこの皇帝はどんな教皇にもお辞儀はしないことだ。文師よりも高い権威はないのだから、メシアは自分で自分を世界皇帝に戴冠しなければならなかった。

私と両親にとって、戴冠式は転換点となった。私たちはこのとき初めて、文鮮明に対する疑いをおたがいに声に出して言うようになった。それは簡単なことではなかった。統一教会で起きている強制と洗脳については多くが書かれてきた。

私が経験したのは条件反射だった。人は画一的な精神をもつ人びとのあいだに隔離させられ、批判的思考よりも従順を高く評価するメッセージを雨あられと浴びせられると、信仰体系は常に強められる。教会に長く関係していればいるほど、これらの信心に身を捧げるようになる。十年後、二十年後、自分の信念が砂の上に立てられていたことを、たとえ自分自身に対してであっても、だれが認めたがるだろうか?

確かに私は認めたくなかった。私は内部の人間だった。私は文師の甚だしい過失——息子の行動を許容していること、子供たちを殴ること、私に対する言葉による虐待——を許すほど充分に、文師から親切にされた。彼を許さないことは、私の全人生に疑問を抱くことだった。私ひとりの人生ではない。私の両親は三十年間、自分たち自身の疑いをわきに押しのけて過ごしてきた。私の父は文鮮明が事業を運営する恣意的なやり方を見逃してきた。資格のない友人や親戚を権威ある地位につけ、ご機嫌取りを出世させ、なんらかの独立心を見せた者を首にする。父は、文鮮明から人前でたびたび侮辱されるのを甘受することで、一和製薬のトップの地位を生き延びてきた。文師が父をその地位に残しておいたのは、一和が彼のために金を稼ぎ続けていたからである。

ブラック興進

この1988年に撮影された写真では、文鮮明と韓鶴子の間にクレオパス・クンディオナという青年が立っている。彼らはクレオパス・クンディオナを車の事故で1984年1月に死去した息子・文興進の生まれ変わりだと信じていた。


興進の神格化と戴冠式が私の信仰心を試すものであったとすれば、「ブラック興進」の登場はそれをほとんど破壊した。死んだ息子の憑依の多くはアフリカで報告されていた。一九八七年、郭錠煥師は興進の霊がジンバブエ人の身体にとりつき、彼を通して語っているという報告を調査にいった。「イーストガーデン」に帰った郭師は、憑依は本物だと宣言した。私たちは全員朝食の食卓のまわりに集まり、彼の印象を聞いた。

ジンバブエ人は興進よりも年上だった。だから彼は文鮮明の息子の生まれ変わりのはずはなかった。それに加えて、統一教会は輪廻の理論を否定していた。そのかわりに、ジンバブエ人は郭師に自分の肉体に興進の魂が降りてきたと紹介した。郭師は彼に霊界に入るのはどんなふうかを尋ねた。「ブラック興進」は天の王国に入ったとたんに、自分は全知になったといった。「真の家庭」は地上で学ぶ必要はない、なぜならば彼らはすでに完璧だからだ。彼らが霊界に入ったとき、知恵は彼らのものとなる。

この原理的説明は私を怒らせたのと同様に、孝進を魅了した。彼はぺース大学とニューヨーク州バリー夕ウンでのセミナーでいくつかの講義にいささか関心を示していた。しかし、私の夫は学ぶことよりも飲酒のほうに興味をもっていた。私は、われわれは神の恩寵を得るために地上で学ぶ必要はないという示唆にぞっとした。統一教会内では、われわれは神に選ばれた人間かもしれない。しかし、私は、地上におけるわれわれの努力が死後の私たちの地位を決定すると信じていた。私たちは天におけるわれわれの場所を勝ち取らねばならない。

文師はアフリカからの知らせに興奮した。統一教会はラテンアメリカとアフリカで集中的に勧誘活動をおこなっていた。「ブラック興進」が大義を害さないのは明らかだった。死んだ自分の子の霊にとりつかれていると主張する男と会いもしないうちから、文鮮明は「ブラック興進」に世界を旅して説教し、道に迷った統一教会員のコンフェッション(告白式)をすることを許した。

告白式がすぐに「ブラック興進」の使命の中心になった。彼はヨーロッパ、韓国、日本にいき、アルコールやドラッグを使ったり、結婚前、あるいは婚外のセックスをおこなうことによって、教会の教えを破った者たちを殴った。「ブラック興進」は文鮮明から「イーストガーデン」に呼ばれるまで、一年を旅の空で過ごし、罪の告白をした者に罪滅ぼしとして、体罰をあたえた。

ブラック興進

われわれは全員「お父様」の朝食の食卓に集まり、「ブラック興進」に挨拶した。彼は中背のやせた黒人で、文鮮明よりも上手に英語を話した。私には、蛇が獲物に巻き付き、それから呑み込むようなやり方で、彼が「真の家庭」を魅了しようと躍起になっているように見えた。私は、この男がかつて私が知っていた少年の魂を所有しているという具体的な証拠をぜひ聞きたいと思ったが、それを聞くことはなかった。文師は、神学について『原理講論』を読んだ会員ならだれでも答えられるような標準的な質問をした。彼は驚くべき啓示も宗教的直観も見せなかった。おそらく「お父様」にもっとも強い印象を与えたのは、彼が文鮮明のスピーチから自由自在に引用する能力だったかもしれない。

文師夫妻は、われわれ子供だけで「ブラック興進」と会い、私たちの印象を報告するよう言った。それは愉快な出会いだった。顕進、国進、孝進は赤の他人に自分たちの子供時代について質問をした。彼はそのどれにも答えられなかった。彼は私たちに、自分は地上での生活を何も覚えていないと言った。「ブラック興進」の記憶のこの都合のいい欠落は、懐疑を呼ぶかわりに、彼が天の王国に入ったとき、地上の関心はうしろにおいてきたしるしと解釈された。家のだれもが彼を抱擁し、死んだ兄弟の名前で呼んだ。私は彼を避け、自分はこの世でもっとも愚かか、あるいはお人好しの人びとと暮らしているのだと思った。そのとき私が考えなかった第三の可能性もあった。文師は以前、アメリカの市民的自由団体を使ったのと同じように、「ブラック興進」を自分自身の目的のために使ったということだ。

文鮮明は「ブラック興進」の殴打について、「イーストガーデン」まで聞こえてくる報告を楽しんでいたように見える。だれか嫌いな人間がとくにひどく殴られると、げらげらと笑った。「真の家庭」以外のだれも、殴打を免れることはできなかった。世界中の幹部たちはその影響力を駆使して、「ブラック興進」の告白式を免除してもらおうとした。私の父は、このような会合への出席義務を回避するために郭師に訴えたが、無駄だった。

「ブラック興進」は、統一教会では一時的な現象だった。すぐに彼が手に入れた愛人はあまりにも多く、彼があたえる殴打はあまりにも激しくなったので、会員たちは文句を言い始めた。アメリカ人会員と結婚した韓国女性で、文師のメィドのウォン・J・マクデヴィットはある朝、目のまわりを黒くし、紫のあざだらけで現れた。「ブラック興進」は彼女を椅子で殴った。彼は朴普熙——六十代——をあまりにもひどく殴ったので、朴は一週間ジョージタウン病院に入院しなければならなかった。朴は医者たちに自分は階段から落ちたのだと言った。のちに頭の血管を修復するため、外科手術が必要になった。

文鮮明はダメージの少ないうちに手を引くことを知っていた。メシアであるならば、流れを訂正するのは簡単である。暴力から手を切らねば会員を失うことが明らかになると、文鮮明はただ興進の魂はジンバブエ人の身体を離れ、天に昇ったと告げた。ジンバブエ人はうまい汁にありつける地位から簡単に離れるつもりはなかった。最後に目撃されたときには、彼は自分自身をメシア役にして、アフリカに分派のカルトを設立していた。

「ブラック興進」1988年2月27日 天地正教
Cleopas Kundiona クレオパス・クンディオナ

「ブラック興進」1988年2月27日
天地正教クレオパス・クンディオナと統一教会員

[出典:わが父 文鮮明の正体/洪蘭淑]

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