【わが父 文鮮明の正体】まとめ(04)

わが父 文鮮明の正体
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第3章:「真の子女様」と兄の結婚

ニューヨーク州ドブス・フエリーの私立高校マスターズを卒業する日、ー番上の子を抱く私

リトルエンジェルス芸術学院は韓国で最高の芸術・芸能学校のひとつである。
これは統一教会が所有、運営しているが、この小・中学校と文鮮明師の関係をあからさまに示すものはなにもない。教師と学生のほとんどが統一教会員ではなく、カリキュラムに宗教はない。

文師が世界中で運営する機関の多くと同様に、リトルエンジェルス芸術学院は、その創始者の祖国においてさえ、いまだに深い不信の念で見られているカルトとの関係を宣伝はしていない。

私は兄に続いて、リトルエンジェルス芸術学院の六年生に入学した。不規則に展開したキャンパスには、当時七年生から十二年生までの教室があった。その後、キャンパスは広がり、初等クラスも収容するようになった。

学校は私たちの家から十五マイルほど離れたソウル市のはずれにあった。兄と私は家を朝七時に出て、五二二番の市バスに乗った。バスはいつも仕事にいく大人や重い学生鞠を抱えた学生たちで満員だった。四台か五台のバスが混雑のため、あとふたりの乗客さえ乗せられずに、私たちの前を通り過ぎていくのがいつものことだった。私たちは苦しくなるまで息を詰めて、バスが停まってくれるように祈った。

リトルエンジェルス芸術学院では遅刻は許されなかった。遅れてきた生徒は校長室の外のコンクリー卜のベンチで、両腕を頭の上に挙げて三十分間すわらせられた。そのあと、自分が遅刻したために、授業が中断したことを教師と同級生に謝罪する手紙を書くよう求められた。

バス停への往復には、兄は必ず私に自分の数歩あとを歩かせた。世界のどこでも同じように、ソウルでも年ごろの少年にとって、妹と一緒のところを見られるのは恥ずかしいことだった。私は喜んで従った。私は兄に堅苦しい敬意をもって接したが、教会員ではない友人たちは、それを奇妙で愉快だと思った。兄に話しかけるときは、韓国の子供たちが大人に対して使う呼びかけ方を使いさえした。

兄に対する私の関係は、多くの点で、両親のあいだの関係をなぞっていた。韓国は厳格な父権制文化である。私の父は優しい人だったが、平等主義者ではなかった。彼は議論の余地なきわが家の長だった。父の立場は統一教会の教えによって強化されていた。結婚はたがいを尊重するものだが、人類が神に対し「対象者」の位置にいるように、妻は夫に対し「相対者」の位置にいる。私は父と母のあいだの力関係に一度も疑問をもたず、無意識のうちに、兄に対する自分の態度を両親の例になぞらえていた。

私が中学生になるころには、文師と家族はアメリカ合衆国に移っていた。彼が信者たちに告げたところによると、彼は一九七一年、神からアメリカに渡るよう指示されたと言う。なぜならば、アメリカ合衆国は紀元一世紀にローマを滅ぼしたのと同じ道徳的崩壊の縁に立っているからだ。

彼はアメリカを崩壊から救うためにアメリカにいった。彼は自分自身の焼き印を押した過激な反共主義と道徳的原理主義を説教にいった。合衆国中で集会を主催し、アメリカの「ジェネレーション・ギャップ」に捕らえられ、疎外された若者たちや、両親とも同世代の人びととも歩調を合わせることのできない若者たちのなかに信者を見つけた。彼らの統一教会入会は多くの場合、CARP(大学連合原理研究会)を通じておこなわれた。

CARP は一九七三年、アメリカによるカンボジアとラオスへのヴェトナム戦争拡大に対する抗議運動の絶頂期に、合衆国で設立された。共産主義の脅威に対する文師の凄まじいまでの警告は、祖国の帝国主義に激高したアメリカ人学生の耳には届かなかった。CARPの勧誘員たちは、大学のキャンパスにいた理想主義者や孤独な若者を標的にした。反戦運動に共通の大義を見いだすにはあまりにも保守的だったり、ノンポリだったりする学生は、しばしば CARP にひとつの使命を見いだした。

会員の典型は、ウォーターゲート事件の聴聞会のあいだ、リチャード・M・ニクソン大統領を支持するために、ホワイトハウスの外の歩道で祈りと断食の日を実行した、数十人のこざっばりとした身なりの若者たちだった。彼らは「許し、愛し、団結せよ」という看板を掲げていた。彼らは、ワシントン・モールでの反戦デモの縁にいて、愛国心の価値と、神なき批判者に対するニクソン大統領の勇気とを称賛した。

敵に包囲された大統領に励ましを送っていないときには、アメリカのCARP会員はキャンパスや街角、空港やショッピング・セン夕ーで、文鮮明師とその神聖な使命のために花を売って、金を集めた。

「第二次世界大戦の連合国側勝利は、それ自体が終わりではない。神の摂理の視点から見れば、それはアメリカと世界とにメシアの再臨を準備させる目的をもっていた」と文鮮明は言っている。「なにが起こったか?合衆国はそのような視点を認識しなかった。この国は、四十年間、放縦、享楽、破壊への道を転がり落ちてきた。ドラッグが国中に入り込んだ。若者は堕落し、ますます犯罪へと顔を向けている。フリー・セツクスは生活様式となった。しかしこれはアメリカに限られたことではない。自由世界の指導者として、アメリカは世界全体をその病で汚染してきた。なにかがこの流れを止めないかぎり、全世界は崩壊へと運命づけられている」

世界の終わりを阻止できる人間、それはもちろん文鮮明だった。この目的のために、文師自身は、数を増しつつある家族を連れて、ニューヨーク州ハドソン川渓谷の古風な村タリータウンに腰を落ち着けた。一九七二年、彼は八十五万ドルで、ウェストチェスター郡に二十二エーカーの土地を購入した。ベルべディア邸は、この地域の美しい建築物のひとつだった。一九二〇年に建てられたスタッコの大邸宅には、十六寝室と、生活と食事のための広い部屋が六室、浴室十、レストランが開ける大きさの厨房と地下室がある。邸宅はなだらかな芝生と老木、木の橋と滝をもつーエー力ーの人工湖を見下ろしていた。プールとテニスコー卜、そして二階のタイル敷きのサンデッキからは息を吞むようなハドソン川の景色が見渡せた。

べルべディア

地所にはほかに五つの建物があり、邸宅よりほんのわずか小さいだけのキャリッジ・ハウスも含まれた。これには十寝室と浴室三、部屋が十あった。一七三五年に建てられた五寝室のコテージと、庭師のコテージ、画家のアトリエ、娯楽用の建物、四千平方フィートのガレージと三つの大きな温室があった。

一年後、文師はべルべディアから遠くないところに、十八エーカーの地所をもうひとつ、五十六万六千百五十ドルで購入した。中心の建物は煉瓦造りの三階建ての邸宅で、寝室は十二、浴室七、居間一、食堂、書斎、厨房、そして家の西側には広いタイル張りの日光浴室があった。文師と家族がここを住まいと定めたとき、彼はこの場所を「イーストガーデン」(東の園)と命名した。文一家はベルべディアに私的な部屋を持ち続けたが、そちらはおもに客を泊めたり、教会の行事に使った。

ハドソン川を見下ろす田舎風の「イース卜ガーデン」には、小さな建物がぽつぽつと建っていた。サニーサイド・レーンに面した入口に警備室があり、その近くの門番小屋には寝室二、浴室、居間、台所と小さな地下室があった。邸宅から丘をちよっとあがったところにあるかわいらしい石造りの家は、二寝室と浴室一、居間、食堂、書斎、台所をもち、コテージハウスと呼ばれていた。

ニューヨークは文師の活動基地だったが、彼は相変わらず韓国をよく訪れた。韓国にくると、ときには彼か、あるいはその側近のひとりがリトルエンジェルス芸術学院を訪問することもあった。それはいつも喜ばしい出来事だった。普段の授業が中断されるからでもあり、また私たちの一部が新たなるメシアと見なし、全員が学校の裕福な寄付者と知る人物を見る機会だからでもあった。

韓国の学校は日本、および太平洋沿岸諸国全体のそれとよく似ている。強調されるのは、機械的な暗記と繰り返しの練習問題である。小学校卒業時、私は高等数学はできたが、批判的に考えることはできなかった。それは教えられもしないし、評価もされない技術だった。子供たちの心は知識で満たすべき空っぽの器と考えられていた。私たちは形作るべき粘土、彫るべき彫刻だった。これは私たちの道徳的発達についても、知的発達についても事実だった。韓国の他の学校と同様に、リトルエンジェルス芸術学院でも、教育体系は権威への服従を強調していた。それは総意と一致、服従と受容を称賛した。そのために、私には、意見の相違を許さない権威主義的な宗教内の生活を送る準備がすっかり整っていたのである。

私はよく言うことを聞く子供だったから、勉強や音楽では苦労しなかった。私は韓国の基準ではよい生徒だった。言われたとおりピアノの練習をしたが、情熱には欠けており、それが母を悲しませているのはわかっていた。私はピアノに対する母の情熱を受け継いではいなかった。三年と六年のとき、学校のピアノ・コンテストで優勝はしたものの、コンサー卜の舞台は母の夢であり、私の夢ではなかった。

一九八〇年十一月、私たちは文師の親しい顧問のひとり、朴普熙のリトルエンジェルス芸術学院訪問のために、いつもの日課がとりやめられると聞いて喜んだ。そのころ、文師はアメリカで保守的な共和党員たちのお気に入りになっていた。彼は写真撮影のチャンスを生かす術を身につけ、できるかぎり大勢の偉大な世界的指導者たちと写真を撮っていた。これらの写真は、世界における「真のお父様」の影響力が増大しつつある具体的な証拠として、私たちに提示された。

その日、リトルエンジェルス芸術学院で、朴普熙は最近のアメリカ大統領選挙の結果に「真のお父様」があたえた影響を絶賛した。ロナルド・レーガンの写真が文の所有する新聞「ニューズ・ワールド」の一面を飾り、朴普熙が話したよぅに、レーガンの地滑り的勝利を速報していた。私は彼の演説の内容に注目していたとは言いがたい。私は十三歳、八年生だった。国際政治は私の興味を引かなかった。私がアメリカについて知っていることは、政治より、ファッションと音楽、ポップ・力ルチャーについてだった。

彼の演説のあいだ、私の注意は隣にいた親友とのおしゃべりのほうに向けられた。彼女の両親は、私の両親のすぐあとに合同結婚式で「祝福」を受けた七十二双の夫婦に含まれている。「あなたはまだ知らないけれど、あなたは孝進様と『マッチング』(結婚相手を文鮮明に決めてもらう儀式)されるのよ」朴普熙がだらだらと話しているあいだ、彼女はこうささやいた。私は笑いを押し殺した。「そんなばかな」と私は言った。そんなことを親友が知るわけがあるだろうか?「真の子女様」の結婚相手にだれが選ばれるのかについては、いつも噂があった。しかし、そういった決定をするのは文師であり、学校の講堂での少女のくすくす笑いではない。

二年後になっても、その考えは同じようにばからしく思えた。文孝進とは数語しか言葉をかわしたことはなかった。彼と同年齢の「祝福子女」は大勢いて、十九歳になる「真の子女様」の結婚相手としては、私のような十五歳の少女よりずっとふさわしかった。私は孝進をよく知らなかったが、彼が文一家の黒い羊であることぐらいは聞いていた。彼は文一家がアメリカに移ったとき、小学生だった。韓国にいるときは、いやいやながらではあっても、とにかく勤勉な生徒だった。この若き法定推定相続人の指導者役は、文師の個人的補佐ピー夕ー・キムに命じられた。アメリ力にいくとき、孝進はソウルにいたときよりももっと大きな自由を手にしてやると誓つていた。

彼にとって、アメリカでの生活に適応するのは簡単ではなかった。夕リー夕ウンの文の屋敷内での生活はソウルにいたときよりもさらに孤立していた。文の子供たちは家では教会の長老やべビーシッ夕ーたちの世話にゆだねられ、学校ではまったくのアウトサィダーだった。

彼らは私立のハックリー校に入れられたが、そこでは「ムーニー」という身分ゆえに、からかいとあからさまな侮蔑の対象となった孝進は学校にBB銃(空気銃)を持ち込み、数名の同級生を撃ったために、ハックリー校を退学になった。孝進は、自分がそんなことをしたのは、ただそれがおもしろいからという単純な理由以外のなにものでもないと認め、校長が自分のことを正直で愉快な生徒だと考えていると主張したが、それでも彼は退学になった。退学になったあと、彼は自分の父親との対面を恐れた。あのとき彼を断固として罰していれば、文師は私たち全員を多くの苦しみから救うことになっただろう。そのかわり、文師は孝進を宗教的迫害の犠牲者であるかのように扱った。これは、文孝進に対する責任を回避するという彼が生涯とり続けるパ夕ーンの一部だった。

文師夫妻は留守がちな親で、世界では統一教会を宣伝し、家では自分たちの子供を無視した。孝進のことはとくに難しい問題だった。彼は夫妻の長男であり、教会の長として「お父様」の地位を受け継ぐことを期待されていた。しかし態度は喧嘩腰で、長髪のロック・ギタリストは文師が心に描いていた後継者ではなかった。

孝進がハックリー校を退学になったあと、文師は彼をワシントンDC近郊の裕福な郊外都市バ—ジニア州マクリーンに送り、最古参信者のひとり、朴普熙と暮らさせた。メシアの子供たちを育てる責任は信者たちにあるというのが文師の理論だった。いずれにせよ、文師には世界の面倒をみる責任がある。自分は理想の家族の模範的父親だと主張している人間としては、奇妙な理論であり、この矛盾を孝進以上に強く感じた者はいなかった。

孝進の行動はワシントンでさらに悪くなるばかりだった。大きな公立学校で、殴り合いやそれよりなおひどいことがあった。初めて不法なドラッグに手を染めたのはワシントンにおいてである。一九八八年の教会員に向けた演説で、孝進は次のようなことを語っている。

ワシントンに行くこと、「イーストガーデン」を離れることに、私はとても興奮した。お父様は教会外の子供たちと仲良くなるなと言ったが、私は外の人びととつながりをもちたかった。自分にとって、これは友だちを見つける機会だと思った。私はお父様がなにを望むかなど考えなかったし、気にもかけなかった。私は自分自身の友だちがほしかった。

ワシントンにいったあと、私はドラッグとかかわるようになった。これ以上乱暴者たちから圧力をかけられたくなかった。高校では拳がものを言う。私は武術をやるようになった。私はだれからも、なにも取りあげたくはなかった。学校では、彼らは群をなして動き回る。しかし、支配するのはもっとも強い子供たちだ。彼らが私を見るとき、彼らは「黄色人種」と侮辱した。だから私はさかんに喧嘩した。闘えば闘うほど、私は勝った。子供たちは私と友だちになりたがった。私の名は知れ渡った。

期待を裏切られた文師は、孝進も自分自身の文化のなかで長老たちの監督を受ければ、正道にもどるのではないかという希望を抱いて、彼を韓国に送り返した。だがそうはうまくいかなかった。汚い長髪とぴったりのブルージーンズ姿の孝進はリトルエンジェルス芸術学院の廊下ではちょっとした見ものだった。彼はロック・バンドを始め、反抗的態度で有名になっていった。

年ごろの若者にとって、他人から信用されていないカルトに属するのは、それだけで厳しいことだ。孝進の外見と態度は、残りの私たちの苦労にさらに輪をかけ、私たちは非会員の前で、彼に困惑させられた。私たちの音楽の好みはより古典に傾いていた。そのうえさらに、彼は「お父様」の厳格な行動規範をあからさまに軽視した。学校のだれもが、孝進はたばこを吸い、ガールフレンドをもち、アルコールを飲むことを知っていた。彼が不法なドラッグを使っているとささやく者もいた。彼は実際にはリトルエンジェルス芸術学院の課程を終えていない。何年もあとになって、学校がただ彼に卒業証書を送ってきただけである。

最古参の教会員、「三十六家庭」のあいだには、自分の娘を文孝進と「マッチング」させようと、激しい競争があった。教会における地位は、文鮮明とどれくらい近いかということと直接連動していた。「義理」の関係は、会員が得られるもっとも近い位置だった。たとえば金栄輝夫妻は、最古参の三家庭という自分たちの立場ゆえに、長女の金恩淑が孝進とマッチングされると期待していた。金栄輝は当時韓国統一教会会長だった。皮肉なことに、娘を孝進と結婚させたいと望んでいたこれらの夫婦でさえ、孝進のドラッグとセックス、ロック好きゆえに、男の子だろうと女の子だろうと、自分の子供たちが彼と仲良くするのをやめさせようとした。

孝進としても「霊的」な理由でマッチングされるのはごめんこうむりたかった。会員への一九八八年の演説で、彼はこんなふうな告白をしている。

韓国にいったとき、私は大勢の女の子とつきあい始めた。私はとくにひとりの女の子を本当に愛し、彼女と結婚したかった。彼女の両親は賛成していた。彼らはお父様が大金持ちだと思っていた。彼らは私たちの両方をたきつけ、私を彼らの家に招いた。彼らは私に親切だった。私たちはとても親しくなり、ほとんど一緒に暮らしていたようなものだった。私は彼女と性的な関係をもった。彼女と一緒に暮らすために、自分の力でできることはすべてしたかった。私は彼女以外のだれともマッチングされたくなかった。高校に通っていたあいだずっと、放課後は、私が彼女の家で眠るか、彼女が私の家で眠るかだった。

私は一日にウィスキーを一本飲んだ。金がなければ、安くてよくきくコーン・ウィスキーを飲んだ。いつも酔っていなければならなかった……私はどん底に落ちた。私は自分の心が泣くのを聞いていた。私は息を詰まらせ始めた。私は自殺したかった。どうしてお父様と顔を合わせることができるだろう。私は最良の方法は消えることだと思った。そうすれば、私はもう重荷ではなくなる。何度も、私は銃口を頭に突きつけてすわり、それがどんなものかを練習した。私は自分の肉体のことだけを心配していた。私はほかの子供たちよりも悪かった。私はそれほど肉欲にふけり、自己中心的だった。自分が他の人びとにどんな影響をあたえているかなど気にかけなかった。私はこのように育っていった。

孝進のような不良少年たちはもちろんのこと、少年一般についても、私はなにを知っていただろう?韓国では、女子と男子は別々の学校に通う。リトルエンジェルス芸術学院は圧倒的に女子が多く、男子もわずかにいたが、女子とはあまり交流しなかった。男子のほとんどは統一教会の会員であり、そのため彼らにはデートは許されなかった。

十代のころ、私が出会った唯一の男子は、男性というのは避けるべき厄介なものだという強烈な印象を残した。私が十三歳のとき、同年齢の少年が、日曜日になると私たちの教会の外で、私が出てくるのを待っていた。彼は統一教会員ではなかったが、近くに住んでいた。彼はバス停まで往復する私を目に留めたにちがいない。毎週、彼は会話を始めようとし、毎週、私は彼を無視した。私たちが別の地区の新しい教会の建物に移ったときにはうれしかった。彼を厄介払いできるだろう。けれども彼はその最初の日曜日、新しい教会の外で私を待っていた。私は彼の名前を知らない。結局、彼は追いかけるのをあきらめた。

リトルエンジェルス芸術学院の友人たちのあいだでは、どの少年が一番格好良いかについて、ローティーンのありふれた無邪気なおしゃべりをしていたけれど、私はただ聞いていた。早くから学校に通い始めたので、私はほとんどの同級生よりも一歳年下だった。また体つきも小柄で、友人たちが優雅な若い女性へと花開きつつあったとき、まだ小さなかわいい女の子だった。

私たちは、自分たちが全員、いつの日か文師の手で、結婚すべき男とマッチングされることを知っていた。その日がくるのは何年も先、私たちが大学の勉強を終えて、大人の生活を始めたときだと考えていた。韓国における女性の平均的結婚年齢は二十五歳である。私にはわかっていた。そのときがきたら、自分は文師が私のためにしてくれた選択を受け入れるだろう。両親はそれを期待していた。私は従うだろう。私は将来の結婚についてたいして考えなかった。それは何年も起こるはずがなかったし、それが起きたとき、私がロをはさむべきことはほとんどないからだった。

結婚について年長者に従うという点については、私は他の若い韓国女性とたいして違ってはいなかった。韓国では、見合い結婚はいまだにありふれたことだ。それは何世紀にもわたって、家族の社会的地位を保ったり、引き上げたりするための伝統的な手段だった。西洋の影響を受けた若者の多くは恋愛結婚をするが、ほとんどの韓国人は、ロマンスが家庭生活に確固たる基礎を提供するかどうか、相変わらず疑いを抱いている。結婚相手としてたがいを選んだ恋人たちさえも、しばしば占い師のところにいって、自分たちの決定を確認する。

十五歳の少女としての私の純情さは、誇張してもしすぎることはないだろう。私が十歳のとき、母は私に生理について説明した。私と母が、性について話し合うというのに近いところまでいったのは、そのときただ一度だけだ。その日、部屋のなかの雰囲気はあまりにも重く、母の当惑はあまりにも深く、私たちは不治の病について話し合っているようだった。私は床にすわり、母が教えねばならない女性の秘密を学びたいと思う以上に、母の当惑を解放してあげたいと望んで、もじもじしていたことを思い出す。

実際に、私は学校の廊下で聞いた、男の子と女の子のあいだのささやきや笑い声に、ほとんど好奇心をもっていなかった。自分にはわからない冗談を理解するために、なんの努力もしなかった。一度バスのなかで、学校で女の子を困らせるという評判の教師と隣同士になった。彼は私の手を握り、バスに乗っているあいだじゅう、ずっと私を見つめていた。私は手を離そうとしたが、彼の力はあまりにも強かった。私の指は彼にぎゅっと握られて赤くなり、それから白くなった。私はそれを奇妙だと思ったが、彼のアブローチにはなにか性的な危険があるかもしれないという考えは一度も浮かばなかった。

学校での集会のあいだ、文孝進との結婚についての友の予言を笑いはしたものの、私は家に帰ったとき、母にその話をした。母はびっくりしたように見えた。だが、私たちは二度とその話はしなかった。ある日、私たちは、噂ではない、洪家に起きた正真正銘の結婚話に気を取られることになる。

私がリトルエンジェルス芸術学院に入学した当初、私が通り過ぎると、年上の少女たちは「あれが例の男子生徒の妹よ」とささやいたものだ。私の胸は誇りで膨らんだ。私は兄の七光りに浴していた。兄は学校で一番人気のある男子、ハンサムで、頭がよく、級長だった。彼の妹であることはひとつの名誉だった。

学校で、彼にたわいのないラブレ夕ーを書いてきた女の子はひとりやふたりではなかった。彼は彼女たちに注目され赤くなったが、品行方正な少年だった。彼は教会の道徳規則を本気にしていた。私たちには、異性の会員とは兄弟姉妹のようなつきあいしか許されなかった。デートは禁じられていた。私たちは「真のお父様」が結婚すべきときだと決めるまで、自分自身を純潔に保たねばならなかった。

兄が十七歳、私が十五歳になったばかりのとき、私は家のなかでなにかが起こりつつあるのを感じた。雰囲気全体が熱を帯びていた。両親は私たち子供にはなにも言わなかったものの、底には緊張と興奮が流れていた。当時文一家はアメリカに住んでいたが、彼らが長女の婿を韓国の「祝福子女」のあいだに探しているという噂が広まっていた。だれもが、婿は最古参の弟子、金栄輝か劉孝元の息子のなかから選ばれると思っていた。彼らの息子たちふたりは兄の友だちだった。

ある日、学校から帰ると、両親がふたりとも一番いい服を着て家にいるのを見て、私はびっくりした。兄が自分の部屋で着替えている物音がした。彼は新しいスーツを着て、髪を韓国のビジネスマンのようにオールパックにして、部屋から出てきた。弟や妹、そして私は息をのんだ。彼はそれほど大人に見えた。両親はなんの説明もせず、私たちはいつものとおり質問をしなかった。何時間もあと、兄を連れて謎めいた用事から帰ってきたとき初めて、彼らは私たち六人の弟と妹に、兄が文師の長女とマッチングされたことを告げた。兄はメシアの娘と結婚する。「神の真の家庭」の一員となる。

私はとても誇りに思った。兄は特別であり、私もまた特別になるだろう。なぜならば彼は私の兄なのだから。彼が実際に私たちの家族を離れると考えたとき、私の誇りは悲しみに道を譲った。彼はあまりにも若く、私の生活にあまりにも多くの部分を占めていた。私たちの家庭はそれほど宗教的ではなく、だから私たちはときには教会の厳格な戒律に従わなかった。賭事は人を堕落させるものとして、文師から禁じられていた。けれども私たち兄弟はしばしば花闘(ファトゥ)と呼ばれる韓国の力ード・ゲームをした。負けた者はときには勝った者に、少年が自転車で店から直接私たちの玄関ロまで出前してくる黒い中華麵をおごった。兄がいなくなったら、それももうおしまいなのか?

兄がいってしまったら、私が苦労している芸術の授業で、だれが私を助けてくれるのだろう?けれども私の悲しみは、私が洪兄弟の最年長になるという予測に直面した忠淑の悲しみと比べれば色褪せて見えた。兄はその善良な性格で、私たち兄弟の上に立った。私はその兄の模範から学んではいなかった。私は権力に対してもっと直接的なアプロ—チを取った。二歳年下の忠淑を自分の召使いのように扱ったと言わねばならないことを恥ずかしく思う。私の祖母は、韓国の有名な恋愛物語の女主人公にちなんで、私のことを春香、妹をその召使いにちなんで香丹と呼んだほどだ。

私たちは文師の長女と兄の結婚式が翌日おこなわれると聞いて、びっくり仰天した。私たちは全員、結婚すなわち「祝福」の意味、それが私たちの霊的生活に果たす中心的役割、しかるべき熟慮をもってその瞬間に向かっていく必要を教えられていた。彼女と兄には、その時間がもてるはずもなかった。それはまるで、文師が自分の娘を、世界旅行のふたつの寄港地のあいだで、結婚させるようなものだった。

結婚は統一教会の教義の中心にある。文師は、イエスは結婚して罪のない子供を作る前に十字架にかけられたので、地上の天の王国は人類には開かれていないのだと教える。「再臨の主」として、イエスのやり残した仕事を完成するのが文師の役割だ。一九六〇年の文師と韓鶴子の結婚は新たな時代、統一教会が「成約時代」と呼ぶ時代の扉を開ぃた。この完璧な夫婦、「真の御父母様」は、原罪のない子供たちをもつことによって最初の「真の家庭」を作り出した。残りの人類は文鮮明夫妻から「祝福」を受けること、すなわち結婚することによって初めて、この罪なき血統の一部となれる。

文師夫妻はエデンの園におけるアダムとエバの役割を、今回は原罪のない立場で再演することにより、人類を復帰させるというイエスの使命を完成する。統一教会は「人間の堕落」は性的不品行によるものだったと教えているので、文師は「原理的」一夫一妻制を通して人類を復帰させるだろう。その他の夫婦は、「祝福」を受け、「真の家庭」と一体化することによってのみ、アダムとエバのサタンの血統——原罪——から解放されうる。

教会は新郎新婦に対し、「祝福」の前後にいくつもの複雑な儀式に参加することを求めている。文師の長女と兄の場合、そのほとんどが放棄された。文師は最初の「マッチング」と「三日行事」のあいだには、三年が経過しなければならないと教えている。それぞれひとつずつの儀式には深い神学的意味があると教えているにもかかわらず、今度の場合、「マッチング」はなく、「聖酒式」もなく、「蕩減棒の行事」(蕩減とは償いの意。新郎・新婦がたがいに相手の下半身を蕩減棒で打ち、人間の性的堕落を償う儀式)も「三日行事」もなかった。

理論的には統一教会で祝福をうけるためには、三年間会員であり、新しい会員を三人集め、蕩減献金をしなければならない。この献金は、全人類はイエスに対する裏切りのために負っている借りを分かち合い、この集団的な罪のため、われわれ全員が支払わねばならないという統一教会の教えを表す。

「マッチング」では一組の新郎新婦が文夫妻の前に呼び出され、夫妻は「祝福」の意味を説明し、新郎新婦にその縁組みを受け入れるかどうか決めるために、別々の部屋で待つよう求める。教会が膨張するにつれて、「祝福委員会」が結成され、マッチングを裁定するようになったが、初めのころには、あるいは文一家の場合には、文師自身がマッチングを取り決めた。

「聖酒式」はたいてい「マッチング」と同じ日におこなわれる。女性は男性と向かい合い、聖別された酒の半量を飲み、杯を男性に渡す。女性が最初に飲むのは、最初に罪を犯し、いま最初に恩寵へと復帰されるエバを象徴する。杯に残った聖酒は聖布に振りかけられ、「三日行事」で使用される。新郎新婦が「祝福」を受けたあと、「蕩減棒」があり、夫と妻はそれぞれ、相手を棒で儀式的象徴的に打って、相手からサタンを追い出す。

「三日行事」は結婚の実行である。多くの場合、夫婦は結婚生活の最初の三年間は性閨係をもってはならない。セックスをするときには、文師によってあらかじめ定められた細かいパ夕ーンに従わねばならない。一日目の朝、夫婦はともに祈りを捧げる。そのあと風呂に入り、最初は聖酒に、次に冷水に浸した聖布で身体をぬぐう。最初のニ晚、復帰されたエバがまずサタンに、そのあと堕落したアダムに恩寵をもたらすことを象徴して、女性が上位になる。三日目の夜、復帰されたアダムとエバが、天地創造の夜明けに神が彼らに意図していた使命を達成することを象徴して、男性が上位をとる。

これは文師夫妻の「真の子女」初めての結婚だった。「祝福」関連の儀式の多くが省略されたことは、ちょっとした衝撃だった。すべての過程がこの結婚は強制されたものであるかのような様相を呈していた。なぜ急ぐのだろう、と私は不思讓に思った。文師の長女と兄を文字どおり一晚で結婚させるために、なぜ教会の教義が無視されたのか?ずっとあとになって、私は文一族には規則が適用されないことを知った。彼ら全員がそれまでに性体験をもっているか、あるいは「祝福」の直後にセックスをした。

教会の後方にすわっていたとき、私の弟や妹たち、そして私は、そのことは考えなかった。両親は文夫妻と花嫁花婿と一緒に前方にいた。私たちにはほとんど見えなかった。私たちは全員、儀式に出席するために、その日、学校を休んでいた。花嫁は白いウェディング・ドレスを着て、美しかった。私の兄はいつにもましてハンサムで、ウェディング・ケーキのてっぺんのプラスティックの花婿のようだった。私たちは彼らが「誓いの言葉」を交すのを耳をすまして聞いていた。

あなたたちは、神の創造理想を成就する成熟した男と女として、永遠の夫婦になることを誓いますか?
あなたたちは真の夫婦となり、あなたの子供たちを神の意志に従うよう育て、彼らをあなたたちの家庭、全人類、全能の神の前で、責任ある指導者となるよう育てることを誓いますか?
あなたたちは真の父母を中心とし、その家庭の統一の伝統を受け継ぎ、この誇り高き伝統をあなたたちの家族と全人類の未来の世代に伝えることを誓いますか?
あなたがたは、創造理想を中心とし、神と真の父母の意志を受け継ぎ、子供、兄弟姉妹、夫婦、父母(心の四大王国)の愛、祖父母、父母、子供(三大王権)の愛の神の伝統を確立し、神と真の父母がしているように、世界の人びとを愛し、そして究極的には、地上と天上の神の王国の築きの石である理想の家庭を成就することを誓いますか?

彼らが誓いの言葉を述べているあいだ、部屋の反対側でダークスーツの襟に長髪を垂らしている文孝進の姿が目に入った。彼は儀式の写真を撮っていたが、不愉快そうな怒った顔をしていた。私は不可解に思った。結婚式でなぜこんなに不幸せそうな顔をしているのかしら?いま思い返してみて初めて、私はよく知ったパ夕ーンを認めることができる。孝進は自分が注目を浴びていなかったのでふてくされていたのではないだろうか。

結婚式のあと、パレス・ホテルの広い宴会場で披露宴が開かれた。両親は文一家全員とともにそれに出席したが、私たち兄の弟妹は招待されていなかった。おじのひとりが、私たち六人をホテルのレス卜ランに連れていった。けれども兄の結婚のお祝いから仲間外れにされて、私たちの心は痛んだ。これは文家のパーティであり、洪一家は明らかに脇役だった。

結婚直後、文一家と兄嫁はアメリカに帰った。彼女はマサチューセッツにある名門スミス女子大の学生だった。兄はソウルの文師の家に移り、孝進と大勢の家事職員と同居した。高校卒業までにまだ一年あり、アメリカ合衆国へのビザ取得は簡単ではなかった。

兄にとって孝進との暮らしは難しかった。孝進は王子として育てられ、王子として振る舞い、衣類は床に脱ぎっぱなしにして「兄弟姉妹」たちに拾わせ、家事職員が彼の個人的な奴隸であるかのように彼らに命令した。彼は女友達を家に連れてきて、セックスをした。彼は部屋をたばこの煙で満たした。兄にはどうしようもなかった。孝進の態度に賛成はしなかったが、メシアの息子を批判はできなかった。孝進は「真の子女様」のひとりだった。兄は単なる婿にすぎない。

兄の結婚後、私自身の生活はいつものパ夕ーンを取り戻した。兄とはリトルエンジェルス芸術学院で顔を合わせたものの、通りすがりに話す以上のことはめったになかった。兄はいつも勉強していた。正規の授業は午後三時に終了したが、年長の学生たちは大学の受験勉強のため、しばしば夜の九時まで残っていた。そのうえ、いまや兄はこれまでと違うより高いレベルにいた。彼はもはや私の兄ではなく、「真の家庭」の一員だった。私は兄がいないのをひどく寂しく思った。

自分の未来を思うことはめったになかったが、そうするとき、私はまだ何年もの学業生活を思い描いた。私は学校を一日も欠席したことがなかった。私はピアノをもっと一生懸命練習するようになった。もしかしたら、結局は母の夢を実現して、ピアニストになるかもしれない。男性ピアニストと結婚して、ふたりで世界中、演奏旅行をしてまわるかもしれない。占い師が、いつか母に、私は重要人物と結婚し、とても有名になると言ったのではないか?

こういった考えはすべて、少女の夢の王国内のことだった。私は統一教会の厳格な戒律に従っていた。ある午後、教室で、隣の席の娘が目にお化粧をしているのを見て、私は仰天した。彼女は教会員ではなかった。放課後にデートがあると言っていた。私は興味をそそられると同時に反感を覚えた。

文師の長女と兄の「祝福」の六力月後、一九八一年十一月、リトルエンジェルス芸術学院は新劇場のこけら落としを祝うために、韓国の伝統音楽と舞踊の公演をした。一九七四年に文師に創設されて以来、学校は順調に発展してきた。付属の演芸センターは、文師がー九六五年に創設したリトルエンジェルス民族舞踊団の本拠地だった。「ザ・リトルエンジェルス」は七歳から十五歳までの少女たちの舞踊団で、世界中の国家元首やイギリスの王族、日本の皇族のために公演をしてきた。

私にはその種の才能はまったくなかった。こけら落としのために、私はコーラスでちょっと歌うことになっていた。髪をうしろで一本の固いお下げに結い、ほかの少女たちと舞台裏で待っているとき、私の神経はすっかりまいってしまった。美しい衣装も私のひどい声を隠してくれないのはわかっていた。

指揮者が私たちを舞台に連れていくために整列させていたとき、私は自分の名前が呼ばれるのを聞いた。突然、校長が私の横にいた。彼女は言った。「お母さんがあなたを迎えに車を寄こしました。いって、着替えなさい」

私は更衣室にいって、舞台衣装を学校の制服に着替えた。紺色のプリーツス力ー卜をはいて、白いブラウスのポタンをかけ、青いブレザーをはおった。私は冬服の一部である、黒い毛皮の襟のついた灰色の毛のコートを着て、赤い帽子と赤い通学かばんをもち、待っていたセダンへと急いだ。私は車の後部座席に乗り込んだが、どこに連れていかれるのかまったく見当もつかなかった。私が尋ねなかったこと、それは、私の服従心について、多くを証明してあまりある。

文師の私邸にいったことは一度もなかった。それは広い中庭に続く、手の込んだ門のある広大な家だった。ひとりの「兄弟姉妹」が私を飾り立てた食堂へと導いた。母はすでにそこにいた。長方形の食卓の両側に椅子が三脚並べられていた。文師が上座に、その右側に文夫人。夫人の横にはだれか知らない女性がいた。その横は金栄輝夫人。母は文夫人の反対側にすわっていた。母は微笑み、私に隣にすわるよう身振りをした。私は視線を落としたまま、大きなクリス夕ルのシャンデリアが白いテーブルクロスに落とす光と影のパ夕ーンをじっと見ていた。

厨房の「兄弟姉妹」が夕食を次から次へと給仕するあいだ、私は頭を垂らしたままでいた。あまりにも脅えていたので、米もスープもキムチも魚も肉も喉を通らなかった。私は食べ物を皿のなかであっちにやりこっちにやりし、だれも私に気づかないようにと祈った。

文夫人がとてもご機嫌なことが私に強い印象をあたえた。さかんに笑い声があがったが、突然彼らが私のことを話しているのだと気づくまで、会話には注意を払っていなかった。食卓の、だれだかわからなかった女性は私をじっと見つめていた。彼女は私の額と頭の形を評した。学校の公演のために、髪の毛がうしろで結わえられているのを喜んでいた。おかげで私の耳をより細かく調べることができる。彼女が私の耳の長所を次々と並べ上げるにつれて、私は顔が赤くなるのを感じた。耳たぶは長くふっくらとして、形はバランスがいい。そのことは長命と幸運を意味する。

夕食が終わり、皿を片づけようと母が立ち上がったとき、私はあわてふためいた。私は母のうしろからスィング・ドアを通って台所にいった。そこでは「兄弟姉妹」たちが明らかに私の耳以上のなにかを喜んで、笑ったり、微笑んだりしていた。家への帰り道、母もその日の出来事に満足しているのは明らかだった。だが文邱訪問について、母はなんの説明もしなかった。母が話さないのであれば、私が質問する立場にないことはわかっていた。

翌日、母が私の長い黒髪を力ールさせるために美容院にいかせたとき、私はびっくりした。母が自分の青いスーツを着るようにと出してきたときは、もっと混乱した。それは私を大人っぽく見せる、と母は言った。私は両親と一緒にふたたび文邱にいった。今回はもっと大勢の人が集まっていた。教会幹部全員がそこにいた。私は多くの注目を引いているようだった。だれもが私に微笑みかけた。母のすてきなスーツのせいだわ、と私は思った。カメラマンがいて、私の写真を撮り続けていた。食べ物が山のようにあった。

両親と私はすぐにひと部屋に呼ばれ、私たちだけで文師夫妻に会った、両親は夫妻の向かいの座布団にすわった。私はお辞儀をし、彼らの前で床にひざまずいた。文師はとても静かに話したので、その声はほとんど聞き取れないくらいだった。私は頭を垂らしたままでいた。私が彼の前に黙ってひざまずいているあいだ、文師は私の両親に、この娘を「真の家庭」にくれと頼んだ。「はい」と言うとき、父と母は私を見なかった。

「これなんだわ」と私は思った。「私はマッチングされた」文師は私になにも尋ねなかった。私がどんな娘か知るために、私と会話を始めようともしなかった。彼はすでに充分に知っていた。前日の夕食の席にいた見知らぬ女性は、仏教の巫女、占い師であることがわかった。彼女は文師に、私と孝進とは完璧な組合せだと保証した。私がブッダ・レディと見なした女性は統一教会の会員ではなかった。文師が神と定期的に直接交信している「再臨の主」ならば、なぜ仏教の占い師に忠告を求めて相談しなければならないのか、そんな考えは私や私の両親の頭には一度も浮かばなかった。

おまえは私の息子孝進と結婚したいかね、と「お父様」は尋ねた。私はためらわなかった。「真の家庭」とのマッチング、それはすべての統一教会員の娘の夢だった。文孝進の妻となることは、私がいつの日か教会の「お母様」になることを意味した。私は恐れ多く、また光栄に感じた。孝進自身が、女の子の考えるプリンス・オブ・チャーミングとは似ても似つかないことは、私の心に浮かびさえしなかった。「祝福」はただ単にふたりの人間の結びつきではなく、ふたつの魂の結びつきである。神が孝進を正義の道にもどすだろう。そして文師はその使命の道具として、私を選んだ。

「はい、お父様」と私は、視線をあげて、彼の目を見ながら言った。彼は言った。「この子はお母様よりかわいい」私はそれが聞こえなかったふりをしたが、文夫人がどう思っているかと疑問に思わずにはいられなかった。私には彼女の顔をちらっと見る勇気もなかった。

生まれてからずっと、私は家族や友人からかわいいと言われてきた。もちろん私よりもかわいい少女は大勢いた。けれども私は自分が見た目のよいことを知っており、文師が同じように言うのを聞いてうれしかった。なぜ文鮮明が長男と結婚させるために私を選んだのか、その理由を正確に知ったことはない。私はかわいらしく、よい家庭に生まれたよい生徒だった。当時、それで私には充分な説明になっていた。年を経るにつれて、私は自分が選ばれた第一の理由は、私の若さと純朴さだったと信じるようになった。私はメシアが結婚したときの韓鶴子よりも若かった。文師の理想の妻は、彼が彼女を自分の望む女に形作っていくあいだ、それに従うのに充分若く、受動的な幼い娘だった。時は証明した。私が若かったこと、けれども受動的とはほど遠かったことを。

孝進は隣の部屋で待っていた。文師は私を彼に会いにいかせた。どちらの側も「祝福」に同意しなければならない。けれども私たちのどちらにとっても、本当の選択の余地はないも同然だった。私たちは、個人が自分の結婚相手を選ぶことに、文師が賛成していないのを知っていた。縁組は霊的な両立可能性に基礎をおくべきであり、肉体的な魅力にではない。その選択をする手段を、文師以上にもつ個人はいない。

私は、メシアの息子はもちろんのこと、男の子とふたりきりになったことは一度もなかった。私はお辞儀をし、堅苦しく「孝進様」と挨拶をした。彼は私たちが結婚するのであれば、私は形式的な呼びかけ「様」を使うべきではないと言った。彼は私にソファーの自分の横にすわるよう言った。彼は私の手をとった。私はリラックスしようとしたが、あまりにも内気だった。おたがいに言うことはなにもなかった。気まずい数分のあと、孝進は両親のところにもどらなければならないと言った。

私たちふたりは居間にもどり、そこで文師はお祈りをおこなった。私たちは全員で手をつないだ。文夫人は自分の手からルビーとダィヤの指輪をはずして、私たちの婚約を固めるために、私の指にはめた。文師夫妻はどちらも涙を流し、孝進がいまや自分はメシアの息子にふさわしいことを証明するだろうという希望を口にした。

両親と私が家に帰るとき、母は車に乗り込もうとして頭を強く打った。私たちの文化は迷信深い文化である。そのあとの歳月、私と母は何度も尋ねあった。あのとき頭をぶつけたのを、きたるべき苦しみの前兆と見なさなかったのはなぜなのか、と。

[出典:わが父 文鮮明の正体/洪蘭淑]

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