【わが父 文鮮明の正体】まとめ(03)

わが父 文鮮明の正体
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第2章:迫害と飢えと信仰と

アラスカ州コディアク沖の「真のお父様」の魚船の上で夕コを釣り上げる文孝進。
文鮮明は多くの家を所有しているが、コディアクにも一軒ある。
左から文鮮明、文夫人の韓鶴子、息子・信吉を抱く私、孝進

私の一番古い記憶は、長く狭い廊下の隅の小さな暗い部屋だ。窓があったとしても、私の心の眼には見えない。家具があったとしても、それを思い描くことはできない。私にはただ、暗闇に取り巻かれ、むき出しの床にすわる小さな自分の姿しか見えない。

私はひとりぼっち。この家は空っぽだ。だが奇妙なことに恐怖心はない。私が感じているのはもっとあきらめに近いもの。ようやくよちよち歩きができるかどうかという幼女から連想するには奇妙な感情だ。だがそのときでさえ、それが私の感じていることだった。世界における私の居場所は運命で定められており、人生における私の役目は耐えることだ。

だれを待っているのかはわからない―学校から帰ってくる兄か、教会からくる子守か―だが、長く狭い廊下をこちらにくる姿が見えると期待はしていない相手がだれかはわかっている。私の母は、私の子供時代のほとんど家をあけていた。私は幼児期を母を求めて過ごした。母を求める気持ちは深いところにあって、明確な形をなしてはいない。それは私の心のうつろな中心部に肉体的な痛みとして感じられた。父と同様に、母は新たなる宗教的回心に対する情熱で満たされていた。文鮮明師の初期の弟子として、私の両親は、「再臨の主」が訪れたことを世界に広め、巣立ちしたばかりの統一教会のために、新たな、さらに熱狂した会員を勧誘することが、自分たちの使命だと考えていた。

私たちの存在そのものが、その使命のひとつの表れではあっても、子供はそれを複雑にした。文師は最初の「三十六家庭」に、「神の真の家庭」の基礎を建設するため、できるだけ多くの子供をもつよう命じていた。同時に、彼らが韓国中を、そして将来的には世界中を旅して、彼の代理として説教し、「証言する」ことも期待していた。文師はその信徒たちに、彼らが彼の世話をすれば、神が彼らの子供たちの世話をするだろうと教えた。文師の使命は緊急であり、それは母親と子供との個人的な絆を無効とした。

私たちをこの世にもたらしたのは、両親の宗教的な義務だった。しかし、ごく幼いころから、私には、彼らが第一に責任を果たすのは私たちに対してではなく、文師に対してなのだとわかっていた。両親は私たちに食べさせ、衣服を着せ、屋根をあたえた。私たちを愛していたことも知っている。しかし子供たちが渴望するただひとつのもの―両親の時間と心遣い―を両親は私たちにあたえられなかった。


私の母・柳吉子(左)と文夫人の補佐マルスク・リーにはさまれた私。
プラカードは文鮮明師が脱税でダンべリー連邦刑務所に収監されたことに抗議するもの


柳吉子と洪成杓の結婚後に生まれた七人のうち、私は上から二番目の子供だった。私はソウルにある母方の祖母の小さな家の床の上で生まれた。祖母は、祖母本人やほとんどの韓国人がクレージーなカルトと考えているものに娘が入信したことを、決して許さなかった。しかし、私の母を追い払ったことは一度もない。

教会自体には分配すべき金はなく、文師は弟子たちに生存への熱情だけをもたせて、国のあちこちに送り出した。両親はふたり一緒に旅をしたわけではなかった。彼らの影響を最大にするために、文師は弟子たちに別々になって、ひとりで「証言する」よう命じた。私の父と母は別々の方向に分かれ、韓国の小さな町へ、さらにもっと小さな村へと出かけていった。

私たちの世話は祖母やおばたち、あるいは私たちが「兄弟姉妹」と呼んでいた女性たちに託された。「兄弟姉妹」とは未婚の教会員で、既婚の弟子の子供を子守することで文師に奉仕した。自分たちの赤ん坊を他人、しばしば見知らぬ他人に任せきりにしておくなど、自分の両親にどうしてそんなまねができたのか、私自身母親になってみると、それはますます不可解なことである。どうしてこれが完璧な家族の模範でありえようか?

確かに、自分や自分の兄弟姉妹が一部の子供たちよりも幸運だったのはわかっている。文師の信者のなかには、説教をするために娘や息子を孤児院に置き去りにする者もいた。少数の人びとは二度と子供のところにもどらなかった。

かつて文師は、子供を育てる理想的環境について、こう語っている。「私たちは会員子女のための寄宿舎を考えたい。そこでは数名の責任者が少なくとも数年間、彼らを育て、教育する。これによってあなたがたは束縛なく必要な証言をすることができるだろう。私たちは、私たちのグループのなかに、このような寄宿舎と学校を指揮する資格と意欲のある人びとをもっている。これは、将来、私たちにこのような寄宿舎と子供たちを支援するための金ができたときの話だ。とても子供たちのためになり、両親のためになり、そしてとても運動のためになる。だれも個人としては天の王国には入れない。家族として入るのである」彼は私の両親も含めた初期の弟子たちに「このような学校のためにわれわれに資金援助をするほど裕福な人びとを見つけてくるよう」促した。

私にとって母と別れているのはつらかったが、母にとっても人生は楽というわけではなかった。旅行をするのは大変だった。母は汽車の切符を買うために、お金を恵んでもらったり、借りたり、干し草を運ぶ馬車に乗せてもらったり―田園に新しいメシアのお告げをもたらすのに必要なことはなんでもやった。母の報酬は、しばしば聴衆からの敵意だった。初期の統一教会員は、ばかにされ、石を投げられ、唾をかけられ、あざけられた。耳を傾けてもらえることはめったになかった。

母は熱心な祈りによって、自分の霊にしかけられる絶えざる攻撃と闘った。祈りが彼女の魂を満たしはしても、腹は満たしてくれなかった。母の腹はしばしば飢えと赤ん坊の両方で膨らんでいた。彼女は米と水、妊娠したその姿を見て哀れに思った農婦たちの慈悲で生きていた。自分の妊娠中の旺盛な食欲を思うと、母が黙って飢えに苦しんでいたのには驚異を覚える。

母の一日は長く、同じことの繰り返しだった。母は村の家に部屋を借り、日中は街角で説教をし、夜はほとんど空っぽの集会場で講義をした。娘時代には内気だったが、これらの歳月を経て、力強い語り手になった。スポットラィトを楽しめるようには決してなれなかったが、時とともに恐怖心を克服し、話すときには人を引きつけるようになった。

結婚当初、両親が苦しんだのは貧窮と別離だけではなかった。私がまだ母乳を飲んでいたころ、私の家族がソウルに借りていた小さな部屋に兵隊がなだれ込んできた。兵隊たちは父に家から出るよう命じ、脅えて見つめる母の目の前で、刑務所に連行した。父の罪は軍への登録をしなかったことだった。韓国では、兵役は青年の義務である。のちに父が私に語ったところによれば、父は意図的に兵役を逃れようとしたわけではなかった。免除の話がついていると、保証されていたのだ。

その日、父をどこに連れていくか、兵士たちは母に教えなかった。私を腕に抱き、二歳になる兄の手を引いて、母は父を見つけるまでソウル中を刑務所から刑務所へ、警察署から警察署へと歩き回った。母の頭には、まっすぐ文師のところにいって助けを求めるという考えは一度も浮かばなかった。たとえどんなに緊急のものであろうとも、彼女の個人的な問題で騒がせるには、文師はあまりにも重要な人物だった。父の留守中、私たち三人を住まわせ、食べさせるために、母は超人的な奮闘をした。

そのあいだずっと、私の両親は決して文句を言わなかった。彼らは神の仕事をしていた。彼らは自分たちの貧しさを気高く思っていた。統一教会創成期に文師が耐えた苦しみに比べれば、自分たちの艱難辛苦など微々たるものだと、それを受け入れた。入獄、神なき共産主義者の手による迫害、南への長い徒歩の旅、文鮮明の試練の話はすでに伝説の域に達していた。しかしながら、そのころには文師はいい暮らしをするようになっていたのである。とくに弟子たちと比べれば、確かにいい暮らしだった。

文一家は、ソウル高級地区のひとつにあった本部教会の広い数部屋に住んでいた。彼らはその信者たちの労働に支えられていた。信者たちは文師とその家族の食事の世話をし、子供たちの面倒をみて、家を掃除し、衣類を洗濯した。

私が幼いころのほとんど、私たちはムーン夕ウンとして知られるソウルのスラムに一部屋を借りて住んだものだ。ムーン夕ウンという名前は文師とも統一教会とも関係はない。この地区は韓国の首都を見下ろす樹木のない丘の上に位置し、したがってより月に近かった。それは、狭く曲がりくねった道沿いに密集する小さな荒れ果てた家々のゲット—で、家はどれも同じ―平屋で暖房は煉炭ストーブ―だった。どの家の屋根も瓦葺きで、門のある石塀に囲まれており、この地域をうろつく泥棒よけに、塀の上には割れた硝子の破片が埋め込んであった。

私たちはムーン夕ウンで、次から次へとあまりにもあちこちの部屋に住んだので、それらは私の記憶のなかでみなごっちゃになっている。私は一軒の家の外の石段を思い出す。そこで兄と私は「家族」ごっこをし、幼い妹忠淑に小石のごはんを食べさせた。妹は教会の「兄弟姉妹」が私たちを止めるまで、おとなしくそれをなめていた。また別な一軒も覚えている。私たちは長い廊下の両側に二部屋を借りていた。ひとりの「兄弟姉妹」がー方の部屋で私たち子供と暮らし、両親は自分たちだけで狭い部屋を使っていた。ある日、家主夫妻が、私の両親が石炭を盗んでいると非難した。両親が疑われたことでかっとなった「兄弟姉妹」が激しく抗讓したので、家主夫妻は私たち全員をすぐに通りに放り出した。

一番よく覚えている部屋は、私にとって父の一番大切な思い出の舞台となった場所である。それは広い部屋で、小さなたんすでふたつに分けられていた。母は五人目の子供を産んだばかりだった。おばのひとりが手伝いにきていた。私たち年上の子供四人は、たんすの一方の側でおばと一緒に眠り、両親は反対側に布団を敷いて新しい赤ちゃんと眠った。

私たちは部屋の暗い側にいた。私は両親のそば、明かりのそばで眠りたかった。ある晩、暗くなってきたとき、私はたんすの両親の側で眠ったふりをした。私は彼らが私をそこに、その夜一晚、彼らとくっつきあって眠らせてくれるよう祈った。

そうはならなかった。父は私を抱き上げ、部屋の暗い側に運んでいった。これは覚えているかぎりで、私が父ともった、もっとも肉体的な接触だった。父が私を軽々と床から抱き上げた感じ、頸に触れるシャツのやわらかな感触をいまでも感じることができる。父に抱かれたことでとても幸せだったので、父と母からこんなに離れて、明かりからこんなに離れて眠らなければならない悲しみも和らいだ。

身近で接した瞬間をこれほど生き生きと思い出すのは、こういった瞬間があまりにも少なかったからだと思う。私たちは気の遠くなるような繰り返しと赤貧の生活を送っていた。身近な接触があったとすれば、それは貧者同士によるいや応なしの接触だった。ムーン夕ウンには屋内の配管設備はなかった。私たちは家の裏にある公共の給水栓で顔を洗い、歯を磨いた。近所中が使う、腐臭の漂よう便所で用を足した。

便所の汲み取りトラックがムーン夕ウンをまわっていたが、その回数は充分ではなかった。私は便所にいくのをできるだけ我慢した。もう待てなくなると、屋外便所の扉を押しながら、息をこらえた。凍えるような冬のあいだでも、人間の汚物の悪臭は圧倒的だった。夏には、そこいらじゅうに蠅がいた。蠅を追い払うのに、鼻をつまんでいた指を離せば、げぇっと吐きそうになった。私は空気を求めて、便所を飛び出した。

週に一度、家族全員が身体をきれいにするために、並んで公衆浴場へいった。ひとりひとりが石鹼、シャンプー、夕オル、清潔な着替えを入れた小さな金物のバケツをもった。私たちは小銭を払い、男の子は一方の扉、女の子は反対側からなかに入った。内部には広い部屋が二室、それぞれに湯気を立てる巨大なお湯の槽があった。いまでも、何十人もの女や少女が一列に並び、裸の皮膚がお湯のなかで桃色に染まっていくのを目に浮かべることができる。銭湯に雇われ、わずかの料金で、多少は金のある隣人の背中をこする女たちがいた。私たちは共同のシャヮーで身体を流し、肉体的に清められて家に帰り、次の一週間を過ごすのだった。

私たちは子供で、子供にはものごとを経済的に測る感覚はない。私たちは自分たちがとくに貧しいとか、窮乏しているとか思ってはいなかった。いずれにせよ、私たちは右や左の隣人たちと違わなかった。私たちは階段で紙の人形で遊び、崩れた歩道でジャックスをした。混雑した通りから、さらになお混雑した教室へと、たがいに追いかけっこをした。そして、私たちよりも裕福な子供と同じようにけんかをし、笑いもした。

私たちを彼らと分けていたのは金ではなく、信仰だった。私には最初からわかっていた。私たちの宗教は私たちの家族を異質にし、統一教会の会員であることは、長老派教会員や仏教徒であることとは違っていた。私は自分の宗教について、教会の友人たちとしか話さなかった。ほかの人びとが、私たちの信仰を奇妙だと、危険だとさえ思っていることを知っていた。幼い子供のころ、私は自分の宗教が他人の注意を引かなかったことに満足し、とくにそれを恥ずかしく思ったり、誇りに思ったりしたことはなかった。おそらく例外はクリスマスだろう。クリスマスには、自分の家族が、教会外の友人たちの家族のようならいいのにと思った。

ムーン夕ウンの生活を支配していた貧しさのために、この地区には、クリスマス・ツリーや手の込んだイエス様誕生のお祝いは珍しかった。けれどもソウルでは、サン夕クロースは貧者をも訪れる。しかし、私たちの貸間には決してこなかった。毎年、クリスマスイブになると、私は心ひそかに、今年こそサン夕クロースが友人たちみんなにするように、私の枕元にも小さなおもちゃをおいていく年なのだと信じて寝床に入った。毎年、クリスマスの朝になると、今年もまた、サン夕は私や私の兄弟姉妹のことを思い出さなかったと気づいて、苦い涙をこらえるのだった。

これは私の両親が冷酷だったからではない。いまになって母は、教会を確立させるのにあまりにも忙しく、頭と心は文師のための使命に集中させていたので、子供たちにクリスマス・プレゼントを買うという考えは、心に浮かびさえしなかったのだ、と言っている。私たちはクリスマスを、イエスの教えに自分自身を託す日として尊重した。イエスが、神が彼に意図した使命をまっとうできなかったと教えられてはいても、私たちには、彼の生誕の日を銘記することで、その数多くの霊的達成を確認するよう勧められた。文師によれば、大人にとってそれをする最良の道は、その日を統一教会のために勧誘をして過ごすことだった。

サン夕クロースを私たちの部屋にこさせることはできなかったが、私たちは見つけられるところに娯楽を見つけて、それを楽しんだ。兄はムーン夕ウンを歩き回って、窓辺に秘密を告げる青い輝きを探した。その青い光はテレビをもつ数少ない家のありかを示していた。彼は扉に鍵がかかっていないことを願い、そんな家を見つけると、一家がテレビのまわりに集まっている部屋に抜き足差し足で入っていった。ときにはだれかが、見知らぬ人間が入り込んでいるのに気づき、彼を通りに追い出す前に、ひとつの番組全部を見ることができた。

私は兄の大胆さに驚き、同時にそれを称賛もした。そんなに図々しくすることなど、私には想像もできなかった。おそらくは幼いとき、いつもひとりでいたために、私は自分の親類であっても、人と一緒にいると落ち着けなかった。私が四歳、兄が六歳のとき、私たちは二百マィル離れた韓国第二の都市釜山に送られ、母方のおば夫妻のところで暮らした。両親は増えつつある家族に食事と住まいを提供できなかったのである。おば夫妻には子供がなかった。ふたりは小さな薬局を経営し、一部屋だけの二階で生活していた。

彼らは私たちに優しかったが、兄も私も家を懐かしんだ。店の裏に部屋があり、私たちはおば夫妻が働いているあいだ、そこでふたりだけで遊んだ。私はいまでも兄が学校から帰ってきて、そこで私と一緒になったときの幸せな気持ちを覚えている。私たちはちよっとしたごちそう、とくにバッカスという健康飲料を店からこっそりもちだし、裏の部屋でひそかに味わった。そんなごまかしを、私ひとりでする度胸は絶対になかっただろう。

妹の忠淑も同じころ、ソウルに住む母方の祖父母の家に預けられた。ニ寝室の家には、母の兄夫婦も住んでいた。彼らには子供がなく、おばは妹をかわいがって、姪というよりは娘のように扱った。

のちに母が告白したところでは、母は私たち全員をそんなにも長いあいだ、遠くに預けるのを悲しく思い、文師に仕えながら、家族一緒に暮らせる方法を見つけられればいいのにと考えていたそうだ。しかしながら、当時母が優先したのは文師であり、私たちではなかった。両親が文鮮明とその教会の名で子供たちに期待した犠牲のなかで、彼らはこのことを一番後悔しているわけではないし、またこのことをもっとも深く悔いているわけでもないだろう。

釜山から帰るとすぐに、母は私を公立学校に入れた。私はまだ五歳で、同級生のだれからもまる一歳年が下だった。長いあいだひとりぼっちで過ごしたあと、乱暴な子供たちであふれかえる騒々しい校舎の光景は、私を恐怖惑で満たした。毎朝、私は登校を拒否した。この戦略は、もちろん不首尾に終わった。先生が私を連れにきて、教室に引きずっていくあいだ、私は望んでもいない注目をいっそう浴びることになった。

私の小学校では、どの教室にも八十人もの子供が詰め込まれていた。私は大勢の生徒たちのなかに埋没し、基本的要求さえ伝えられないほど内気で、惨めだった。私の机の下に、おしっこの池ができたときの同級生たちの残酷な笑いを、いまでも思い出す。私はあまりにも脅えていて、お手洗いにいきたいということを先生に伝えられなかった。

教会にいるほうが落ち着けた。教会は最初の最初から、私たちの生活の中心だった。眠る前おとぎ話をするかわりに、母は私たちに文師の伝記について霊感の物語をした。私たちは彼の伝記を私たち自身の生い立ちよりよく知っていた。文師と「真の家庭」の写真を飾ることは、部屋を借り換えるたびに最初にする儀式だった。部屋にはまた祭壇もあった。中央には「真の御父母様」の写真があり、花や蝋燭に囲まれていた。蠟燭は文師の祝福を受けたもので、サタンの力を弱めると信じられていた。

日曜は統一教会では礼拝の日である。もっとも私たちの一日は、正統のキリスト教諸教派の一日よりも早く始まり、ずっと長く続く。私たちは夜明け前に起きて敬礼式の準備をする。敬礼式は午前五時に始まる。ごく幼い子供も腕に抱かれた赤ちゃんも出席することになっている。ああ、小さいとき、そんなに早く起きるのがどんなにいやだったことだろう!「誓いの言葉」は毎月の一日と教会の祝日にも暗唱された。

私たちはよぅやく目を覚ますと、祭壇の前に集まる。まず、私たちは三拝敬礼―神と「真のお父様」「真のお母様」へのお辞儀―をして、それから「私の誓い」と称する「お言葉」を暗唱する。私は七歳になるまでに、その一語一句をすべて暗唱した。

1 宇宙の中心として、私はお父様の意志(創造目的)と私にあたえられた責任(個性完成)を完遂します。私はお父様に喜びと栄光とをお返しすることによって、創造理想の世界で永遠にお父様に仕えるために、従順な娘、善の子女となります。このことを私は誓約します。

2 私はすべての物を私に相続させよぅとする神の意志を完全に受け継ぎます。神は私に、神の言葉、人格、心をあたえて下さり、死んだ私を甦らせ、私を神とともにあって、神の真の子女になさしめてくれます。このために、私たちのお父様は六千年間、十字架の犠牲の道を耐えました。このことを私は誓約します。

3 真の娘として、私はお父様の性相にしたがい、神が私のために全歴史を通じて敵サタンを破った武器をもち、地のために汗を、人類のために涙を、天国のために血を流すことによって、召使いとして、けれどもお父様の心をもって、サタンに奪われた神の子女と宇宙を取り戻すために、サタンを完全に裁くまで、敵陣に勇敢に攻撃をかけます。このことを私は誓約します。

4 平和、幸福、自由、そしてすベての理想の源泉である私たちのお父様に喜んで仕える個人、家庭、社会、国家、世界、そして宇宙は、その本来の性格を取り戻すことによって、心と体の一体化した理想世界を実現するでしょぅ。これをなすために、私たちのお父様に喜びと満足とをお返しすることによって、私は真の娘となるでしょぅ。そしてお父様の代理人として、心情世界の平和、幸福、自由、そしてすベての理想をこの地上に実現します。このことを私は誓約します。

5 私は神を中心にしたひとつの主権を誇り、ひとつの民を誇り、ひとつの国土を誇り、ひとつの言語と文化を誇り、真のお父様の子女となることを誇り、ひとつの伝統を受け継ぐ家族であることを誇り、ひとつの心情世界を確立するために働く者であることを誇りに思います。私は自分の命をかけて闘います。

私は私の義務と使命の完遂に責任を持ちます。

私は誓約し、お誓い致します。
私は誓約し、お誓い致します。
私は誓約し、お誓い致します。

敬礼式のあと、両親は朝の六時から教会本部でおこなわれる文師の説教を聞くために、私たちをおいて出かけていった。文師はときには何時間も話し続け、それは十五時間におよぶことも珍しくなかった。会衆のだれかが、説教のあいだに手洗いに立つと不機嫌になった。だから教会中央集会場の板張りの床にすわる大人たちにとって、日曜は苦しい試練になりかねなかった。

私はごく小さい子供のうちから日曜学校に通い始めた。ムーン夕ウンからのバスで通うには時間がかかり、何度もバスを乗り換えねばならなかった。母は兄の片手にバス代と献金のための硬貨を滑り込ませ。もう一方の手に私の手を握らせた。私は赤い手編みの木綿帽をかぶり、ひもをあごの下で結んだ。記憶のなかの私は、手をつないで通りを下りながら、いつも兄の優しい顔を見上げている。

私はいつも兄を見上げていた。少年のころでも、彼は年より賢かった。自分には彼のような優しさがないことは、私にはわかっていた。学校ごっこでは、兄が先生で、妹と私が生徒だった。忠淑が質問に答えられないと、兄は妹を助けてやった。私は金切り声をあげて、兄さんは不公平だ、忠淑はずるをしている、兄さんは忠淑をひいきしていると叫んだ。そんな自分を思い出すと恥ずかしくなる。兄はなんと忍耐強く、年上の子は年下の子を助け、教えてやらねばならないと説明したことか!私は兄の善良さに対して、ひそかに恥ずかしい思いをした。しかし私は頑固な娘だった。自分が間違っていると認めることは決してできなかった。私自身が始めた言い争いのあと謝るのは、いつも必ず兄だった。

だが、私の兄は聖人ではなかった。兄はいたずらな側面をもっていた。教会にいく途中のバス停近くに市場があった。兄と私はときどき日曜学校のかわりにそこにいき、母がくれた小銭でごちそうを買った。家ではいい食事をしていなかった―米とモヤシが私たちの日々の主食だった。だから兄と私とは、スパイスのきいた餅や魚のスープ、炒めた野菜をおなかいっぱい食べることに抵抗できなかった。

一度こんなふうにずる休みして家に帰ってきたとき、母は私たちに向かって、その日の日曜学校の教えを説明するよう言った。私は心臓が胸のなかでどきどき鳴るのを感じた。私が白状しようとしたとき、兄はにこにこしながら、先週習った聖書の話を思い出しながら話し始めた。私は彼の説得力に目を瞠ったが、私たちはこれ以上、一か八かに賭けるのはやめにした。翌週から、私たちは日曜学校に忠実に出席し始めた。

教会そのものはソウルの広大な敷地内に建つ、いくつものビルのひとつだった。私たちは飾りたてた警備門をくぐって、広い中庭に入り、正面扉内側の棚に靴をおいた。

私は玄関で待っていて、文家の子供たちが二階の住居からおりてくるのを見るのが好きだった。文夫人が子供たちの先頭に立って階段をおりてきた。全員、教会の「兄弟姉妹」が洗濯した高価な服を着て、こぎれいで魅力的だった。文夫人はあまりにも若く美しかったので、幼い少女にとって、この女王のような女性を称賛せずにはいられなかった。私たちはみんな彼女をオモニム、韓国語で「お母様」と呼んだ。

文師夫妻は最終的には十三人の子供をもつが、私が小さいときは、まだそれほど大勢はいなかった。長女は私より五歳年上だった。長男の孝進は四歳年長。次女の仁進は私より一年足らず早く生まれた。次男の興進は私と同じ年に生まれ、三女の恩進はその翌年に生まれた。四男の国進は私より四歳下だ。文家のほかの子供は、彼らが一九七一年にアメリカに移ったあと生まれている。

私は文家の子供たちに憧れた。私たちはみんなそうだった。私たちは彼らの美しい母親と強い父親を自分のものにしたかった。私たちは、文師の寵を受けようとする大人たちが子供たちを特別扱いしても異を唱えないよう教えられた。私たちは、彼らのひとりを日曜学校の自分の班に誘い込もうと画策したが、それは毎週、献金に一番貢献した班が報奨されると告げられたからだった。文家の子供がひとりいれば明らかなプラスになった。残りの私たちは貧しかった。けれども文家の子供たちは毎週、献金皿に入れるために、手の切れるような新札を握りしめて日曜学校にやってきた。

こういったお札は、私にいつまでも消えない印象を残した。私は小さいとき、ぴかぴかの韓国の硬貨を集めていた。私は一番ぴかぴかの一枚だけを選び、それをさらに磨いて、私の特別の捧げ物として、日曜日、教会にもっていった。私は多くをもってはいなかった。けれども自分のもつ最良のものを神と文師にあたえた。自分自身の子供をもったとき、私はこの子供時代の習慣を続け、お財布のなかから一番きれいで新しいドル札を探して、子供たちに神に捧げさせた。

日曜学校では、私たちは『原理講論』と文師の啓示についてだけ習ったのではない。私たちは、正統のキリスト教諸派の子供たちが教わるものによく似た物語や寓話を聞いた。しかしながら、私たちのお話では、中心的な登場人物はイエス・キリストではなく文鮮明だった。私たちは、私たちの宗教を確立するための彼の霊的闘争の話を聞いた。私たちは、不信心者の手による彼の苦しみと迫害の話を聞いた。私たちは、彼は堕落した人間の重荷をその強い肩に背負う歴史的人物だと教えられた。私たちには文鮮明以上に神聖で、勇敢な指導者を想像することはできなかった。

私たちは「真の子女様」をこれに似た畏敬の念をもって称賛した。私たちは文家の子供たちの名前と業績をすべて覚えた。彼らに話しかけるときは、敬称の「ニム(~様)」を名前につけた。彼らが学業や芸事であげた成績やその存在のレベルの高さは、彼らが卓越している証拠として、私たちに伝えられた。私たちは彼らに平伏さんばかりだった。

私たち自身のあいだにさえ、ヒエラルキーがあった。最古参の弟子三人の「祝福子女」(合同結婚式で結婚した統一教会員の子供)たちは彼らだけでひとつの階層を成し、続いて私たちのような三十三家庭の子供がくる。私たちの親は全員、自分の子供たちを、文家次世代の婿や嫁候補として前面に押し出そうと激しく競争した。教会内における立場は、文師夫妻との関係と直接結びついていた。義理の関係になることは、自分の家族が内側のサークルに地位を確保することを意味した。

祝福されていない両親の子供たちにとって、教会は残酷な場所になりかねなかった。兄はある日曜の事件をほとんど涙を流さんばかりに語った。幼い少年、祝福されていない子供が自分のバスの切符を献金皿に入れたのに、無情な大人はそれを拒否し、少年の愚かさを叱りつけた。兄はぞっとするほどの反感を覚えた。このバスの切符が少年のもつもっとも価値あるものであるのは明らかだった。

子供のころ、私たちが文師自身と交わることはめったになかった。私たちは彼の姿を日曜と教会の祝日に見た。祝日はたくさんあった。「真の父母の日」、「真の子女の日」、「真の万物の日」、「真の神の日」、「真の父母様御聖誕日」。「真の父母の日」は文鮮明と韓鶴子の結婚を記念する。彼らは完璧な夫婦であり、私たちは彼らがエデンの園を取り戻し、地上天国を確立するための基礎を創造したと信じていた。十月一日の「真の子女の日」は、神の子としての「真の御父母様」と私たちとの絆を記念する。五月一日の「真の万物の日」は、被造物に対する人間の支配を象徴する。「真の神の日」の一月一日、新年の最初の日に、私たちはあらためて文師の使命に自らを捧げる。

教会のお祭りでは、音楽と食事がいつも中心的な役割を果たした。子供たちが大人たちを楽しませることになっていた。大人たちは文師夫妻の前の手の込んだ供物台の上に果物や料理を並べた。私は選ばれて文師のために歌わなければならなくなることを恐れた。私は相変わらずとても内気で、ひどい声をしているという事実は隠しようがなかった。四年生のとき、私は二人の祝福子女―私の友だちの女の子―とともに選ばれて、文師夫妻のために、全会衆の前で歌うことになった。私たちは脅えており、それは私たちの演奏の助けにはならなかった。子供にとって、神自身から地上に遣わされたと信じる男の面前で、落ち着いていることは難しい。

同じ年、両親は私を私立学校に通わせ始めた。そのころまでに、私たち家族は質素な家を借りられるようになっていたが、金銭的には少しも安定していなかった。韓国では、教育は両親の第一の関心事である。母と父は、七人の子供たちに可能なかぎり最高の教育を受けさせるためには、基本的な衣食住の楽しみなどなくてもなんとも思わなかった。私たちは家族で休暇を過ごしたことはめったになかったが、私は毎日ピアノのレッスンに通った。

しかしながら、彼らが教育に関心をもっていたことは、彼らが月謝をいつも期限までに払ったことを意味はしない。ある午後、先生は私たち数名の生徒に、授業のあと残るように言った。支払いの期限が過ぎていた。先生は、集金のため、私たちの家を一軒一軒訪ねるつもりだった。私は先生と同級生に、私たちの住んでいた粗末な家を見せるのが恥ずかしかったので、かわりに父の事務所に連れていった。

文師は、産業は基礎であり、神の王国はその上に建てられると教えている。現在彼は、食品加エ、水産業、製造業、コンピュー夕ー、製薬業、造船、電子工学を含むビジネス帝国を支配している。一和はその帝国の最初の敷石だった。

一和は韓国四力所の近代的な工場で四十種類以上の薬品類を生産している薬品会社である。炭酸入りミネラル・ウォー夕ーと大衆的なソフトドリンクのボトリングをし、十種類の朝鮮人参製品を市場に出している。私の父は一和を無から作り出した。私が教師と同級生を父のオフィスに連れていったころには、父は大成功した会社の社長になっていた。私は彼らが強い印象を受けたのがわかり、父の成功の恩恵に浴した。

父は、文師の初期の信徒の多くよりも賢かった。彼は自分を教会に縛りつけたが、教育を終えもした。十年間におよぶ街角での証言と教会の説教のあいだ、薬学の学位を使うことはなかった。しかし一九七一年、文師は父に五百ドルを手渡し、教会は朝鮮人參製品を開発し、生産しなければならないと言った。文師は教会が影響を広げつつあった日本での朝鮮人参人気を聞かされた。ひとりの日本人会員が、韓国にも需要があるはずだと助言し、結果的にそれは正しかった。

父はこの多年草の薬草を実際に見たことはなかったが、何世紀にもわたって、東洋の人びとから、並外れた治癒力と回復力をもつと言われてきたのを知ってはいた。朝鮮人参は老化を遅らせ、精力を亢進し、活力をみなぎらせると信じられていた。

父は、地元の市場にいって、この噂の薬草を一瞥することから始めて、韓国でもっとも利益をあげる製薬会社を作り上げた。続く十年間、父が一和をお茶、カプセル、エキス、飲料を含む韓国朝鮮人参製品専門の巨大会社に作りあげるために働いているとき、私はほとんど父の顔を見なかった。朝、私が目を覚ますと父はすでに出かけており、夜、私が眠るときにはまだ仕事をしてぃた。

父はひとつのアイディアを、文鮮明のための重要な利益のあがる企業に変えた。一和製品のひとつ、メッコールは韓国では、コカ・コーラと同じくらい人気のあるソフトドリンクである。一和のメッコールとジンセン・アップ、瓶詰めのミネラル・ウォー夕ーは、この会社を韓国一のソフトドリンク・メー力ーにし、その市場占有率はは六二パーセント、輸出先は三十力国以上にのぼる。

一和:メッコール【ノンカフェイン 防腐剤・人工着色料不使用】

父がメッコール開発に邁進したのには、一和のために利潤をあげることと同時に、貧しい人びとの役に立とうとしてのことでもあった。メッコールの主原料は大麦だ。その人気―文鮮明はアメリカにいてもメッコールを飲む―は、韓国で生きていくのにぎりぎりの収入しかなかった大麦農家に市場を作り出した。父は農民の息子であり、この世の富のためではなく、天国の報いのためにこつこつと働いていた。富の行き先は文鮮明だった。

[出典:わが父 文鮮明の正体/洪蘭淑]

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