【わが父 文鮮明の正体】まとめ(07)

わが父 文鮮明の正体
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第6章:苦しい陣痛の未に

1990年11月、マンハッタンにあるニューヨーカー・ホテル専用スイート・ルームにて。
夫・孝進と私、子供たち。私たちは統一教会の正式な礼服を着ている。
一般会員は白い服を着る。文鮮明の家族の服は金モールで飾られている。

私が文鮮明の孫を身籠もっていたとき、彼と韓鶴子は十三番目の子供の出産を待っていた。
文夫人の産科医は、十人目の子供の出産のあと、さらに妊娠すれば夫人の健康はもちろん命にもかかわりかねないと警告した。文師は単純に医者を替えさせた。彼はメシアの罪なき「真の子女」をできるかぎり大勢この世にもたらそうと決意していた。

しかしながら、文夫妻は子供たちの養育にはあまり手をかけなかった。「真のお母様」と「真のお父様」に赤ちゃんが生まれるとすぐ、その子は教会の「兄弟姉妹」に預けられ、彼らが乳母や子守をした。「イーストガーデン」(東の園)にいた十四年間のあいだ、文師か夫人が子供たちのだれかの鼻をふいてやったり、一緒にゲー厶をするのを見たことは一度もない。

文師夫妻は自分の子供たちを放っておいたし、私自身も、彼の創成期の弟子二名の娘として、子供時代に両親の放置を耐え忍んだ。文師はこの点に関して、ひとつの神学的説明を用意していた。メシア第一、である。彼は信者たちが彼の代理として、大衆に対する改宗運動に身を捧げることを期待していた。個人的な家族の幸せを追求するのはわがままというものだった。

文師は最古参の弟子のあいだから特定の夫婦を指名して、文の子供たちひとりひとりの道徳的霊的発達の責任を負わせることまでさせた。彼は主張した。こういった親としての義務を自分自身で果たそうとすると、より大きな使命、世界を統一教会に改宗させることから自分を逸らせてしまろ。

文鮮明はこの姿勢から生み出された子供たちの恨みに気づいていなかったわけではない。「私の息子や娘は、両親が統一教会員、とくに三十六家庭のことばかり考えている、と言う」と文師は私の結婚式のほんの数力月前に、ソウルの演説で言った。

「私は自分自身の息子や娘を追い払うことまでして、三十六家庭と朝食を食べる。子供たちはもちろん疑問に思う。『私たちの両親はどうしてこんなことをするのだろう?私たちの両親がどこかで私たちと会うときでさえ、彼らは本当に私たちのことを考えているようには見えない』

私が私たちの教会員をだれよりも愛し、自分の妻や子供たちさえ放っていることは否定できない。これは天の知るところである。もし私たちがこのような生き方をし、子供たちの反対にもかかわらずこの道を進み続け、私たちの家族を放っておけば、最終的には国と世界は理解するようになるだろう。私たちの妻や子供たちも同様に理解するようになるだろう。これはあなたがたが進むべき道である」

明らかに、文師夫妻は、この道に用意されている本当の問題について、あまり考えてはいなかったようだ。私がアービントン高校に入学したすぐあと、仁進と興進がハックリー校から転校してきた。「お父様」が言うには、自分のほうがこの私立学校を放棄したのであり、その理由は子供たちが教師から「厶ーニー」とばかにされて、いじめられたからだった。

しかし、事実は文の子供たちの何人かはひどい生徒だったということである。一度、公立学校に入ると、彼らはもっとも生意気な同級生たちの服装とスラングと態度を身につけた。新しい友人たちのあいだで使うのに西洋風の名前さえ考え出した。たとえば仁進はしばらくのあいだ自分をクリステイーナと呼び、それから夕チアナにした。孝進が彼らのパーテイに加わるとき、彼は自分をステイーブ・ハンと呼んだ。

文家の年長の子供たちは、仮名によってのみ「真の家庭」とのあいだに距離をおこうとしたのではない。ほとんどの子供が、彼らの宗教の教義すべてを無視することに、ひねくれた喜びを得ていた。文師夫妻は大して注意を払わなかった。その春、彼らには闘うべきより公然たる問題があった。「お父様」が脱税で裁判にかけられようとしていた。

その前の秋、孝進と私がマッチングさせられるほんの数週間前、ニューヨークの連邦裁判所で、一通の起訴状が文鮮明に手渡された。彼は、三年間にわたり、偽りの所得申告を提出し、百六十万ドルの銀行預金に対する十一万二千ドルの利子の申告と七万ドル相当の株の取得を明らかにすることを怠った疑いで告発された。補佐のひとりが、虚偽の申し立てと、文師の犯罪隠匿のための書類作成によって、偽証罪、共謀罪、司法妨害で告発された。

文師は韓国旅行から合衆国に帰り、これらの告発に無罪を申し立てた。「お父様」はニューヨークの連邦裁判所前の階段で、喝采する二千五百人の支援者に対し、自分は宗教迫害と人種偏見の犠牲者であると主張した。「私の肌が白く、私が長老派教会員であったなら、私は今日、ここには立っていなかっただろう。私が今日ここにいるのは、ただ私の肌が黄色で、私の宗教が統一教会だからである」

その年の初め、六力月間にわたる名誉毀損裁判の結果、イギリスの陪審が、統一教会は若者を洗脳し家庭を破壊するカルトであるという全国紙「デイリー・メイル」の記事は信頼できると結論したとき、「お父様」は同じような声明を出している。

英国高等法院陪審は教会を「政治的組織」と表現し、慈善団体としてのその免税特権廃止を検討するょぅ政府に促した。陪審はまた裁判終了時、統一教会に百六十万ドルの裁判費用支払いを命じた。これは英国史上もっとも長く、また費用のかかった裁判である。

ニューヨークの脱税事件では、「お父様」は統一教会とその傘下企業のひとつワンナップ・エン夕ーブライズが連署した誓約補償金二十五万ドルで保釈された。裁判は四月一日に始まった。

文夫人は臨月間近だったにもかかわらず、毎日、連邦裁判所まで「お父様」に同行した。三女の恩進と私は一度だけしかいかなかった。私は言葉の壁のために、訴訟手続きのひとことも理解できなかった。けれども私には、この裁判所のなかでなにが起きているのかを知るために、なにが話されているのかを理解する必要はなかった。文鮮明は告訴されているのではない。迫害されているのだ。

「お父様」は私たちに説明していた。自分の身に起きていることは、アメリカ合衆国における宗教偏見の長い歴史の一部なのだ。最初の移民たちは宗教の自由を求めて北米にやってきたにもかかわらず、自由のかわりに不寛容を見いだした。ベルべディアの日曜朝の説教で、彼は私たちにマサチューセッツで魔女として絞首刑になった無実の女性たちや南部で石を投げつけられたクエー力ー教徒、西部で殺されたモルモン教徒の話をした。「お父様」の裁判のきっかけとなった国税庁の調査もこの恥ずべき伝統の一部である。

家族と職員は、毎朝、「イーストガーデン」十八エー力ーの敷地内の森に切り開かれた「聖なる岩」へ詣でた。「お父様」はハドソン川を見下ろすこの丘の場所を「聖地」として祝福していた。それは美しく、損なわれていない場所だった。そこで祈ると、私が知るどこよりも神に近く、二十世紀から遠く離れて感じられた。それは静かな瞑想のための場所であり、一九八二年にも、ヘンリー・ハドソンがニューヨークのこの地域を探検した一六〇九年と、たいして違っているようには見えなかった。

「お父様」は毎朝、夜明け前に、ひとりで「聖なる岩」で祈った。私の母も含めた年配の女性たち、「祈り屋」たちは、六週間の裁判のあいだ、毎日、そこで徹夜の祈りを捧げた。ときには「真の子女様」と近所に住む「祝福子女」たちがそこに集まり、「お父様」の無実の罪が晴らされるように祈った。丘の上がいかに寒かったか覚えている。私は妊娠中で、寒さのために関節が痛んだ。けれども私の不快感など、「お父様」が耐えている苦痛に比べれば、ものの数ではなかった。

五月に「お父様」が有罪判決を受けたとき、涙が流されたが、私は文師とその側近の顧問たちのほかには、彼のおかれた深刻な状況を理解していた人がいたかどうか疑わしく思う。私たちのだれも、合衆国地方裁判所判事ジェラルド・ゴーテルがその権限を行使し、「お父様」に懲役十四年の刑を宣告するとは思っていなかった。「イーストガーデン」では、「お父様」が脱税で有罪判決を受けたことについての沈んだ気持ちも、統一教会は正真正銘の宗教組織であり、免税特権をもつというニューヨークの別の法廷の裁定によって相殺されていた。

二力月後、ゴーテル判事は文師に懲役十八力月、罰金二万五千ドルの判決を下した。「お父様」は判決をストィックに受け入れた。文師の目論見では、彼の収監——彼の殉教——は神の摂理だった。アメリカ統一教会会長モゥゼ・ダーストは「お父様」の有罪判決をイエス・キリストが「国家に対する裏切り」で有罪とされたことと比較さえした。文師の弁護士たちはただちに上告を申請した。「私たちはアメリカの裁判体系に最高の信念をもっている。正義はなされるだろう。そしてわれわれの霊的指導者は完全に汚名を晴らされるだろう」とモゥゼ・ダーストはマスコミに語った。「世界の偉大な宗教指導者のすべてと同様に、彼は憎しみと偏見と誤解に遭っているのだ」

文師を国外退去にするという検事たちの脅しに対抗して、教会は上告を進めるため、ハーバード・ロー・スクール教授で、憲法専門家のローレンス・トラィブを雇った。卜ラィブ教授は、「お父様」を国外退去にすれば、下は二力月から上は十歳までのアメリカ生まれの子供たち六人との接触を彼から奪うことになると主張し、成功した。ゴーテル判事は、国外退去は「重すぎる刑罰」だと同意しながらも、文師に対する一般の反感は、判決を「難しいもの、多くの人びとから支持されないよう定められたもの」にしていることを認めた。上告の結果は未決定のまま、「お父様」は家に留まることを許された。

「お父様」は有罪判決にあわててはいないようだった。その夏、孝進がふたたび韓国にいっていたとき、私は文師夫妻と一緒にマサチューセッツ州グロス夕ーにいった。教会はそこに漁船団と魚の加工場を所有していた。文師は世界の飢餓を救うために、いわゆる「海の教会」を設立したのだと言っていた。私たちはみんな、彼が船団を買ったのは釣りが好きだからではないかと疑っていた。「お父様」はグロス夕ーにカトリック教会から購入した邸宅「朝の園」を所有していた(文一家の住まいはすべて、エデンの園を連想させる名前がついていた。「東の園」「朝の園」、アラスカには「北の園」。アラスカに、「お父様」は漁船団ひとつ、コディアクの二力所に巨大な魚の加工場、ブリストル湾に第三の加工場をもっていた。ロサンゼルスの「西の園」、南米の「南の園」、さらにハワイにもうひとつ広大な所有地がある)。

その夏、「お父様」はケープコッド先端のプロビンス夕ゥンにも家を一軒借り、もっと釣りができるようにした。同行した厨房係の「兄弟姉妹」たちが食事の支度をしているあいだ、海岸で「お母様」と子供たちの世話をするのが私の役目だった。私は海岸での家族の昼食の給仕をし、泳いできた子供たちの身体をふいてやるなど、たいていは文夫人の侍女として行動した。これは報われず、満たされない仕事だった。彼女が泳ぐまで、私は泳ぐことができなかった。彼女が散歩をするまで、私は散歩できなかった。彼女についていくのでなければ、お手洗いにもいかれなかった。私はそこに彼女の侍女としていたのであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。夜、私は彼女の子供たち、彼女の料理人たち、彼女のメイドたちに囲まれて、床の上の寝袋で眠った。彼女は私たちに、休息になるバカンスを提供していると自慢したが、私には休息しているのは彼女と子供たちだけのように見えた。

私自身は妊娠していたにもかかわらず、私は自分が文家の幼い召使いであるかのように感じた。「イーストガーデン」では、文夫妻が家にいるときには、彼らよりも早く起きて、彼らが起きてくるのを寝室の外で待っているよう求められた。嫁として、文夫妻の食事の給仕をし、一日中、文夫人の要求に応じるのが私の義務だった。学校にいっていないとき、あるいは週末には、朝から晚まで文夫人のそばにいた。そのほとんどの時間、私はなにかをとってくるため、なにかを給仕するため、どこかについていくために彼女に呼ばれるのを待って時間を過ごした。内容のない韓国製のメロドラマのビデオを一緒に見て、何時間も過ごした。彼女はそれを楽しみ、私はそれが大嫌いだったけれども、彼女がプロットを批評する場合に備えて、注意して見ていなければならなかった。

私は他の子供たちと一緒にキッチンで食事をし、一方「真の御父母様」は教会幹部や来訪中の重要人物たちと食事をした。私たちは、脱税裁判の展開をひそひそ話を通じて知った。「お父様」は自分の状況について、私たちに決して直接は話さなかった。彼の目から見れば、私たちはただの子供にすぎなかった。

自分が子供だったという点について、私が違う意見をもっていたと言うことはできない。キッチンは、小さな子供たちがミルクをこぼしたり、大きな子供たちが学校のことをおしゃべりしたり、屋敷内で本当に家庭らしく感じられる唯一の場所だった。私はよくべビーチェアの妍進に食事をあたえた。亨進はまだよちよち歩きだった。私は彼をキッチンの大きな丸テーブルから「イーストガーデン」の丘へと連れだし、そこで野生の花を摘んだ。私は義理の姉というよりは本当の姉として、文の子供たちと一緒に育っていった。

三女の恩進と連れだって、文師がニューヨーク州ポート・ジャービスに購入した馬の牧場ニュー・ホープ・ファー厶にいくこともあった。恩進は馬術が得意で、馬が大好きだった。文師が資金を提供していた韓国のオリンピック馬術団もそこで練習していた。文鮮明のお金が大きくものをいい、恩進は一九八八年の(ソウル・)オリンピック馬術代表団のメンバーになる。

文家の年長の子供のなかで、私が「イーストガーデン」にきたはかりのころ、とても親切にしてくれたもうひとりは二男の興進だった。彼は私と年が数力月しか離れていなかった。優しい少年だった。自分の部屋で猫を一匹飼っていた。この猫が子猫を生んだとき、興進はそのどれとも別れられず、だから猫たちが彼の部屋を占領した。私たちはときどき、興進が自分の寝室の隣の小さな電話コーナーで眠っているのを見つけたものだ。猫たちのせいで、自分のベッドでは寝られなかったからだ。「イーストガーデン」で過ごした最初の冬、彼は私の誕生日にバラの花束をくれた。これはとくに思い出に残っている。孝進は私に力ードの一枚も贈ってくれなかったからだ。

その夏と秋、私は英語を身につけるため、そしてほとんどがスペイン語を話す年上の同級生たちから臨月間近の妊娠を隠すために、英語学校に通った。文夫人はその夏、私の妹や弟の世話のために、母を韓国に送り返していたので、私は「イーストガーデン」でさらに孤独だった。妊娠は喜ばしいというより、恐ろしい冒険だった。私は朝の気分の悪さに気力を奪われ、幼すぎてそれが一過性のものだとは知らなかった。私は、自分か赤ちゃんになにかひどく悪いところがあるのではと心配した。

孝進はめったに家にいなかった。よくあることだが、退屈すると「七日間修練会」か「二十一日間修練会」を受けるため韓国にいくと言った。これは神に近づくことを目的とした教会の研修プログラムである。言い残していった目的とは裏腹に、ソウルから聞こえてくるのは、孝進が自由時間をバーのホステスや昔のガールフレンドと過ごしているという噂だった。「イーストガーデン」にいるときは、ひどく痛いという私の抗議にもかかわらず、毎晚セックスを要求した。痛みよりももっと衝撃的だったのは、お腹の子が育っていくにつれて膨張する私のウェス卜とヒップに対して彼が見せた嫌悪だった。私にとって、それは奇蹟だった。彼にとって、それは恥辱だった。彼は私を「でぶ」とか「醜い」とか言った。セックスをするとき見なくていいように、私のおなかを覆わせた。

文師はよく私に言った。孝進が神のもとに帰ってくるように、私はもっと祈らねばならない。父親になることがまもなく彼を変えるだろう。文師が、私たちはみんな、私の赤ん坊の健康を祈らなければならないと言ったのは、言葉のついでではない。はっきりと口にする人はいなかったが、私にはわかっていた。「イーストガーデン」のだれもが、ドラッグとアルコールと無防備なセックスへの孝進の飽くことを知らない欲望のせいで、赤ちゃんに悪影響が出るのを恐れていた。

私はひとりでラマーズ法のクラスにいった。運転手が、フェルブス病院で、枕をふたつ抱えた私をおろした。ほかの妊婦は思いやりのあるパートナーと一緒だった。教師は私を、ラマーズ法の呼吸と訓練テクニックを勉強中の看護婦と組ませた。私は神が私を助けるために、彼女を遣わされたのだと感じた。たとえどんなに感謝はしていても、愛し合うカップルが自分たちふたりの赤ちゃん誕生の準備をしているのを見ると、心が痛んだ。女たちは、べビーベッドの形やチャィルドシートのことについておしゃべりをしていた。布おむつと紙おむつの利点について論じ合った。男たちは、赤ちゃんが内側で動くのを感じるために、妻のおなかに手をやりながら、ぎこちなく、けれども得意そうに見えた。孝進に私がやってみるかと尋ねたとき、彼はただせせら笑っただけだった。

六週間のクラスのあいだ、私はだれともしゃベらなかった。私は彼らが私のことをどう思っているだろうかと考えた。私はひとりで、だれよりもずっと若かった。きっと哀れに見えたにちがいない。私はこのクラスのあいだに、自分が毎晚頭から追い払っている真実を受け入れなければならなかった。孝進には私や赤ちゃんのことなどどうでもいい。

二月初旬に予定されていた出産に備えて、母が一月に「イーストガーデン」に帰ってきた。母はコテージハウスの一階で眠った。彼女がそこにいてくれてよかった。なぜならば二月二十七日、陣痛が始まったとき、夫はいなかったからだ。出産は三週間遅れていた。孝進は韓国から帰っていたが、出産が差し迫っていたにもかかわらず、毎晚ニューヨークのバーに出かけた。私が産気づいたとき、夫がいたのはバーだった。母は苦しさを和らげるために、私に家のなかを歩き回らせたが、午後十時、私たちはついに医者に電話をかけた。医者はその時がきたと告げた。孝進はわざわざ連絡先の電話番号をおいていったりはしなかったので、「イーストガーデン」の警備員のひとりが車を運転して母と私を病院まで連れていった。

私は脅えていた。「イーストガーデン」からフェルブス病院までの十五分のドラィブのあいだにも、痛みは増していった。私は自分の身体に起こっていることが信じられなかった。私は母親学級を一回も休まなかった。陣痛と出産について本を読んだ。けれども陣痛のたびにおなかを引き裂く焼けるような痛みについては、そのどれも私に心構えをさせてはくれなかった。車のなかで落ち着いてすわっていられなかった。道を曲がるたびに、子宮のなかにナィフがあるように感じた。

長く眠れぬ夜のあいだ、母は私のそばに留まっていた。彼女の手は私の手を握り、痛みがきたときには私の涙をふいた。毎時間ごとに、私は看護婦に、赤ちゃんを出産するのに充分なほど子宮ロが開いたかチェックをするように頼んだ。一センチ、ニセンチ、私の子宮頸部は時計の針が回るのと同じくらいゆっくりと開いていった。私は夜が決して終わらないだろうと思った。自分の皮がふたつに裂けると思った。私は自分が死ぬと思った。

孝進は一晩中病院にはこなかった。朝きたときには二日酔いのように見え、すぐに帰った。彼は、陣痛が頂点に達するたびに痛みが私の上を通り過ぎていくのを見ていた。彼は私が泣くのを見ていた。彼は私がうめくのを聞いた。それから彼は気絶した。自分は夕フだと思っている男が陣痛室の床に伸びていた。それは見ものだった。孝進を助け起こしながら、看護婦たちは笑った。これほど苦しくなければ、私もそのおかしさを理解しただろう。そのかわりに、私は、私が彼を必要しているとき、またしても彼が私をひとり残していくことを理解しただけだった。

文夫人は「祈り屋」と占い師の群を引き連れて、待合室にいた。彼女たちは陣痛室まで、最高の運勢を手に入れるためには、赤ちゃんは昼前に生まれてくる必要があると連絡してきた。医者はそれに手を貸すのにやぶさかではなかった。「それがあなたたちの文化なら、私にできることはしましょう」と彼女は言った。母は分娩室の外で待っていなければならなかったので、私は難局を切り抜けるために、看護婦たちの同情を頼りにした。私の力無いいきみを笑われたときには、首を絞めてやりたいと思ったことを告白しなければならないものの、看護婦たちはすばらしかった。赤ちゃんの頭は出てきては、また引っ込んだ。私には力がなかった。医師は会陰切開をおこない、鉗子を使って産道から赤ちゃんをひきだした。

それは女の子だった。濃い黒髪をしていた。顔には鉗子の赤い痕がついていた。目は閉じていた。私は彼女をかわいそうに思った。あまりにも小さく——七ポンドに足りないくらい——弱々しく見えたので、私は抱くのが恐かった。私は看護婦たちがおやおやという顔をするのを感じた。赤ちゃんをすぐに抱かなかったとき、看護婦たちは目配せをかわした。私は彼女たちが、私が自分の娘を愛していないと思ったのではないかと心配した。それほど真実から遠いものはない。私はただあまりにも若く、あまりにも脅えていた。

女の子だったという知らせは、予測していたとおり、待合室で落胆とともに迎えられた。男の孫を産むのが私の義務であり、私はまたしても文師夫妻を失望させた。たとえ私が統一教会の会員でなくても、韓国では反応は同じだっただろう。私の国の文化では、男の子はいまだに女の子より高く評価される。だが息子を産むという私の責任は統一教会の未来と結びついていた。「真のお父様」と「真のお母様」の長男として、文孝進は教会の使命を受け継ぐだろう。教会の長として、孝進のあとに続く息子を産むことは私の義務だった。

長女の誕生後、私は自分にはなにもできないという思いに圧倒された。彼女は私の乳首をくわえることができず、看護婦と私はどうやって手伝ってやればいいのかわからなかった。産科病棟の看護婦は、私の若さと下手な英語にいらいらしていた。だが、このとき私は、女性が母性本能と呼ぶものがなにを意味するかを知った。自分の赤ちゃんのか細い指ほど奇蹟的なものを見たことはなかった。彼女の透けるような肌ほど柔らかいものに触れたことはなかった。彼女の優しい呼吸ほど安心させてくれるものを聞いたことはなかった。私がなにをすべきか知らなかったとしても、私は自分の赤ちゃんを見て、それまでに自分が一度も知ったことのない愛を感じた。私たち、神と私の赤ちゃんと私とは、それをともに理解していくだろう。

赤ちゃんと私は、三月三日午後一時三十分に退院を許可された。孝進は「お父様」の車で私たちを「イーストガーデン」まで連れ帰った。文師は新生児を祝福するために家で待っていた。私は、彼が赤ちゃんの誕生によって、神が孝進を本来の自分に復帰させるよう祈ったと確信した。しかし孝進の態度にはなんの奇蹟的な変化もなかった。私たちが退院した最初の晚、彼は私たちと一緒にいた。だがその後はバー巡りにもどった。

母は「イーストガーデン」に数力月留まって、赤ちゃんの世話を手伝った。こんなにも母を必要としていることを、私は申し訳なく思った。母が娘を扱うときのなにげなさは、私自身のぎこちなさをさらに強調するだけだった。母がいなければ私は途方に暮れただろう。しかし私が眠っているあいだ、母が一晩中赤ちゃんのそばで起きていることを私はつらく思った。赤ちゃんをどんなに愛していても、おそらくは赤ちゃんをあれほど愛していたからこそ、これは私の人生で一番孤独な時だった。

娘の誕生以来、私は日記をつけるようになった。それをいま読み返せば、かつての私だった少女のためにすすり泣かずにはいられない。日記帳そのものも私の幼さを証明している——表紙は犬のキャラク夕ー、スヌーピーの絵だ。

一九八三年三月六日。「孝進はきのうの夜、午前二時に帰ってきて、午後の二時まで眠っていた。それから金ジングンと外出した」

統一教会では、新生児の誕生後八日目に「奉献式」が執り行われる。「8」という数字は統一教会でいう原理数で新たな始まりを意味する。儀式は洗礼ではない。なぜならば、私たち「祝福子女」は霊的には、生まれながらにして原罪はないと信じているからだ。「奉献」はむしろ新生児の誕生を神に感謝するお祈りのようなものである。

三月七日、私たちはこの儀式を長女のために執り行った。日記にはその記録が残されている。「孝進は赤ちゃんを抱いていた。お父様が祈った。私たちは赤ちゃんを手から手へとまわした。みんなが彼女の頰にキスした。朝食のあいだ、お母様は赤ちゃんをずっと抱いていた。彼女はご機嫌がよかった。赤ちゃんは生まれたばかりの孝進とそっくりだと言った。お父様は、赤ちゃんの目は神秘の小鳥の目に似ている。それは彼女が機智のある子になるという意味だとおっしゃった。西洋人は丸い目をしていて、それは彼らが考えていることを表してしまう。東洋人の目は入り込むことのできない暗い水たまりだ。お父様は、このことはわれわれがより大きく、より深い心をもつという意味だとおっしゃった」

翌日の夜、娘と私が退院した五日後、孝進は韓国にいった。いかねばならないというわけではなかった。彼は私たちから、赤ちゃんと私とが表している責任から逃れたかったのだと思う。「いつもよりは悲しくないと考えようとしている。なぜならば赤ちゃんが私といるのだから。でも赤ちゃんを寝かせたあと、自分の部屋にもどると、寂しさで打ちのめされる。心のなかに大きな穴があるような感じで、とても悲しく空っぽだ」と私は日記に書いた。「私は孝進が無事韓国に着くよう神に祈った。私はこの孤独で空っぽで悲しい心を満たすために、赤ちゃんを私にくださったことを神に感謝する。涙が流れ続ける」

私は孝進が、私たちの大切な娘の誕生をともに喜んでくれることを願った。だが、彼が一度韓国に到着したあとは、私たちは彼の思考のなかにはいないことを知っていた。「孝進は無事韓国に着いただろうか。着いたら電話をするよう頼んだけれど、それを期待はしていない。何日か待って、それから電話しよう。赤ちゃんの美しい写真をたくさん撮って、孝進に何枚か送ることにした」

生後まもなくのころ、こういった写真を撮るのは楽ではなかった。ほとんどの新生児と同様に、長女は規則的な間隔で眠ることができなかった。一晩中泣いていて、昼間はずっと眠っていた。母は疲れ果て、私は罪悪感でずたずただった。「お母さんは、自分の子供たちを育て、いま自分の孫を育てている。私はこんなふうにお母さんを苦しませていることに罪悪感を感じている。私は本当に多くを知らない。私は赤ちゃんに悪いと感じ、お母さんに感謝する」

「私は赤ちゃんをお風呂に入れた。赤ちゃんの頭を洗い、風呂桶のなかに入れた。私は赤ちゃんを石鹼で洗うこともできず、お母さんが入浴を終えた。私はお母さんにお礼を言い、恥ずかしく思った。私は赤ちゃんに悪いと思う。自分が母親に向いていないと感じる。私はいい母親になりたい。でも知らないことがありすぎる。私は赤ちゃんに悪いと思い続けずにはいられない」

日々は過ぎ、孝進は相変わらず電話をしてこず、私は相変わらず待っていた。「孝進はいまなにをしているのだろう。自分の娘のことを少しは考えているのだろうか」と私は書いている。「お父様は『孝進は電話をしてきたか?』とお尋ねになった。『いいえ』と答えねばならなかったので、気分が悪かった。孝進が幹部たちに、妻の役割について話したと聞いた。彼はいまなにをしているのだろう」

出産後、私の健康状態はよくなかった。韓国の女性は出産後とくに身体を大切にする。私たちは寒さから身を守るために、何枚も重ね着をする。何枚着ても、私の感じている寒さを遠ざけておくことはできなかった。私は病弱だったことはない。しかし小さかった。私の身体にはまだ出産の準備ができていなかった。関節に痛みがあり、それは妊娠のたびにひどくなっていった。その三月、私の感情的、肉体的、霊的惨めさは、たがいに競い合っていた。

「目が一日中痛い。歯がしみるので、なにも食べられない。どうして具合が悪いのか、わからない。頭痛がし、心は重い。赤ちゃんにお乳をやるのは少しあとにしなくてはならない。私は彼女に悪いと感じる。孝進はなにをしているのだろう。彼は電話をしてこない。そのことを考えもしないが、いまだに彼の電話を待っている。

最後に心の底から祈って以来、長い時間が経った。赤ちゃんが生まれたあと、私は怠惰になった。妊娠中は赤ちゃんのために祈るとき、もっと誠実でまじめだった。でも誕生後は、注意散漫になったと思う。落ち込み、気力がくじけているとき、孝進のことを考えるとき、私は赤ちゃんを見る。そうすると私の心は希望で満たされる。この子は私の希望のすべて。私のただひとつの希望はこの子にあり、私は孝進が帰ってくるよう祈る。もう一度、私は神が娘を私にくださったことを心から感謝する。アーメン」

一九八三年三月十八日。「朝からひどい雨。風も強い。私は机の前にすわり、孤独が私の心を満たす。自分がこの世界でただひとりだと感じる。私はよく、だれも私のそばにはいないと感じ、すべての人から遠いと感じる。赤ちゃんが隣の部屋にいるのに、自分がまったくひとりぼっちのように感じる……」

一九八三年三月十九日。「きのうとおととい、悪い夢を見た。夢のなかで、孝進は私と結婚しているのに、ほかのふたりの女と一緒だった。そのことについては考えたくもない。けれども夢はとても現実的だった。それはあまりにも鮮やかだったので、夢ではなく、現実のようだった。私は女たちの顔をあまりにもはっきりと思い出す。これまでに見たことは一度もない。去年、孝進はガールフレンドをニューヨーク市に連れていって、一週間帰ってこなかった。私は彼が彼女といる夢を二回見た。私は彼女を知っていた。けれども、今度夢に見た女たちは知らない。きのうとおとといどちらも、違う女がふたりいた。いずれにしても、それはいい夢ではなかった。なぜ自分がこの種の夢を見るのかわからない。きっと彼のことを考えすぎているのだろう!あるいはこれはサタンの試練か!食欲がなく、霊的に弱くなっていると思う。

私は赤ちゃんをお風呂に入れる前に、孝進に電話をした。なぜ彼にとって、私に電話をするのがそんなに難しいのか、私には理解できない。ひとりでいるとき、あるいは眠ろうとしているとき、私は彼について考えずにはいられない。考えないようにしようとはしているが、思考の糸は続く。私は自分がなぜこんなふうなのかわからない。私はひとりになるのが恐い」

一九八三年三月二十二日。「お母さんは私を叱った。私が朝食を食べなかったからだ。食欲がなかった。あの悪い夢を見て以来、食欲がない。お母さんは、もし私が肉体的に弱くなったら、サタンが侵入してくる、だから私はサタンを嚙んでいるのだと思いながら食べなければならない、と言った!孝進が修練会でちゃんとやっていると聞いたが、それでも悪い夢を見る。おそらくサタンが私を試しているのだろう。私は自分が心理的、肉体的に弱くなったと思う。私はサタンに負けてはいけない。私は早く肉体的に強くなり、神と孝進、そして私たちの娘への責任を果たさねばならない」

一九八三年三月二十七日。「風と雨がとても強い。悪天候と疲労にもかかわらず、お母さんは三時に一時間『聖なる岩』にいった。かわいそうなお母さんとお父さん。私は彼らの具合がょくなく、いつも彼らの娘、私のせいで苦しんでいると感じている。孝進は修練会でちゃんとやっているだろうか。彼はなにをしているのだろうか。お母さんから、六日目に、彼がふたりのガールフレンドにそれぞれ一時間電話をかけたと聞いた。サタンは六日目に侵入してきた。われらが天のお父様は孝進をどうご覧になり、心配されているのだろう。私たちのかわいそうな神様」

一九八三年三月三十一日。「きのう、なんの理由もなく腹が立った。おそらくサタンの試練なのだろう。私は自分を抑えることができなかった。赤ちゃんの誕生以来、古い服が合わなくなった。そのことについて、この二、三日ちょっと心配していた。私は自分に言った。こんなことをしていてはいけない。私はもう十七歳。おこなうべきことをおこない、いくべき場所にいくべきだが、私には赤ちゃんがいて、私は中年の女になった。私はなんと哀れな娘なのだろう!ここにいることを後悔さえしている。私はなぜこんなふうなのだろう?天のお父様は幸せには感じず、私は申し訳なく感じる。それでも私はふつうの男性と出会って、彼の愛のすべてを受けたほうがいいと感じる。こんなふうに考えてはいけないと知っている。天のお父様、私は悔い改めま

一九八三年四月四日。「月曜午前二時。日記をつけているとき、今日なにをしたか考える。さて、私は一日をどう過ごしただろう!昼間、私は自分の状況を忘れようとする。けれども日記をつけるとき、自分の考えをまとめる。私はいつも内側が空っぽだと感じる。これは彼のせいなのか?お乳をあげるため、赤ちゃんが目を覚ますのを待ちながら、私は見つけた手紙を読んだ。それはロスにいる女からの手紙だった。前に、昔のガールフレンドからきた手紙を見つけて、引き裂いたことがあった。新しい手紙をなぜ破かなかったのかわからない。手紙についてはなにも感じない。私は怒ってさえいない。これを哀れな状況と思う。自分がどうしてこんなふうになったのかと思っている。彼がつきあっている女たちについては心乱されることはない。彼女たちを哀れに感じる。私が心乱す相手は孝進だ」

孝進は夏まで「イーストガーデン」に帰ってこなかった。出ていったときに、小さな新生児だった娘は、バブパブと言う輝く目をした赤ちゃんになっていた。彼は韓国にいったときと同じように、彼女に関心がないように見えた。私は私たちの未来を恐れ、途方に暮れていた。その夏、文師夫妻は、私がアービントン高校にもどるのは不可能だと考えた。彼らは公立校当局が私の長期欠席の理由に過大な関心をもち、赤ちゃんのことが噂になるのを心配した。私は妊娠したとき、まだニューヨーク州の承諾年齢に達していなかった。児童虐待、あるいは強姦罪で告発されるような立場に、息子をわざわざ追い込む必要はない。

私はニューヨークのドブス・フェリーにある私立の女子校、マス夕ーズ・スクールに入学を許可された。私はとても興奮した。春以来、学校にもどりたくてしようがなかった。四月の日記に書いている。「すぐに勉強をしなければならない。それからピアノの練習も。私はなにもせずに、ただ自分の時間を無駄にしていた。勉強の計画を立てなければならない」学校は私の愛のない結婚と、私の鬱状態から気を逸らしてくれるだろう。それは私をよりよい母親にしてくれるだろう。「イーストガーデン」にきて以来初めて、私は希望で満たされた。

ある朝、文師夫妻は私を彼らの部屋に呼んだ。私は不安になった。彼らが私を呼び出すとき、それはふつう、私が彼らの目には悪いと映ることをしたという意味だった。ふたりのどちらが私に怒っているのかを事前に知ることは決してなかった。ふたりともかっとなりやすい、いやな性格だったが、同時に腹を立てていることはめったになかった。このとき、私がお辞儀をするやいなや怒鳴り始めたのは文夫人だった。

おまえはマス夕ーズ・スクールの学費がいくらかかるのか知らないのか?おまえを教育するのにどれほどのお金がかかるのかわかっているのか?なぜ自分たちはこんな金を出さなきゃいけないのか?おまえは私たちの娘ではない。すでにおまえを食べさせ、衣服をあたえ、住まわせるのに金を払わねばならないのだ。あとどれくらいほしいのか?彼女はこれだけ話すのがやっとだった。それほど怒り狂っていた。彼女がわめき立てているあいだ、文師はなにも言わなかった。私は頭を垂れたまま、唇を嚙み、泣き始めた。私は考えた。自分は文夫妻が望むことはすベてやってきた。彼らのわがままな息子と結婚した。彼が妊娠中の私をおいて、ガールフレンドたちのところにいったときでさえ、彼の側に立った。私は彼らに美しい孫娘をあたえた。なぜ「お母様」は私を怒鳴りつけているのか?

文夫人は朴普熙の娘は高校の卒業証書を通信教育で取得したと言った。おまえも同じにすればいい。立派な教育を受けてどうしようというのだ?おまえも朴薫淑のしたようにできる。薫淑はいまやバレリーナだ。すべてうまくいった。おまえは家で勉強し、同時に赤ん坊の世話ができる。

私は啞然とした。私の両親はつねに教育を重視していた。彼らは自分たちの楽しみを犠牲にして、七人の子供たちができるかぎりで最高の学校に通えるようにしてきた。文夫妻は、私に卒業証書を郵便で取得させようとしているのか?私には、学校にもどり、同世代の人びとと会い、一日の一部を文家の屋敷の外で過ごす必要があることはわかっていた。文師がようやくロを開いたとき、私はありがたく思った。通信教育はよくない、と彼は「お母様」に静かに言った。われわれは蘭淑を学校にやらねばならない。

目の前でひざまずき、すすり泣いている私がそこにいないかのように、ふたりはいろいろな選択肢を議論し始めた。彼らは私の人生について、すべて重要な決定をし、そのあと、その結果のことで私を非難するのだ。私はなんとか涙を止めようとした。私はなにも悪いことはしていない。泣くべきではない。けれども泣かずにはいられなかった。文夫人は怒りをすべて吐き出してしまうと、突然、私がまだそこにいることを思い出した。「出ておいき」と彼女は叫んだ。私は急いで立ち上がり、階下へと駆け下り、職員の視線を避けようとしながら、コテージハウスへと急いだ。

夏のあいだ、私の教育の話はまったく出なかった。九月のある日、私はただ単に、翌日から、マス夕ーズ・スクールの第十一年生に通うよう告げられた。私はその年、学校まで運転手の車で通った。最上級生のとき、私は運転を習った。孝進は教えようと言ってくれたが、一回目の講習で侮辱の言葉を怒鳴り散らされたので、私は彼に「イーストガーデン」の警備員のひとりから習うほうがいいと告げた。私が孝進に立ち向かったのはこれが初めてだった。彼が怒鳴っていたら、私には覚えられないのがわかっていた。そして彼には怒鳴らずにいる忍耐力はなかった。私は並列駐車さえ、文邸の敷地を離れずに習った。

私はマス夕ーズ・スクールが好きだった。勉強はおもしろく、学生には韓国人の娘も何人かいた。そのほとんどは音楽家で、週末はニューヨーク市のリンカーン・センターにあるジュリアード音楽院で勉強していた。彼女たちにとって、私は合衆国で教育を受けるために国を出た、もうひとりの韓国人ティーンエィジャーにすぎなかった。彼女たちの両親と同じように、私の両親も韓国にいた。だれも文鮮明と私の関係は知らなかった。だれも私が結婚していて、子供がいることを知らなかった。彼女たちは私がアービントンで後見人と暮らしていると思っていた。だれもそれ以上のことは尋ねず、私は韓国の文化が慎み深い文化であることをありがたく思った。

マス夕ーズ・スクールにいたひとりの娘はとくに親切だった。彼女は私より若く、私を姉のように扱った。彼女が打ち明け話の相手を必要としているとき、私はその役を果たすのがうれしかった。彼女はソウルから家族が電話をしてくるとき、お母さんと話すことができなかった。お母さんの声を聞くだけで、ホー厶シックで泣き出すのだった。

私は彼女をかわいそうに思ったが、またうらやましくもあった。彼女を慰めながら初めて、私は自分の年ごろの女の子がふつうにもつ感情を経験しなかったと思った。もし母や家族を懐かしく思ったら、私は自分が神を失望させていると感じる。もし家に帰りたいと望めば、私は自分が自分の運命に抵抗していると感じる。もし自分の夫を憎めば、私は自分が文鮮明の敷智を疑っていると感じる。

私には自分の失敗や孤独を感じる自由はあったが、それを表す自由はなかった。結果として、同級生たちとの友情はあくまでも表面的であり、一方通行だった。その学年のあいだ、流産したと気づいたときも、だれかに打ち明けるわけにはいかなかった。

私は何週間も前から妊娠したと知っていたが、最初の診察にいきそびれていた。少量の血液が下着を汚すのに気づき始めたときも、あまり気に止めなかった。赤ちゃんをなくしたことを超音波検査が確認したとき、私は打ちのめされた。処置のためー晚入院したが、孝進はすべてが終わるまで会いにこなかった。彼は私が病室で泣いているところにきた。私を慰めるかわりに、彼はおまえの涙にはうんざりだと言った。彼は私たちが赤ちゃんを失ったことよりも、私が醜態を演じるほうを気にしていた。「おまえ、泣いてるときはとても醜い」と彼は言い、私をひとり、喪失感とともに残して立ち去った。

そのとき私は、本当の友達をもっていればと望んだ。だが、私は自分の生活と、教室で一緒にすわっている女の子たちの生活が似ているのは表面だけだと知っていた。流産のあとの孝進の心ない反応を見て、私は「真の家庭」のなかで生きていくためには、これまで以上に自分の感情を区分けしなければならないと気づいた。

同世代の若い女性の多くにもまして、私は子供と大人両方の世界に片足ずつを入れながら、そのあいだで宙づりになっていた。私はその春、高校の卒業式に着る白いロング・ドレスを母に選んでもらうほどに幼く、自立していなかった。しかし家では、私が式に出る準備をするのを見ている、よちよち歩きの娘をもつほどに年をとっていた。式には当時の副大統領ジョージ・ブッシュが名付け子だという同級生のひとりに頼まれて、祝辞を述べることになっていた。

「ママ、あたしもいっていい?」と娘は尋ねた。私は自分の大切な日、小さな娘を連れていきたいと願った。けれども私は娘を「イーストガーデン」においていった。私には、自分が生きているふたつのまったく違う世界を、どのようにして一体化させればいいのかわからなかった。

「イーストガーデン」の家族室で、孫たちに囲まれた韓鶴子。
私は息子の信吉に、祖母ヘのおじぎの仕方を教えている

[出典:わが父 文鮮明の正体/洪蘭淑]

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