【わが父 文鮮明の正体】まとめ(09)

わが父 文鮮明の正体
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第8章:日本への随行ツアー

1992年に韓鶴子と京都で洪蘭淑

[一九八六年五月、孝進が韓国から私に電話をかけてきたとき、私はちょうどニューヨーク大学で春の期末試験を終えたところだった。彼は何週間も前からソウルにいっていた。彼は私と娘がいなくて寂しいと言った。私たちはできるだけ早くいかなければならない。

私は大学一年生だった。文師夫妻は、私の学問での成功がいつの日か彼らの有利に跳ね返ってくるだろうという理屈で、私を大学に通わせてくれた。私は何日間も夜遅くまで起きて、期末試験の勉強をしたり、学期末のレポートを書いたりした。私にかかる教育費を文師夫妻に対して正当化するためばかりでなく、一年生としての自分が挙げた成果にプラィドを感じるためにも、私はよい成績を修めたかった。

私の世界のなかで、教室は自分が完全に自分であると感じられる唯一の場所だった。私はいかに学ぶか、いかに勉強するか、いかに試験を受けるかは知っていた。批判的な思考法は知らなかった。けれども、よい成績を修めるのに、批判的に思考する必要はめったになかった。韓国の子供時代に学んだ記憶術は、アメリカの高等教育でも同様に役に立った。

ニューヨーク大学は私の第一志望校ではなかった。私はコロンビア大学の女子部バーナード・カレッジにいきたかった。それが有名七女子大のひとつだと知っていたし、同級生が女性であることに安心感があった。私は結婚して、子供もいたが、それでも若い男性に対しては、うぶな年ごろの娘のように気詰まりに感じた。

バーナードは私を入れてくれなかった。私は愚かにも第一次募集に出願した。これは本当に優秀な学生にとってのみ実現可能な選択肢だった。私の成績はよかったが、私の論文は、当時の私の生活を特徴づける内的思考の欠如を表していた。不合格になったあと、私はいつかバーナード・カレッジが転校生として私の受け入れを再考してくれるように、ニューヨーク大学でよい成績を修めようと決心した。

孝進が私をソウルに呼びつけたとき、私は妊娠初期で、よちよち歩きの子供を連れての長い飛行機旅行にはあまり乗り気ではなかった。前の妊娠がだめになったあと、また流産する不安もあった。けれども孝進がよそにいるとき、私に一緒にいてくれと頼むのはもちろん、電話をかけてくることさえめったになかったので、私はこれを私たちの結婚にとっての希望的兆候と解釈したいと思った。

恐れていたとおり、フラィトは最初から最後までくたくたに疲れるものだった。娘は興奮しすぎていて眠らなかった。彼女は私が目をつぶるたびに、私を揺さぶった。私は、神がこの時を使って孝進の心を和らげたにちがいないと楽天的に考えることで、自分自身の目を覚ましておいた。

娘とふたりでソウルの文邸に着いたとたんに、私は幻想から目覚めた。孝進は私たちにくるよう頼んできたが、いまや私たちなどどうでもよかった。年を経るにつれて、私は孝進が私を支配したがるのに慣れてきてはいたが、韓国にいるあいだ、彼が私の一挙手一投足をほとんど偏執狂的に監視したことには不安を覚えた。たとえば私がリトルエンジェルス芸術学院時代の旧友に会いたいと言えば、おまえはそんなことをしてはいけないと怒鳴る。彼は私に言った。「おまえに友だちはいない。おれがおまえの完璧な友だちだ。ほかにはだれも必要ない」

帰宅して、私が娘を連れて両親のところにいっているのを見つけたときには、激怒した。おれが家に帰るのを待っているのがおまえの義務だ。彼のせいで私はとても神経質になり、母を訪問するときはいつも、彼が私を探していないかと、文邸に一時間ごとに電話した。

私がソウルに到着した直後、文師夫妻は度重なる韓国訪問からニューヨークに帰っていたが、文家の年長の子供たちの多くは韓国にいた。次女の仁進もそのひとりだった。彼女はいつも孝進ととても仲がよく、私たちが最初に会った瞬間から、私のことを無視した。私のソウル到着後数日して、彼女は私を自室に呼びつけた。私に対してかんかんに腹を立てているのは明らかだったが、その理由はわからなかった。私たちは、玄関で礼儀正しく挨拶をかわしただけだった。

私は「真の子女様」の前にいるにふさわしく、慎み深く床にすわった。「兄さんはあんなに一生懸命働いてるのに、あんたときたらなにしてるの?なにもしてないじゃないの!」と彼女は怒鳴った。「あんたは怠け者で、甘やかされてる。韓国の伝統に従えば、あんたなんか台所で雑巾がけをして、皿を洗わなきゃいけないのょ。このぅちじゃ、あんたが最低の地位にいる。そのことをちゃんとわきまえてもらわなけりやね」

私はびっくりしたが、仁進が私の答えなど期待していないのはわかっていた。答えることは差し出がましいことだった。孝進は、私が教会の行事に同行するのを許さないなどと、彼女に告げたところでなにになる?彼女に反論することで、私はなにを得る?私は彼女の怒りが私を押し流すままにしておいた。私は何度この格好でひざまずき、文一族のだれかから脅しつけられたことだろぅ?彼らが私の上に積み重ねる噓を聞いているのだけでも充分に難しいことだったが、答える力のないことが、私を幼い子供の地位にまで矮小化した。仁進は本当に考えていたのだろうか、彼女の兄が私に押しつけてくる人生が私の望みの人生なのだ、と?私は、ほかの人びとと会う楽しみをもってはいけない、と?孝進がソウルで自由時間をどう使っているか、彼女の目には入っていなかったのか?

バー通いはニューヨークよりもいっそうひどかった。韓国ではいつも、孝進に喜んでお金を渡す人、彼の多くの悪癖のあれやこれやに加わる旧友がいた。母は私の叔父、柳淳に彼を見張るよう頼んだ。叔父は口がうまいトランペット奏者で、孝進以上にナイトクラブのことをよく知っていた。母は叔父に弱みがあった。祖母が父との結婚を阻止しようと母を部屋に閉じこめたとき、靴をもっていった弟だからだ。しかしながら、私の夫と私の叔父が一緒にいるとき、どちらがどちらを見張っているのかは明確ではなかった。酒を飲んだあと、ふたりはよくソウルのスチー厶バスにいった。孝進がそこの夕オルガールのなかに愛人を作ったことを、私はあとで知った。

ある晚、孝進がバーから家に帰ってきたとき、私は毎晩しているようにベッドの横にひざまずいて祈っていた。私は彼が部屋に入ってくるのを見たが、彼に挨拶するより先にお祈りを終えるべきだと考えた。それは間違いだった。彼は私の頭に平手打ちを喰わせた。妊娠中だったため、私はバランスを崩した。彼は私を殴り倒した。「よくも立ち上がって、夫に挨拶しなかったな」と彼は言った。ろれつの回らない話し方はとても酔っている証拠だった。私は無謀にも説明を試みた。「私はただお祈りを終えようとしただけよ」孝進は、私と私の両親に対して次々と文句を並べ立てた。おまえは醜く、デブで、ばかな女だ。おまえの親たちは傲慢で「お父様」に忠実じゃない。やつらはおまえに悪影響をあたえている。彼がバスルー厶に入ったとき、私はチャンスと見て、別の部屋に走っていった。彼は私のほんの数歩あとを追ってきた。

彼はドアをどんどんとたたき出した。私は脅え、彼の叫び声で娘が目を覚ますのではと心配した。怒った孝進がドアをたたき破ろうとしているあいだ、私はベッドで丸くなった。ありがたいことに、ドアには頑丈な真鍮の鍵があった。何分か経ったあと、彼はいってしまい、私は眠り込んだ。翌朝、私は廊下で悪態をついている彼の声で目を覚ました。今回、彼はギ夕ーをハンマーのように振り回していた。けれども重い木のドアはもちこたえた。彼が立ち去ったとき、私はまた別の部屋に走っていった。

廊下からひと部屋に滑り込んだとたんに、私は彼の姿を外のバルコニーに見た。彼はギ夕ーで窓を打ち破り、私がちょっと前まですわっていた椅子の上に硝子の雨を降らせた。私は階段を駆け下りた。彼の怒った呪いの言葉が耳のなかで響いていた。私は階下に住む教会幹部の部屋に避難した。孝進は私に出てこいと叫び続けていた。私は脅えていたが、愚かではなかった。もし外に出れば、意識がなくなるまで殴られるのはわかっていた。彼が家の人びとを集めて、私を探しているあいだ、私は隠れていた。ようやく彼があきらめ、バーへと出かけたとき、私はヒステリックに泣きながら、父に電話をした。父は私と娘のために、すぐ車を寄こした。

このとき私は、結婚生活で初めて、自分の生命に不安を覚えた。それまで苦しめられてきた虐待は、肉体的なものというよりは心理的なものだった。私は、彼の残酷さと脅迫に無感覚になることで、何年も過ごしてきた。私は「醜く」、「デブ」で「ばか」だった。彼がいなければ、私は「だれでもなく」、「なんでもなかった」。私は自分が「とても賢い」と思っている。だが、彼はメシアの息子だ。私には「代わりがいる」。私は、彼の言葉による虐待には反応しないように自分を訓練してきた。ある段階で、私は彼が引け目を感じていることを知った。孝進は、その青春を酒とドラッグと娼婦に浪費しているあいだに、私が教育を受けていることを不快に感じていた。私は彼が私を攻撃しているとき、こちらからはやり返さないことを覚えた。やり返してもさらに同じことを招くだけだっただろう。私は、このような憎しみと辛辣な言葉の雰囲気のなかで育っている長女とおなかの赤ちゃんのことを心配した。子供たちのために、私はロをつぐみ、彼を怒らせないようにした。それは卵の殼の上を歩いているようなものだった。なにを言っても、彼を爆発させかねなかった。

孝進の侮辱的な態度は、多くの点で、文家と統一教会における抑圧と支配の環境に対する自然な反応だった。私もまた文師夫妻に縛りつけられ、苦しんでいた。呼ばれればいつでも文夫人のお相手をするように期待されていることは、私がアービントンの屋敷外では、実質的な生活をもてないことを意味した。ニユーヨーク大学、そしてのちにバーナード・カレッジに通っていたとき、私は幽霊のような存在だった。

文鮮明が自分の子供たちや婿、嫁を大学にやったのは、私たちにより広い個人的体験をさせるためではなく、彼の身により大きな大衆的栄光をもたらすような学位を取得させるためだった。友人と接触することで、私の生活について質問されたり、屋敷外で過ごす時間がこれ以上必要になることを恐れて、私は友だちを作らなかった。文夫人はすでに、彼女が好きに使う正当な権利をもつ時間を私が勉学に費すのを横領行為と見なしていた。

私はニューヨーク大学にほかの「祝福子女」と通った。私は妊娠のために、勉強をたびたび中断したので、ニューヨーク大学の学生に許される休学期間を使い果たしてしまった。一九八八年、ニューヨーク大学で好成績を残していたので、私はバーナードに転校した。「イーストガーデン」の警備員が、教室まで私を車で送り迎えした。私の指導教授でさえ、私の正体は知らなかった。

ずっとあと、私が四番目の子信玉を妊娠したとき、私はやはりバーナード校にも休学届けを出した。指導教授だった年配の女性教授は、私が妊娠を告げたとき、とても心配した。「それが本当にあなたの望みなの?」と彼女は慎重に尋ねた。私は笑った。「ええ、大丈夫、私は結婚しています!」私が言わなかったのは、それが私の四人目の子供だったということだ!バーナード校に私のような学生がほかにいたとは思えない。

私が読む本、私が聞く講義は私に世界をより広い視野のもとで見せてくれた。けれども私にとって、それはただの知的なエクササィズだった。バーナード校のウルマン図書館、そしてコロンビアのバトラー図書館の書庫で、私は洞察力ではなく、情報を得た。私は生まれてからずっと質問をしないように、疑わないように訓練されてきた。宗教史についての大学のどんな授業も、メシア運動のルーツについてのどんな講義も、文鮮明に対する私の信仰を揺るがしえなかっただろう。

やみくもな信仰の実際的な効果は孤立である。私は、私と同じように信じる人びとに囲まれていた。私の生活のすべて——毎朝、「お母様」と「お父様」の前に平伏して挨拶をする義務から、明らかに欠点をもつ夫の神性を受け入れる義務にいたるまで——は、この孤立をいっそう深めた。もし私が腹を立てたり、悲しがったり、動揺したりしても、これらの感情を分かち合える人はだれもいなかった。文一家は気にもかけなかった。私の両親は遠くにいた。「イーストガーデン」の職員、教会の一般信徒は、「真の家庭」の一員という私の高い地位のために、めったに私に話しかけなかった。

私はひとりだった。もし祈りがなかったら、正気を失っていただろう。神は私が地上ではもたなかった友、心の打ち明け相手となった。神は私の心の痛みを聞いてくれた。私の苦痛を聞いてくれた。神は私に、私が結婚した怪物とともに未来に立ち向かう強さをあたえてくれた。

ソウルでの孝進の激しい怒りは私の両親を脅えさせた。彼らは私が「イーストガーデン」で厳しい生活を送っていることは知っていたが、私の受難を間近に見たのは初めてだった。私が長女を連れて彼らの家に着いたとき、私はまだ脅え、涙を流していた。私たちは孝進が私を連れ戻しにくること、そして私の両親にはメシアの息子に逆らう力のないことを知っていた。私は逃げたことで殴られるのではないかと、とても恐れていた。父は私を車でソウルの病院に連れていった。私たちがなにが起きたかを説明すると、医師たちは私の入院を許可してくれた。孝進は私を探して、両親の家に電話をかけ、私を帰らせるよう要求した。父は彼に告げた。お医者さんが言っています。妊娠中の赤ちゃんのために、どうしても病院に留まっていなければいけない、と。

孝進が私のベッドの横に姿を現すまでに、長い時間はかからなかった。彼のメッセージは明白だった。私は永遠に隠れていることはできない。私は娘を長いこと彼から引き離しておくことはできない。私はいつか帰らなくてはならない。彼は謝りもしなければ、私が恐怖のなかで文邸を逃げ出した理由を認めもしなかった。彼はただ、遅かれ早かれ、私はもどって彼と相対さなければならないということを知らせたいだけだった。

私は両親と娘と一緒にソウルに二力月間留まっていた。孝進は「イーストガーデン」に帰った。彼は自分の両親に、私の留守を私のわがままと説明した。あいつは頑固で、反抗的だ、あいつを殴らねばならなかったのは、口答えをしたからだ。彼らの見方では、このような妻への体罰は正当化できるものだった。私は朝五時の家族の敬礼式で「お父様」が、妻たちを慎ましくさせておくために、ときどき殴らなければならないと説教したことを覚えている。「夫から平手打ちを喰わされたり、殴られたりした妻は手を挙げなさい」彼は一度べルべディアの日曜説教で指示した。「おまえたちは、ときにはそのロのために殴られる。肉体の最初の犯罪者は唇だ——その二枚の薄い唇だ!」

統一原理は妻は夫に従属し、同様に子供たちも両親に従属すると教える。彼らは従わねばならない。「もし子供たちを、自分の機嫌のせいで殴ったら、それは罪だ」と文師は言った。「だが、彼らがおまえに従わないのなら、おまえは彼らを力ずくで引っ張っていくことができる。結局、それは彼らにとってよいことだ。もし彼らがおまえに従わないのなら、彼らを殴ることさえできる」自分の子供たちが反抗したとき、文鮮明が子供たちをぴしゃりと打ったように、メシアの息子も、彼が自分には受ける資格があると感じている尊敬を妻が払わなかったとき、彼女を自由に殴ってよいと感じていた。

すぐに一通の手紙が文夫人から、両親の家にいた私のところに届いた。彼女は、私がもどらなければならないという手紙を書いてきた。両親の家にいるのは、おまえによくない。おまえは彼らの子供ではない。孝進の妻だ。文夫人は、両親が私に屋根を貸しあたえたことで、両親に腹を立てていた。その怒りは彼女自身の長女と私の兄が自分の子供たちを文一家の影響から守るために、韓国の私の両親のところに送ったとき、より激しくなった。兄夫婦はすでに、文師夫妻と教会に疑いを抱いていた。

両親も私も、私が彼らといられる時間は一時的な猶予にすぎないと知っていた。私はもどらねばならなかった。それは私の使命だった。それは私の運命だった。統一教会の外にいる人びとにとって、自分の娘を虐待する夫と無関心な義理の家族のところに送ることが、父親と母親にどうしてできるのか、それを疑問に思うのは簡単である。けれども両親と私は、自分たちが神の計画を実行しつつあると信じていた。その流れを変えるのは私たちではなかった。文孝進のもとを去ると考えることさえ、私の人生、私の教会、私の神を拒否することだった。両親にとっては、成人したあとの自分たちの全人生におけるすべての決定に疑問を呈することだった。

帰れと言う宗教上の強制の先に、私には恐怖があった。ひとりの女が、自分を殴る男の前で無力に感じるためには、なにもカルトの罠にからめ取られている必要はない。殴られた妻で、善意の友人や親戚から「なぜ家を出ていかないの?」と尋ねられたことのない人などいるだろうか?それはとても簡単に聞こえる。しかし、殺してやるという夫の脅しを本気にし、収入はなく、幼い子供を抱えた母親にとって、それほど簡単なことだろうか?パートナーに殴られた女たちは、逃げた場合、殺される危険が非常に大きい。犯罪統計はこの現実を確認している。だが女はそれを本能的に知っている。たとえ私を「イーストガーデン」へと帰らせる信仰上の圧力はなくても、私には恐怖からくる圧力があった。

その九月に両親の家を離れることは、私たちの全員にとって、意に添わないつらいことだった。私はいきたくなかった。彼らは私をいかせたくなかった。だが、私たちのだれも文鮮明と彼の教会の力を超えた先を見ることはできなかった。母や弟妹たちとの涙の別れがあった。父は私と目を合わせることさえできなかった。私は彼の悲嘆が私のものと同じほど大きいことを知っていた。

孝進は長女と私を空港に迎えにはこなかった。私たちがコテージハウスで彼と会ったとき、まるで私たちのあいだにはなにごともなかったかのようだった。「イーストガーデン」では、文夫人が私を部屋に呼びつけた。彼女はよく帰ってきたと言い、私に保証した。孝進は、私をこれほど長いあいだ遠ざける原因となったソウルでの出来事を、二度と繰り返さないと約束している。彼女は遠回しに、彼の暴力と、彼のアルコールやドラッグ濫用について語り、息子を変えるための道具として働くのがおまえの義務だと、念を押した。そのためにこそ私は選ばれたのだ。一方では、私の全体験が私に、彼女の息子は病的な噓つきだと語っていた。他方では、私は相変わらず自分にあたえられた神の使命を信じ、もし私が充分に働き、強く祈りさえすれば、神は最終的には彼に本当の変化をもたらすだろうと信じていた。殴られた妻ならだれでも、自分は変わるという夫の約束を信じたいと思うように、私は「お母様」の保証を信じたかった。

私の両親に対しては、文夫人の怒りはもっとあからさまだった。彼らが私をソウルに留めておいたのは間違いだ。彼女は「お父様」に対する彼らの忠誠心に疑問を呈した。「真の御父母様」はソウルから洪家のことで報告を受けていたが、その内容は彼らの気に入らなかった。文夫人がなんのことを話しているのか、私にはぼんやりとした知識しかなかった。しばらく前から、母は自分たちと文夫妻のあいだではすべてがうまくいっているわけではないことをほのめかしていた。「真のお母様」と「真のお父様」の最近の韓国訪問のとき、文師は私の父を選んで、人前で批判した。彼は、私の父が一和製薬を洪の親族でいっぱいにして、会社に迷惑をかけていると非難した。一和の成功は文鮮明のものなのに、父はそれを自分の手柄にしていると責めた。

母は私にこういったことを話したが、心配はしていなかった。「お父様」には、実際には自分の気に入っている者を叱りつけるというひねくれた傾向があることは知られていた。統一教会においてのみ、公然と批判されることはひとつの讃辞と考えることができた。けれどものちに私が知ったように、文師は私の父に人前で恥をかかせることにサディスティックな喜びを覚え始めていた。私の父が設計、資金調達、建設の監督をした新しい瓶詰工場の竣工式で、文師は父のことを、メシアの気分しだいで解雇できる役立たずの重役だと言って笑い者にした。ソウルの朝食の食卓で、妻に鼻先を引きずりまわされている男と言って、一ダースほどの教会幹部の前でばかにした。

なにが原因で両親に対する文夫妻の態度が変化したのか知るのは難しかった。文鮮明は知性と能力に惹かれると同時にそれを忌避した。だれもメシア以上に賢く見えてはならなかった。私の父は、文師のために、景気のいい会社を無から作り上げた。それはいいことだった。彼は自分の主人によく仕えた。父はそれを自分自身の能力とハードワークによって達成した。しかしそれは文師にとっておもしろくないことだった。父は一和の成功を自分の手柄にするかもしれない。

私の母も同様に不安定な立場にいた。統一教会に加わったときは内気な娘だった母も、文鮮明のために何年間も説教をしてきたあとでは、そのもっとも雄弁な代弁者のひとりとなった。博学で、宗教に関しては尊重される代弁者となった。文鮮明との結婚前に高校を終えていなかった文夫人は、私の母のような教育のある美人と一緒にいるのが不愉快だった。彼女は公には「韓鶴子博士」と紹介されることにこだわったが、それは名誉称号にすぎなかった。

文夫人の不安感は、「イーストガーデン」で彼女が自分のまわりにどんな女性たちをおいているかに示されていた。私がしばしば夫人の宮廷道化師と考えた韓国人女性たちである。彼女たちがそこにいたのは、女主人に意味のある会話をさせるためではなく、彼女を冗談とお笑いで楽しませるためだった。私の母は種類が違った。賢くてまじめで、おふざけが我慢できなかった。母は「真のお母様」に身を捧げていたが、文夫人がもっとも喜ぶ役を演じたのではなかった。

文夫人の周囲の女性たちは、私の母に対する彼女の不快感を捕らえて、「真のお母様」の目に母がさらに悪く映るようにし向けた。女性たちの多くは、洪家の人間が「真の家庭」と結婚したことで、嫉妬にさいなまれていた。彼女たちから見れば、兄と私は、彼女たちの息子や娘が権利をもつ場所を奪ったのだ。これは復謦の好機だった。母の全行動は噂の臼にかけられゆがめられた。困っている教会員へお金を贈れば、愛情を買おうとしたのだと誤解された。父を擁護すれば、文師夫妻を攻撃したと解釈された。

中世の王宮では、王や王妃の耳に最後にささやく者がもっとも大きな影響力をもつ。文の屋敷でも違いはなかった。おべっか使いたちが支配していた。すぐに、私の両親が韓国で分派の教会を設立しようと計画している、私の父は自分が本当のメシアだと宣言しようとしているという噂が立った。それはすべてナンセンスだったが、文夫妻はいつも最悪のことを喜んで信じるのだった。統一教会内での父の役割は、文夫人の口出しで、確実に凋落していった。韓国における父の力を弱めるために、文夫人は結局文師に、父を欧州統一教会会長に任命させた。ヨーロッバは世界で統一運動がもっとも影響力をもたない大陸である。

両親に対する文師夫妻の不信は、私の生活にも降りかかってきた。両親との接触は最小限にするよう命じられた。「イーストガーデン」の交換機を通して韓国にかける電話は、文師夫妻の命令が守られているかどうかを確かめるために、監視されていた。自分の家族から切り離されることは、私には耐え難い孤立だった。私は、母と父との絆を保つために、自室に個人用の電話を設置した。

私が「イーストガーデン」にもどった二力月後、次女信英が生まれた。男の跡継ぎを産まなかったことで、いつものようにがっかりはされたが、またほっと一安心でもあった。孝進のドラッグとアルコールの濫用は、このかわいい女の赤ちゃんに悪影響をあたえてはいなかった。

その数力月後、韓国に長期滞在をする準備を進めていた文夫人は、私を部屋に呼びつけ、四歳になる私の娘を、自分の五歳の娘、情進の相手に連れていくつもりだと告げた。私には反対の言葉や、自分が抱いた疑問のすべてを声にする勇気はなかった。彼女はどのくらいの期間になるかを言わなかった。私がこの申し出をどうにか納得する時間があるかないかのうちに、彼女はグッチのハンドバッグをもって、クローゼッ卜の金庫からもどってきた。それには現金で十万ドルが入っていた。彼女は私に告げた。これはおまえたち家族の未来のための「元金」だ。おまえはそれを賢く、たぶん金に投資しなければいけない。彼女は私たちに、あとでもう三十万ドルあげますと言った。彼女は私を買収しようとしているのだろうか?現金と交換で、私の娘を連れていく?

私は孝進に母親との仲立ちを頼んだ。私には娘がいきたがらないことはわかっていた。情進は甘やかされた子で、そのべビーシッ夕ーは下品だった。私と娘はとても仲がよかった。娘は私をひどく恋しがるだろう。このような旅をするにはあまりにも幼すぎる。孝進は母親と話すのを拒否した。娘が韓国にいれば、彼には自分もそこにいき、ガールフレンドを訪ねるためのよい口実ができる。それに、母親からの金のことも考えるべきだ。私はそれを夕リー夕ウンの銀行の貸金庫にしまっておくよう忠告された。預金口座に入れれば、私たちは「問題外のこと」をしなければならない。それにかかる税金を支払うのだ。もちろん金庫にしまったのは間違いだった。孝進はいつでも現金を手に入れられることになった。彼は子供たちの将来のためのお金を使って、「お父様」に三万ドルの金メッキの拳銃、自分と弟たちにオートバイを買った。

私の幼い娘は三力月間も韓国にいっていた。文夫人が「イーストガーデン」に送ってきた写真では、彼女は決して笑っていない。出発したときは、鉛筆をもって自分の名前が書けた。韓国では、ベビーシッ夕ーが彼女の手をたたいて、そうしてはいけないと言った。彼女の叔母(である情進)には自分の名前が書けない。そして文の子供たちのほうが優れていなければならなかった。このとき受けたダメージを矯正するのには何年もかかった。べビーシッ夕ーは長女に幽霊の話をし、そのため彼女は悪夢を見た。私の母を訪ねたいと言ったとき、文夫人は彼女をおもちゃ屋やアイスクリー厶・パーラーに連れていって、気を逸らせた。

私は心に誓った。文師夫妻に言われても、二度と子供たちを手元から放しはしない。ふたりが子供たちを講演旅行に連れていくのは、子供たちと一緒にいるのが好きだからではない。世界の目に彼らを愛情深い祖父母と見せる、生きたお飾り、かわいい服を着たデコレーションが必要だったからだ。将来、文鮮明と韓鶴子が私の子供たちを利用するのを阻止するためなら、お世辞でも工作でも偽りでも、必要なことはなんでもするつもりたった。

私の子供たちは、私の人生でただひとつの本当の祝福だった。妊娠していないとき、私は自分が妊娠と妊娠のあいだにいると考えた。自分の状態によって、授業に参加するか、授業から抜けるかのどちらかだった。一九八七年、私は自分が二度目の流産に直面していると確信した。妊娠四力月目で激しく出血していた。医師は横になって休むよぅいったが、それでも出血は止まらなかった。私はとても脅えていた。孝進が、両親と一緒に釣りにいっていたアラスカから電話してきたとき、彼は私の声にそれを聞き取ったにちがいない。

私は彼が電話で心配してくれたことに感激したが、その心配は「イーストガーデン」にもどるころには消えていた。彼がコテージハウスに到着したとき、私はベッドで聖書を読んでいた。彼は私の手から聖書をたたき落とした。私は手で身を守った。「おまえ、聖書のほうが真の御父母様より大切だと思ってんのか」と彼は怒鳴った。「なんで外に出て、挨拶しなかったんだ」私は出血と医師の指示のことを説明しようとしたが、彼は聞く耳をもたなかった。もし出血しているのなら、おそらく赤ん坊は障害児だろう、と彼は叫んだ。「真の家庭」に障害児をもたらすよりは、流産したほうがいい。私は彼の冷酷さに衝撃を受けた。「立て、この怠け者の売女」と彼は怒鳴った。

私は彼の要求どおりにしようとしたが、あまりにも弱っていた。私はベッドに留まり、彼はすごい勢いで家から飛び出していった。私は韓国の母に電話をした。母は私と赤ちゃんのために、自分の「祈り屋」グループにお祈りをさせると約束した。数日後、出血は相変わらず止まらず、私は赤ちゃんが死んだものと結論した。搔爬手術のあとー晚入院が必要だろうと考えて、私は緊急治療室にいくために荷物をまとめた。病院で医者は超音波検査をした。私は不幸な結末をすっかり受け入れていたために、女医さんが赤ちゃんの心臓は丈夫だと言ったとき、思わず聞き返したほどだった。胎盤から出血していたが、それは収まりつつある。

これは医学的な説明だった。だが私にはもっとよくわかっていた。私が失ったほどの量の出血を生き延びられる赤ちゃんはいないだろう。これは奇蹟だった。医師が超音波検査が見せるもうひとつの事実を指摘したとき、私はこの赤ちゃんが神からの贈り物であると知った。私は息子を妊娠していた。私はだれにも、母にさえも言わなかった。あとで仁進と文夫人から、超音波検査で性別がわかったかと尋ねられたとき、私は「いいえ」と言った。これは私と神のあいだの秘密だった。私は自分が秘密を守れば、サタンは二度と私の赤ちゃんを傷つけようとはしないだろうと感じていた。

一九八八年二月十三日、私が信吉を産んだとき、文家は有頂天になった。文師夫妻は私の両親に対して、一時的に態度を軟化させさえした。孝進はこれ以上幸せになれようがなかった。男の跡継ぎは、父親の正当な後継者としての彼の立場を強める。文師は、息子の誕生が、孝進に家族と統一教会に対する責任を受け入れさせることを期待した。

それは空しい期待だった。四月、孝進はニューヨーク市オールド・ニューヨーカー・ホテル大宴会場における教会の集会で、「劇的なコンフェッション(告白式)」なるものをおこなった。それは教会の祝日、「真の父母の日」だった。

「多くの祝福会員は、私の不品行についてお父様を非難する。それは彼の過ちではない。それは私の過ちだ」と孝進は話し始めた。「私にとってアメリカにくることは簡単なことではなかった。それは私の憎しみと誤解の産卵場所だった。人びとは説明しようとしたが、私は一度も耳を傾けなかった。私は心のなかに多くの怒りをもっていた。私はほとんどすべての人を憎んだ」

彼は、自分の青春時代の性関係、十代のころの酒を飲んでのどんちゃん騒ぎ、コカィン使用について細かく話し続けた。だが彼は聴衆が、こういった逸脱はすべて過去のことだと信じるようにし向けた。「私は、こういったことが、私の弟や姉妹、祝福子女、あなたがたの子供たちに絶対に起こらないようにしたい」と彼は言った。彼がもちろん言わなかったのは、彼の飲酒、ドラッグの濫用、性的な乱行は衰えずに続いていたということだ。「私はこれから先、すべて正しいことをおこないたい。過ちは過去のことで、何度も私に繰り返しとりついてくる。私はあなたがたにすべてを語った。私がだれとでも寝たこと、多くの女性と関係したこと、私にはこれ以上語ることはない。どうか私を許してほしい」

会員を前にした、なかなかの演技だった。孝進は泣き、彼の弟や妹たちは彼を抱擁した。私はこの余興ではただの見物人だった。告白式のなかで、彼は私の名前を出しさえしなかった。彼は神に、「真の御父母様」に、教会員に謝罪した。しかし、妻に対して言うべきことはなにもなかった。

このスピーチのあとで、彼の放蕩生活が再開されても、私は驚かなかった。彼は私にどうしてもカラオケ・バーやナイトクラブに同行するよう言い始めた。私はただ喧嘩を避けるためだけにときどき一緒に出かけたが、その雰囲気が大嫌いだった。孝進は一日中眠っていられる。けれども私は朝早く子供たちと起きねばならなかった。出席すべき授業もあった。彼の酩酊は私を不快にした。彼はテキーラのボトルを半分あけ、それからウェイトレスのために百五十ドルのチップをおく。私はコーラをちびちびなめながら、時計を見ていたものだ。

私はいい連れではなかったが、家に車を運転して帰ることができた。孝進は、自分で運転しようとして、避けがたくトラブルを起こしていた。一九八九年、文夫妻は、私の通学用にアウデイを一台買ってくれた。ある晚、孝進はこの車で市内にいった。夜中近く、私は彼から、事故を起こしたので、アムステルダム・アベニューと一四六番街の角で拾ってくれと電話を受けた。彼がなぜハーレムにいたのか察しはついた。彼はそこでコカインを手に入れていた。私が着いたとき、彼はその角にはいなかったので、付近を車で回らなければならなかった。ようやく数ブロック先で、彼がふらふらと歩いているのを見つけた。彼は酔っばらい、取り乱していた。アウデイを見つけたとき、私は彼が無傷ですんだのにびっくりした。車は大破していた。

私は、保険でフォード・アエロス夕ーを借りた。孝進がこの車を持ち出すまで長くはかからなかった。ある朝四時に、私はニューヨーク市警からの電話で起こされた。孝進は飲酒運転で逮捕されたのだ。その朝、私たちは、文師夫妻の子供のひとりの誕生祝いに出席することになっていた。私は自分の子供たちをべビーシッ夕ーと先にいかせ、それから一二五番街の警察署まで車を運転していった。続く二時間で、私は自分の車の返還を請求し、罪状認否手続きで孝進の代理をさせるための弁護士を手配した。私は「イーストガーデン」にもどって、「お母様」に対面した。彼女は、朝食の宴に出席しなかったことで私を叱った。「あんた、どこにいたの?孝進はどこにいるの?」と彼女は尋ねた。これは彼の問題であり、私の問題ではなかった。私は彼のために取り繕うのにうんざりしていた。「孝進はここにはいません。彼が帰宅したとき、直接お聞きになるべきだと思います」と私は言った。

孝進は私が彼を留置所からもっと早く出そうとしなかったので、かんかんになって「イーストガーデン」にもどってきた。「お母様」が待っていると告げられると、彼は激高した。怒る必要はなかった。文夫妻はわがままな息子に対してなんの行動もとらなかった。犯罪司法体系は彼に罰金を科し、その運転免許を停止し、公共奉仕をするよう命じた。しかし、彼の両親は、彼の飲酒と運転をやめさせるために、なにもしなかった。

その次、彼がバーに同行するよう言ったとき、私は拒否した。「私はいけません。約束しました」「だれに約束したんだ?」と彼は聞いた。「私自身にです」と私は言った。彼は、私なしで、そして運転免許なしで、自分で運転していった。

ゆっくりと、私は「いやだ」と言うことを学んでいった。母親になったことが、私の態度の変化の最大の原因だと思う。「真の家庭」が私自身を虐待するのに耐えることと、私の子供たちをその虐待の対象とすることとは別問題だ。私は一九八九年十月、三女信玉を産んだ。私は二十三歳で、四人の子供をもち、流産を一度経験していた。この先にあと何人の赤ちゃんが生まれるのか、私にはわからなかった。

バーについてこいという孝進の命令は拒否できたが、文夫人に拒否はできなかった。一九九二年、彼女は私に、日本の十都市を回るッアーに同行するよう言った。私はまた妊娠していたが、自分の状態を義母には隠していた。妊娠だけが、私のもっているもののなかで、本当に私ひとりのものだった。私は選択の余地がなくなるまで、それを文鮮明の家族とは分かち合わなかった。

日本で「真のお母様」に捧げられている崇拝に満ちた献身は、私が韓国で経験したなにものをも超えていた。私は、文夫人が最高のホテルのスィートルー厶と最高の食事で迎えられることは予測していた。しかし、私が日本で見たものは歓待を超えていた。彼女の食器でさえ、二度とほかの人が使用しないように別にされた。なぜならばそれは「真のお母様」の唇に触れたからだった。日本人が文夫人に奴隸のように仕えることは、彼らが「真のお父様」を待ち望む気持ちを反映しているのだろう。文鮮明は、アメリカにおいて脱税で有罪になったため、日本への入国を禁じられている。

日本は帝国的カルト発祥の地と言ってよい。十九世紀、日本の天皇は神性を宣言され、日本の民衆は古代の神々の子孫であると宣言された。第二次世界大戦後の一九四五年、連合国により廃止された国家神道は、日本人にその指導者たちを崇拝することを要求した。権威に対する従順と自己犠牲は、最高の美徳と考えられた。

したがって、文鮮明のようなメシア的指導者にとって、日本が肥沃な資金調達地であることにはなんの不思議もない。年配の人びとには、自分たちの愛する者たちが霊界で平安な休息に達することを切実に望む気持ちがあるが、熱心な統一教会員たちはそれに目をつけた。彼らは何千人もの人びとに、これを買えば亡き家族は必ず天の王国に入れますよと言って、宗教的な壺や数珠、絵画を売りつけ、何百万ドルも巻き上げた。小さな翡翠の仏塔がなんと五万ドルで売れた。裕福な未亡人たちは、愛する人びとが地獄でサタンと苦しむことのないようにとだまされて、統一教会にその全財産を寄付させられた。

それは驚くべき光景だった。教会の会員たちが文夫人の世話をした。教会幹部たちは彼女にお金の袋をもってきた。あるとき、ひとりの会員が私の髪を整えているとき、私は時計をどこかにおいてきたのに気づいた。一時間もしないうちに、日本人たちからの贈り物として、高級時計を載せたトレイを手に、宝石屋がホテルの部屋にやってきた。「たくさんお取りください。ご家族の分もどうぞ」と宝石屋はしつこく勧めた。自分の時計を見つけ、彼らの気前のよさをていねいに断ることができたとき、私はほっとした。

日本経済は花開いていた。この国は急速に、文鮮明の金の大部分の出所となりつつあった。一九八〇年代半ば、教会幹部は、統一教会が日本一国だけで年に四億ドルの資金を調達した、と言っていた。文師はこの金を、彼の個人的快適さとアメリカや世界のあちこちで展開する事業への投資に使った。それに加えて、教会は、貿易会社、コンピュー夕ー会社、宝石会社を含む利益のあがる企業を、日本に多数所有していた。

文師は日本との重要な金銭関係を神学用語で説明した。韓国は「アダム国」、日本は「エバ国」である。妻として、母として、日本は「お父様」の国である文鮮明の韓国を支えなければならない。この見方にはちょっとした復謦以上のものがある。文鮮明や統一教会におけるその信者も含めて、日本の三十五年間にわたる過酷な植民地統治を許している韓国人はほとんどいない。

文鮮明の家族は韓国を出るとき、あるいは合衆国入国の際はいつも、税関で隅から隅まで調べられる。今回の旅も例外ではなかった。文夫人が取り巻きを引き連れている利点のひとつは、大勢の連れと一緒に入国することである。私には手の切れるような新札二束で二万ドルが渡された。私はそれを化粧ケースのトレイの下に隠した。シアトルで税関の係官が私の荷物を調べ始めたとき、私は息を止めた。私はグループの最後に税関を通った。私のバッグを探っている女性は、なにかを見つけだそうと心に決めているように見えた。私は、英語が話せないので彼女の質問がわからないというふりをした。アジア系の上司がきて、彼女を叱った。「この人は韓国語しかしゃベれないのがわからないのか」と上司は私に微笑みかけながら言った。「通してやりなさい」

私は密輸が不法であることを知っていた。けれども当時の私は、文鮮明の信者は「より高い法」に応えるのだと信じていた。質問せずに仕えるのが私の義務だった。私は逮捕されることよりもお金を失うことを心配して、言われたとおりにした。彼らがお金を見つけなかったことを、私は神に感謝した。私は世界を歪んだレンズを通して見ていた。そのなかでは、神は実際に私が税関の係官をだますのを助けたのだ。神は彼らがその金を見つけることを望まなかった。なぜならば、その金は神のためのものだから。

もし私がそのことをちょっとでも批判精神をもって考えたなら、私は街頭の物売りや仏塔の売り手たちが集めた金は、神とはほとんど関係のないことに気づいただろう。金の使い道のひとつは、ロックス夕ーになりたいという夫の青春の幻想に資金を提供するのに使われた。彼は教会員のグループと、マンハッタンのオールド・ニューョー力ー・ホテルに隣接する教会所有のマンハッタン・セン夕ー・スタジオでレコーディングを始めた。文師はこの施設を、神を中心にした文化を広めるために買った。メトロポリタン・オペラ、ニューヨーク・フィルハーモニック、ルチアーノ・パバロッティがそこでレコーディングをしている。一九八七年、文孝進もそこでレコーディングを始めた。「リバース」(再生)というのが、彼が「祝福子女」第二世代の四人のメンバーと吹き込んだ最初のアルバムの夕イトルである。

孝進は自分のCDとテープを、自分の唯ーの聴衆である統ー教会に売った。そのなかには彼が名目上の会長をしているCARP(大学連合原理研究会)もある。世界平和に捧げられた学生組織を自称する CARP は、統一教会のもうひとつの勧誘機関、資金調達の道具にすぎない。そのもっとも目立つ企画は、CARP が世界のいろいろな都市で毎年後援しているイン夕ーナショナル・ミス夕ー・アンド・ミス・ユニバーシティ大会である。

神の御業のために集められた金の多くは、文鮮明の「白い象」(無用の長物)に浪費された。「イーストガーデン」に建造させた二千四百万ドルの個人邸宅と教会の会議場のことである。おそらくウェストチェスター郡随一の醜い建物を建てるには六年間と、この年数とほとんど同じ数の建築家を要した。私たちは、建物が一ダースかそれ以上の設計変更を受け、経費が何百万ドルもオーバIするのを目にした。出現したのは石とコンクリートの怪物で、屋根からは雨漏りがした。

玄関の間とバスルー厶はィタリア直輸入の大理石が自慢だった。厚い樫の扉には朝鮮の花が刻まれていた。一階には宴会場、大勢いる文夫妻の幼い子供たちの寝室は二階、両親の贅沢な私室の先にあった。ふたつある食堂の片方には専用の池と滝。厨房にはピッツァ用のオーブンが六台。三階は遊戯室と文夫人の衣類用にふつうの寝室ほどの大きさのクローゼット。歯科医の診察室。それに文鮮明の秘書ピー夕ー・キムのオフィスが入った小塔があった。この建物は厚化粧したばかげた記念碑だった。ボウリングのレーンが地下室ではなく、文鮮明の寝室の真上にあった。私たちはその部屋を倉庫に使った。孝進と私、子供たちは、「真の御父母様」が新居に移ったあと、彼らが使っていた邸宅に引っ越した。

一九九二年の終わりに、文夫人は私にもう一度海外、今度はヨーロッパに同行するよう言った。私はいまや妊娠後期の疲労と闘っており、旅行をして「真のお母様」の世話をするのには耐えられないことがわかっていた。私が同行を断ったとき、彼女と孝進は激怒した。次に起こった出来事を、彼らが私の反抗に対する神罰と見たのはわかっている。

私は、一九九三年一月に、超音波検査を受けることになっていた。その力強い蹴りから、私には赤ちゃんが丈夫だとわかっていた。超音波のモニターのなかで激しく動く脚と手に、私は微笑んだ。「いいようですね」と医者は、私の膨らんだおなかにプローベを動かしながらいった。しかしながら、医者の微笑はすぐに消えた。「問題があります」と彼は優しくいった。その顔はあまりにも困惑していたので、私は尋ねなければならない問いの答えを知りたくはなかった。「どこが悪いのですか?」彼がロを開くまでの数秒が何時間にも思えた。「この胎児には脳がありません」「なんですって?脳がないのなら、どうして蹴飛ばすのですか?」それはただの反射だった。赤ちゃんには子宮の外で生きるチャンスはまったくなかった。

私はあまりにも激しく泣いたので、医者は私を裏口から出した。待合室にいるほかの妊婦たちを脅えさせるような顔をしていたにちがいない。家に帰るのに充分落ち着けるまで長いあいだ、私は車のなかにすわっていた。家に帰ったとき、孝進は主寝室に閉じこもっていた。私にはそれがなにを意味するのかわかっていた。彼はコカィンを吸っている。私は母に電話をかけた。はっきりしたことは言えなかった。言えたのはただ「赤ちゃんになにかとても悪いことがあるの」だけ。その赤ちゃんが蹴飛ばすのを、私はそのときもまだ子宮のなかに感じていた。

医師と私は、生きていけないとわかっている赤ちゃんを産むのは、私の子供たちに衝撃をあたえるだろうという意見で一致した。私は間違いがないことを確認するためだけに、もうひとりの医師から超音波検査を受けた。中絶手術がおこなわれる病院まで自分で車を運転していった。孝進はきたがらなかった。痛みと恐ろしい喪失感とは、私の予想を超えていた。私は彼に電話をして、迎えにきてもらわねばならなかった。黙って家まで帰るあいだ、彼は私の涙にいらだっているように見えた。私は長女の部屋に移った。私は孤独で、そして怒っていた。なぜこんなことが起こったのか?孝進の麻薬濫用が原因なのか?私が孝進を神の御許に連れ戻すのに失敗したので、神が私を罰しているのか?

私が給仕のため姿を見せなかったので、文夫人は心配した。私は孝進に、私たちが失ったものについて、彼の両親には細かいことを告げないでくれと頼んだ。それは個人的なことだった。「ただ流産したとだけ言ってもらえないかしら」と私は懇願した。仁進が四人目の子を産んだばかりで、私たちが一緒に住んでいる家のなかで、彼女の赤ちゃんの泣く声を聞くのは、心にナィフを突き刺されているようだった。「おまえ、おれに真の御父母様に噓をつけと言うのか」と孝進は憤慨したように尋ねた。私はただ少しのプラィバシーがほしいだけ。けれども私は知っているべきだった。それは文の屋敷内では高望みというものだった。彼は「真のお母様」にすべてを告げた。

私の秘密主義は文夫人を激怒させた。それは私が信用できないことを裏づけていた。私には二心ある。「真の御父母様」の御業をひそかに贬めようと企んでいる私の両親の手先だ。私と私の両親に対する批判の太鼓は、絶え間なく打ちならされるようになった。日曜朝の礼拝では、私はサタンの手先の娘とそしられた。私は自分についてはあまり気にしなかったが、子供たちが祖父母のことで、これほど醜い噓を聞かされるのはいやだった。

私の父と母は慎みのあるきちんとした人間であり、自分たちの人生、そして自分の子供たちの人生を文鮮明に捧げてきた。彼らの誤った自己犠牲の報酬は公衆の面前でのあざけりだった。一九九三年、父は脳溢血の発作を起こし、文師夫妻に欧州統一教会会長を免職された。父は韓国に帰り、父と母とが手助けして築きあげた宗教活動から追放された。

孝進は「お父様」が私の両親を攻撃したことで大胆になった。それにあわせて、彼は私に対する攻撃をさらに激しくさせた。一九九三年には、コカインを常用するようになっていた。彼は何日も続けて私たちの主寝室に閉じこもり、私はやむを得ず、予備の衣類を子供たちのクローゼッ卜にしまい、彼らの寝室を一緒に使わねばならなかった。

一週間中コカインを吸い、ポルノ・ビデオを見て過ごしたあと、ある晚、彼は私を自分の部屋に呼びつけた。私はいくのを拒否した。彼は叫び声をあげ、大声で卑猥なことを言いながら、私たちが教会関係の教室に使っている階下の部屋までおりてきた。彼はコーヒーテーブルを横倒しにし、私を部屋のひと隅に追いつめて、壁に打ち付けた。彼の顔は私の顔からほんの数インチのところにあつた。

私は911をダイヤルしようと電話に飛びついた。「警察を呼んでいるのよ」と私は警告した。しかし彼は受話器を私の手からはたき落とした。「よくも警察なんか呼べるな」と彼は叫んだ。「あいつら、ここじゃなんの権利もないんだ。おまえ、おれが警察を怖がると思ってんのか?このおれが?メシアの息子が?」

彼が次になにをするのかわからなかったので、私はできるかぎりの大声で助けを呼んだ。教室の扉は大きく開いていた。警備員や厨房係の「兄弟姉妹」たち、ベビーシッ夕ーたち全員に私の声が聞こえているのはわかっていた。だれもこなかった。だれが文孝進に立ち向かう度胸をもっているだろうか?だれがメシアの息子から私を守ってくれるだろうか?彼は私の叫びが役に立たないのを笑い、うんざりして教室を出ていった。私は兄に電話をし、警察にいくつもりだと言った。

私は涙を流しながら、玄関の間によろめき出た。そこで私の四人の子供のうちの三人が、階段に身を寄せ合っていた。彼らはすすり泣いていた。「ママ、いかないで」私が玄関へと歩いていくと、彼らは叫んだ。「すぐ帰ってくるから。心配しないで」と私は彼らの涙をふきながらささやぃた。

私はアービントン警察署へとまっすぐ車を運転していった。けれども一度駐車場に入ると、どうしたらいいのか、あるいはなぜ本当にきたのかわからなくなった。私は相変わらず恐怖と怒りで震えていた。私はそこに長い時間すわって、私を導いてくれるよう神に祈った。私はこの十一年間、自分の感情を隠し、外の世界から私の人生の事実を隠してきた。警察署の外に車を停めて、私はなにをしていたのだろう?警官が受付から見上げたとき、私は泣いていた。「助けが必要なんです」と私は言った。彼は私を裏の個室に案内し、私が何が起きたか話すのを静かに聞いていた。彼は住所を知っていた。彼は名字を知っていた。彼が驚いてはいないのは確かだった。

いくところはありますか?と、彼は知りたがった。家族はいますか?私にはただ兄がいるだけだった。彼はハーバードの学生だった。私は兄と兄嫁をこのことに巻き込みたくはなかった。彼女には両親とのあいだに、彼女自身の問題があった。私は彼女を私の問題には引き込みたくなかった。

警官は忍耐強く親切だった。彼は私の選択肢を説明した。私は孝進を暴行容疑で告訴できる。私は子供たちを家庭内暴力犠牲者のシェル夕ーに連れていける。私は彼にお礼を言ったが、心のなかでは自分がそのどれもしないだろうとわかっていた。私にできるのは警察に届け出ることだけ。逃げたいという欲求が欠けていたのではない。私には勇気が欠けていた。私は「イーストガーデン」に帰るのが恐かったが、そこ、アービントン警察署にすわっていたとき、これまで以上に、自分には逃げ場所のないことをひしひしと感じていた。

1993年2月、信吉5歳の誕生日を祝う。
文師と文夫人・韓鶴子は、私が数日前に中絶手術を受けたことを知らなかった。

出典:わが父 文鮮明の正体/洪蘭淑]

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