【わが父 文鮮明の正体】まとめ(10)

わが父 文鮮明の正体
Sponsored Links
Sponsored Links

第9章:脱会を決意したとき

文の屋敷から脱出すろ6カ月前。信勳誕生百カ日に「真のお父様」と「真のお母様」と。
孝進は飲酒とドラツグのために参加できず、私たちは伝統的な百カ日祝いを省略した

一九九四年、私の唯一の望みは子供たちが成長して、私が夫のもとを離れられるようになることだった。文鮮明が孝進との離婚を許さないのはわかっていた。だが私は空しい幻想を育んだ。せめていつか、私たちが別れて暮らせる日がくれば。「イーストガーデン」(東の園)から遠く離れたどこか小さなアバートで、ひとり静かに暮らすのが夢だった。子供たちが孫を連れて会いにくる。私は心安らかにいられるだろう。

それは二十八歳の女性が抱く目標としては痛ましいものだった。バーナード・カレッジで美術史の学位を取得したばかりだったが、私は人生の次の二十五年間をすっかり書きあげていた。美術に対する情熱、美術館か画廊で働くというぼんやりとした考えは、大好きな印象派の絵画に似て、夢のようにかき消えた。

三月、私はまた妊娠したことを知った。赤ちゃん誕生の期待にいつも感じる歓びは、今回は恐怖と混ざり合っていた。新しく子供が生まれるたびに、私の入獄期間は延長されるだろう。

これほど腐りきった結婚から、これほど貴重な命がなぜ生まれてくるのか、それは私にとってひとつの神秘だった。私を癒してくれたのは子供たちだった。彼らといると、快活で、くつろいだ気分になった。彼らの日課が、私たちに唯一ふつうの生活らしきものを提供してくれた。私は郊外都市に住む他のお母さんと同じように、子供たちをダッジのミニバンに乗せて、音楽や語学のレッスンに送っていった。子供たちの宿題を手伝った。寝る前には、彼らと身を寄せ合ってお話を読んでやり、彼らの日々の関心事に耳を傾けた。

父親が子供たちを心配させることがあまりにもたびたびありすぎた。「イーストガーデン」の出来事で、年長の子供たちに気づかれずにすむことはひとつもなかった。酔っばらった孝進の癇癯、コカィンによる意識の混濁、変わりやすい気分は子供たちの目に入らずにはいなかった。彼らは、真夜中、私たちが喧嘩をしている物音で目を覚ました。なぜお父さんは一日中眠っているのかと尋ねた。「なぜお父さんは悪い人なの?」と年長の子供たちは尋ねたものだ。「なぜお母さんはお父さんと結婚したの?」

孝進が最近は長時間家を留守にしてくれることを、私はありがたく思った。彼はマンハッタン・セン夕ー・ス夕ジオで仕事をし、オールド・ニユーヨー力ー・ホテルのスィートルームに泊まっていた。それは邸宅のなかの緊張を緩めてくれた。私たちは邸宅を仁進の家族と共同で使うようになっていた。私と子供たちはともに、ちょっとした幸せな時間、たわいのないとさえ言える時間をなんとかもとうとした。ある春、私は邸宅の車寄せで自転車に乗る練習をし、私より上手な子供たちを大いに喜ばせた。

一九〇六年、才ス力ー・ハマースタィンによりマンハッタン・オペラ・ハウスとして建設されたマンハッタン・センターが孝進の生活の中心になった。統一教会はこの建物を、隣接するオールド・ニューョー力ー・ホテルとともに一九七〇年代に購入した。一九八五年に、孝進が制作ス夕ジオと経営の責任をとるようになったとき、セン夕ーはただの練習場のようなものだった。私は文鮮明がこのような重要な会社を、自分を律することはもちろん、教育も経験もない息子に任せ、社長として行動させることに驚いた。だが驚く必要はなかった。世界中のどこでも、統一教会が新事業を獲得すると、新会社は文鮮明の家族の就職口に使われた。

結婚以来初めて、人生で初めて、二十三歳の孝進は仕事をもった。彼は教会のビデオ製作を監督し、教会員で作る自分のバンドの録音を続けた。私はロック・ミュージックのファンではないが、確かに孝進はいい声をした才能あるギタリストだった。彼は自分の音楽を愛していた。それは彼が人生にもった、ただひとつの汚れなき楽しみだった。

マンハッタン・セン夕ー・ス夕ジオは表向き、教会と関係のない独立した会社を公言していたが、社員は全員統一教会の会員だった。社員たちは孝進にメシアの息子にふさわしい敬意と忠誠を示した。孝進とともに、彼らはオペラ劇場を、専門的設備を備えたオーディオ、ビデオ、グラフィックの各部門をもつ最先端のマルチ・メディア・ス夕ジオに変えた。しかしながら、孝進の霊的段階の高さが仕事上の人間関係を緊張させた。こちらからは質問できないボスに答えるところを想像してほしい。ボスは自分の命令を実行する際に部下が見せるわずかの躊躇でも、自分に対する裏切りと考える。それは災厄への処方笺だった。

寛大な言い方をすれば、自由で形式張らないやり方で、お金はマンハッタン・セン夕ーに流れ込み、流れ出ていった。ある週には社員に給料が支払われないこともあったが、それは孝進が新機材購入のために、金庫内の数千ドルを別にしておいたからだ。社員のほとんどは隣のニューョーカー・ホテルに無料で住んでいた。マンハッタン・セン夕ーの通常の収入源であるス夕ジオの予約と宴会場でのイベント予定が充分に入らないとき、孝進はCARP(大学連合原理研究会)のような教会の組織に金を請求して、新しいビデオカメラ代や電気代を支払った。孝進への個人「献金」は新ス夕ジオビルと録音設備に資金を提供した。「真のお母様」を通じてマンハッタン・セン夕ーに流される教会の資金は、True Mother(真のお母様)の頭文字をとって、帳簿に「TM」と記載された。

マンハッタン・セン夕ーは孝進の道徳的崩壊に動力を供給するガソリンとなった。それはすぐ使える現金の出所となり、彼のコカイン吸引癖、増大しつつある武器庫、毎晩の酒飲みパーテイに資金を提供した。そのうえ、マンハッタン・セン夕ーはひとりで飲むのが大嫌いの孝進に、飲み友だちの安定した供給源を提供した。彼ら全員には、この「真の子女様」にかしずく以外に選択の余地はなかった。

統一教会員のほとんどは、なにかの集会のときに、舞台と自分たちの座席のあいだにある距離を越えて、「真の家庭」に近づくことはない。マンハッタン・センターのスタッフにとって、文孝進と直接仕事をする機会をもつことは、大きな誇りだった。しかしながら、彼らの多くにとって、それはまもなく霊的な葛藤の原因となった。孝進は側近たちに、クイーンズのコリアン・パーに同行を命じ、そこで「ホステス」たちとあからさまにふざけ回り、前後不覚になるまで酔っばらった。彼は人びとにコカインを吸うよう圧力をかけた。その人びとは、まさに孝進がおこなっている自己破壊行為を厳禁しているがゆえに、統一教会に引きつけられてきたのである。

彼のコカイン濫用がエスカレートするにつれて、ス夕ッフや家族に対する喧嘩腰の態度もエスカレートした。私に対する言葉による虐待は、卑猥な言葉に満ちた侮辱から肉体を傷つけてやるという脅しへとアップした。彼は私たちの寝室においてある銃ケースを開けて、強力なライフルの一丁をつかみ取り、尋ねたものだ。「これでおまえをどうしてやれるかわかってるな」彼は「真の御父母様」からの贈り物であるマシンガンを私たちのベッドの下に入れていた。マンハッタン・センターでは、彼の機嫌を損ねた者たちには、もし文孝進を裏切ったら、自分たちの身にあたえられるであろう暴力を、まるで目に見えるように描いて聞かされるのがいつものことになった。彼は熟練したハン夕ーであり、あるとき側近たちの集まりで、最近マンハッタン・セン夕ーを離れた社員の皮をどうやって剝ぎ、内臓を出してやりたいか、微にいり細にわたって話して聞かせた。

統一教会の外にいる人には、マンハッタン・セン夕ーで孝進の近くにいた人びとがしばられていた束縛を理解するのは難しい。一方では、彼らの指導者は、彼らの信仰に敵対する活動に没頭している。他方では、孝進はメシアの息子である。おそらく彼には、いまのような行動をするためのなにか特別な神の摂理があるのかもしれない。もし自分たちが従わず、孝進とともに禁じられている行動をしなければ、自分たちは自分たちのより劣った判断を、「真の子女様」の判断と置き換えていることになるのではないか?自分たちはメシアに正直であるべきなのか?それともメシアの息子に忠実であるべきなのか?自分たちは文孝進を暴くことによって、あるいは隠すことによって守るのか?

教会の権威主義的性格を考えればありえないことだが、もし彼らのうちのひとり、あるいはひとり以上の人間が、孝進の行動に疑問を抱くだけの独立心を持っていたとしても、彼らはそれをだれに話すことができただろうか?ただ「イーストガーデン」に電話をかけて、文鮮明と話したいのですが、と言うことはできない。もし会員のひとりが文夫人と面会の約束をしようとしても、その情報はすぐに知れ渡ってしまう。自分の信頼している顧問のひとりが「真の御父母様」のところにいって、彼らの息子は大量飲酒者で麻薬中毒で女好きだと告げたことを知ったら、孝進は喜ばないだろう。

反対に、側近たちは次はどうなるかわからない孝進の性格をいやというほど経験していたので、彼の気を鎮めるためならなんでもした。彼は自分の下で働く人びとが自分の気に入らないことをすると、「おれはけちな悪党だからな」と言って、彼らを脅えさせた。これは、彼が自分を呼ぶときのお気に入りの表現のひとつだった。

そのことを私以上に思い知らされた者はいない。九四年九月、孝進は私を激しく殴った。私は、彼が私たちの寝室で、家族のひとりと午前三時にコカインを吸っているのを発見した。私は怒りを抑えられなかった。「これが家族にさせたい暮らしなの?」と私は尋ねた。「あなた、こんなふうな父親になりたいの?」私は言った。もうこんな生活は我慢できない。私はコカインをトイレに流そうとし、その途中でいくらかを浴室の床にこぼした。彼は私を床に押しつけ、私がとにかく回収できた白い粉をすくい取らせた。彼は私の顔をげんこつで殴り、私は鼻から血を流した。彼は手で私の血をふき取り、それをなめた。「いい味だ」と彼は笑った。「こいつはおもしろい」

そのとき、私は妊娠七力月だった。彼が私を殴っているあいだ、私は手でおなかを守った。「その赤ん坊を殺してやる」と孝進は叫び、私には彼が本気なのがわかった。

翌朝、子供たちは目に涙をため、黒くなった私の目には水を、打ちのめされた私の魂には抱擁をくれた。孝進が私に警告をあたえなかった、と言うわけにはいかない。いったい何度私に言っただろう。自分のなかには深い暴力の井戸がある、と。「おまえがおれをあまりにも遠くまで押すと、おれには自分が止められなくなる」いま私には、彼が大げさに言っていたのではないことがわかった。

孝進は自分のふるった暴力について、なんの後悔も感じていなかった。のちにマンハッタン・センターの側近たちに語ったところによれば、私に平手打ちを喰わせたのは、私が彼を「怒らせた」からであり、私は彼に、学校時代の教師を思い出させるのだそうだ。その教師は、いつも同級生の前で、彼に恥をかかせようとしたという。彼は言った。あいつは信心深くてロうるさくて、独善的な売女だ。

私に対する彼の軽蔑がどんなに強くても、それは自分の父親に対する彼の憎しみの足元にも及ばなかった。彼は文鮮明を嫌い、嫌うと同じだけ愛した。私やマンハッタン・セン夕ーの社員の前で、父親をばかにして、父親は耄碌した愚かな老人で、引っ込む時を知るべきだと言った。自分の子供たちのための時間を一度ももったことのない、無関心な父親だと告発した。子供のころ、アメリカ人同級生から「ムーニー」とあざけり笑われたことで、父親を非難した。統一教会の法定推定相続人という重荷を恨めしく思っていたが、父親の期待に応えられない自分にもっといらだっていた。マンハッタン・センターの警備主任はしばしば孝進のために武器を調達し、孝進はセン夕ーに銃を一丁しまっていた。ハイになると、孝進は銃を大きく振り回し、父親がもしマンハツタン・セン夕ー経営に口出ししようとしたら、銃で撃ってやると脅した。

孝進のワンマン経営は絶対だった。彼はマンハッタン・センターの金を、まるでそれが自分のものであるかのように使い、会社における彼の財政顧問、ロブ・シュワルツとの共同名義口座に自分の給料支払い小切手を入金させた。マンハッタン・セン夕ーは、彼の気まぐれのすべてを満足させるためにあった。一九八九年に、そして一九九二年にもう一度、彼は会社の金で「お父様」に新しいベンツを買うようシュワルツに指示した。また別のときには、文の親類縁者専用に長さ十八フィートの釣り船とトレーラーを購入した。アービントンの敷地内に保管された自動車やボートが、マンハッタン・セン夕ーの事業とどんな関係にあるのか、だれもが疑問に思うところだ。

孝進が自分の個人資金と教会のお金、そして会社の会計をごっちゃにする無頓着なやり方は、国税庁を当惑させたことだろう。一九九四年、彼は妹のひとりに三万ドルを渡すようロブ・シュワルツに命じた。この資金譲渡をどう隠すか、マンハッタン・セン夕ーで内輪の話し合いがおこなわれた。最終的には、マンハッタン・セン夕ーで開催されたミス夕ー・アンド・ミス・ユニバーシティ大会の収入が帳簿に記載されず、三万ドルは妹にあたえるよう、孝進に手渡された。その前年には、合衆国ツアー途中の統一教会日本人会員一行が、マンハッタン・センターを訪れた際、孝進に現金で四十万ドルの個人「献金」を渡した。彼は金の一部を別にとっておき、残りをマンハッタン・セン夕ーのお気に入りのプロジェクトに使った。彼はこの金銭譲渡を納税申告書には記載しなかったし、その金について一銭の税金も支払わなかった。

一九九四年二月、孝進は現金六十万ドル入りのブルーミングデール百貨店の紙袋をマンハッタン・センターに持ち込んだ。その日早く、私は寝室で彼がお金を数えるのを手伝った。彼は側近の顧問たちを自分のオフィスに集め、彼らが啞然として見ている前で、こんな大金を見たことがあるかと尋ねた。彼が告げなかったのは、「お父様」が実際にはマンハッタン・セン夕ーのプロジェクト資金として合計百万ドルをあたえたことだった。彼は四十万ドルを自分用にピンハネし、それを寝室のクローゼットの靴箱に隠した。十一月までには、その全額を、ほとんどはドラッグに使い果たした。

おそらく一九九四年十一月まで、文鮮明は孝進がマンハッタン・セン夕ーを自分専用の小口現金引き出しにし、ニューョー力ー・ホテル三十階の家族専用スィートルームを専用の阿片窟にしている、程度のことも知らなかったのだろう。文鮮明が知らなかったのは知りたくなかったからだ。文師夫妻は、孝進との親子関係の性格を、彼が少年時代に友人を空気銃で撃って退学になったときに決定した。このときも、そしてそれ以降すベての面倒な事件のときも、彼らは、息子に自分の行動の責任をとらせようとはしなかった。孝進は、悪いことをしてもなんの罰も受けないと信じて育ち、両親と教会の身分制度は、その間違った考えを正すためになにもしなかった。

たとえばその秋、孝進は定時制の学生として出席していたニューヨーク州パリー夕ウンの統一神学校(UTS)で「信仰生活」講座のゲスト・スピー力ーだった。別の学生が彼の指摘について一般的な質問をした。それは孝進の気に障り、彼はひとことも言わずに、その学生の席までいって彼を殴り始めた。学生はすわったままで、殴り返さなかった。

この事件のあと、孝進は学部長のジェニファー・夕ナベから二通の手紙を受け取った。一通は孝進と彼が襲いかかった相手であるジム・コービック両名に宛てた叱責の手紙で、もう一通は孝進への個人的なメモだった。このメモは、彼に公式の手紙は無視するよう勧めていた。「あなたにこのお手紙をさしあげるわたくしの意図は、あなたを非難することではなく、あなたをありうるかもしれないすべての非難から守るためであることをご理解ください。あなたを支持するために、わたくしは最善をつくします。これは神の御前でのわたくしの決意です」と彼女は書き、信じられないことに、彼女の教室のひとつで学生を殴った男に対する謝罪の言葉でこのメモを終えていた。「私は UTS があなたにこのような悪い思い出を残したことを申し訳なく思います。将来 UTS が、あなたに喜びと霊感とをもたらすことのできる場所とお考えいただけるようになることを願っております」

十一月までに、孝進は言い訳と擁護者を使い果たしかけていた。この月は私たちの五番目の子で次男となる信勳の誕生で幕を開けた。陣痛が始まったとき、孝進はバーに出かけていたので、私は助手席にべビーシッ夕ーを乗せ、自分で車を運転して病院にいった。私と新しい弟の見舞いに子供たちを連れてこられるよう、彼女に道を覚えてもらいたかった。出かける前、私は子供たちを寝かせつけた。私は彼らに出産のため病院にいくことを告げ、あしたは、私がどこにいるのかだれにも言わずに学校にいくよう言いつけた。文家の息の詰まる世界で、個人的な生活を望む私の気持ちは頂点に達していた。私はマサチューセッツにいる兄に電話をかけ、病院にいくところだと知らせ、韓国の両親に電話をするよう頼んだ。

孝進が一緒でなくてもかまわなかった。これは私の赤ちゃん、私と子供たちの赤ちゃんだ。家族として、孝進は私たちとはなんの関係もない。バーのホステスと一緒のほうが好きだというなら、私の息子の誕生に立ち会わねばならない理由がどこにある?午前四時、私は帝王切開が必要だと告げられた。医者はどうしても夫に電話をかけるよう言った。彼は眠っていた。私が廊下の先の子供部屋のどれかにいるのだと思いこんでいた。彼は私にすぐきて、性的なサービスをしろと言った。私が手術室に運ばれるところだと聞いて、彼はびっくりした。

彼は疲れていていかれない、と言った。「ところで病院はどこだ?」と彼は聞いた。これは私たちの五番目の子供だった。それなのに、子供たちがみんなどこで生まれたのかも知らないのか?私はかっとなって答えなかった。孝進は怒鳴り始めた。私は受話器をおいた。けれども気を落ち着けたあと、もう一度電話した。「忘れろ」と彼は冷たく言った。「おれはいかない。おまえがおれのところに赤ん坊を連れてくればいい」

私は、涙の向こうに初めて「フーニー」(信動)を見た。ほとんど九ポンド近くあったこの大きな男の子を医師が私の子宮から取り出しているあいだ、看護婦が私の目をぬぐい続けていた。赤ちゃんの頭全体に真っ黒な髪の毛が生えていた。臍の緒が腕に巻き付いていたため、自然分娩が難しかったのだ。目は半分閉じていたが、産声は元気いっぱいだった。

孝進は二日間、赤ん坊を見にこなかった。彼の誇りと無関心がその足を遠ざけていた。私も孝進と同じように頑固だったが、息子を見にくるよう彼に電話をした。彼は私とはほんの数分いただけで、新生児室の窓越しに信勳を見た。息子を抱きたいと頼みもしなかった。その夜、べビーシッ夕ーが子供たちを連れてきた。子供たちの顔を見て、私は本当に幸せだった。彼らは全員、新しい弟との写真撮影のためにポーズをとり、私に早くおうちに帰ってきてとせがんだ。

手術のせいで、医者は私をもっと長く入院させておきたがったが、私は翌日家に帰った。文の屋敷内のだれにも帝王切開のことを知られたくなかった。文師夫妻が知らない情報をもつことは本当に異常なことだった。私は手術を自分の秘密にしておきたかった。孝進は子供たちとべビーシッ夕ーを連れてニ台の車で私たちを迎えにきた。チャィルドシートの取り付けに我慢できないくらい時間がかかったとき、彼は信吉と家に帰ってしまい、べビーシッターと帰るよう、私をおいていった。その夜、孝進はニューヨークにいくと告げた。私たちの赤ちゃんを家に連れ帰ったまさにその日を選んで、夫が愛人を作つたということを、私はあとになるまで知らなかった。彼はオールド・ニューョー力ー・ホテルの私たちのスィートルームの私たちのベッドで、マンハッ夕ン・センターの社員アニーと寝たのである。

私がアニーを知ったのは、彼女が数年前にコロラドでの教会の武術大会で初めて孝進を見て以来、彼に書いてきた何十通もの手紙によってである。彼女の手紙はファン・レターそのものだった。孝進は、彼をメシアの息子とあがめる男女両方の教会の若者から、似たような手紙をよく受け取った。私はアニーが孝進にのぼせ上がっているのを一度も深刻には考えなかった。彼女自身はアメリカ人で、韓国人会員と結婚し、幼い息子がひとりいた。その年、彼女は教会の人事で駐在していた日本から自分たち夫婦を呼び戻してくれるよう孝進に訴え、そのあとニューヨークにきて、マンハッタン・センターで彼と働き始めた。

孝進は彼女のことをよく話したが、私は最初ふたりの関係の性格に疑いを抱かなかった。彼らのまわりにいるほかのだれの目にもしだいに明らかになってきたことを、たぶん私は見たくなかったのかもしれない。私には彼のコカイン中毒のほうが心配だった。彼はマンハッタン・セン夕ーにいかないときは、ずっと自分の部屋に閉じこもっていた。あとでわかったことだが、私ひとりが心配していたわけではなかった。

子供の誕生後二十一日目に、統一教会では、赤ちゃんの健康を神に感謝するためのお祈りをおこなう。私は非公式のお祈りを子供たちとおこなった。孝進は一晩中飲みにでかけていて、帰ってこなかった。彼の妹恩進が、その午後、赤ちゃんを見にきた。何年も親しくつきあっていなかったが、私は「イーストガーデン」にきた当初、彼女が見せた親切を一度も忘れなかった。

彼女は孝進のことが心配なのだと打ち明けた。彼はとてもやせた。食事もしない。彼のお酒とドラッグの問題は悪化していると思うか?「真の御父母様」は彼に中毒治療を受けさせるべきだと思うか?私は、彼の堕落しつつあるライフスタイルを見たままに話したが、彼が自発的に中毒問題に立ち向かうとは思わないと言った。

その翌日、彼は社員のためにマンハッタン・センターで感謝祭のパーテイを開いた。彼はワインを出した。彼の飲酒癖とコカイン使用を本当に知っていたのは側近だけだった。残りの社員は教会のお祝いにアルコールが出ているのを見て衝撃を受けた。文師はそのことを知ると、マンハッタン・セン夕ーの社員に、孝進抜きで、自分に会いにくるよう命じた。彼は統一教会の指導者は文鮮明である、と念を押した。社員たちは、孝進を危険な状況から引き離すことによって、彼を支えるべきだ。

私は孝進のアシスタント、マデレーン・プレトリゥスに電話をして、この会合の成り行きを尋ねた。私たちはおたがいをよく知らなかった。学校のお芝居に出る子供たちを彼女がビデオ撮影にきたとき、一度会っただけだった。彼女は私に「お父様」の言葉を伝え、社員たちが文師や私に真実のすべてを語ったわけではないことを認めた。文師は彼らに、孝進と一緒にたばこを吸ったり、酒を飲んだりするかと尋ねたが、それを認める者はひとりもいなかった。しかし彼女は言った。実は、いつも彼と一緒に、バーやオールド・ニューョー力ー・ホテルのスィートで、たばこを吸ったり、酒を飲んだりしているんです。

私はぞっとした。彼が自身に対しておこなっていることは、それだけで充分に悪いことだ。けれども教会員を自分と一緒に下水に引き込むのは許しがたかった。彼がそのために私たちのアパー卜を使っていることに腹が立った。これが私たちの結婚の終わりの始まりだった。もっともそのとき、私はそれを知りはしなかったが。私のなかのなにかが、ぽっきりと折れようとしていた。私はこの悪しき男と惨めな生活をすることが、私の運命、神からあたえられた私の使命なのだと受け入れてきた。けれども、そのときはまだ自分が信じていた教会の会員たちが、孝進の権力濫用のために罪へと引き込まれざるをえないことは承諾しがたかった。

私はマンハッタン・セン夕ーにいる彼に電話をかけた。面と向かうよりも電話のほうがずっと大胆になれる。面と向かえば殴られるかもしれない。私は電話で、あなたを獣だと思う。子供たちと私はあなたに家に帰ってきてほしくないと言った。

それは私としては先見の明のない対応だった。なぜならば、もちろん、彼は家に帰ってきたし、家に着いたら私を探したからだ。私は怒りのあまり、すでに彼のクローゼットを片づけ、バッグを詰め、ポルノ・ビデオを切り刻み、それをすべて廊下の奥の倉庫に入れていた。私はドアがばたんと閉まるのを聞いた。彼は階段を駆け上がってくると、私の襟首をつかみ、自分の部屋へと引きずっていった。彼は私を乱暴に椅子に押し倒し、私が立とうとするたびに、ふたたび突き倒した。「マンハッタン・セン夕ーの連中の前で、よくもおれに恥をかかせようとしたな」と彼は叫んだ。「おれに命令するなんて、貴様、自分を何様だと思ってるんだ」彼は私にのしかかり、絶え間なく平手打ちを喰わせ、突いた。逃げ道はなかった。

私が助かったのは、ただ彼が保護観察官との約束に遅れていたからだ。彼はまだ飲酒運転で保護観察中だった。彼は電話をかけて、家族に急用ができたと言い立て、約束をキャンセルしようとしたが、保護観察官はどうしてもくるようにいった。彼はこれまでにあまりにも何度も約束をすっぽかしていた。「帰ってきたら、家族会議を開くからな」と彼は言った。「おまえは子供たちに、お父さんを批判して悪かった。お父さんは自由にたばこを吸ったり、ビールを飲んだりしていい、おまえは悪い母親だと言うんだ。わかったな」私はわかったと言った。彼を出ていかせるためなら、なんだって言っただろう。

彼が出ていくとすぐに、文夫人のメイドが電話をしてきた。「お父様がいますぐあなたと会いたがっています」と彼女は言った。私は、夫が正しい道を見つけるのを手伝うのに失敗したことで、またぞろお説教をされるのだろうと思った。もうたくさんだ。こちらが先手を打つ時がきていた。どういうわけか、虐待がひどくなっていることが私を大胆にした。これ以上、殴られはしないと、意識的に決心したわけではない。しかし、その夜、文師夫妻の書斎で、私は初めて自分自身のために立ち上がった。

私が彼らのスィー卜ルームに入っていくと、文夫人が私に「お父様からあなたにお話があります」と言った。私は尋ねた。「おふたりとお話しできますか?申しあげなければならないことがあります」

私がたったいま起こった場面を話しているあいだ、文師夫妻は黙って聞いていた。「悪影響を受けているのは私やマンハッタン・センターの人たちだけではありません」と私は言った。「孝進は私が子供たちに、彼がアルコールやドラッグをやることには問題はないと言うよう望んでいます」「お父様」から反応を引き出すのにはこれで充分だった。「だめだ。だめだ」と彼は言った。「おまえは子供たちに、正しいことと悪いことを教えなければならない」私は時計を見続けていた。私は「真の御父母様」に言った。孝進が保護観察官との面会から帰ってくる前に、もどっている必要があります。

文師は数分間黙っていた。「おまえをマンハッタン・セン夕ーにやって、彼を監視させよう。おまえは彼の影になるのだ。おまえに責任をもってもらいたい。おまえは彼が絶対に金をドラッグや酒に使わないようにできる」

私はびっくりした。だが、私をマンハッタン・セン夕ーにおける文鮮明の目や耳とするのは、彼が私の能力を信じているからというより、私の忠誠を確信しているからだとわかっていた。マンハッタン・センターの社員は孝進に忠誠を誓っている。私は「真のお父様」に従う。短期的には彼は正しかった。しかし長期的に言えば、やがて明らかになるように、私は、自分の忠誠心が最終的には神と子供たちと自分自身に対するものであると思い知る。

家に帰ったとき、孝進はまだもどっていなかった。私は長女を自分の部屋に呼んだ。「お父さんは家族会議を開きたがっています」と私は彼女に言った。「お母さんは、自分が信じていないことを言わなければなりません。そうしないとお父さんがとても怒るからです」彼女は、私が彼の要求どおりに言おうと考えていることにあきれ果てた。「お母さんは悪いお母さんじゃない。いいお母さんよ。お母さんはお父さんがしているのがいいことじゃないと知っているのに、それをしてもいいことだとは言ってはいけないわ」私が真実を曲げてもかまわないと思っていることに、彼女が落胆しているのがわかった。自分の十二歳の娘を前にして、私は恥ずかしく思った。幼い年齢ながら、その正義感はすでに立派に磨き上げられていた。

私は自分勝手だった。これ以上の暴力、これ以上の怒鳴り声を避けたかった。彼が帰ってきて、子供たちにお母さんはお父さんに不公平だったと言うよう命じたとき、私はそのとおりにした。娘の目に涙があふれた。だが悲しかったのではない。彼女は怒っていた。「それは噓よ」と彼女は父親に向かって叫んだ。「お母さんはいい人よ。お母さんはいつも私たちと一緒。お父さんはここにいたことがない。お父さんになにがわかるの?」孝進は怒りの鉢先を彼女に向け、反抗的な子供を育てていると言って、アメリカの学校を非難した。

幼い娘の勇気を目の当たりにして、私は自分を臆病者のように感じた。気を落ち着けたとき、孝進は娘に告げた。自分が家庭から離れて時間を過ごさなければならないのは、教会のための自分の使命を追求しているからだ。私はその皮肉を思わないわけにはいかなかった。この言い訳は彼自身の父親のロから出るとき、彼があれほどさげすんだ言い訳であったからだ。

怒って抗讓はしたものの、驚いたことに孝進は、マンハッタン・センターでの私の新しい役割を受け入れた。彼は「お父様」が私をそこにおいた理由を疑わなかった。私に対してわずかな敬意ももっていなかったので、おそらく私がいても自分にはなんの脅威にもならないと考えたのだろう。彼はすぐにそれが間違っていたことを知る。私は最初に出した指示のひとつで、孝進の側近と文鮮明との会合を「イーストガーデン」で設定した。文師は彼らに、孝進と一緒にドラッグをやったり、酒を飲んだりしてはいけない、とこれ以上ないくらいはっきりと告げた。彼らの忠誠は「お父様」に捧げられるべきであり、マンハッタン・セン夕ーでは孝進ではなく、私の指示に従わねばならない。

孝進に対してどんなに怒っていたとしても、私にはまだ、彼を飲酒とドラッグ濫用に走らせたのは、私に妻としての理解と支持が欠けていたからだという非難に耳を貸すだけの余裕はあった。

なんらかの形で私に責任があるのであれば、私たちのためではなくてもせめて神のために、私はもう一度、ものごとをきちんとするよう全身全霊で努力してみなければならない。私は十二月、自由時間のほとんどを孝進と一緒に過ごした。彼と一緒にどこへでもいった。彼がコカインを吸っているときは、一緒に家にいた。

ドラッグは彼を饒舌にし、私は何時間も、神とサタンと文鮮明についての彼の意識の流れが言葉にされるのを聞いた。聞けば聞くほど、私は孝進には善悪の本当の感覚がないのだと確信するようになった。彼が哀れな言い訳をひねり出し、その道徳観を自分の状況に都合よく合わせていくのを聞くのは悲しいことだった。

ドラッグによって引き出された彼の独り言は、彼自身を必ず、両親の怠慢、妻の厳しい評価、教会の非現実的な期待の犠牲者として描き出していた。これまでにしてきた誤った選択、そしていまもとり続けている誤った選択について、夫にもなんらかの責任をとれるというかすかな兆候を期待して、私は耳を傾けた。

だが、そのようなものはまったく聞かれなかった。文孝進の問題はすべて、他人の過ちだった。彼がこのような態度をとり続けているかぎり、どうして本当に神に仕えることができるだろう?本当に子供たちのよき父親になれるだろう?

マンハッタン・セン夕ーで、私は会社の金銭状況、心霊状況をきちんと秩序立てる仕事に取りかかった。私は孝進のアシスタント、マデレーン・プレトリウスに指示を出した。今後は孝進に一度に数百ドルの「小口現金」支払いをしないこと、わずかの仕事で高給を得ていた社員は配置換えすること、すべての重要な決定には私の同意を得なければならないこと。

私には、マンハッタン・セン夕ーでやるべき仕事がもうひとつあった。私は孝進とアニーが愛人関係にあるかどうか知ろうと決めていた。マデレーンはそう疑っていた。私の義弟朴珍成でさえ、ふたりのあいだにはなにかあるとほのめかした。私は何度も孝進に直接尋ね、予想どおりの否定的回答を得たが、それを信じはしなかった。私がマンハッタン・センターで働き始めたあと、彼はふたりの曖昧な関係のことで、私をなぶった。彼はからかうように尋ねた。「なんでアニーのことを心配してるんだ?」

十二月の終わり、私は彼が告白するまで問いつめることに決めた。真実が顔を出すまでには、何時間もそっとなだめたりすかしたりしなければならなかった。最初彼は「いや、おれは彼女に触ってもいない」と言い続けた。「そう、もしかしたらキスしたかもしれない」と彼は譲歩した。「オーラル・セックスはやったかも」彼が不貞を認めていけばいくほど、彼の説明はこじつけに近くなってきた。「挿入した。だけど射精はしなかったから、こいつは数に入らない」と彼は言い、そのあとようやく「射精はした。けど彼女はピルを飲んでたから問題にはならない」と告白した。私は思った。この男は、自分がどんなにみじめに聞こえるのかすらわかっていないのではないか。

彼が家族に対する裏切りを語っているあいだ、私はとても落ち着いていた。心のなかではずっとわかっていた。彼の告白はただの確認にすぎなかった。彼は泣き始め、私の許しを乞うた。私は許そうとしてみるけれど、彼が自分の罪を償うまでは一緒に寝ないと言った。「なぜアニーなの?」と私は衝動的に聞いた。「それほどきれいじゃないのに」それはまるでガソリンにマッチの火を近づけたようなものだった。彼は怒りを爆発させた。「彼女は美人だ!」彼は叫んだ。「彼女だけじゃない。教会中の女がおれをほしがってる。おれは目に入った一番いい女とやるんだ。おまえに見せてやる」

私は呆然とした。これがメシアの息子と主張している男、数年前、教会の礼拝で立ち上がり、「祝福」の神聖さについて説教した男なのだ。「もしあなたたちが放縦で、堕落した世界の肉欲におぼれたら、あなたたちはどうやってメシアと結びつくことができるだろう?あなたたちにはできない。だからこそ犠牲の概念が広められ、支持されるのである」と彼はベルべディアの日曜朝の集会で語ったのだ。

「もしお父様があなたたちにこの部屋から出ていき、酒場へいけ、酔っばらえ、娼婦たちの歩く通りにいって、彼女たちのあいだに留まれと言ったら、あなたたちはそこで出会うと予測していた誘惑、予測もしていなかった誘惑にうち勝てるほど強いか、それほどお父様を愛しているか?あなたたちは、あなたたちの純潔と完全性を守れるか?本当にそうできるか?人びとを変えるためにそのような環境に暮らすことは、そこで暮らすための立派な理由だ。だが、女に触れる誘惑、美しい女たちを見つめる誘惑、賢明な決定を下すあなたたちの能力がしだいに弱まっていく場所で酔っばらう誘惑にうち勝つのに充分なほど、あなたたちはお父様をよく知っているか?その状況下で、あなたたちはお父様を死守することができるか?あなたたちはどんな状況であっても、お父様を捨て去らずにいられるほど充分に強いだろうか?」

いま私は知った。文孝進がこれらの問いを投げかけた相手は会員ではなく、自分だったこと、そして答えは、悲しいかな、「いいえ」であることを。孝進はその人生を規定したパ夕ーンを追い続け、統一教会最悪の罪である不貞の責任をとることを拒否した。彼は私に教会が禁じる性的行為は自分には適用されないと言い、あとから知ったところでは、アニーや自分の側近にもそう言っていた。「お父様」は不義を働いた。自分もメシアの息子として、そうしてよい。彼の性関係は「摂理」、つまり神より定められたものなのだ。

のちにアニーは私にこう手紙を書いてきた。「『おれには、自分になにが許されているかわかっている』という孝進を私は信じました。私も彼とともに堕落しつつあること、彼はそれを私にほのめかしさえもしませんでした。私はマデレーンから、お父様がお母様以外の女性と関係をもち、息子がひとり生まれたという話を聞きました。このことはあとで孝進と珍成様からも本当だと言われました。それが本当か、そしてどんな意味をもつのか、私たちは話し合いました。お父様の純潔や方針に疑問をもったことはありませんでした。でも私が、真の家庭の内部には、神の摂理で動くことが多くあり、私はそれを理解も判断もできないと感じ始めたのは確かです」

私は孝進の主張を直接「お母様」にぶつけた。彼女は怒り、同時に涙を流した。彼女は私に言った。このような苦しみは自分で終わりになるように、それが次の世代には伝わらないようにと願っていた。彼女は請け合った。「真のお母様」ほどに、夫に浮気される苦しみを知っている者はいない。私はびっくりした。私たちは何年ものあいだ、文鮮明の情事と、彼が婚姻外に作った子供たちの噂を聞いてはいた。しかし、ここで「真のお母様」が、噂が真実であることを確認しているのだ。

私は彼女に、孝進が自分がだれとでも寝ることは「摂理」である、「お父様」の浮気と同様、神から霊感をあたえられたものだと言っていると告げた。「いいえ、お父様はメシアです。孝進は違います。お父様がなさったことは神のご計画でした」文鮮明の不貞は、彼女が「真のお母様」となるために受けねばならない苦しみの道程の一部だった。「孝進には浮気をする言い訳はありません」と彼女は言った。

文夫人は孝進の主張を「お父様」に話し、文師は私を自室に呼びつけた。「お父様」はくり返した。自分の過去に起こった出来事は「摂理」である。それは孝進とはなんの関係もない。文師からこのことを直接聞かされて私は当惑した。混乱もしていた。もし韓鶴子が「真のお母様」なら、もし文鮮明が地上における完璧なパートナーを見つけたのであれば、彼の不貞は神学的にはどう正当化されうるのだろうか?

もちろん私は尋ねはしなかった。しかし、文師夫妻の関係について新たな認識を得て、その部星を出た。文夫人がこれほど絶大な影響力をふるうのも不思議はない。彼女は文鮮明の不貞を暴露しなかったので、彼はこれまでの歳月ずっと、そのことで夫人に借りがあった。彼女は文鮮明の不貞と裏切りに対して休戦協定を結んだ。お金、世界旅行、人びとからの崇拝で、おそらく彼女には充分な代償となったのだろう。

私にはそれでは充分ではなかった。このとき一度、孝進はすべての行動には反動があり、悪いおこないをするたびに、その結果に直面しなければならないと知ることになる。私は文師夫妻からアニーを追い出す許可を得た。しかし、最初に、彼女に真実を語る機会をあたえた。私はァニーに、私や彼女の夫、そして神に対する彼女のおこないを認めさせたかった。彼女は「真の御父母様」の名において誓った。自分と孝進はなにも悪いことはしていない。

マンハッタン・センターから追放されたあと、彼女はメーン州の両親の家から私に手紙を書いてきた。彼女の夫は息子を連れて日本にもどってしまった。彼は離婚を望んでいる。「いま、私はあなたの痛み、苦悩、涙を味わうことができます……」と彼女は突然罪を深く悔い、私の許しを乞うてきた。彼女はそのあとも何度か手紙を寄こし、私の夫との性生活を、必要以上に詳しく描き、自分の行動に対する責任を受け入れると主張した。

統一教会の暦には「御公現の祝日」(東方の三博士がイエスの誕生を知らせにべッレヘム来訪したのを祝ぅキリスト教の祝日)はない。しかし私自身の御公現の祝日は一九九五年一月のある日に訪れた。私の解放の種は、その前の秋、孝進の浮気騒ぎと教会員の面前でドラッグ使用を誇示したときに蒔かれていた。寒い一月半ばの一日、私はそれまで本でしか知らなかったあの啓示の瞬間を体験した。孝進はその夜、バーに出かけるために服を着ているところだった。この数力月間の出来事も彼の習慣を少しも変えていなかった。私は寝室の椅子から、彼が大きな鏡に全身を映しているのを見ていた。彼はいつもとてもうぬぼれが強かった。けれども彼がシャツをズボンのなかにたくし入れ、髪をとかしつけているのを見ていたとき、私は結婚生活で初めて体験する無関心を感じた。嫌悪感さえ消えていた。

天からの声も目の眩むような光もなかった。私にはただわかった。神は私がこれ以上ここに留まることをお望みになってはいない。夫は決して変わらないだろう。神ご自身が文孝進を見捨てられた。私は自由に出ていってよいのだ。私は幸福感に圧倒された。孝進に対しては哀れみを感じるだけだった。彼は迷える魂であり、正義と悪の概念をもたず、神を本当に理解もしていなかった。

虐待されてきた女にとって、決心から行動までのあいだには長い道のりがあり、私たちの多くはその道をひとりで歩くことはできない。私にとって、ひとりで歩かずにすんだのは幸運だった。マデレーン・プレトリゥスはほとんど私を知らなかった。彼女は孝進の下で三年間働いていた。彼女は思いがけない味方だった。その冬、彼女は昼間はオフィスで孝進が私のことをこぼすのを聞いて過ごし、夜は私が電話で彼のことをこぼすのを聞いて過ごした。彼女はメシアの神聖な息子に対する忠誠心と、私たちふたりが知る、とても人間くさい、口汚い現実の男の認識のあいだで引き裂かれていた。孝進はバーで彼女の頭に灰皿を投げつけたのではなかったか?彼が彼女に向けて放った瓶が、彼女の椅子の上の壁にあたって割れたとき、彼女はびしょぬれになったのではないか?

マデレーンは家族以外の人間で、私が自分の感情を語ることのできた最初の人だった。家族に対してさえ、私は自分の生活を明らかにするより隠してきた。自分の子供たちや私自身が耐えている虐待のひどさを家族に知らせて、彼らを傷つけたくはなかった。マデレーンは私が一度も知ることのなかった忍耐と関心とをもって、耳を傾けてくれた。私は本当の友だちを一度ももったことがなかった。この最初の数力月、私が彼女の友だちだったと言ぅことはできない。けれども、彼女は私の友だちだった。私が「真の家庭」の非公式の一員として行動するのをやめ、彼女が統一教会の隸属的な会員として振る舞ぅのをやめるまでには長い時間がかかった。しかし、最初のころでも、私は、平等の者同士のあいだの、裏表のない関係がどんなものであるのかを、ちらっとかいま見ることはできた。

そのころ、マデレーン自身も、個人的な危機を経験していた。彼女は教会を通じてあるオーストラリア人とマッチングされ、結婚していた。彼女は彼が好きだったが、彼が帰郷を決めたとき、一緒にいきたくはなかった。彼女は心を決めるために格闘していた。離婚は人間の創造であり、「祝福」は永遠だ。統一教会員は、人は死後でさえ、天国で結婚したままだと信じている。孝進が離婚を勘めたことは、マテレーンにマンハッタン・セン夕ーで仕事を続けさせることによる彼自身の利益が、彼の信仰の中心的教義に対する献身よりも強いことを明らかにしていた。

私は、彼女が試練を乗り越えるのに手を貸した、と言えればいいと思う。けれども私は自分自身の問題にがんじがらめになり、友情の経験はあまりにも乏しかったので、友情がもつ相互的な性格を本当には理解していなかった。私がお返しに彼女を助けてあげられる期待はまったくないのに、マデレーンが喜んで助けてくれたことは、彼女の親切心がいかに大きかったかを示している。マデレーンは自分の生活のことでいくつかの決定をするために、一力月間、南アフリカの家に帰っていた。もどってきたとき、彼女は私に離婚の準備中だと告げ、私は彼女に孝進のもとを去るところだと告げた。

私にはわかっていた。一度出ていくと決心したら、あとはただ時間の問題だ。けれども私は、自分がその言葉をロに出して言うのを聞いて驚いた。マデレーンと私は、孝進に見られないように、「イーストガーデン」の邸宅地下の洗濯室で話していた。彼はあまりにも所有欲が強く、支配的で、私が「真の家庭」外のだれかと仲良くなりそうだと思ったときはいつも、怒りを爆発させた。

話しながら、私は泣き始めた。私は、それが彼女には難しいことだとわかってはいたが、出ていったあとも連絡をとっていたい、と言った。マデレーンは私の決心を悲しんだが、驚いてはいなかった。彼女は言った。少なくとも自分はそれを孝進に伝え、彼を揺すぶって、彼がなにを失おうとしているのかをわからせたいと思っている。でも、そうはしないだろう。なぜならば、自分がそうしても、彼がまたあなたを殴るか、いま一度、心を入れ替えるという偽りの約束をすることになるだけだからだ。私たちはふたりとも、私の結婚は救いがたいことを知っていた。神が孝進の心を変える、あるいは文鮮明が自分自身の家庭内で、いくらかの道徳的指導力を発揮すると信じるようにと、私はこれまで何度もだまされてきた。期待はいつも裏切られた。私は終着にいた。

その春、孝進の行動はひどくなるばかりだった。「お父様」は彼が中毒から立ち直るまで二年間、マンハッタン・セン夕ーにもどることを禁止した。孝進はマンハッタン・セン夕ーに電話をし、セン夕ーにいって、ス夕ジ才の機材を粉々にしてやると脅した。もちろん彼は相変わらず給料をもらっていた。会社は社員になんの疾病保険もかけていなかったにもかかわらず、文師夫妻はそれを「疾病手当」と呼んだ。その間、孝進はアルコールと麻薬の中毒を処置するために、なんの行動も取らなかった。彼はリハビリ・プログラムも受けず、セラピストにもかからなかった。違いがあるとすれば、さらに多くの時間を自室にこもって過ごし、コカィンを吸って酒を飲んだことだ。彼は長男の信吉に冷蔵庫からビールをもってこさせ、自室に鍵をかけて閉じこもった。子供たちのためにも、これ以上、この環境に留まっていられないことはわかっていた。

これ以上耐えきれなくなったのは「真の御父母様」が私にこう告げたときだった。自分たちは、孝進にはマンハッタン・セン夕ー復職の準備ができたと考えている。彼は「イーストガーデン」で退屈しており、創造的な仕事を必要としている。孝進は私に言った。マンハッタン・セン夕ーにもどって最初に実行する計画は、クィーンズのクラブで客を接待しているコリアン・クラブのホステスを世界的な人気歌手にすることだ。私にはわかっていた。文師夫妻はひどい間違いを犯そうとしている、孝進の状態はこれまで以上に悪く、マンハッタン・セン夕ー復職は、彼が酒を飲み、コカィンを吸う機会を増やすだけだ。コリアン・パーのホステスに対する彼の本当の意図については、私なりの疑いもあった。文師夫妻が私の言うことを聞かないのはわかっていた。

四月、夫妻は心配した教会会員たちの意見を聞かねばならなかった。彼らは孝進の復職に抗議する手紙を書いてきた。

最愛なる真の御父母様
マンハッタン・センター全社員の名において、われわれ指導者と各部部長は、孝進様を支え、守り、彼がその歴史的責任を全うされるのを助ける環境を作るにあたっての、われわれの無力を悔やみ、謹んでおふたりに申しあげます。
われわれはこの危急存亡のときに、真の御父母様へのわれわれの支持と忠誠を表明し、次の重要な点をお伝えいたしたいと望みます。
1 われわれの一番の望みは、マンハッタン・センターが、神と真の御父母様、そして世界の統一運動によって完全に求められ、使用されうる場所であることを確実にすることです。
2 そのために、われわれは真の御父母様の伝統を支持し、マンハッタン・セン夕ーにおける使命に參加している全員の生活を導く力として、その規範を維持し具体化することを絶対的に誓約します。われわれはまた、マンハッタン・セン夕ーを真の御父母様のより偉大な視野と結びつけることによってのみ、われわれの努力がなんらかの価値をもつことを認識します。
3 この基本に立って、われわれは孝進様へのわれわれの愛の心と、彼がその立場と責任を全うすることを支え、お助けしたいという希望を表明いたしたいと思います。
4 したがって、この心に基づいて、われわれはマンハッタン・セン夕ーが、孝進様がご自分の問題を悪化させるために使いうる場所となることを絶対に望みません。われわれは彼がマンハッタン・セン夕ーを、彼自身と会員の霊的生活、増大しつつある事業、そして教会の評判と土台により大きな害を及ぼしうるような、いかなる形でも使う危険に彼を陥らせることがないように完全に確信したいと望みます。
5 ですからわれわれは、われわれの真の御父母様が、孝進様についてとられるあらゆる決定を支持したいと望みます。しかし、マンハッタン・セン夕ーの指導者として、われわれは孝進様が、ドラッグとアルコールの問題を完全に克服し、マンハッタン・セン夕ーと運動における神の規範を本当に守れるまで、ここにおける責任ある地位に復職されることのないよう、護んでお願いいたします。
6 真の御父母様、われわれはこのことがあなたがたに明らかにする重荷を悲しみながら、このことをお願いいたします。けれども、われわれはこのような処置が孝進様のご健康と、真の御父母様の全世界的規模の教会の継続的確立に絶対的必要であるとの確信のなかで、ひとつに団結しております。
7 われわれはまた、マンハッタン・セン夕ーと真の御父母様のあいだの絶対的な絆として、蘭淑様の御心と真のリーダーシップとに、心からの感謝を表明したいと望みます。彼女はマンハッタン・セン夕ーに神の御心と真の御父母様の規範をもたらすために、疲れを知らずに働いておられます。

手紙は孝進を怒らせ、それはつまり私にはトラブルを意味した。孝進は地位を失ったことで、私を非難した。彼は私を自分の部屋まで引きずっていった。彼は私の口紅をとって、私の顔中に「ばか」という言葉を殴り書きした。別のときにはビタミン剤の瓶を私に投げつけ、それは私の頭に命中した。出産後、私がどんなに風邪を引きやすいかを知りながら、一度私をベッドの足元に裸で立たせ、そのあいだじゅう、私をばかにした。私は彼にもう殴らないでくれと頼んだ。彼は私に選択肢をくれた。殴られるか、唾を吐きかけられるか。彼は、私を殴ることを楽しむ以上に、唾を吐きかけることで私にあたえる屈辱を楽しんだと思う。

文師夫妻は、孝進と私は屋敷の外で暮らすことで結婚を救えるのではないかと提案した。孝進はそれに応えて、「イーストガーデン」の外で私に適当な仕事は娼婦だけだと指摘した。私は思い知った。この男とは、どこでも、どんな状況下でも一緒には暮らせない。六月、私はひそかに荷造りを始めた。

兄が電話をしてきて、マサチューセッツの自宅の向かいに、家が一軒売りに出ていると知らせてきた。もし私が真剣に逃げることを考えているのなら、私はひとりにならずにすむ。近くに家族がいる。私は、子供たちの大学の費用として貯蓄しておいた投資信託や、マンハッタン・センター時代に貯めることのできたお金を現金化した。

兄夫婦はすでに、私がいまいこぅとしているところにいた。二年前、兄嫁は統一教会と彼女の両親と最終的に縁を切っていた。彼女は「イーストガーデン」にきて、家族に関する不満を訴えて両親と対決し、母親とやりあったあと、屋敷を出て、二度と帰ってこなかった。統一教会は、兄嫁が「真の家庭」と別れて暮らしているのは、夫がハーバード大学での勉強を終えるためだと言っている。これは半分は真実である。兄は勉強を続けているが、兄嫁はもはや自分の両親とは言葉をかわさないし、彼らからなんの金銭的援助も受けていない。

私の両親も統一教会を去っていた。私自身の家族のなかでもっとも身近な人びとが、いまや危険な道の外にいることが、私に出ていくのをたやすくした。私の裏切りにょって、文一家から罰せられる洪家の人間はだれもあとには残されない。

法的にどこから手をつけるべきか、私にはわからなかった。最初に思いついたのは、電話帳で「弁護士」欄を探すことだった。ここでも兄が私を助け、ニューヨークの法律家のほぅへと目を向けさせてくれた。そこで私は最終的にマンハッタンの会社顧問弁護士ハーバート・ローズデールと出会った。彼の仕事のなかには、目を覚ましたカルト信者やその家族への手助けがあった。ローズデールは六十三歳になる大柄の、はげかかった熊のような男で、アメリカン・ファミリーファンデーション(AFF)の会長だった。この団体は、過激な宗教団体の危険性について大衆を教育しようとしている弁護士や会社重役、専門職の集まりである。私には、だれか統一教会に威嚇されることのない人が自分のそばに必要なのはわかっていた。

夏のあいだじゅう、私は逃亡方法について、兄とマデレーンと話し合った。私はもし計画をあからさまにしたら、孝進が私たちを止めるのではと恐れた。彼は何度も私を殺すと脅していた。そして寝室にはまさに本物の武器庫があるのだから、私は彼にはそれができることを知っていた。私たちの安全が心配だった。ある晚、邸宅のキッチンでマデレーンと私がお茶を飲んでいるのを孝進が見つけたとき、私の恐れが正しかったことが確認された。彼は腹立たしそうに彼女に出ていけと言い、私には二階にいけと命じた。二階で、彼は、もしマデレーンとつきあい続けたら、おまえの指を一本一本へし折ってやると言った。翌日、私は警察にいき、彼の脅迫を届け出た。

両親は私の計画をよく支持してくれた。私たちは人生を、芯まで腐りきった大義に捧げてきた。私にはわかっていた。もしいま出ていかなければ、ふたたびこの選択ができるほど長くは生きられないかもしれない。私はもうこれ以上、殴られ、脅され、閉じこめられはしない。

両親は、私がどれほどの肉体的な危険のなかにおかれているか気づいてはいなかったが、もうひとり別の娘を教会の犠牲にしたくはなかった。私の妹忠淑は文師の手で気にそわぬ男とマッチングされていた。それはある「祝福家庭」の息子で、私の両親はその夫婦を尊敬していなかった。文師は両親のなかに認めた不忠に対して、彼らを罰するために、意図的にこのマッチングをしたのだった。

忠淑はいい娘だった。彼女は私のもつ頑固さや反抗心を少しも見せなかった。チェリストでソウル大学の優秀な学生だった。母は忠淑の運命に心を痛めた。母は、従順に結婚衣装と新郎の家族への贈り物を買ったが、心は重かった。もうひとりの娘が孤独でつらい道へと歩き出そうとしている。母にはそうさせることはできなかった。宗教儀式のあと、忠淑とその婚約者が法的に結婚する前に、両親は彼女をアメリカに留学させた。彼女もまたマサチューセッツで私の到着を待っていた。彼女は韓国へも、文師が彼女のために選んだ夫のもとへも帰らないだろう。

残されたのはただひとつ、子供たちに一緒にくるかどうかを尋ねることだけだった。心のなかではわかっていた。彼らが「いや」といえば、出ていくことはできないだろう。文一族と過ごしたつらい歳月のあいだずっと、子供たちの愛が私を強くしてくれていた。その子供たちをどうして私に放棄できるだろう?彼らと二度と会わない危険を冒すことなど、どうして私にできるだろう?彼らを文師の屋敷内の生活に運命づけることが、どうして私にできるだろう?私は自分の計画を子供たちに告げ、息を止めた。子供たちは興奮した仔犬のような喜びの声をあげた。子供たちは涙ながらに言った。「ママ、わたしたちはただママと小さなおうちに住みたいのよ」

友人や大好きないとこたちにさよならを言えないことを意味していたにもかかわらず、子供のだれひとり、家族の内でも外でも、私たちの計画を漏らさなかった。彼らはなにが賭けられているかを知っていた。彼らは父親の寝室の銃を目にしていた。彼らは、彼が私を殴るときの脅し文句を耳にしていた。

私は出発の日を選んだ。だが、私の選択を導いてくださったのは神だった。「真の御父母様」は国外にいたし、仁進とその家族は「イーストガーデン」を離れていた。べビーシッ夕ーは私の荷造りのことをひそひそ話し、警備員は私が家具を「イーストガーデン」から運び出すのを見ていた。けれども、だれも文師夫妻やその重要な側近たちに警告はしなかった。私は脅えていたが、神が私と子供たちのために、「イーストガーデン」から出る道を掃き清め、私たちを守ってくださつていることはわかつていた。

予定された逃亡の前夜、兄が近くのモーテルから電話をしてきて、翌日の朝早く、約束の場所で待っていると告げた。彼は言った。これからはすべて君しだいだ。私はつけ加えた。そして、神様しだいね。

文鮮明の子供のひとりの誕生祝供に集まる文一族。
これは典型的な誕生祝いで、私たちの前の供物台には果物が高く積まれていろ。
私は後列右から二番目、孝進は同じ列の左端にいる

[出典:わが父 文鮮明の正体/洪蘭淑]

コメント

タイトルとURLをコピーしました