【わが父 文鮮明の正体】まとめ(11)完

わが父 文鮮明の正体
Sponsored Links
Sponsored Links

第10章:新しい人生への旅立ち

私の子供たちは、自分たちが望むのは「自分の」と呼べる小さな家だけだと強調した。彼らはそれを手に入れた。私たちは、マサチューセッツ州レキシントンの地味な地区にある段違いの土地に建つ家に引っ越した。レキシントンはアメリカ独立革命発祥の地だ。それは私の新しい人生を始めるにはぴったりの場所に思えた。革命戦争当時の民兵の彫像が縁の町を見下ろしている。私もまた彼のように、圧制者からの独立を宣言した。

しかしながら、安全なしでは自由は存在しない。弁護士の勧めで、マサチューセッツ到着後、私が最初にしたのは、孝進が私といかなる接触をすることも禁じるための保護命令を裁判所に申請することだった。私には、彼が目覚めて、私たちがいないことに気づいたときの激しい怒りが想像できた。彼に私たちを見つけようとする気をなくさせるために、自分のできることはしておきたかった。

マサチューセッツ検認裁判所に提出した宣誓供述書で、私はこれが典型的な家庭内暴力事件ではないことを説明しようとした。私は自分の夫だけでなく、彼を守っている強力なカルトも恐れていた。どんな会員によるものでも、統一教会から脱会しようとする試みは激しい抵抗に遭う。文鮮明とそのお気に入りたちは、嫁と五人の孫を「イーストガーデン」(東の園)の鉄門のなかに連れ戻すために、いったいなにをしてくるだろう?

法的手続きのすべてが私を脅えさせたが、私の恐れは、兄の助けを借りて依頼したポストンの弁護士たちによって和らげられた。アィリサ・デートメーヤーはとくに頼もしかった。おそらく彼女は女性であり、同情心に富んだ人だったからだろう。彼女はようやく、私に安全だと感じさせてくれた。

裁判所は、夫と統一教会からの接触の試みすべてを阻止するために、私の新住所を非公開とした。しかしながら、私には、彼らに住む場所を知られるのは時間の問題だとわかっていた。私は五人の子供を抱えた無一文の女である。私はどこにいくだろう?文師夫妻は結局私が兄のところにいくと考えるだろう。彼らが私を見つけるまでに長い時間はかからないだろう。

私は裁判所の命令はただの紙切れにすぎないと知っていた。けれども、文師夫妻に私の子供を力ずくで奪おうとするのをやめさせるには充分だろうと考えた。私の場合ほど例を見ない状況でも、子供の誘拐をともなう離婚訴訟はたくさんある。

ケンブリッジのみすぼらしい法廷に立って、私は剝がれかかった塗装と使い古されたベンチを見ていた。私の目はアメリカ国旗を見つめた。私はアメリカにいることを神に感謝した。あの国旗が私を守ってくれている。この国に不法に入国し、いまだ市民ではない韓国人女性。私は考えた。文鮮明のすべての罪のなかで、アメリカに対する彼の攻撃がもっとも下劣だ。彼は裕福で強力だった。私はそのどちらでもなかったが、この国旗の前では私たちは平等だった。私の祖国では、秤にこれほどの平衡はとれていなかっただろう。私にとって、あの夏の日、合衆国は自由を意味した。星条旗は私がそれまで目にしたなかで、もっとも美しい光景だった。

車から荷物をおろすのを手伝ったあと、マデレーンは疑われないょうに、すぐニューヨークのマンハッタン・センターの仕事場にもどった。孝進は、私たちの逃亡に彼女が果たした役割に気づかなかった。彼は彼女に毎日電話をして、私から連絡はなかったかと尋ねた。私を見つけるために、マンハッタン・センターの金で私立探偵を雇うよう、彼女に命じた。この命令を、彼女は無視した。数日経っても私がもどらず、連絡もしなかったとき、マデレーンに対する孝進の要求はその鋅先を変えた。

マデレーンが録音をしていた電話の会話で、孝進は彼女に、クラック・コカインをいくらか手に入れるのに充分な金をもって、ハーレムの一二五番街とリバーサイド・ドライブの角まで会いにくるよう言つている。「おれはただこの感じを消したい、ただクラックをやりたいんだ。少なくともそうしているとき、おれはそのなかに没頭できる。マディー、残念だが、おれにはほかの手はない。おれはこの感じをどうにもできないんだ……ほかのだれにも頼みたくない。きてくれ、マディー。おれのために、これだけやってくれ、頼む……なにも失うものはない。マデレーン、わかったかい?」

翌日、マデレーンは孝進を車で空港まで連れていき、麻薬中毒治療のため、フロリダのゥェス卜・パーム・ビーチにあるヘイゼルトン・クリニックに送り出した。彼は道中マデレーンに、私を見つけたときに私に加える拷問を細かく描いて聞かせた。どうやって私の皮を剝ぐか、私の足の爪を剝がすか、彼はそれを目に浮かぶように描き出した。私には彼を恐れるだけの立派な理由があった。

ヘイゼルトンでは数日しか続かず、非協力的態度を理由に、医師はすぐに出ていくよう指示した。文師夫妻は次に彼をカリフォルニアのベティ・フォード・クリニックに送り、彼はそこの中毒治療プログラムを一力月以上受けた。文孝進とその両親に、彼のアルコールとコカイン中毒を治療させるには、妻と子供を失う必要があったのだ。私には、彼らがこれで私の心が和らぐことを期待しているのはわかっていた。けれども私は孝進を知りすぎていた。彼は自分の両親をなだめるためならなんでもやるだろう。しかし、拘束中の彼にどんなに禁酒ができたとしても、「イーストガーデン」にもどったが最後、それを維持できるとは思えなかった。

一方、私と子供たちは、私たちの新しい自由に酔っていた。私たちの家は狭く、寝る場所は窮屈だったが、私たちは文師夫妻の影から抜け出し、みんな一緒だった。とくにキッチンは狭かった。もっとも私は料理のしかたを知らなかったので、それは緊急の問題ではなかったが。食事の支度は私が一度も習わなかった数多くの家事のひとつだった。「イーストガーデン」の職員が十四年間ずっと私の日常の必要を満たしてくれていた。シェフ、洗濯係、家政婦、美容師、子守、配管エ、大工、自動車修理工、錠前屋、電気工、仕立屋、庭師、歯医者、医者、そして何十人もの警備員たちが、呼べばいつでもくるように待機していた。私は食器洗い機の使い方も、芝の別り方も、洗濯機の動かし方も知らなかった。初めてトィレがあふれたときは、パニック状態でニューヨークのマデレーンに電話をした。

私にとって適応は難しかったが、生まれたときから王子や王女のように扱われてきた子供たちにとってはなおさらだった。メィドに慣れた子供たちには、自分の衣類を掛け、ゴミを出し、自分の部屋を掃除するのは簡単なことではなかった。けれども彼らはそれをやった。彼らは寝室を共同で使うことを学び、ただひとつのバスルームを使うのに順番を待った。もはや仲間たちの上に立つ「真の家庭」の一員ではなく、彼らは平等というその生活の新しい現実に適応し、等しき者として友人を作り始めた。

私には、彼らがニューヨークで通っていたような私立学校に通わせるお金も、そのつもりもなかった。前年の彼らの学費は総計で五万六千ドルにのぼっていた。もし私が子供たちを現実の世界に放り込むつもりなら、公立学校以上によいス夕ー卜地点があるだろうか?レキシントンはボストン西の快適な郊外都市で、優れた教育システムがある。私はそのことをありがたく思った。

私の子供たちと私とは、自給自足へとともによろめき歩いていった。私たちには学ぶべきことがたくさんあったが、私たちはひとりではなかった。妹と兄とその妻が私たちを助け、支えてくれた。彼らがそばにいることは、私たちがこの新しい生活に船出するとき、恐れを抱かなくてよいことを意味した。子供たちにはいとこたちがいて、私には、私がしようとしている、つらくて危険な旅立ちを理解してくれる大人たちがいた。私の眠りを妨げる心配ごとは、親切な隣人にお茶を飲みながら語れるようなものではなかった。

私は逃亡時期を、できるだけ新学年の始まりと合わせるように設定した。子供たちが友だちを懐かしがるだろうとわかっていたし、彼らができるだけ早く新しい友だちを作れればいいと願っていた。九月、私は長女を七年生に入学させた。彼女は私の子供たちのなかでただひとり、中学に通うことになった。彼女は一番年上で、一番独立心が強かった。私は、彼女なら勉強も人づき合いもうまくやるだろうと信じていた。ほかの子供たちは全員、同じ地区の小学校に通った。私は家で赤ちゃんの世話に忙しかった。

先生たちから適応の問題について言われることはほとんどなく、私は家中で子供たちが楽しそうにしているのを見た。父親はニューヨークでの子供たちの生活にほとんど関係がなかったし、マサチューセッツでの生活には、彼と彼の繰り返していた一切の虐待がないことに子供たちが安心しきっていたのも、私には不思議ではなかった。長女は地元の楽団とフルー卜を演奏した。信吉は簡単に友だちを作ったが、どんなに優しく叱られても、私や先生に叱られるととても傷ついた。先生の話では、一度彼が泣きそうなとき、一体どうしたのかを尋ねるために、廊下に連れ出したことがあったという。「彼は私に、自分は大邸宅に住んでいたと言いました」と先生は報告した。「いまではあまりひとりになれることがないし、することもあまりない。彼は友だちを懐かしがっています。私はお父さんのことを聞きました。彼はときどきお父さんに会いたくなるけれど、お父さんは酔っばらいで、すごく怒鳴ると言いました」

驚くことではないが、文師夫妻は私たちを「イーストガーデン」に連れ戻そうとして最初、金銭的な圧力をかけてきた。私がもっていた貯金は、食費と基本的な必需品の購入にあてられた。毎月の支払いができるかどうかは、マンハッタン・セン夕ーからの私への給料支払い小切手しだいだった。孝進の弁護士たちは私の弁護士に、小切手は私たちが検認裁判所を通じて臨時の養育費を取り決めるまで、振り出され続けると保証していた。

小切手は送られてこなかった。私の弁護士は、子供の養育費に関する正式の申請を裁判所に提出した。「ミズ・ムーンの小切手は、おそらくは彼女を殴る蹴るの関係に無理やり引き戻そうとするために、停止される可能性があると思われる」と私の弁護士は教会の代理人に対して書いた。「恐ろしく危険な状況から逃れ、安全を求めるというミズ・ムーンの決意は簡単になされたものではない。しかしながら、一度決意したからには、彼女はどんなことがあっても、もどらないと心を決めている」

私は離婚裁判が長引くことを予測し、兄と妹の助けを得て、ポストン最高の弁護士事務所のひとつ、チョホール・アンド・スチユワーを私の代理人とした。もしも文家の挑戦を受け
て立つならば、私には市で一番の弁護士が必要になるのはわかっていた。離婚に直面した多くの女性と同様に、私には自分の弁護士費用をどうやって払えばいいのか、見当もつかなかった。法廷にぉける性差別に関する一九八九年の研究で、マサチューセッツ州最高裁判所は「収入の低い女性の利用できる法的援助はあまりにも少なすぎる。ひとつの理由は、判事が、とくに訴訟の係争中にしかるべき弁護士費用を認めないことである」と結論している。

私の主任弁護士はゥェルド・S・へンショーというポストンのエリートと有能で親身になって相談にのってくれる同僚アィリサ・デ・プラダ・デートメーャーだった。彼らは裁判所が孝進に私の裁判費用の支払いを命じることを確信していた。ゥェルドのように経験豊かでも、彼は私の離婚裁判のようなヶースに出会ったことは一度もないと認めた。文孝進は模範的な被告ではなく、彼の本当の財産を裁定するのは容易ではなかった。

孝進はニューヨークとマサチユーセッツの法律事務所を雇い、そのなかにはマンハッタンのレビ・ガットマン・ゴールドバーグ暑アンド・カプランも含まれていた。ガットマンというのは、ニューヨーク市民自由連合の前代表ジェレミア,S,ガットマンで、文鮮明が一九八二年に脱税で有罪になったときに、彼の大義を擁護した男だ。

私たちの裁判にはマサチューセッツ州検認裁判所のエドワード・ギンズバーグ判事が選任された。彼は引退間近の公正な紳士で、コンコード検認裁判所をしっかりと、だが気取らないやり方で運営していた。ちょっとエキセントリックで、夏の朝、仕事に現れるギンズパーグ判事を見つけるのは簡単だった。シアサッ力ーの青いスーツを着て、金色のプードルを連れているのが判事。犬のパンプキンは毎日裁判所まで判事についてきた。

私が孝進に養育費の支払いを要求するよう裁判所に求めた直後、私は文一家から直接連絡を受けた。お金とはその気にさせてくれるものだ。仁進は私の弁護士を通じて、法的措置を放棄し、家にもどるようにという手紙を送ってきた。同じことを頼んでいる文夫人からの録音テープが同封されていた。

新しい環境で文夫人の声を聞くのは驚くべきことだった。彼女は怒りを隠すことはできなかったが、気を遣い、私が出ていったことに心乱されているふうに聞こえるよう努めていた。「真の家庭」は完全なままに留まっていなければならない。基本線はいつものように、それは私の過ちだということだった。「蘭淑、あなたの行動は、あなたを愛しているすべての人びとには受け入れがたいものです」彼女は、私が将来大勢の人びとから非難されるだろうと予測し、「……もとのままで」帰ってくるよう促していた。

文夫妻が『原理講論』の教えを適用するとき、いかに恣意的か、それはいつものように私に衝撃をあたえた。許しに対する彼女の信仰を私ほどあからさまに生きてきた者はいない。孝進が結婚後数週間で、私をおいてきぼりにしてほかの女のところにいったとき、私は彼を許さなかっただろうか?孝進が私にヘルペスをうつしたとき、私は彼を許さなかっただろうか?孝進が娼婦とつきあったとき、私は彼を許さなかっただろうか?孝進が私たちの子供の将来のために用意された何万ドルをも浪費したとき、私は彼を許さなかっただろうか?孝進が私を殴り、唾を吐きかけたとき、私は彼を許さなかっただろうか?孝進がドラッグとアルコール濫用の生活のために私と子供たちを見捨てたとき、私は彼を許さなかっただろうか?私が私たちの生まれたばかりの息子を病院から連れ帰ったその日に、孝進が愛人を作ったとき、私は彼を許さなかっただろうか?

自分の行動の結果を考えずにいたのは私ではない。私は十四年間を、自分は文孝進のもとを離れられる、私は恐怖と暴力のない生活を要求できるなどと、あえて考えることなく過ごした。私は「イーストガーデン」を性急に離れたのではない。私は自分の結婚がうまくいくよう超人的な努力をした。文一家は一度でも考えたことがあったのだろうか、悪いのは私ではなく彼らかもしれない、と?

仁進の手紙は、その決めつけるような口調で文夫人のテープと似たようなものだった。彼女は私の状況に同情すると言っていたが、私を十四年間殴り、辱め、脅してきた男、孝進に対する禁止命令を求めていることでは、私をあざけっていた。禁止命令のなかで、私が生命の危険を感じていると主張したのを大げさだと非難した。しかし、要点は、文鮮明の一家に対して法的手段を行使しないように、私を説得することだった。

彼女は、出ていくという私の決心に陰険な動機を見るのは簡単だとほのめかしていた。「何年も経ったいまになって、あなたが夫のもとを離れたのは、ただ彼が仕事と家族内の地位を失ったからだとさえ言う人びともいます」と彼女は書いていた。あなたはもどって、孝進のアルコール中毒とドラッグの濫用に立ち向かい、それを克服するのを助けることによってのみ、家族にあなたの善意を信じてもらえます。「望んでいるものを手に入れるために法的手段に訴えることによって、あなたはあなたを愛しているすべての人を傷つけています」彼女は法的手段を「敵対的」と形容し、最終的な結果はみんなを傷つけると言っていた。

文一家には、私がすでに傷ついていることが理解できなかった。私は和解など望んでいなかった。私は暴力的な夫による虐待と、すでに私の人生の二十九年間を浪費してきた宗教の支配から抜け出したかった。「イーストガーデン」からの逃亡を決意した瞬間ほど、神の存在を強く感じたことはなかった。神は私の目からべールを取りのけてくださった。私は初めてはっきり見た。私は二度と帰らないだろう。

一九九五年十月二十五日、裁判所は孝進に毎月養育費を支払うよう命じ、子供たちにとって、父親との面会が益となるかどうかを調査するために、ソシアル・ワーカーのメアリー・ルー・力ウフマンを選任した。私は子供たちから父親や祖父母との接触を奪うことは望まなかった。いかに問題のある関係であっても、子供たちはふたりの親とニ組の祖父母をもってしかるべきであるという点については、心のなかに疑問はなかった。私は孝進が、彼のような自己陶酔型の人間ができうるかぎりにおいて、子供たちを愛していることを知っていた。しかしながら、私はミズ・カウフマンに、子供たちがもっと落ち着き、孝進がドラッグとアルコールの濫用をやめたという明白な証拠が整うまでは、面会を許さないようにと強く主張した。

とくに禁酒については厳しい態度を示した。孝進は自分には法をかいくぐる能力があると自慢していた。一度、ニューヨークでの酒酔い運転で有罪になったため、ドラッグ検査を指示されたときには、信吉の尿を自分のと入れ替えた。私が金銭的支援を申請して初めて、孝進が子供たちとの面会を求めたことも、私には注目するに足ると思えた。

ミズ・カウフマンは十一月に、彼女の事務所で二日間に分けて四時間以上にわたり、孝進と面接した。裁判所への報告書に、彼女は彼が不安で非常に落ち着きがなかったと記している。彼はロが渴き、ハアハアと息をしていた。彼女は彼がコカィンでハィになっているのではないかと疑った。彼は自分の話に卑猥な言葉を挟み込んだ。彼はミズ・カウフマンに、離婚申請の裏には私の両親がいる、私の母は自分をメシアだと宣言した、私の両親は私が離婚で得る金を韓国で自分たち自身の教会を設立するために使おうとしていると語った。彼はこのばかばかしい理論を裏づけるために私の叔父、柳淳を連れてきていた。叔父は母が教会に入会する際には助けとなったが、いまや母を裏切って、文一家に対する自分の地位を高めようとしていた。

孝進はミズ・カウフマンに、自分はいつも子供たちを気にかける活動的な父親だったと強調したが、子供たちの年齢や学年を言うことはできなかった。子供たちが父親に会いたいとせがまないのは、私が彼について子供たちの心に毒を吹き込んだからにすぎないと言い張った。彼は信吉が父親の写真ではなく、ひとつのおもちゃの写真を要求したと聞いて、衝撃を受けた。

ミズ・カウフマンは十二月初めの報告書で、孝進と子供たちとの面会は、彼がニ力月間ドラッグとアルコールから離れていたことを示すまで、許可されるべきではないと結論した。

子供たちと私は新しい家庭での初めてのクリスマスの準備に忙しかった。私の両親が韓国からやってきた。私たち全員が一緒になるのは数年ぶりのことだった。私たちの集まりは、私たちの自由を祝する会でもあった。私たちは家を子供たちが学校で描いた絵と六フィートのクリスマス・ツリーで飾った。

クリスマス前の土曜日、配達人のノックで私は玄関の扉を開いた。小包を受け取ったとき、私の鼓動は早くなった。差出人の住所はよく知っていた。孝進は私たちを見つけた。私は両親と子供たちから私の不安を隠しておこうとしたが、文の屋敷を離れて以来、自分の感情をそれまでほどうまくは隠せなくなっていた。小包には子供たちへのちょっとしたクリスマス・プレゼントがいくつかと、韓国語で書かれた私宛の力ードが入っていた。そのなかで、孝進は私が裁判所に提出した資料で彼のアルコールと麻薬中毒を暴露したことをほのめかし、もし私自身の「裸」が世間に晒されたらどう思うかと尋ねていた。それは、彼がビデオ撮影した私のヌードを暴露するという暗黙の脅迫だった。

私の動揺に気づいた父は、私を元気づけようとした。「あいつに勝手にやらせてはいけない」と父は助言した。「もしおまえが屈したら、おまえを傷つけるという彼の目的は成功する」父は正しかった。私はなにも悪いことはしていない。孝進がしたのだ。彼の手紙は、彼に私との接触を禁じる禁止命令に対する刑事違反である。文鮮明の息子は、相変わらず自分が法律の上にいると考えていた。私は警察に脅迫を届け出た。孝進は刑事告発された。

私の弁護士を通じて孝進は子供たちに手紙を送り、彼らへの愛と、彼らと会いたいという望みを表明した。しかしながら、彼には私を批判せずにはいられなかった。長女宛の手紙のなかで、彼はこう書いている。「もちろん、ときにはお母さんに怒りを感じるが、お母さんを許したいと思う。お母さんについて君が知らないことはたくさんある。だが、それは重要ではない。なぜだかわかるか?なぜなら、お父さんは君がだれかを永遠に愛せる優しい人間になり、愛する人を見捨てず、また人生がだれにもあたえるような試練に対決するとき、彼らを許すことを学んでほしいからだ」

信玉に対しては、彼女が彼を愛しているのはわかっていると書いていた。「お父さんがいかに悪いかを君に告げる人がいなかったら、君は一瞬でもそんなふうには考えなかっただろうと思う。知ってるかい?たとえ君がお父さんは悪いと考えても、お父さんは平気だ。なぜならもう悪くはならないからだ」
彼は子供たち全員にまたすぐ手紙を書くと約束したが、一度も寄こしてはいない。

一九九六年二月、子供たちとの面会を許可するのが賢明かどうかの査定のため、孝進はふたたびミズ・カウフマンと面接した。彼はこれほど長いあいだ、面会を禁じられていたことに憤慨していた。彼は法廷で私に対して求める復謦について話した。私を金銭的に破滅させてやるために、「ニューヨークの無慈悲な法律事務所」を雇うと言った。彼はアルコール中毒者更生会の会合に出席し、いまは禁酒生活に専念していると言った。

ミズ・カウフマンは、その春、子供たちとの監督付面会を許可した。永遠に変わったのだと主張した男がドラッグ検査に引っかかるまで、子供たちとは二度しか会わなかった。孝進がもはやドラッグやアルコールは濫用していないことを、裁判所が満足する形で証明できるようになるまで、面会は延期された。その日はまだきていない。

子供たちとの接触を拒否されていることを非難しているにもかかわらず、孝進は彼らとの連絡を保つためになんの努力もしなかった。裁判所は、私の弁護士を通じて手紙を渡すよう勧めたが、彼は一度も書いてこなかった。子供たちの誕生日やクリスマスに力ードやプレゼントも送ってこない。彼らが学校でどうやっているかを尋ねもしない。

父親の思い出がいかに不幸なものであっても、父が子供たちを放棄したことは、彼らにとってはつらいことだ。お気に入りの息子だった信吉はいまや私の限られた収入で暮らし、ビデオゲーム・コーナーや高価なおもちゃ屋で甘かったお父さんをよく覚えている。父親の顔を知らない赤ちゃん、信勳はお父さんがどこにいるのか不思議に思っている。私が保育所に連れていくと、彼はよく「ほかの子供みたいに、お父さんはいつぼくを迎えにきてくれるの?」と尋ねる。

離婚はいつでも子供たちにとって気楽なものではない。しかし、伝統的な道徳価値の体現、「真の家庭」の一員だと主張している男であるにもかかわらず、文孝進は子供たちにこれ以上ないほど苦しい思いをさせた。

文家側は裁判所の命じた養育費をいつも払ってきたわけではなかった。払ってくるときも、小切手は遅れて、しかも私の弁護士が催促したあとでなければ送られてこなかった。弁護士たちは私が払えるだろうと期待できる以上の弁護士費用を請求してきた。ある月は、通常の経費を支払うために、宝石のいくつかを売却しなければならなかった。孝進の立場は、自分には収入源がないから私の裁判費用は支払えないというものだった。彼はマンハッタン・セン夕ーを馘首になり、「真の家庭信託」からの収入を絶たれた。彼は世界でもっとも裕福ななかに入る人間の息子が貧窮していると信じてくれるように、裁判所に訴えた。

ギンズバーグ判事はそれを受け入れなかった。統一教会の資金と文家の金、そして文孝進の財政を分ける線は想像上のものである。孝進はわずかの資産と慎ましい収入を報告する一方で、際限のない資金に手をつけることができた。住宅、旅行、自動車、私立学校、使用人について、彼と彼の兄弟姉妹はなんの予算上の束縛もなく生活していた。

孝進にとって、自分は失業中だから無一文であると主張することは、マンハッタン・センターの職は、彼の生活と同様に彼の父親から独立してはいないという事実を無視することである。彼の父親は、彼を住まわせ、食べさせ、そして雇った。統一教会を取り去ってしまえば、学歴のない文孝進は雇用のされようがない。彼はわずかの資産しかもっていないと主張しているが、彼のもつ資産がどんなものであれ、それが文鮮明の気前のよさ以外のものを通じて獲得されたと言うのは、ばかばかしいことだ。

孝進が貧窮しているという作り話を維持するためには、彼の収入はすべて同じ源泉、文鮮明から発しているということを無視しなければならない。裁判所まで孝進に付き添ってきたポストンやニューヨークの弁護士軍団の着ている仕立てのいいスーツを目にしながら、ギンズバーグ判事は彼に弁護士費用の支払いを命じた。さもなければ法廷侮辱罪での逮捕を覚悟してもらう。

文家側は支払いに応じなかった。その夏、文鮮明はワシントンDCで、伝統的な家族の価値をいかに復活するかを論じるための国際会議を後援した。それはあまりにも辛辣な皮肉だった。文孝進は、ナショナル・ビルデイング・ミュージアム大ホールでの二日間のシンポジゥムに出席し、ジェラルド・フォード元大統領、ジョージ・ブッシュ前大統領、元イギリス首相エドワード・ヒース、元コス夕リカ大統領・ノーベル平和賞受賞者ォス力ー・アリアス、大統領選出馬を目指す共和党のジャック・ケンプのような講演者たちが、世界中で家族の価値が侵食されていることについて話すのを聞けなかった。文鮮明の息子はマサチューセッツ州刑務所に留まっていた。私の裁判費用を支払えという命令に従わなかったために、ギンズバーグ判事によってそこに送られたのである。彼は刑務所に三力月間留まり、自分は金銭的な収入のない人間であると証明するために、ニューヨークで正式に破産を申告したあと、ようやく釈放された。

私にとって、お金が絶えざる不安の原因になった。文家側が小切手を送ってこなかったらどうする?もし弁護士たちが支払いを待ちきれなくなったら?どうやって子供たちの面倒をみればいい?私は美術史の学位をもっていたが、ポストン美術館のポランティア・ガイド以上のことをする資格はなかった。これでは五人の子供の歯の治療費は支払えない。絶望して、私は地元のショッピング・モールにあるメーシーズ百貨店の販売員に応募した。私は妹とマデレーン・プレトリウスに子守を頼んで、研修を終えた。

マデレーンは私が家を出た一力月後に教会を脱会し、近くに越してきた。マデレーンと妹、そして兄がいなかったなら、自由を得た最初の一年をもちこたえられなかっただろう。研修が終わったときになって初めて、メーシーズが私に期待するのは毎週末の仕事だと知った。どうしてできるだろう?だれが子供たちの世話をしてくれる?私は打ちのめされて家にもどった。

独立には犠牲を払わなければならない。私は離婚の片をつけ、自分の人生を歩いていかねばならない。自分の子供たちに彼らが受けて当然の利益——「イーストガーデン」にいるいとこたちが当然のものとしている利益——をあたえられる仕事を得るには、私にはもっと教育が必要だろラ。

弁護士を通じて、私は文鮮明の家族とのつながりを永遠に切るような和解の条件を提案した。私は、私と私の子供たちに信託基金を設定することを要求した。私はそこから、私たちの健康保険、教育費、被服費、住宅費その他の諸経費を支払う。扶助費や養育費はなしだ。私は自分自身の裁判費用を支払う。私の弁護士たちは提案のなかで、私の意図をこうまとめた。「このような信託が考えられたのは、これらの資産が浪費される可能性を排除し、和解交渉をここで、二度と繰り返すことなく永遠に終了させるためである」

文鮮明は拒否した。彼は、孝進の財政状態は自分自身のものから独立しているという点では頑なだった。自分の孫たちの将来の安定には責任をとらないだろう。それに加えて、文家側は、離婚同意の内容が秘密にされることを望んだ。彼らは私がロを開くことを望まなかった。私は秘密保持についての要求をすべて拒否した。

一九九七年六月、裁判所に提出された宣誓証書で、文鮮明は自分の立場を明確にした。
私の息子、文孝進が「真の家庭信託」の信託受益者からはずされ、マンハッタン・セン夕ー・スタジオの被雇用者・重役・社長としての地位から解雇され、続いてマンハッタン・セン夕ー・スタジオから疾病手当を受け取る疾病被雇用者としての地位を停止されたとき、私の孫である彼の五人の子供たちに対する私の心遣いと愛が私を動かし、私は、私の息子とその妻のあいだの係争を管轄しているマサチューセッツの裁判所の命令で決定された養育資金を提供した。
私が毎月、このような支払いをし、支払いを続けるかを選択するについて、私の息子、文孝進は過去も現在もなんの権限ももっていない。それらは、私に可能であるかぎりにおいて、また私にそうする意志があるかぎりにおいて、私によって自発的におこなわれている。
交渉は中断し、私は現在、私の息子にはマンハッタン・セン夕ー・ス夕ジオによる再雇用からの税込み三千五百ドルの給与以外に資産も収入もないという事実にもかかわらず、私の嫁が息子をふたたび収監させようとしていると聞いている。私は状況を再考しているところである。

もし私が文家側の条件で話をつけなければ、養育費を停止するという暗黙の脅迫はよくわかった。文師は私の弁護士費用として五万ドルを支払ったが、それは息子を刑務所にいかせないためであり、支払いを命じた裁判所に敬意を払ってのことではなかった。

「文孝進が全収入を絶たれて以来、私は彼を扶養し続けてきたが、私は彼が音楽録音プロデューサーとして生産活動を再開するのに充分なほど回復したことをうれしく思い、彼が芸術家として創造的生産的であり続けて、私に彼の扶養をやめさせてくれることを期待している」と文師は相変わらず、孝進の仕事は、その父親が作ったからこそ存在しているにすぎないという現実を無視して言った。

私たちの離婚裁判は、ニフィートの高さまで積み上げられるほどの書類の山を作り出した。それは二年半ぐずぐずと続いた。文鮮明は孫たちの将来の安全を保障するよりも、弁護士たちに何十万ドルも支払うほうに意欲を見せた。家族の価値とはそんなものだった。

一九九七年十二月、私は慰謝料の一部支払いと月ごとの養育費の継続に同意した。私にはわかっていた。もし私たちが毎月の養育費に依存していたら、私たちは永遠に文一族のなすがままだ。一度訴訟が終了してしまえば、文鮮明はいつでも送金を停止できる。私は文孝進以上に「養育費を払わないパパ」にぴったりの候補者を想像できなかった。

それでも私はこれを終えてしまいたかった。私は疲れていた。弁護士たちは激しく闘い、私のためにできる最良のことをしてくれた。これ以上の助言は望めなかっただろう。長引いた離婚の闘いで、私のように感じた女性はほかにどれほどいただろう?多くの資産をもつ彼が勝つのか?扶助費はなし。私の人生の失われた十四年間に対する代償はなにもなし。子供たちの大学教育を確実にするための信託もなし。孝進の弁護士たちは私の弁護士に言った。もし子供たちが教育のためのお金がほしいなら、彼らは個人的に文鮮明のところにいって、おじいさんにお願いしなければならない。

私は、子供たちと文鮮明と韓鶴子の監督付面会には反対はしなかったが、彼らのこの要求が心からのものかどうかは疑っていた。私たちが「イーストガーデン」から逃げ出してからの二年半、彼らは孫たちに一度として手紙も書いてこなかったし、電話もしてこなかった。クリスマスや誕生日に、孫たちのことを思い出さなかった。彼らは孫たちにも、自分の息子に対するのと同じ無関心を見せていた。

寒い晴れた十二月の朝、午前九時十五分、私はマサチューセッツ州コンコードの小さな法廷の判事の前で、文孝進の向かい側に立った。エドワード・ギンズバーグ判事が、私の結婚は救いようがないかと尋ねたとき、私は「はい、判事閣下」と答えた。同じ質問を尋ねられたとき、孝進はぶしつけに「ああ」と言った。ギンズバーグ判事は、離婚するすべての夫婦にするように、私たちの結婚は終了したが、親としての務めは終わっていないと念を押した。彼は、私が旧姓を法的に復活することを許可し、判事のペンのぴょこんというひと振りとともに、偽メシアの慕力的な息子との結婚という悪夢はようやく終わりを告げた。

本当に勝った者はだれもいなかった。私も。孝進も。子供たちも。文鮮明だけが、初めから望んでいたものを手に入れた。子供たちと私とは統一教会の手から逃れた。けれども私たちは、文一族の影に留まっているよう運命づけられていた。

エピローグ:埋まらなかった座席

メシアは七十八歳である。神であるという主張にもかかわらず、文鮮明でさえ永遠には生きられない。死んだとき、文師が統一教会を自分と一緒に墓場まで連れていく可能性は大である。

文師はその後継者について、なんの具体的な計画も立てていない。そうすることは、その権力の一部を存命中に手放すことを彼に要求し、厳密に統治された世界の中心人物であることに慣れた男には、それは思いもよらないことである。統一教会は心理学者が「個人崇拝」と呼ぶものの古典的な一例だ。

後継者の指名と育成に失敗したことは、文師の死後、家族内で血が流れることを確実にするだけである。息子たちはすでに、彼のビジネス帝国の支配をめぐる闘いにはまりこんでいる。統一教会自体が容易に手に入るようになったとき、闘争は激化する一方だろう。指導者の地位はもちろん自然に長男にいくはずだ。しかし孝進の絶えざるアルコールとドラッグ問題のために、弟たちはすでにその地位に向かって競争を始めている。女性ゆえに父親のあとを継ぐチャンスのない仁進でさえ、孝進の立候補資格を守ろうと必死になっている。彼女ははるか以前に自分の運命を彼と結びつけた。もし彼が没落すれば、彼女と夫の朴珍成も一緒に没落する。

最近、この問題について話すとき、文師は自分が昇天したあと、「真のお母様」が統治するだろうと暗示している。韓鶴子が統一教会の舵取りの位置で、象徴的な役割以上のものを果たせるとか、また果たす意志があるとか本気で信じている人は、教会にはいない。「イーストガーデン」を離れる一力月前、私と文夫人は統一教会の将来について話し合った。私は指揮権を孝進には渡さないよう強く主張した。名目上の宗教団体を率いるのに彼ほど不安定な人間を想像することはできない。彼女はいやいやながら認めた。文鮮明は統一教会の指導をほかの息子のひとりに任せなければならないだろう。その可能性が彼女を悲しませるのはわかっていた。最初の子供が女の子だったあと、孝進の誕生は「真のお母様」としての彼女の地位を確実にした。彼女の運命と彼の運命はひとつに結ばれているように見えた。

統一教会の中心にある悪は、文一家の偽善とぺテンである。一家は、その信じられないほどのレベルに達した機能障害のなかで、あまりにも人間的である。教会に引き込まれた理想主義的な若者たちよりも、文一家が霊的に優れているという神話を広め続けることは、恥ずべき欺瞒である。孝進の失敗がより目につきやすいかもしれない。しかし文家第二世代のだれひとりとして「信心深い」という言葉が適切にあてはまる者はいない。

一九八四年のアメリカの道徳的霊的凋落についての説教で、文鮮明は統一教会の墓碑銘を書いている。彼の言葉は彼自身の家族のほうに、よりよく適用できるだろう。「ソドムとゴモラは不道徳と快楽の追求のために、神の裁きによって破壊された。ローマも同じ状況にあった。それは外部からの侵入によってではなく、それ自身の堕落の重さによって崩壊したのである」

統一教会は相変わらず世界中に何百万もの会員がいると主張している。そのなかの何人が積極的な資金調達者であり、教会活動の參加者かというのは別問題だ。他の宗教とは違い、統一教会には出席状況が把握できるような、正式の信仰の場所というのがほとんどない。教会のある都市もいくつかあるが、ないところもある。

宗教儀式やセミナーが開催される教会の研修センターでさえ、その多くは、一九九〇年代初めに文鮮明が「ホーム・チャーチ」と呼ばれる実験—悲惨な結果に終わった—をおこなうあいだに閉鎖された。「ムーニー」による公然たる改宗活動に対する反キャンぺーンに対抗して、文師は会員を実家に送り、その親戚や隣人を改宗させようともした。しかしながら、このような分散化は文師が自分の信者たちに対して維持していた統制を弱めた。より広い世界と、文鮮明に対する家族からの反対にふたたび晒されて、多くの会員がただ流出していった。

この失敗の結果、文師と教会幹部はふたたびひとつにまとまった。最近数年間で、彼らは尊敬と政治的影響力を獲得するためのキャンぺーンを組織し、大きな成功をおさめた。いつものように、彼らは詐欺的なやり方で成功した。統一教会は、女性の権利、世界平和、家族の価値に捧げられた市民組織を世界中に何十も興し、それは社会のなかに堂々と入り込んでいる。それいずれもが文鮮明、あるいは統一教会との関係を喧伝してはいない。

世界平和女性連合、世界平和家庭連合、国際文化財団、世界平和教授アカデミー、ワシントン政策研究所、世界平和の頂上会議、アメリカ憲法委員会、その他いくつもの組織が、自分たちを超党派の、特定の宗教に限られない集団としている。そのすべてが文鮮明によって設立されたものだ。

たとえば一九九四年三月、「世界平和女性連合」はパーチェィスのニューヨーク州立大学キャンパスで「平和と和解促進」プログラムを後援した。当時二十五歳だった文師の息子、文顕進が、文鮮明はアメリカにとって新たな神の啓示であるという宣言でイベントを開会した。組織は地元の州讓会議員サンドラ・ガレフに歓迎の手紙を依頼した。彼女は、この団体が文鮮明傘下にあることは一度も聞かされていなかった。

怒った州議会議員はのちに「ニューヨーク・タイムズ」に語っている。「私は統一教会を支持したことは一度もありません。私はいつも、彼らは家庭を破壊する集団だと感じてきました。もし私の事務所に手紙を頼みにきた人がこの組織の正体を正直に告げていたら、絶対に手紙は渡さなかったでしょう。基本的には、いっぱい食わされたのです」

同じ月に世界平和女性連合のトロント支部とCARP(大学連合原理研究会)のトロント大学支部は、公立図書館で、十代のためのエイズ予防プログラムの共同スポンサーになった。宣伝のチラシは、子供たちに確実に「病とドラッグのないライフスタイルを選ば」せるために、彼らを参加させるよう親たちに呼びかけていた。統一教会や文鮮明のことはどこにも触れられていなかった。

アメリカにおける有名人のなかには、目の玉が飛び出るような講演料に魅了されて、これらの団体と「ムーニー」との関係を知らないまま、プログラムに参加する者もいる。元大統領ジェラルド・フォード、テレビ・キャス夕ーのパーバラ・ウォル夕ーズ、俳優のクリストファー・リーブ、アメリカ初の女性宇宙飛行士サリー・ライド、市民権運動指導者コレッ夕・スコット・キング、喜劇俳優ビル・コスビーはいずれも「世界平和女性連合」後援の祝典で講演をしている。

おそらく最悪なのは前大統領ジョージ・ブッシュと夫人のバーバラ・ブッシュだろう。彼らは文師とこれらの団体の関係を知りながら、一九九五年に「世界平和女性連合」が日本で後援した六回にわたる集会で講演をして、百万ドル以上を支払われたと伝えられている。

前大統領は無邪気にだまされたのではない。ジョージ・ブッシュには確かにわかっていた。一九九六年にブエノスアイレスのスピーチでしたように、文鮮明を「予言者」と呼ぶことは、自らの贅沢な生活の資金を得るために、巧妙な操作と欺瞞を使って安い労働力を集めている男の活動を正当化することである。ブッシュ大統領は金を受け取って、ブエノスアイレスで開かれた新聞「ティエンボス・デル・ムンド」の創刊パーティに、文師と出席した。これは南米十七力国に配布される八十頁のスペイン語週刊夕ブロイド紙である。

世界の政治指導者と並んで写っている文師の写真の一枚一枚が、彼の信頼性を強める。国際的宗教指導者としての文師の写真は、アルゼンチンでは信者が数千人以上はいないにもかかわらず、大統領カルロス・サウル・メネムのような政治家を文師と会見させることになる。

文師の影響力は政治的コネばかりではなく、不動産や銀行、メディアへの金銭的投資を通じても行使される。ラテンアメリカだけでも、こういった資産は数億ドルにのぼると評価されている。

ラテンアメリカはカトリックが強力な地域であり、その正統な宗教の指導者たちは文鮮明の勧誘努力にまったく理解を示してはいない。ウルグアイのカトリック司教団体は一九九六年に出された声明で、「統一教会のような団体が人を欺くことによって改宗させ、わが国その他ラテンアメリ力各国のキリスト教徒のよき信仰を傷つけている」と言っている。「これらの組織は基本的な人間の価値を宣伝しているが、実際には信者たちを彼らの宗教運動に改宗させようと試みている」

きたるべき歳月、統一教会最大の挑戦は、このマネーメーキング機械を動かしている財政的エンジンとしての日本を固守することだろう。何十年ものあいだ、日本は文鮮明の最大の支持基盤であり、もっともあてになる現金の源泉だった。しかしながら、一般からの苦情、訴訟、そして教会の活動に対する政府の監視の結果、この数年間、資金調達力は失速を始めている。教会は日本に四十六万名の会員がいると主張しているが、批判者たちによれば会員数は約三万で、そのうち活動的会員は一万ほどだと言っている。

文師はアメリカの報道機関、とくに彼がリベラル的偏向と呼ぶ「ワシントン・ポスト」に対抗するために、一九八二年、「ワシントン・夕イムズ」を創刊した。ワシントン・夕イムズ・コーポレーションは、やはり文師の反共的イデオロギーを機械的に繰り返すために創刊された週刊誌「インサイト」も出版している。タイミングは完璧だった。「ワシントン・タイムズ」は、保守的な共和党の大統領ロナルド・レーガンお気に入りの新聞となった。レーガン政権の高官がしばしば記者に情報をリークした。編集者たちは新聞も雑誌も統一教会からは独立していると主張しているが、「ワシントン・タイムズ」の初代編集長・発行者のジェームズ・ウイーランは、教会の口出しに反対したあと解雇された。「ワシントン・タイムズ」は大理石の柱と真鍮の欄干、フラシ天の力ーペットのおかげで、実際よりも利益があがっているように見える。最初の輪転機が回って以来十六年間、この新聞は金を失い続けてきたが、文師の他の事業からの利益、そしてしだいに日本の会員からの「献金」によって援助されている。

一九九二年、ワシントンタイムズ創刊十周年を祝う晚餐会で文師はこの新聞を「アメリカと世界を救う道具」とするため、最初の十年間で十億ドル近くを投資したと語った。ワシントンのオムニ・ショーラム・ホテルの群衆に、文師は彼が「タィムズ」を創刊したのは、「伝統的な価値の崩壊から世界を救う」使命をもって、「共産主義の脅威から自由世界を守るために」新聞を経営するのが「神の意志だと信じていたから」だと言っている。

文師がブリッジポート大学を破産から救い、統一教会に正真正銘の学術機関を提供したのはこれと同じ年だった。この大学から教会は世界を救う努力を準備することができるというわけだ。「ムーニー」の前線「世界平和教授アカデミー」はこのコネチカット州の大学を赤字にしないために、一億ドル以上を使っている。自分たちを「不安を抱く市民連合」と呼ぶグループは、理事会を支配するに充分な数の理事との交換で大学を財政困難から救い出すという文師の提案に反対した。大学は生き残りに賛成票を投じた。学問の自由に対する文師の影響についての教授たちの恐怖は、最終的には自分たちの仕事を確保したいという欲求に負けたのである。

理事会は学校を救うための緊急援助の本当の出所を見て見ぬふりをし、統一教会自身は大学とは接触しないという文鮮明の保証を、軽率にも受け入れた。一九九七年、統一教会はキャンパスに寄宿学校を開くことによって、ブリッジポート大学との関係を明るみに出した。ニュー・エデン・アカデミー・ィン夕ーナショナルは高校生の年齢にある教会員の子女四十四名を教育している。その校長ヒュー・スプージンは二十九年間、文鮮明の信者であり続けている。彼の妻はもうひとつの「ムーニー」の前線「世界平和女性連合」の会長である。大学の教室は高校によって、宗教訓練も含めた全教科のために使用されている。生徒は大学の食堂で食事をし、図書館で勉強しているが、寄宿学校はいまでも、それは独立の機関で、キャンパスに場所を借りているにすぎないと言い続けている。

「不安を抱く市民連合」のリーダーで市議会證員のウィリアム・フィンチが「ニューヨーク・タイムズ」に、「それは統一教会が社会から受け入れられるための努力をどこまで達成したかを示している。なぜならばだれもそれを気にかけたり、迷惑がったりはしていないように見えるからだ」と語ったとき、彼は正しかった。

しかしながら日本では、大勢の人が統一教会によって迷惑をこうむっている。文鮮明のとりなしで愛する死者たちを地獄の業火から救えると確約した統一教会員によって、一生の蓄えをだまし取られたと訴えて、何百人もの人が訴訟を起こしている。日本政府の消費者保護係官は、一九八七年以来、統一教会についてニ万件近くの苦情を受けていると言っている。教会はすでに超自然の力をもつと言われた壺や絵画の販売を含む多くの訴訟を和解に持ち込むために、何百万ドルも支払っている。

統一教会はアメリカやヨーロッパでは大きな宗教的吸引力をもったことはない。その事業は広範囲にわたり、それらの企業が生み出す富は莫大である。しかしながら、霊的実体としては、統一教会は破産したようなものである。教会は合衆国に五万人の会員がいると主張しているが、私は合衆国で活動している会員の数は数千にすぎず、イギリスでは数百だと考える。移民を担当するイギリス内務省が、文鮮明の存在は「公衆善を助長しない」と宣言したために、彼自身は一九九五年に英国への立ち入りを禁止されている。メシアのためにお金を集めようと、一日に十八時間、ワゴン車のうしろで小間物を売ってくれる、影響されやすい若者を見つけるのはかつてほど簡単ではなくなっている。

文師はこのような新入会員を、彼の旧敵、共産主義者のあいだに見つけることを期待した。一九九〇年、統一教会はソ連で、大がかりな勧誘と投資活動を開始した。文鮮明はクレムリンでミハイル・ゴルバチョフと会い、またソ連のえり抜きのジャーナリストをソウルの自宅における十年ぶりのインタビューに招待した。同年、文師の側近中の側近のひとり、朴普熙は韓国、日本、アメリカからのビジネスマンの代表団をモスクワに引き連れていき、投資の機会を探った。出発前、朴普熙はライサ・ゴルバチョフ夫人のお気に入りの文化基金のひとつに十万ドルの小切手を切った。

ロシアにおける文師の努力は、共産主義の崩壊とソ連の解体のあと、足踏みをしているように見えた。ロシアでの出だしのつまずきも、中国への悲惨な投資に比べればものの数ではない。朴普熙の勧めで、文師は中国南部の恵州に自動車工場を建設するため、ニ億五千万ドルを投資した。彼は中国をサブコンパクト力ーで埋め尽くそうと、パンダ・モー夕ー・コーポレーションに十億ドルの投資を約束した。文師は自分の目的は利益を上げることではなく、より貧しい国に投資することだと主張した。彼の中国本土開発への関心は、官僚主義からくる障害といい加減な計画とが、工場の進展を遅らせたとき、消滅した。彼はまもなく計画を放棄し、南アメリカにおける活動をふたたび倍増した。教会幹部は、南アメリカでは未来はより明るいと考えている。

私は子供たちが学校にいっているあいだ、マサチューセッツ大学の講義を受け始めた。心理学を勉強している。わが身に起こったことを理解する必要、そして感情的な悩みをもつ人びとに手を貸す仕事につく準備、このふたつがその動機だと思う。私は殴られた女だった。しかし私はまたカルトの一員でもあった。私は十四年間にわたって、自分がとってきた決定、そしてとらなかった決定を理解しようとする道程にある。

私が経験から学んだことがひとつある。心とは複雑なものだ。「洗脳」とか「マィンド・コントロール」とかいう言葉は、統一教会についての心理学的議論よりも政治的議論によりふさわしい。キャッチフレーズでは「ムーニー」のような団体の魅力、あるいはその信者たちに対する支配力を完全に説明することはできない。

もし自分が洗脳されたと信じられたら、私は私の新しい自由にともなう憂鬱と自己批判を免れることができただろう。私はいまでもなお、どうして自分があんなに長いあいだ、文鮮明のなかのべテン師に目をつぶったままでいたのか完全に理解できずにいる。私の経験は勧誘された会員のものとは違っていた。私は睡眠や食事を奪われたり、何時間もかけて教義を教え込まれたり、家族から引き離されたりはしなかった。私はこの宗教のなかに生まれた。私の両親は、彼らがどこで暮らすか、彼らがどんな仕事をするか、だれと協力するかの指令を出す教会の伝統と信仰に浸りきっていた。私はほかのことはなにも知らなかった。

私はだまされたと感じる。けれども苦い思いはない。私は利用されたと感じる。だが、怒りよりも悲しみを感じる。私は文鮮明のために失った歳月を取り戻したいと望む。私は自分がもう一度少女になれたらと思う。自分がいつかロマンチックな愛を知ることがあるのか、いつかひとりの男を、あるいはいわゆる「指導者」をふたたび信じることがあるだろうかと思う。

多くの点で、私は遅れてきた青春を体験している三十ニ歳の女である。私は、「独立」、「反抗」、「流行」、「仲間の圧力」、「個人の責任」について、自分の十五歳の娘と一緒に学びつつある。ときには自分の責任に押しつぶされそうになることもある。けれども自分で選択できる自由を味わっている。私は自分の人生を自分で管理している。もはや世界のなかで遊離している感覚はない。私は初めて本当の幸せを感じる。私は勉強と、暴力被害に遭った女性のためのシェル夕ーでのボランティアを続けるとき、新たなエネルギーを感じる。私は自分が、自分の子供たちや自分のコミユニティに貢献していることを発見して満足を感じる。

古い朝鮮のことわざがある。「もし水に落ちたら、川ではなく自分を責めなさい」人生で初めて、この格言は私にとって意味のあるものとなった。私ひとりが、自分の人生に責任がある。私ひとりが自分の行動と、自分の決定に責任がある。それは恐ろしいことだ。私は人生の半分を「より高い権威」にすベての決定を譲ることで過ごしてきた。自分自身で決定することを学ぶのは、その結果——よい結果も悪い結果も——を喜んで受け入れることを意味する。

最近、私は多くの時間を費やして、この原則を子供たちに説明している。彼らのひとりが、統一教会にもどりたいと言い出すときがくるかもしれないことを、私は覚悟している。文孝進は長男だから、長男の信吉にはいつかもどるように大きな圧力がかけられるだろう。孝進は新しいバンド「アポカリブス」の最新CDのジャケットに、信吉と自分の写真を使った。アルバムの夕イトルは『ホールド・オン・トゥ・ユア・ラブ(君の愛を守れ)』という。

私は信吉やその兄弟のだれかが大人になったとき、「イーストガーデン」に引き戻されることがないように祈っている。もしそうなったら、私は悲しく思うだろうが、それを受け入れるだろう。私は彼らに、よく考え、事実を知った上で選択をすることを教えたいと思う。お金の誘惑や権力の幻想によって動揺させられないことを教えたいと思う。私は彼らに、私たちは人生で望むもののために働かなくてはならないこと、私たちがなにかを自分で獲得しないかぎり、それは本当には私たちのものではないこと、もしなにかが本当にしてはあまりにもよすぎるように見えたら、それはおそらくそのとおりであることを教えたいと思う。

子供たちの選択がいかなるものであろうとも、私はいつまでも彼らを愛し続けるだろう。ちょうど両親の選択のいくつかを残念に思いはしても、彼らをいつも愛してきたように。私は子供たちと私の関係がいつも裏表なく正直であり、意見の相違が私たちのあいだに立ちはだかることなく、違った意見をもつことを許すようなものであることを願う。これは本当の愛。どこかのメシアのうしろにぴったりくっついて、密集行進法で歩くこととはわけが違う。

私は組織化された宗教についての最近の皮肉な言葉のいくつかを認める。「カルト」のなかにのみ危険を見る人びとは、正統な宗教と過激な宗教のあいだの線がいかに細いかを知らない。ローマ教皇は決して誤らないと信じる人びとから、文鮮明はメシアだと信じる人びとを本当に区別するものはなにか?それのみが天国への最良の道を知っていると主張しない宗教があるだろうか?多くの信仰が批判的な考察をいくばくか停止することを要求する。もちろん違いは、正統な宗教は信者たちに自由意志で信じるよう奨励する。人を欺く勧誘法も、経済的搾取も、残りの世界からの無理やりの孤立もない。

私は宗教については幻滅した。しかし神については違う。私はいまでも至高の存在を信じている。私は、自分の目を開いてくれたのが神であり、生存への力と逃亡する勇気をあたえてくれたのは神だと信じている。私の神は、私のもっともつらい闘争のあいだ、私を支えてくれた、すべてを抱擁する神である。私が幼い花嫁であったとき、私が十代の母親であったとき、私が殴られた妻であったとき、神は私のそばにいてくれた。私がいま子供たちをそのイメージのなかで育てようとしているとき、神は私とともにいる。信仰をもつ人びとは神をさまざまな名で呼び、さまざまな姿で描く。だが、私たちはみな神の心を知っている。私の信頼する神は、私に考える能力をあたえてくれた。神は私がそれを使うことを期待している。

一九九七年十一月二十九日、文鮮明はワシントンDCのロバート・F・ケネディ(RFK)・ス夕ジアムで合同結婚式を主摧した。それは一九八二年のマジソン・スクェア・ガーデンでの同じようなイベントとは大違いだった。この最近の集会では、統一教会はス夕ジアムを一杯にするために、獲物を狩りだしてこなければならなかった。出席した二万八千組のカップルのほとんどはすでに結婚しており、他の宗教の信者だった。多くの人びとが、郊外のショッピシグ・モールやスーパーの駐車場で配られた無料入場券を受け取って、統一教会が「ワールド・力ルチャー・アンド・スポーツ・フェスティバル」と広告したものに参加したのである。呼び物はメシア、文鮮明ではなく、ポップ・シンガーのホイットニー・ヒューストンだった。彼女は四十五分のステージに百万ドルを提示された。彼女の歌を聴くためにきた人びとには残念だったが、数日前に、イベントが統一教会後援だと知ったあと、ヒューストンは急病を理由に出演をキャンセルした。

言い訳をして断ってきた有名人はヒューストンひとりではない。パキスタン首相べナジール・ブット、キリスト教連合のリーダー、ラルフ・リード、暗殺されたエジプト大統領の娘、カメリア・アンワール・サダトらは全員、フェスティバルが文鮮明の自家宣伝だと知ったあと、出席の予定を変更した。

統一教会がフェスティバルとの関係を隠しておけないと気づいたとき、文鮮明は新聞に一頁大の広告を出して、既婚の夫婦に、彼らの結婚の晳いを新たにし、家族の価値を強めるために計画された「全教的」イベントに出席するよう呼びかけた。「あなたがたは私を矛盾に取り巻かれた男だと考えているだろラ」と文師の広告は語りかけていた。「私たちは、私個人を宣伝したり、統一教会をひとつの機関として拡大しようとしているのではない。私たちの目標は、家族を強化するための努力において、すべての人びとを、そしてすベての宗教をひとつにすることである」

あの寒い冬の午後、RFKスタジアムに集まった人びとのなかで、ほんの数百人のみが統一教会で新しくマッチングされたカップルだった。文鮮明の若き息子ふたりもそのなかにいた。彼らは実際には数力月前に結婚していた。彼ら二組の結婚に続く贅沢な家族の宴会で、メイン・テープルには「真の家庭」全員のために、座席札がおかれていた。文一家は家族の統一と完璧性の表向きのフィクションを維持しようと決意していた。文鮮明の長女と私の兄は子供たちと一緒にマサチユーセッツの自宅にいたにもかかわらず、そこには兄嫁と兄の席があった。

メイン・テーブルの文孝進の札の隣には、私の名前が書かれた座席札があった。私の椅子は空っぽだった。まるで私がたったいまテーブルを離れ、「真の家庭」は私がいまにももどってくると期待しているかのよぅに。

[出典:わが父 文鮮明の正体/洪蘭淑]

コメント

タイトルとURLをコピーしました