【わが父 文鮮明の正体】まとめ(02)

わが父 文鮮明の正体
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第1章:統一教会の誕生

「イーストガーデン」で開かれた文家の誕生パーティで歌う私。
文鮮明師は、家族や教会の集まりで、私たち一人一人に歌わせた。
声が悪いので、私はこの習慣が大嫌いだった

文鮮明師はがっしりした体格の小柄な男で、薄くなりかけた灰色の髪を靴墨のような黒に染めている。もしソウルの街角ですれ違っても、彼とは気づかないだろう。外見にはそれほど特徴がない。

彼は電気技師の教育を受けた。その話し方で特徴的なのは、カリスマ性よりも耐久力である。彼は韓国語でなら何時間でも話し続けることができる。英語で説教をするときは、なにを言っているのかようやく理解できるかどうか。よくあることだが彼が言葉遣いを間違えるたびに意図されぬ笑いが起こる。

それでは、この一九二〇年生れの七十八歳の農民の息子が、どのようにしてひとつの宗教運動の指導者として浮上してきたのか?彼の宗教運動は、世界中で何百万人もの人びとを誘惑し、彼らの労働のおかげで運動自体に金を集めてきた。その答えは、この男自身にあるだけでなく、統一教会が登場してきた時代と土地とも関係している。

文鮮明のメシア信仰のメッセージは、ニューヨーク・タィムズスクェアの街頭演説で話されたのなら、頭のおかしな男のうわごとに聞こえるかもしれない。しかし文師は朝鮮の土から、わが祖国の精神的伝統と、外国による占領・内戦・政治分裂を経験した動乱の一世紀という特定の状況から生まれたのである。

朝鮮の国土は地理的条件によって境界を定められ、東アジア大陸に付属する半島でありながら、同時に長白山脈と鴨緑江・豆満江によって大陸から隔てられている。これら自然の障壁が私の祖国を何世紀ものあいだ、外の世界から孤立させてきたように、その二十六の高峰がわが民族をおたがいに分裂させてきた。われわれが国民的アイデンテイテイーと共通の言語を作り上げたのは奇蹟のようなものである。

朝鮮半島に外国の影響が浸透してくるとき、それは北の山道を通って中国から、あるいは日本からやってきた。日本最大の島、本州は日本海の東わずか百二十マイルに横たわっている。朝鮮の歴史は、その戦略的な地理から「鯨たちの戦いのなかでもてあそばれた小エビ」にたとえられてきた。朝鮮の港と天然資源を利用しようとした外国人は、朝鮮に自分たちの商業と文化を—そしてあまりにも多くの場合、自分たちの銃をも—運んできた。彼らはまた自分たちの宗教も運んできた。

朝鮮固有の宗教は一種の原始的シャーマニズムである。シャーマンは「巫堂(ムーダン)」と呼ばれ、霊界と交わる特別な力をもつと信じられている。彼らは運勢を占い、豊作や、たとえば病気などの苦しみからの救済のような恩恵を精霊に乞う。また森や山、あるいは個々の木々や岩に住むと信じられている精霊と交流する。

四世紀に中国人が半島に仏教をもたらしたとき、この民俗伝承は消滅もしなかったし、中国の道教や日本の神道のように独自の宗教に形式化されることもなかった。朝鮮人はただ、われわれの古い信仰を仏教の教えに接ぎ木し、朝鮮では仏教が十四世紀まで支配的な影響力をもつ宗教に留まっていた。同様に、儒教が興隆し、次の五百年間、宗教生活の頂点にあったとき、儒教は民俗の伝統と置き換わったわけではなく、それと併存していた。

固有の信仰をほかの宗教教義に組み入れていくこの過程は、十九世紀、仏教が復興し、キリスト教が朝鮮に導入されたときも続いた。いまだに仏教が支配的な国において、キリスト教がもっとも急速に成長している宗教である現在でも、民俗伝承は、最先端をいく現代的韓国人の想像力にさえ、強い支配力を行使し続けている。日曜の朝、教会の礼拝に出席するキリスト教徒は、その午後、家の神に捧げ物をして、なんの矛盾も感じない。

先祖崇拝と霊界への古い信仰に加えて、私たちの文化には強いメシア信仰の傾向がある。メシア、あるいは「正義の道の使者」が朝鮮に出現するという概念は、百年前のキリスト教導入に先駆け、その根を仏教の弥勒の概念と儒教の「真の人間」つまり仁人、そして『鄭鑑録(ていかんろく)』のような朝鮮の啓示の書にものっている。

神授権によって統治する王という概念も、わが国最古の伝説に登場する。子供のころ、私たちはみんな、古い朝鮮民話「檀君の神話」を教えられる。檀君は神霊桓雄の息子で、桓雄自身は天主桓因の息子である。伝説によると桓因は息子に天から下って地上に天国を作ることを許した。桓雄は朝鮮にきて、虎と雌熊に出会う。虎と熊は桓雄にどうしたら人間になれるか尋ねた。桓雄は彼らに神聖な食べ物をあたえた。熊は従い、人間の女に変身した。虎は従わず、獣のままに留まらねばならなかった。桓雄はこの女と結婚し、この神霊とかつての雌熊の婚姻から檀君が生まれた。檀君は王宮を平壌に建て、地上における自分の王国を「朝鮮」と命名した。

二十世紀後半に、文鮮明師のメシア思想が根を下ろしたのは、この豊かな土壌のなかだった。彼の公式の伝記が歴史的にはどこまで正確で、どこまでが作り物の神話なのか、これは私が子供のころ、一度も自分に尋ねたことのない疑問である。私は米が水を吸収するように、文師の物語を吸収した。生まれたときから、彼がただの一聖人、あるいは一予言者ではないと教えられてきた。彼は神によって選ばれた。彼は「再臨の主」、世界の宗教をその指導のもとに統一し、地上天国をうち立てる神聖なる道案内である。正統の諸宗教が彼をカルト・リーダーと糾弾することはイエスの迫害と同じだ。文師は、このイエスの使命を完遂するよう神から霊感を得たのである。

文鮮明師は、一九二〇年一月六日、朝鮮半島北西部の平安北道の海岸線から三マイルはいった農村に、八人兄弟の五番目として生まれ、文龍明と名づけられる。これは「輝く龍」と訳され、のちに問題になった。龍はサタンの象徴なので、彼は伝道師となったとき、名前を文鮮明と変えた。

文師の誕生当時、わが国は日本の占領支配に苦しんでいた。日本は朝鮮を一九一〇年に植民地とし、占領は第二次世界大戦終了まで続いた。キリスト教徒は朝鮮の人口の一バーセント以下だったが、キリスト教はわが国の階層化された社会に熱心な支持者を開拓していった。プロテス夕ントの宣教師は一八八〇年代半ばにヨーロッパから朝鮮にやってきた。先祖崇拝に反対したにもかかわらず、彼らは存在を続けえたが、それはひとつにはキリスト教がすべての人間は神の子だと教えたからだった。これはいまだに厳格な封建社会においては、革命的な考え方だった。

古代朝鮮の王国、新羅の貴族でさえ、「骨品制」として知られているものによって分類されていた。エリートは三つの階層に分けられた。聖なる生まれ、つまり「聖骨(ソンゴル)」からは聖なる王たちが生まれ、真の生まれ「真骨(チンゴル)」からは上流貴族、頭の階級「頭品」にはその他の全貴族が含まれた。これは文鮮明自身の宗教組織に影響をあたえたようである。

もちろんほとんどの朝鮮人は貴族ではなく、貧しい農民だった。キリスト教は彼らに、たとえ地上に平等はなくても天国にはあるといぅ希望をあたえた。キリスト教会は数は少なかったものの、占領軍に対する抵抗の中心となった。文鮮明が生まれる一年前の一九一九年三月一日、日本植民地からの独立宣言が、プロテスタントの牧師、仏教の僧侶、そして当時朝鮮で人気を得つつあった多くのメシア信仰宗派の指導者たちの連合によって起草された。署名者は逮捕、投獄された。

この敗北にもかかわらず、一九二五年に植民地政府が朝鮮の国語として日本語を押しつけ、神道の神社を建立したあと、多くのキリスト教指導者たち—対日協力をしなかった者たち—は、日本の占領を終わらせるための運動をさらに活発化した。朝鮮人生徒には、日本の天皇を神と認め、天皇の祖先のための神聖な儀式に出席することが要求された。朝鮮の全家庭には、家に神道の社を祭るよぅ命じられた。拒否した二千名のキリスト教徒は投獄され、数十人が処刑された。

一九三〇年に、文一家が長老派教会に改宗するころには、日本の占領による経済困難は、宗教迫害と同様に明白になっていた。ほとんどすべての朝鮮人農民は小作人で、記録的な量の米を生産したにもかかわらず、そのほとんどは日本に輸出され、地元民は飢えていた。日本人は労働人ロの五パーセントにすぎなかったが、彼らが産業の上級職のほとんどを占領していた。たとえば、日本の会社は一九三二年に鉱山の九二パ–セントを所有していたが、地下では苦役につき、地上では暖房のない掘っ建て小屋に住んだのは朝鮮人の鉱山労働者たちだった。役所の仕事を確保できるほど幸運だった朝鮮人も下級職に限られていた。

このような抑圧が文鮮明の子供時代の背景だった。彼は勤勉で信心深い子供で、十歳のとき改宗した家族に従い、熱心な長老派教会員だったと言われている。一九三六年の復活祭の朝、文鮮明が十六歳のとき、すべてが変わった。彼は語っている。ある山の中腹で祈りに熱中していたとき、イエスが彼の前に現れた。イエスは彼に告げた。神は、イエス自身が地上でし残した仕事を文鮮明が完遂することを望んでいる。十字架上のイエスの死は人類に霊的救済をもたらした。だが、磔刑は、地上にエデンの園を取吵戻すことによって、人間に肉的救済をもたらすというその使命を、イエスが完遂する前に起きてしまった。

最初、文少年は聞くことを拒否した。しかしイエスは文鮮明を説得した。朝鮮は新しいイスラエル、神が再臨のために選んだ土地である。地上に「神の真の家庭」を建設するのは文師の義務である。文師はのちにこの幻視について言っている。「私が若いとき、神は私をご自分の道具として、ある使命のために呼ばれた……私は真理の追究に断固として専心し、霊界の丘や谷を探った。天国が扉を開いたとき、時は突然私に訪れ、私はイエス・キリス卜と生きた神と直接交信する特権をあたえられた。それ以来、私は多くの驚くべき啓示を受け取っている」

文鮮明は正式な神学教育は一度も受けていない。その原点となる幻視の二年後、彼はソウルに出て、電気技師の教育を受けた。一九四一年にはソウルから日本に渡り、早稲田大学でこの方面の勉強を続けた(正式には早稲田大学付属高等工学校卒業)。教会の歴史家たちによれば、そこで彼は朝鮮占領を終わらせるための地下活動に加わったという。彼は霊界に旅し、イエス、モーゼ、ブッダ、サ夕ンそして神自身と直接話すことによって、真理への個人的探求を続けた。彼がこの変容をどう遂げたかは、統一神学の神秘のひとつである。

文師の教えは『原理講論』に書かれている。これは、文師によれば、祈りや聖書の研究、神や偉大な予言者たちとの会話を通して受け取ってきたという啓示の数々によって、長い歳月のあいだに形作られてきた文書である。『原理講論』は統一教会の中心的文書だが、実際には文鮮明が書いたのではない。教会の初代会長で文師の最古参の弟子のひとり劉孝元が、啓示についての文師のメモとふたりの会話に基づいて書いた、といわれている。

統一教会員の伝記作家柳光烈は文師は神の啓示を充分に早く書き取れなかったと言っている。「彼はノートに鉛筆でとても早く書いた。彼の横にいた人間が鉛筆を削った。だが、その人間は彼の書くスピ—ドについていけなかった。お父様の鉛筆の芯が丸くなってしまうまでに、横にいた人間は別の鉛筆を削ることができなかった。彼はそれほど早く書いた。これが『原理講論』の始まりである」

天の啓示によって書かれたにしては、『原理講論』はひどく模倣的である。約五百五十六頁からなる統一教会の神聖なテキストは、シャーマニズム、仏教、新儒教、キリスト教の合成だ。聖書、東洋哲学、朝鮮の伝説、そして文師の若いころの大衆宗教運動から借りて、文師を中心にした一枚のパッチワーク神学に縫い合わせたものである、と各方面の研究家は書いている。

統一教会の現代的なルーツは天道教という十九世紀の宗派に見いだすことができる。天道教はもともとは東学、つまり東洋の学問と呼ばれ、朝鮮の伝統宗教と密接に結ばれていた。統一教会と同様に、天道教はすべての個人の霊は神に作られたのであり、われわれの魂は永遠で、すべての宗教はいつの日か統一されると教えている。
「人間の堕落」はエバ(イヴのこと)が禁断の木の実を食べたからではなく、悪魔と性的に交わったからだという統一教会の中心的教義さえも、文師が創設した考えではない。彼はこの理論を、一九四六年にイスラエル修道院で金百文という名の予言者の下で六力月間勉強していたときに教えられた。金はエデンの園は血を清めることによってのみ取り戻すことができると教えた。この理論では、エバの罪はサタンの血統を通じて新世代に伝えられたと考える。結婚して、罪なき子供たちを生み出すことで、人間の血を清めるのもイエスの使命の一部だった。イエスは神の意図を実現する前に殺された。その結果、イエスの死は世界に霊的救済をもたらしたが、肉的救済はもたらさなかった。

こう信じていたのは金ひとりではない。金聖道は一九三五年に北朝鮮のチュルソンで聖主教団を創設した。彼女はイエスが彼女の前に姿を現し、「人間の堕落」の性的性格について、同じような説明をあたえ、新たなメシアが朝鮮に再来するとの約束をしたと主張した。彼女は自分の追随者たちに、再臨の主を迎えるのに充分に清らかな環境を作るためには、結婚においてさえ性的な禁欲が必要なのだと説いた。彼女の死後、その追随者たちは統一教会に加わり、文師をメシアとして受け入れた。

『原理講論』は朝鮮の宗教思想における長いメシア信仰の伝統に借りがあることを認めている。

第三のイスラエル(統一教会では旧約聖書の時代を第一、新約聖書の時代を第二、現在の統一教会を第三のイスエルと称している)として、朝鮮の国は李王朝の統治以来、正義の王はこの土地に出現し、そして千年王国を確立することによって、世界のすべての国から称賛を受けるだろう、と信じてきた。この信仰が人びとに、きたるべき時を待ちながら歴史の苦い流れを耐え忍ぶよう励ました。これは朝鮮の人びとが予言の書『鄭鑑録』に従って信じた真にメシア的な思想である……

正しく解釈すれば、正義の王、鄭の若様は再臨の主の朝鮮名である。キリスト教が朝鮮に導入される前に、神は『鄭鑑録』を通して、メシアはのちに朝鮮に再来することを明らかにした。今日、多くの学者は、この本に書かれた予言のほとんどが聖書の予言と一致することを確認しているという。

統一教会は、神は文鮮明をメシアに選んだと教える。統一教会によって刊行された『原理講論』の総序(序論)は、この点について明確である。「予定の時がきて、神は生命と世界についての基本的な問題を解決するために、使者を送った。使者の名前は文鮮明である。何十年ものあいだ、彼は究極の真理を求めて広大な霊界をさまよった。この道の上で、彼は人類史上だれも想像しなかった苦しみに耐えた。神だけがそれを覚えているだろう。もっともつらい試練を受けなければ、だれも人類を救うために究極の真理を見つけることはできないと知って、彼はひとり霊界と物質界の両方で、何千何万ものサ夕ンの軍隊と戦い、最後には彼らの全員に勝利した」

文師の使命はイエスの使命を完成することだった。彼は「完全な女性」と結婚し、エデンの園に存在していた完璧な状態に人類を復帰させるだろう。彼と彼の妻は世界の「真の父母」となるだろう。彼らも、彼らの子供たちにも罪がない。文師に祝福された夫婦はその純粋な血統の一部となり、天国に場所を確保される。

個人として、私たちはみんなこの復帰のドラマに積極的な役割をもつ。メシアが地上に天国をうち立てる前に、人類は過去の罪を償わねばならない。統一教会員の用語では、彼らは人類の過去の過ちを神に償うために「蕩減」を支払わねばならない。統一教会の厳格な行動規範—喫煙の禁止、飲酒の禁止、賭事の禁止、婚外の性交渉の禁止—は個人がこの義務を果たすのを助けるためにもうけられている。
「原理の結論は、あなたがあなた自身、あなたの配偶者、あるいは子供たちよりも、真の父母を愛する決心をしなければならないということである」と文鮮明は言っている。「究極的には、真の父は、そのまわりにすべての子供たちと子孫が集まる軸である」

文師自身の生活は、犠牲を喜んで受け入れ、受難に忍耐強く耐えた模範だと言われている。統一教会の歴史家たちによれば、彼は一九四五年に、彼を南のスパイではないかと疑っていた共産党幹部からリンゴを買うために、贋金を使用した容疑で逮捕されたという。

彼が平壌で公に宣教を始めたとき、彼の思想はキリスト教の聖職者から異端として否定され、地元の共産党当局から告発された。一九四六年のことである。市はソビエト軍に占領されていた。朝鮮はまもなくふたつの国家、ソビエト支配下にある北の共産主義国家と、アメリカ合衆国の影響下にある南の民主国家に分断された。共産党当局は文鮮明を拷問にかけ、その身体を監獄の門の外に投げ捨てたと言われている。彼はそこで助けられ、初期の弟子のひとり金元弼の手当を受けて、健康を取り戻した。文師は共産党当局による宣教禁止にもかかわらず、説教を再開した。

自由は長くは続かなかった。文師は一九四八年に、今度は「社会秩序混乱罪」でふたたび逮捕された。彼は有罪となり、興南刑務所に送られた。これは強制労働収容所で、囚人たちはしばしば死ぬまで働かされた。彼自身の話によれば、文師は囚人第五九六号として、ろくな食事もあたえられずにこき使われ、百ポンドの袋に肥料を詰めて、貨車に積み込む作業をした。肥料に含まれる硫酸アンモニウムが両手の皮膚を焼いたが、彼は収容所にいた二年八力月のあいだ、一度も泣き言を言わなかった。
「私は弱さから祈ったことは一度もない。私は助けを求めたことは一度もない。わが父である神に、私の苦しみを訴え、その心をさらに悲しませることが、どうして私にできるだろう。私はただ神に、私は決して自分の苦しみにうち負かされないと言うことができただけだ」と彼は言っている。

国際共産主義に対する統一教会の極めて強固な反対は、文師の個人的体験に根を張っている。彼の反共的政治信念はその宗教哲学の基本教義になった。これらの信念から、彼は二十世紀の残りの期間、たとえそれがどんなに抑圧的な政府であっても、韓国の反共政府と提携してきた。

彼が投獄されているあいだに、北朝鮮が韓国に侵入して内戦が勃発、半島を正式な政治的分断へと導いた。国連軍が共産軍を三十八度線の北に押しやり、一九五〇年十月、文本人によると、処刑されることになっていた日の一日前に、国連軍が興南刑務所を解放した。自由になったとき、文鮮明とふたりの弟子金元弼と朴正華は韓国へと長い徒歩の旅を開始した。教会の言い伝えによると、朴が脚を怪我したあと、文師は朴を背負って何百マィルも運んだという。この偉業を写したざらざらの写真は、統一教会におけるイコンのようなものである(のちにこの写真は偽物だと指摘され、統一教会はすベての書物からこの写真を削除した)。

文師は一九五一年、港湾都市釜山に居を構え、小さな丘に手作りで、最初の教会を建てた。土間と泥壁、屋根は木ぎれと軍の配給品の箱、教会は泥小屋以上のものではなかった。市は兵隊と戦争難民とであふれかえっていた。文師は昼間はドックの労働者として働き、夜にふたたび説教を始めた。

文師の公式な伝記は、文鮮明が一九四五年四月に二十五歳で結婚したという事実をとばしている。妻の崔先吉は一年後に息子聖進を産んだ。彼らがソウルで暮らしていた一九四六年六月六日、文師は市場に米を買いに出かけた。現在彼が語っているところによると、途中で神が彼の前に現れ、すぐに朝鮮の北のほうに説教にいくよう指示したという。文鮮明は、自分はすべての神の子の理想の父親だと教えている。その彼が説明もなく、妻と三力月になる息子を放棄した。ふたりは六年間、彼と会いもせず、消息も聞かなかった。

崔先吉がふたたび夫と一緒になるのはようやく一九五一年、文師が弟子たちとともに釜山に到着したときである。夫妻が一緒にいた時間は長くはなかった。妻と息子は文師とともに一九五四年にソウルに移り、そこで彼は正式には世界基督教統一神霊協会として知られている統一教会を設立する。しかし結婚生活はまもなく破錠した。文師はこの結婚をひとことで片づけている。「キリスト教徒がわれわれの運動に反対しており、私の最初の妻はその影響を受けた。そして彼女は弱かった。それが原因で、私の家庭は決裂した。そして私は離婚した」まるで崔先吉と聖進は存在しなくなってしまったかのようだった。

「文師の妻は、文師がその身を運動に参加した会員たちに捧げることで、しだいに不幸になっていった。そして最後には離婚を要求した」とある外国人は語っている。「文師はこのことを望まなかったが、しまいに状況は解決不能となった。そこで彼は彼女に離婚を許した。彼女は彼に従うべき位置にいた。しかし、自分にはそうできないと気づいた。彼女はまた彼と神学的に異なっており、メシアは雲に乗って再臨すると考えていた。彼女はキリスト教諸派による否定的主張に強く影響されていた」

彼の妻が出ていったのは、統一教会における性的虐待が初めて公に報告されたのとほぼ同じ時期である。文師は、宗教的イニシエーション儀式として、女性の新信徒たちに自分とのセックスを要求しているという噂が広まった。当時のカルトのいくつかは、儀式として裸体を遵守しており、また伝えられるところによれば、「ピガルム」(血分け)として知られる禊ぎの儀式で、メシア的指導者と性的な交わりをもつことを、信者たちに強制していた。文師はつねにこれらの報道を否定し、それは正統宗教の指導者たちによる統一教会の信用を落とすための試みの一部だと主張している。

初期の統一教会では、会員たちは二部屋ある小さな家で会合を開いた。それは「三つの扉の家」として知られている。噂では、最初の扉で外套を脱がされ、二番目の扉で服を脱がされ、三番目の扉でセックスの準備として、下着を脱がされたという。真偽のほどは疑わしいが、服を脱がせようといういかなる試みも妨げようとして、衣類を七枚も重ね着して教会にいった女性の話もある。

一九五五年七月、こういった話が広く流布し、文師は風俗壊乱と徴兵忌避で逮捕された。どちらの告発も最終的には放棄されたが、教会が「血分け」を実践しているという噂はしつこく残った。

統一教会の初代会長—『原理講論』を書いた劉孝元—の妻、史吉子夫人は、大学当局が統一教会にまつわる噂を信じたために、梨花女子大学を追放された五人の教師と十四名の学生のうちのひとりである。

一九八七年の演説で、劉夫人は、こういった話の出所を金聖道の聖主教団までたどっている。劉夫人は言った。献身的に祈ったあまり、「そのグループにいた多くの人びとは、自分たちは、堕落前のアダムとエバの位置に復帰させられたと感じた。だから彼らは完全に清められ、罪がないと感じた。彼らは言った。『私たちはアダムとエバのようなものだ。アダムとエバは裸でいて恥じなかった!』そこであるとき、大いなる歓びから、彼らは服を脱ぎ、裸で踊った。この事件が韓国中に広まり、統一教会とは非常に遠い関係しかないにもかかわらず、それは私たちの教会が他のキリスト教徒から迫害される原因のひとつとなった」

こういった初期の日々の記録は、一九九三年、朴正華が『六マリアの悲劇』という題の本を出版したとき、ますます混乱してきた。朴は文師がー九五一年に韓国まで背負ってきたことで知られる弟子である。この本のなかで、彼は文師は確かに「血分け」を実践していたと述べ、文師の最初の妻が彼のもとを去ったのは、彼と他の女性たちとの性関係のためだと主張している。朴によれば、一九五三年、文師はまだ結婚しているあいだに、女子大生金明熙を妊娠させた。韓国では、姦通は刑事犯だったので、文師は愛人を日本に送って出産させた。息子喜進が一九五四年に生まれ、文師の子供と認知された。少年は十三年後、列車事故のため死亡した。

朴正華はこの回想録を出版したあと、文師から教会にもどるよう説得された。彼は統一教会草創期についての記述を否定した。私はいつも、この否定の代償はいったいなんだったのだろうと思ってきた。

私の両親は、ソウルで別々に入信を勧誘されたが、その当時、性的な淫行の証拠はなにも見ていない。一九五七年までに、統一教会は韓国の三十都市に拠点をもつようになっていた。私の両親は異なった土地、まったく共通点のない背景からきたにもかかわらず、同じ理想主義的感覚から統一教会に魅了された。ふたりのどちらの子供時代も、宗教は生活の中心ではなかった。彼らは一九五〇年代後半の多くの韓国人青年と同じように、内戦からよろめき出てきて、自分たちの分断され、貧窮した国土のために役立つ道を探していた。私の母も父も、それぞれのやり方で、できるだけ大きな人生目標を求めていた。

私の父、洪成杓は一九五七年に教会に入信した。彼は全羅南道の小さな町から両親によってソウルに送り出され、薬学を勉強していた。父の家族はその町の小さな農場で米と大麦を作っていた。伝統に従って、この農場は父の兄が相続することになっていた。そこで父と三人の姉妹は別に生活の道を求めなければならなかった。

父はこの都会が好きだった。彼はよい学生で、恩義を知る息子だった。だから彼が新興宗教への興味を語ったとき、両親がいい顔をしなかったのには、身を引き裂かれる思いがした。彼は、多くの新入会員と同様に、街頭で統一教会に勧誘された。彼と友人とは文師の初期の弟子のひとりから、講義に出席するよう誘われた。父は興味をそそられて帰ってきた。

すぐに父は定期的に講義に出席し、教会の世話係として活動するようになった。夏休みや学校の休日には、新しい会員を勧誘しようと、説教に出かけた。彼は文師のために、疲れを知らずに働いたが、多くの新入会員と違って、勉強を放棄はしなかった。

私の母、柳吉子は現在は北朝鮮となっている吉州で育った。彼女の家族は一九四〇年代に韓国にきた大量移民の一部だった。母は大学の入学試験準備中に、やはり統一教会の講義に誘われた。宗教生活は母が計画していた生活ではなかった。母は才能あるクラシックのピアニストで、演奏家としてのキャリアを夢見ていた。

文師とその教会に反対することでは、母の両親は父の家族よりもさらに断固としていた。私の祖母はとくに激しく反対した。祖母は母が教会にいくことを禁じた。それでも母はこっそりと家を抜け出して、礼拝に出席した。捕まって、反抗の罰に兄弟たちからたたかれたことも一度ならずあった。

ほとんどの韓国人は私の祖父母と同じだった。彼らは統一教会を危険ではないとしても奇妙なカルトとして見ていた。一九六〇年、文師が人類の家族の「真の母」となるべき花嫁を選んだとき、彼らの不安はさらに強くなった。四十歳になる文師から妻に選ばれたとき、韓鶴子はまだ十七歳だった。彼女の母親は金聖道の熱心な信者で、文師が「再臨の主」だと信じていた。彼女は自分の娘を神にあたえ、娘が「真の家庭」の「真の母」となることで幸せだった。

「人間の堕落は、自らの両親を失ったというひとことに集約できる」と文鮮明はアダムとエバの楽園追放について言っている。「人類の歴史は両親の探求だった。人びとがその真の父母に出会う日は、彼らの最高の日である。なぜならば、それまでは、何人も孤児院で暮らす孤児のようなものだからだ。真の家庭と呼ぶべき場所はどこにもない」

文師は私に自分自身の父親の話をしたことは一度もなかった。しかし自分の母親と、彼女がいかに働き者だったかについては、大いなる敬意をこめて語った。彼のいとこは、「真のお父様」が六人姉妹と二人の兄弟のなかで、頭のいい、お気に入りの息子だったと回想している。あと双子が一組いたが、幼いとき死亡した。文師のいとこのひとり、文龍起は一九八九年に文師の母親金承継の誕生を記念して韓国でおこなわれた追悼式でこう語っている。

文師は「少年のころ、とてもいたずらっ子だった。ある日、彼が六歳のとき、偉大なるお母様は彼がほとんど気絶するくらいの平手打ちを喰わせた。この一件で、偉大なるお母様は衝撃を受けたと思う。私は偉大なるお母様が彼を怒るのを二度と聞かなかった」

いとこによれば、文鮮明の知能に気づいたのは彼の母親だったという。彼女は、なんとしても彼に大学教育を受けさせたがった。「彼はさらに勉強するために、日本にいかねばならなかった。けれども彼を送り出すための金がなかった。だから彼は故郷の町に帰らねばならなかった」といとこは回想する。

「偉大なるお母様は真のお父様の日本での授業料を払うために、私の父親名義の土地を売りたがった。すべての土地が私の父の名義になっていたので、偉大なるお母様にはそれを売ることができなかった。そこで彼女は私に、土地を売って、真のお父様を日本の学校に送れるように、私の母の印鑑を借りてこいと言いつけた」この策略は、メシアのための神の計画の一部だった。メシアのための神聖な計画を支援するために、文家の他の家族は苦しまなければならなかった。

韓鶴子の子供時代は、彼女の母親が夢中になっていた霊的運動を中心にしていた。彼女は一九五五年に母とともにソウルに引っ越すまでは、済州島でひっそりと守られて暮らしていた。母親が自分の宗教生活に没頭していたあまり、彼女は祖母に育てられた。父親は、彼女がまだ幼いときに家族を捨てていた。韓鶴子が十一歳のとき、母親は文鮮明の賄い人になった。メシアが初めて韓鶴子を見て、結婚を決めたとき、彼女はまだ子供だった。

のちに文師はこう回想している。
「統一教会創成期の女たちは命の危険を冒しても私を愛したがり、夜遅くであっても、私に会いに来た。だから人びとは私たちのことを噂した。女たちは、神を中心とし続けているとわかっている男のところに、自分たちがどうしてこんな訪問をするのかさえ、わからなかった。そして「聖婚」(一般の合同結婚式と区別するため「聖婚」と呼ばれる)のときがきたとき、老いた未亡人たちさえも、お母様の場所に立つことができるよう望んだ。

ある女たちは、瞳を自信で輝かせて、自分が真の母だと主張した。七十歳の老女は、自分が私の妻となり、十人の子供を産むと言った!もちろん彼女には、自分がなぜそんなことを言うのかわからなかった。娘をもつ女たちは、神に心から祈り、自分たちの娘が真の母となるという啓示を受けたと言った。

しかし真の母となる女は予期されずに登場した。彼女と会ったことのある人間はほとんどいなかった……私は四十歳で、十七歳の娘と結婚しようとしていた。もしこれが神の意志でなければ、私以上に頭のおかしい者はいなかっただろう。ちょっと考えてみたまえ。そのときからお母様の大きな責任は、統一教会の重荷すべてを背負うことだった。多くのすばらしい、大学教育を受けた女たちが、一列に並んで、その資格を並べ上げていた。しかし私は彼女たち全員をはねつけ、十七歳の無垢な乙女をお母様に選んだ。なんという驚きだったことか!老女や母親たちは叫び、目をむいた!

文師は信者たちに言った。「若さは結婚の障害にはならないだろう。あなたたちが自分たちの子供が青年になり、性に目覚めたと認めるとすぐに、彼らは結婚において祝福される。なぜ彼らは結婚に失敗しなければならないのか?神が、あるいは天が、地上のそれぞれの人間に、食をあたえ、教育し、結婚させる責任を負っている。今日、人びとは熱心に働き、それでも充分な食料がない。人びとは結婚の準備ができている。しかし結婚はできない……愛の衝動を持ち始めたあと、なぜ置いてきぼりにされねばならないのか?適切な時を決定するのは父母の責任である」

文鮮明と韓鶴子は一九六〇年三月十六日、ソウルの本部教会で結婚した。一ダースほどの会員が、その直前に教会を脱会し、自分がメシアであるという文師の主張と、弟子たちの結婚相手を彼が決める習慣について話を広めた。文鮮明と韓鶴子が「御聖婚」において結ばれたとき、街頭では憤慨した教会員の親たちが抗讓していた。

文師の見方では、反対されることも結婚と同様、神の摂理だった。
「イエスは国家により、司祭により、すべての人により迫害された。私たちがイエスと同じ状況にいないかぎり、復帰はなされない。だからこそ、韓国全体が、私たちを迫害するために動いているのだ。門の外から私たちに反対する声を聞きながら、私たちは聖婚式をおこなった。こうすることによって、統一教会は闘いのただなかで勝利を勝ち取った。もし私たちがこうしなかったなら、神はお喜びにはならなかっただろう」

一週間後、文師はもっとも近い弟子三名—金元弼、劉孝元、金栄輝—を自分が選んだ教会の女性と結婚させた。これらの結婚から一年のうちに、さらに三十三組の結婚が取り決められ、そのなかには私の両親もいた。文師は私の父に、花嫁を自分で選んでもよいと言った。これは例外的なことだった。教会は、結婚は霊的な結びつきであり、肉体的な魅力のような気を逸らせるものに影響されてはいけないと教えていたからである。父は文師の判断に従った。

文師が組合せを決めたとき、私の両親はおたがいを知らなかった。しかし彼が、おまえたちを組み合わせたのは、おまえたちが、おまえたちと統一教会とに名誉をもたらす子供たちをもつとわかっていたからだと日ったとき、ふたりともそれを信じた。

差し迫った結婚の噂を聞きつけた祖母は、母の靴を隠し、部屋に閉じこめた。母は弟に助けを求めた。彼は靴を見つけ、扉の鍵を開けた。母は教会まで走っていった。祖母はすぐにあとを追った。けれども間に合わなかった。私の両親が祖母の叫び声と教会の扉をたたく音を聞いたとき、文師はすでにふたりの結婚を祝福していた。

文師は、その日、祖母が教会に飛び込んできて、彼の胸を拳でたたきながら、彼が自分の娘を自分の知らない男と自分が信じていない教会で結婚させた、と告発したようすを決して忘れなかった。時が経つにつれて、文鮮明と私のどちらもが、私は祖母の魂を受け継いでいると信じるようになった。

[出典:わが父 文鮮明の正体/洪蘭淑]

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