【わが父 文鮮明の正体】まとめ(05)

わが父 文鮮明の正体
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第4章:十五歳の花嫁

一九八二年一月三日、私はアメリカ合衆国に不法に入国した。統一教会は私のビザ取得のために、ニューヨーク市で開かれる国際ピアノ・コンクール出場という話をでっちあげた。

私の演奏を聴きさえすれば、アメリカ移民局もすぐにこのインチキを見抜いただろう。そんなコンクールが実在したとしても、私のような限られたテクニックしかないピアニストが出場者のなかに入るわけはなかった。申請に信憑性をもたせるために、文鮮明師は同じインチキ・リサイ夕ルのためと称して、リトルエンジェルス芸術学院ピアノ科最高の学生を私に同行させた。

白状するが、両親と私とが弟と妹たちにさよならと手を振ってアメリカへと出発した、あの凍えるような冬の日、私はこんな策謀についてはあまり考えなかった。私たちは人間の法は神の計画に従属するという文師の見方を受け入れていた。彼の道理で言えば、詐欺的に取得したビザは、私と文孝進との「聖婚」のための神の道具にすぎなかった。

実のところ、婚約から六週間のあいだ、私はほとんどなにも考えなかった。振り返ってみると、私が一番似ていたのはゼンマイ仕掛けの陶器の人形だった。ネジをまわせば、人形は動き、しゃベり、微笑む。私は文字どおり一夜で変身を経験し、その変身に途方にくれた女学生だった。ある日、私は大人たちがまじめな話をしている部屋から追い払われる子供だった。その次の日、私は「真の家庭」の一員となり、私に頭をさげる年長者に対し、しかるべき礼をぎこちなく返してぃた。

孝進と彼の両親がアメリカに帰ったあと、母と私は、少女から女への私の変身にふさわしい服装をそろえるため、何週間も買物をして過ごした。学校の制服も、Tシャツとブルージーンズもおしまい。私の十代の自己は、あつらえのビジネススーツと保守的なドレスの下に埋葬された。この新しい役割のなかでぎこちなく感じてはいても、私は注目の的になった。自分の栄誉を讃えて、次から次へと開かれる晩餐会を楽しまない娘などいるだろうか?いくつも年上の人びとから引っ張りだこにされて、頭をくらくらさせない人間がいるだろうか?

きたるべき苦難の予兆があったとすれば、それは私が自分の婚約者と一緒にいるときに感じる居心地の悪さだった。十二月、文孝進が短期間、単身で韓国にやってきた。私たちが会うとき、それは、ふたりに共通する趣味がなかったことと、セックスへの容赦ない彼の圧力によって緊張したものになった。母は結婚について読むよう何冊かの本を私に渡したが、性行為が実際になにを意味するのか、私はまだはっきり理解していなかった。

孝進は韓国訪問のあいだ、私をソウルの文家に連れていき、自分の部屋を見せるという口実で、私を自分のベッドに追いつめた。彼は言った。「おれと横になるんだ。おれにまかせろ。おれたちはすぐ結婚するんだから」私は言われたとおりにしたが、明らかに経験のある彼の手が私の身体を探り、彼の指が私の冬着を一枚、また一枚と不器用にはいでいくあいだ、ただ恐怖で身を固くしていた。「ここを触るんだ」と彼は自分の手で、私の手を彼の太股の内側に導きながら言った。「ここを撫でろ」

統一教会では、結婚前のセックスは厳格に禁止されている。文鮮明は「人間の堕落」が性的な行為によるものと教えているので、結婚前、あるいは婚姻外のセックスは、人が犯しうる最大の罪と考えられていた。私は十五歳の脅えた処女として、統一教会の子孫、メシアの息子に対し、もし私が彼の要求どおりにしたら、私たちふたりとも永遠に地獄に堕ちる危険を冒すことを思い出させねばならなかった。私の無理もない無邪気さを、彼は怒るよりもおもしろがったようだ。私のほうは、神は孝進を罪深き道から導き出すために私を選んだのだと、心の底から信じていた。

この任務がどんなに難しいか、私はなにも考えていなかった。大韓航空のジエット機がニューヨークのケネディ国際空港に着陸したときでさえ、私が知るすべて、愛する人すベてから遠く離れた世界、アメリカでの自分の生活が実際にどんなものか、私はまったく考えていなかった。文孝進の花嫁としてかしこまり、他人にお膳立てされたさまざまな行事のなかに押し流された私のようなふつうの人間が、どのようにして文鮮明の「神の家庭」に入り込めるのか、あるいは品行方正な少女が、文孝進のような年上の反抗的な若者を飼い馴らすことができるのかを、自分自身に問いかけることはなかった。

ニューヨークで飛行機から降りたあと、私は税関の列へと殺到する旅行者の渦のなかで、両親と離ればなれになってしまった。私が大きなスーツケースふたつを手渡したとき、制服を着た税関の係官はうんざりしたように見えた。彼は私にぞんざいに話しかけたが、私は英語がわからなかったので、彼の質問に答えられなかった。だれかが私のアシストにきてくれるまで、いったりきたりの騒ぎがあり、怒鳴り声があがった。

私は係官がきちんとたたんだ衣類を台の上にどすんとおき、荷物のわきや裏側のポケットを探るのを見ていた。彼はなにを探しているのだろう?私がなにをもっているというのだろう?税関の係官には疑ってしかるべき理由があったということは、私の頭には浮かばなかった。ピアノ・コンクールのための楽譜はどこにある?短い旅行になぜこんな大荷物をもっている?韓国で婚約のお祝いにもらった何千ドルもするネックレスをしているのではないか?教会幹部たちは私に、それを私の茶色の地味なドレスの下に隠すよう言ったのではないか?

私は、アメリカで文鮮明に対する反感が絶頂に達した時期に合衆国に到着した。一九七八年には、人民寺院の指導者ジム・ジョーンズ師がガィアナで九百人以上の信者に青酸入りのジュースを飲ませて集団自殺していたが、文鮮明はジョーンズ師にも似た公共に対する脅威として、合衆国で悪し様に言われていた。アメリカの新聞は、文鮮明に従うよう洗脳された若者の話でもちきりだった。国中に「脱洗脳者」の小規模な会社が生まれ、両親たちは統一教会のセン夕ーから子供たちを無理やり連れ出して、「再教育」するために、彼らに金を支払った。

統一教会に生まれたために、私は、教会をこれほど議論の的にしてきた勧誘テクニックについて、直接にはほとんど知らなかった。私は「洗脳」というようなメロドラマ的な表現には疑いを抱いていたが、新入会員が古くからの友人や家族から引き離されるのは事実だった。教会員は、新たに勧誘されてきた人を教会に引き入れるために、その人についてできるだけ多くを知り、個人個人に適した勧誘法をとるよう奨励された。会員たちは新入会員に対し、個人的な心遣いで「愛の爆弾」切)を浴びせかけるから、感じやすい若者が、新しい「家族」に熱狂的に応えるのも、あまり不思議なことではない。

すべてを抱き込むこの宗教共同体の陰険な動機を疑うのは、ふつう、新入会員の本当の家族である。私がアメリカにきた年、空港や交通信号、あるいは街角で、統一教会のために安物や花を売る若者が旅行者に近づいてくることは珍しくなかった。物乞いはつらく屈辱的な仕事である。

文鮮明の信者はそれをたいていの人びとよりも上手におこなった。物乞いがメシアの仕事を支援するのだと信じるとき、お金を乞うのはたやすくなる。

アメリカの親たちが文鮮明の神学に多くの疑問をもっていたように、アメリカ政府は彼の財政に疑問を抱いていた。上院財政委員会の有力共和党員、ロバー卜・ドール上院議員は、統一教会に対する聴聞会の結論として、文師と教会の税身分について国税庁(IRS)に調査を勧告していた。私の婚約のわずか一力月前、ニューヨークの連邦大陪審は文師を起訴し、一九七二年から七四年にかけての所得税脱税と脱税謀議について告発した。私がJFK空港で受けた細かい検査は、私のスーツケースの大きさよりもこの起訴のほうに関わりがあったことに疑いの余地はない。

私はもちろん、こういったことをまったく知らなかった。私が知っていたのは、自分は「真の家庭」に加わるためにアメリカにきたということだけだった。文孝進は税関の外でいらいらと待っていた。税関を出た私は、自分の試練に動揺し、両親に安心させてもらおうとあたりを見回した。けれども孝進は私を駐車場へとせき立てた。そこには、父親から婚約のお祝いにもらった黒いスポーツカーが待っていた。彼は小さな花束をもっていたが、待たせられてあまりにもいらだっていたために、それを私に渡すのを忘れた。彼は、おまえの親たちは「イーストガーデン」(東の園)でおれたちと合流するはずだ、と言った。私はあまりにも疲れていて、反論する元気もなかった。

マンハッタンの会社で働く重役やエリ—トがハドソン川沿いの古風な田園にホームを構えた豊かな郊外都市を抜けてウェストチェスター郡まで、ニューヨーク市から北に四十分、私たちは沈黙のなか、車を走らせた。時間は遅く、外を見るにはあまりにも暗く、あまりにも疲れていて、私にはどうでもよかった。

铸鉄の黒い門をくぐったあと、私はもう少し関心をもって見始めた。ついに「イーストガーデン」にきたのだ。孝進は警備室の警備員に会釈をし、長く曲がりくねった道を走らせていった。暗闇のなかでさえ、なだらかな芝生の上に、私は自分が長い歳月、うやうやしく見つめてきたその正確な場所を認めたと思った。韓国の私たちの家には、アメリカの屋敷の緑の芝生に腰をおろす「真の家庭」の写真が飾られていた。私はその写真をよく見つめ、そこに撮影されている人びとを完璧と信じる私の心は揺らぐことがなかった。高級な服を着て、豪華な邸宅の前でポーズを取る彼らは理想の家庭を表し、私たちはその模範を見習えるようにと祈った。ティーンェィジャーがロックス夕ーの写真を宝物にするように、私はその写真を宝物にしていた。

文師夫妻と、彼らの十二人の子供のうち、年長の三人が、私たちを扉のところで出迎えた。私は「お父様」と「お母様」の家にいることでかしこまり、彼らにお辞儀をした。広い玄関の間を抜けて「黄色の部屋」と呼ばれる美しい日光浴室へと案内されているとき、私はもう一台の車の音を聞いた。私の両親はどこにいるのだろう?彼らや教会の長老たちはいつくるのだろう?

私ひとりで文師夫妻と話さなければならないなんて、どうしよう!

家に入るとき、私は重い冬のブーツを脱ごうと立ち止まった。韓国では、まず靴を脱がないかぎり、絶対に家のなかには入らない。これは潔癖さと同様に敬意の印でもある。孝進の妹、仁進が私を止めた。お父様たちを待たせてはいけない。「黄色の部屋」で、私たちは私の旅行について儀礼的な言葉をかわした。私は微笑み、ほとんど話さず、視線を落としていた。いかに緊張していたか、いくら言っても言いつくすことはできない。「真の家庭」と単身で同席したことはなかった。恐怖と畏敬が混じり合い、私はほとんど麻痒していた。両親の到着を報せる車のドアの締まる音を聞いたときはほっとした。

両親が階下で話しているあいだ、孝進は邸宅のなかを簡単に案内した。邸宅は広大だったが、それでも子供たちとその子守とではち切れそうに見えた。私がアメリカにきたとき、文夫人は十三番目の子供を身ごもっていた。小さな子供たちのほとんどとべビーシッ夕ーたちは、その夜、三階の兵舎のような区域で眠っていた。ベッドのなかで毛布にくるまれた子供たちを見て、韓国の家にいる自分自身の弟や妹、とくに六歳になる弟のことを思い、私の心はうずいた。

文一家に別れを告げ、運転手が私と両親を、「イーストガーデン」から数分のところに教会が所有する来客用の屋敷べルべディアまで連れていったときには、とうに真夜中を過ぎていた。まず両親がひと部屋に通され、そのあと私は廊下の先のこれまで見たなかで最高に美しい寝室に案内された。ピンクとクリームの色合いで装飾された部屋は、王女が使うにふさわしかった。クイーンサイズのベッドに加えて、居間部分には大きなソファーとすわりごこちのよい肘掛け椅子があった。クリス夕ルのシャンデリアとウォークイン・クローゼットがふたつ、それは私が子供のときにソウルで借りていた部屋のいくつかよりも広かった。浴室は広く、もとからある青と白の手書き夕イルは、邸宅が建てられた一九二〇年代の優雅さを留めていた。

こんな部屋は見たこともなかった。テレビまであった。私はスィッチをいじくりまわし、英語はひとこともわからなかったけれども、すぐに自分がなにかコマーシャルを見ているのだと気づいた。ドッグフードのコマーシャルだと理解したときの自分の表情を、写真に撮っておきたかったものだ。犬のための特別の食べ物?犬が茶色のお団子で一杯のポゥルまでキッチンの床を飛び跳ねてくる光景から私は目が離せなかった。韓国では犬は食卓の残り物を食べる。アメリカでの最初の夜、私は驚異の念に包まれて眠りについた——自分は、犬が自分専用の料理を食べるほど豊かな国に住んでいるのだ!

翌朝、運転手がもどってきて、私と両親とを文家の朝食に連れていった。文師は自分の事業と教会の用事を、ここ「イーストガーデン」の板張りの食堂で、朝食時に取りしきる。毎朝、幹部たちがきて、世界中で展開している彼の事業について韓国語で報告をする。長い長方形の食卓で文師はどの計画に資金を提供するか、どの会社を買うか、どの人物を昇進させるか、あるいは降格させるかを決める。

文家の子供たちは両親と一緒には食事をしない。彼らは毎日朝一番に文師夫妻に挨拶するため朝食の食卓にくる。それからキッチンに連れていかれて、食事をあたえられ、そのあと学校にいったり遊んだりする。この朝、年長の子供たちは、彼らの両親と私の両親と一緒に朝食をとった。私は、年下の子供たちが新しい姉をちらっと見ようと、キッチンの扉からのぞいているのに気づいた。彼らの声に心暖められたが、小さいほうの子供たちが韓国語を話さないのを知って衝撃を受けた。

文師は、韓国語は天の王国の普遍言語だと教えている。彼は言う。「英語は天の王国の植民地のみで話されている!統一教会運動がさらに蓮すれば、統一教会の国際的な公式言語は韓国語になる。カトリックの会議がラテン語でおこなわれているのと同じように、公式の会議は韓国語でおこなわれる」私は世界中の会員に韓国語学習が奨励されていることを知っていた。だから、私が神の言葉と教えられてきたものを、文師夫妻が自分たちの子供に教えるのに失敗したことには当惑を覚えた。

その朝、私はアメリカの朝食の奇妙なにおいに圧倒された。ベーコンとソーセージ、卵、パンケーキがあった。こういったたくさんの食べ物を見て、私はちょっと吐き気を覚えた。韓国では、キムチとご飯の簡単な朝食に慣れていた。文夫人は厨房の「兄弟姉妹」たちに自分のお気に入りの果物、パパイヤを出すよう言った。彼女は、私がそのような異国の美味を食べたことがないのを知っており、味見するようせかした。彼女は風味を引き立てるためにどうやってレモン汁をかけるかやって見せたが、私にはどうしても食べられなかった。彼女は機嫌を損ねたように見えた。母は私の前に置かれたパパイヤを食べ、文夫人のすばらしい好みを称賛した。

文師は私の居心地の悪さを感じ取った。彼は直接、孝進にいった。「蘭淑は知らない場所にいる。外国にいる。言葉もしゃベれないし、習慣も知らない。ここはおまえの家だ。おまえは彼女に優しくしてやらねばいけない」私は文師が私の不安に気づいたことをありがたく思うあまり、孝進がなにも答えなかったことは、ぼんやりとしか気にとめなかった。

孝進はベルべディアまで私に会いにきはしたが、その数少ない訪問は安心をあたえてはくれなかった。それは私たちがおたがいにいかに合わないかを、さらにはっきりさせただけだった。私は彼を恐れた。彼は私を抱こうとし、私は身を引き離した。まもなく結婚する相手はもちろんのこと、男の子といるときどうしたらいいかわからなかった。「なぜおれから逃げるんだ」と彼は尋ねた。自分自身が若すぎて理解できなかったことを、どうして私が彼に言えただろう?私はメシアの息子の霊的なパートナーとなることを名誉に思っていたが、血と肉をもつ男の妻となる準備はできていなかった。

続く四日間を、私は一連の夢の場面のように過ごした。私は場面から場面へと移動し、疲れと展開する行事の規模の大きさのせいで、なにも感じなくなっていた。私は言われた場所にいった。私は、文師夫妻を怒らせるような間違いをしないことだけを気にかけながら、言われたことをした。

文夫人は私と母を、郊外のモールに買物に連れていった。こんなにたくさんの店を見たのは初めてだった。文夫人の足は最高級の店へと向かいがちだった。ニ—マン・マーカスで、彼女は私に試着するようにと、暗い色の落ち着いた色気のないドレスを選んだ。自分には明るい赤やロイヤル・ブルーの服を選んだ。私は、彼女が私の若さを不快に思っているのではないかと思った。おそらくは夫が婚約の日、私のことを彼女よりもかわいいと言うのを聞いたのだろう。韓鶴子のような驚くべき女性が、だれかに、とくに私のような女学生に嫉妬するなど、私には想像しがたかった。文鮮明と結婚したときの彼女は、いまの私よりわずかに一歳年上だけだった。三十八歳で十三人目の子供を妊娠し、彼女の肌はいまだにしわひとつなく、顔立ちは絶世の美女のものだった。

彼女は表面的には私に気前よく、その最初の週、私を自分の部屋に呼んで、もう着ないドレス一着と美しい金の鎖をくれた。私はドレスを試着するとき、浴室でその鎖を外し、誤ってシンクの上に忘れてしまった。彼女はあとでネックレスをメイドにもたせて、ベルべディアの私のところまで届けてきた。文夫人は私に自分の洋服だんすと財布は開いてくれた。だが、私は最初から、彼女の心は閉じられたと感じた。

韓国の家庭では、伝統的に長男の嫁の地位は高い。彼女は母親の役割を受け継ぎ、家庭の錨となる。韓国語には長男の嫁を指す「マンミョヌリ」という特別の言葉さえある。文家では、私がこの役割を果たさないことは、最初から明らかだった。私は若すぎた。「私はお母様を育てなければならなかった。そして今度は嫁も育てなければならない」と文師はいつも言っていた。あとになってようやく私は、文家では、だれであろうと外部の者が重要な役を果たすことは許されないと気づいた。嫁は自分の立場を知っていなければならない。私にとってそれは、家族が集まるときに、文鮮明から一番遠く離れた椅子に最後にすわる人間であることを意味した。

私が空港で税関職員の注意を引いたことを考えて、文師はいずれにせよピアノ・リサイタルを開いたほうが安全だろうと決めた。私はあわてた。練習をしていなかったし、楽譜ももってきていなかった。母は私に請け合った。リトルエンジェルス芸術学院の授業で暗譜したシューマンの曲で切り抜けられるだろう。私は、それならたぶん充分に思い出せるだろうと考えた。孝進と文師の個人的補佐ピー夕ー・キ厶が、ある午後、私をニューヨーク市まで車で連れていき、マンハッタン・セン夕ーの舞台で練習させてくれた。マンハッタン・セン夕ーは教会がミッド夕ウンに所有するコンサート・ホール兼レコード・スタジオで、リサィ夕ルはここで開かれることになっていた。

私は文師の黒いベンツの一台の後部座席にひとりですわり、市の摩天楼が目に入ってくるのをじっと見つめていた。感銘を受けるべきだと知ってはいたが、それは寒い灰色の一月の一日だった。私の唯一の印象は、ニューヨーク市にはなんと生気がないかということだった。あとで考えてみると、その死の感覚は、私自身の感情とより密接に関係していたのだろう。私の感情は、窓の外のコンクリートの景色と同様に凍りついていた。

マンハッタン・セン夕ーで、私たちは教会最高幹部のひとり朴普熙の美しい娘、朴薫淑と会った。彼女は孝進と同世代だった。彼はそのすさんだ中学時代、ワシントンDCで薫淑の家族と暮らしていたことがあった。彼女はその後、文鮮明が創設した韓国一のバレエ団、ユニパーサル・バレエ団のバレリーナになる。どちらも韓国語がぺらぺらなのにもかかわらず、ふたりは英語で親しげに挨拶をかわした。彼らが長々とおしゃべりをしているあいだ、私はそこに黙って立っていた。私は自分の顔がほてるのを感じた。なぜふたりは私を無視するのか?なぜこんなに不作法なのか?孝進が私を小さな控え室に残して、だれかほかの人びとと話しにいったときには、もっと腹が立った。「ここで待ってろ」と彼は、私が言うことを聞くように訓練中の子犬ででもあるかのように言いつけた。

私は、例の頑固なプラィド、兄を相手にたびたび子供っぽい喧嘩の種を作ったプラィドが頭をもたげてくるのを感じた。孝進が見えなくなるとすぐに、私は探検に出かけた。ホールはいまは文鮮明のものとなっている古いニューョー力ー・ホテルとつながっていた。教会はこのホテルを会員の住まいに使っていた。三十階のフロアー全体は、「真の家庭」がニューヨーク市に泊まるときのためにとってあった。私はあちこちうろつき、鍵のかかった部屋のドア・ノブを揺すった。

孝進はもどってきて、自分のペットが命令どおりその場にじっとしていなかったのを見つけるとかんかんに怒った。「こんなふうに出ていっちゃいけない」と彼は怒鳴った。「だれかがおまえを誘拐するかもしれない」私はなにも言わなかったが、「あらあら、だれが私を誘拐するというのかしら?」と思った。なんといっても、この不作法な若者が、なにをすべきか私に指図できると考えていることがいやだった。

公演の夜、何百人もの教会員がコンサート・ホールを埋めた。私は、その夜の演目のほんの一部だった。私は数名のピアニストのうちの三人目だった。私は、私たちが韓国を離れる前に、母が買ってくれたピンクのロング・ドレスを着た。昼に食べたお寿司のせいか、劇場のVIP席にすわる「真の家庭」のために演奏をするという予感のせいか、私の胃はきりきりと痛んだ。孝進の妹、仁進が私に消化剤ぺプトビスモルを、スプーンですくって飲ませてくれた。それは効いた。私はこのピンクの液体を、ドッグフ—ドのように、アメリカの驚異のひとつだと思った。

私はあまりにも速く演奏しすぎた。聴衆は私が弾き終えたと気づかず、だから拍手までに間があった。私はただ全体を弾き終え、数力所しか間違えなかったことでほっとしていた。私が楽屋にもどるとすぐに、孝進と仁進は普段着に着替えるように言った。私はその夜の最後に、演奏者全員による力ーテンコールがあることに気づかず、彼らの言うとおりにした。そんな普段着では舞台に出られない。だからほかの演奏者と一緒にお辞儀には立たなかった。

演奏会のあと、ニューョー力ー・ホテルの専用スィートルームで、文師はとてもご機嫌で、本当のピアノ・コンクールを毎年の行事にすると決めたほどだった。しかしながら文夫人は私に冷たかった。「なぜほかの人たちと挨拶しなかったの?」と彼女はがみがみ言った。「なぜ服を着替えたの?」私はびっくりした。なんと言うことができただろう?彼女の息子が私にそう指示したと?孝進は私がもじもじするのを見ていたが、なにも言わなかった。私はただ頭をさげ、叱られるままになつていた。

力ーテンコールに出なかったのが私の犯した最初の失敗ではなかったことがわかった。文夫人は私の失敗を記録していた。彼女はそれを翌日すベてリストアップして母に言ってきた。私は不作法にもブーツを履いたまま彼らの家に入った。私は不注意にもネックレスをシンクの上に忘れた。私は無礼にも食事のときにおいしそうに食べなかった。私は考えなしにも力ーテンコールで挨拶しなかった。それに加えて、彼女は母に、孝進が私の息が臭いと文句を言っていると伝えた。文夫人は、母に警告の言葉とリステリンのマウスウォッシュをもたせて、私のところに寄こした。

私は打ちのめされた。第一印象がもっとも長く続くのなら、文夫人と私の関係は、私のアメリ力滞在の第一週目から悪くなるよう運命づけられていた。

文家の子供たちの学校の予定と合わせるために、結婚式は一月七日に決められていた。結婚許可証はなかった。私たちは血液検査も受けなかった。私はニュ—ョーク州の定める結婚の法定年齢より一歳若かった。孝進と私の「聖婚」は法的に結ばれたものではなかった。そのことを私は知らなかったし、気にもとめなかった。文鮮明の権威だけが重要だった。

私たちはその朝、文師夫妻と朝食をとった。母は私に食べるよう言った。長い一日になるだろう。二種類の式が予定されていた。西洋式の儀式がベルべディアの図書室でおこなわれる。私は白のロング・ドレスを着て、べールをかぶる。そのあと、伝統的な韓国式の結婚式があり、孝進と私は生まれ故郷の伝統的な結婚衣装を着る。続いてニューヨーク市で披露宴がある。

母は文夫人に、私の髪のセットとメイクアップを美容師にやってもらうかどうか尋ねた。文夫人は言った。お金の無駄よ。仁進が手伝うでしょう。私は仁進を「真の家庭」の一員として崇拝していたが、自分の友として信頼できるかどうかは疑問に思っていた。彼女は両親に言われたとおりにして、私に親切にしたとほめられたが、私には自分が孝進の好みの夕イプではないように、彼女の夕イプでもないことがわかった。彼女は私の顔におしろいをぬりながら、いくつか忠告した。もし文家の子供たち、とくにあなたの夫とうまくやりたいのなら、あなたは変わらなければいけない。それも急いで。「私は孝進のことをだれよりもよく知っているわ」と彼女は私に言った。「彼はおとなしい女の子は嫌いよ。わいわい騒ぐのが好き、パーティが好きなの。もし彼を幸せにしたいなら、もっと外向的にならなきゃ」

結婚式直前に、私を見に立ち寄ったとき、孝進は充分に満足したように見えた。けれども私には、自分が彼の幸福の源泉ではないことがわかっていた。この日、彼は父親の最愛の子、黒い羊ではなくよき息子だった。両親を喜ばせるために、くしゃくしゃの長髪を刈り込むことにさえ同意した。

私が図書室と未来へと続く長い廊下をひとり歩いていくとき、年輩の韓国人女性がささやいた。「微笑んではだめよ。さもないと最初の子は女の子になるから」この指示に従うのは難しくはなかった。私の国の文化では、女の子が生まれるとがっかりされるのを知っていたからばかりではない。私の結婚の日は私の人生でもっとも幸せな日と考えられていた。しかし私はなにも感じなかった。自分のウェディング・アルバムを見るとき、私は少女だった自分のためにすすり泣きたくなる。写真のなかの私は、記憶のなかで感じるよりもなお惨めに見える。

図書室に入り、白の儀式服を着た文師夫妻のほうへと部屋のなかを進んでいくとき、両側には人びとがひしめき合っていた。図書室はぎゅうぎゅう詰めで、とても暑かった。その全員が両親をのぞいて、すべて私には見知らぬ人だった。それは厳粛な部屋だった。その暗い羽目板の壁には読まれることのない古書が並び、高い天井からはシャンデリアが下がっていた。このような舞台のなかでは、神が私のために、そして神から地上に天国を築くよう任せられた「真の家庭」の未来のために立てた計画を実行しているのだと信じずにはいられなかった。私は神のより大きな目的のための道具だった。文孝進と洪蘭淑の結婚は、とるにたりない、人間の愛の縁組ではない。神と文鮮明が、私たちを結びつけることによって、それをあらかじめ定めたのだ。

ベルべディアの階上でおこなわれた韓国風の儀式はより小人数で、出席者は家族と教会幹部だった。文一家は人生でもっとも重大なものごとを大急ぎでやること、私はそれを学びつつあった。だから呼び出されるまでに、ようやく髪を伝統的なスタイルにまとめる時間があるかないかだった。私は儀礼どおり頰を紅で丸く塗るのを忘れ、文夫人とまわりの女性たちから注意された。孝進と私は、食べ物と韓国の酒が載った供物台のそば、「真の御父母様」の前に立った。多くの子供を作りたいという花嫁の望みを象徴する民俗伝統の一部として、果物と野菜が私のスカー卜の足元に撒き散らされた。

実際の儀式についてはほとんど覚えていない。あまりにも疲れていたので、注意を集中させておくためには、教会の公式カメラマンのカメラのフラッシュを頼りにした。私は「ここに立って」とか「こう言って」とかいう命令をありがたく思った。動いていれば、倒れることはないだろう。

マンハッタン・セン夕ーの宴会場で開かれる披露宴のために着替えるよう、運転手が孝進と私とを「イーストガーデン」へと運んだ。彼は私たちを、邸宅から続く丘の上の小さな石造りの家でおろした。白いポーチと魅力的な石のファサードとで、家はなにかおとぎ話から出てきたように見えた。孝進と私はここで暮らすのだ。私たちはここをコテージハウスと呼んだ。一階に、居間と客間、そして小さなキッチンがあった。階上には小さな浴室と寝室がふたつ。私は、私たちのスーツケースが広いほうの寝室に運ばれているのを見た。

孝進はどうしてもセックスをしたがった。私は夜まで待ってくれるように頼んだ——「真の御父母様」は、私たちが一時間以内で用意をするよう待っている——しかし、彼は先延ばしにしようとはしなかった。私は彼の前で裸になりたくなかった。私は服を脱ぐためにベッドに滑り込んだ。私は続く十四年間、この習慣を続けた。母がくれた本を読んでいたが、性交渉の衝撃については、まったく準備ができていなかった。孝進が私の上に乗ったとき、私にはなにが起こるのかわからなかった。彼は処女を奪うという予感に興奮し、とても乱暴だった。彼は私になにをするか、どこを触るかを指示した。私はただ彼の指示に従った。彼が私のなかに入ってきたとき、私にできたのは痛みのために叫ばないことだけだった。彼が終えるまでにたいした時間はかからなかったが、何時間ものあいだ、私の内側は痛みで燃えるようだった。「これがセックスなんだわ」と私は思い続けた。

私は痛みと疲労と屈辱から泣き始めた。私たちが待たなかったのはいけないことだったと感じていた。孝進は私を黙らせようとした。彼は知りたがった。よくなかったか?私は、女性の痛みを表すのに幼児言葉を使って、とても「痛かった」と言った。彼がそんな反応を聞いたのは初めてだと言ったので、韓国で聞いていた噂は本当だとわかった。孝進には愛人が大勢いる。彼が自分の罪を、こんなふうに無神経で傲慢な態度で告白するのに私は衝撃を受け、傷ついた。彼の鋭い声と、怒った叱責の言葉が無理やり泣きやめさせるまで、私はさらにひどく泣き続けた。少なくとも私はセックスがなにで、私の夫がだれかを知った。セックスはひどく、夫はそれよりましではなかった。

私たちが服を着ているあいだに、厨房係の「兄弟姉妹」が「真の御父母様」が車で待っていると呼んだ。私たちは階下に走りおり、黒いリムジンのフロントシートに乗り込んだ。文夫人は私を非難するように見た。「なぜ遅れたの?」と彼女はがみがみ言った。「待っている人たちがいるのよ」孝進はなにも言わなかったが、私たちの赤く染まった顔と急いで着た服とが、私たちの行為を暴き出していた。文師夫妻が後部座席にいて、私の屈辱を見られないのを私はありがたく思った。

マンハッタンへのドライブのあいだ、私は眠り込んだが、休息は短かった。マンハッタン・セン夕ーの宴会場は、食卓と会員数百人で埋まり、そのほとんどがアメリカ人だった。私たちが入場し、メインテーブルの席につくと、彼らは喝采した。私はこういった大騒ぎのすべてにうんざりしていたが、私の前にはまだ何時間もの余興と晚餐が待っていた。それはステーキとべークド・ポテト、アイスクリームとケーキのアメリカ風の食事だった。母は私に食べるよう言ったが、すべてが砂のように味気なかった。余興は韓国風だったが、宴会のすべてが英語で進行した。私はたくさんのスピーチと孝進と私の栄誉を讃える乾杯の言葉のひとことも理解できなかった。他人が微笑むときに微笑み、他人が拍手するときに拍手した。

言葉の壁には、私を自分自身の結婚式でひとりの観衆にする効果があった。私はこの集団のなかにいたが、その一部ではなかった。私は文家の全員が歌い、手をたたくのを見回していた。だれもが幸せそうに見えた。それは興奮させられる光景だった。やはり英語を理解しない父が、どうやら私がなにか短くコメントするよう求められているらしいと言ったとき、私は孤立から引き戻された。私はぞっとして言った。「英語で?」「いやいや」と父は私を安心させた。「孝進が訳してくれるだろう」父は私に話は短く、神と文師に感謝し、孝進のよき妻となることを約束するようにと言った。その時がきたとき、私は父の言ったとおりにした。部屋のあちこちで、韓国人ではない客から「彼女はなんと言ったのだ?」という叫びがどっとあがった。「いや、つまらないことですよ」と孝進は言い、英語で自分自身のコメントを述べて、わくような喝采を得た。

私は拍手するとき、自分の手をひざの上においたままにしていた。文師は私に手をテーブルの上に出して、自分の結婚の日の喜びと、孝進への評価をもっとあからさまに示して喝采するよう指示した。私は彼の指示どおりにしたが、ずっと考えていた。「私は本当にばかね。なにひとつちゃんとできないのかしら?」

私たちが「イーストガーデン」に帰ったあともなお、お祭りは終わらなかった。韓国の伝統では、結婚式の客たちは花婿による花嫁の象徴的略奪に対し、花婿の足の裏を棒でたたく。コテージハウスに帰ると、この儀式的な攻撃に備えて、孝進は靴下を何枚も重ねてはいた。教会幹部たちが、孝進が逃げられないように足首を結わえるのを見て、文師夫妻は笑った。彼らが孝進の足を打つたびに、「お父様」は怒ったふりをして見せた。「やめなさい。私の息子をたたかなければお金をやるから」棒を振り回していた人たちは、お金を取り、また打ち始めた。「やめたら、もっとお金をやるよ」文師は叫び、彼らが「お父様」のお金をポケットに押し込み、また孝進を打ち始めると、ふたたび笑い声があがった。

私は、やわらかなソファーからこの行為を見ていた。ソファーは私をそのまま眠りへと引き込みそうだった。だれもが私のことを静かだねと言った。「大声をあげて、夫をたたくのをやめさせようとはしない」私は静かなのではなかった。私は無感覚になっていた。人びとにせかされて、孝進の足首のひもをほどこうとしたが、あまりにも疲れていたので、彼が自分でほどかなければならなかった。

翌朝、私たちは全員、文師の朝食の食卓に集まった。孝進は、どこへかはわからないが、朝早く姿を消していた。私は、文師夫妻に給仕するために留まっていた。私は「真の家庭」における自分の役割に確信がもてず、私の新しい夫は、私を導く助けとはならなかった。私は自然に文夫人の侍女役に落ち着いた。

結婚式が終わるまで、だれも私には、新婚旅行の話はしなかった。孝進はハワイにいきたがったが、文師はかわりにフロリダを勧めた。私たちの新婚旅行は、ふつうの新婚旅行ではなかった。私たちは、夫と妻と文鮮明の個人的補佐ピー夕ー・キムとで奇妙な三人組を構成していた。文師はピー夕ー・キムに五千ドルを渡し、私たちをフロリダまで車で連れていくよう指示した。私たちがどこにいくか、あるいはなにをするかを、だれも私に教えてはくれなかった。「イーストガーデン」での堅苦しい暮らしに慣れていた私の母は、私のスーツケースに気取ったドレスをいっぱい詰め、私はブルージーンズとTシャツに身体を突っ込んだ。

ピー夕ー・キムと孝進は青いベンツのフロントシー卜にすわった。私はひとりうしろにすわった。ふたりはイーストコースト千百マイルを下っていくあいだ、英語で話していた。私の孤独感は完全だった。ふたりの男が、いつどこで食べたり寝たりするために止まるかを決めた。ガソリンス夕ンドのトイレで涙をこらえようとしていたのを思い出す。私はハンドドライヤーがどうやったら動くのかわからなかった。それが熱風を噴き出すのをやめなかったときは壊したのだと思った。短い時間の出来事だったが、でもそれは孤独な時間だった。こんな単純なこと、そして私には助けを求める相手はだれもいない。

フロリダに到着し、ピー夕ー・キムが私をディズニー・ワールドに連れていってあげようと言ったとき、私はちょっと元気になった。私は十五歳の少女だった。これ以上すてきなバヵンス・スポットは想像できなかった。孝進は乗り気ではなかった。彼は前に何度もきていた。彼はいやいやながらオーランドで止まることに同意した。寒い日だった。弱い霧雨が降っていたが、私は気にしなかった。メイン・ストリートUSAをシンデレラ城へと歩き、私はなぜ人びとがディズニー・ワールドを魔法の王国と呼ぶかを正確に理解した。私はミッキ—マゥスやよく知ったぬいぐるみのキャラク夕ーがいないか、きょろきょろと見回したが、ひとりも見る機会に恵まれなかった。到着十分後、孝進は退屈だと言い、帰りたがった。私は彼のわがままに啞然としたが、ベンツへともどる彼の数歩あとをついていった。

文師は、私がアメリカの一部を見られるようにと、自動車旅行を勧めたが、孝進はすぐにこの計画にも我慢できなくなった。彼は「ィース卜ガーデン」の警備員のひとりをフロリダまで飛行機で呼びつけ、車を引き取らせた。彼は私に言った。おれたちは飛行機でラスベガスにいく。

私はラスベガスがどこで、なにかまったく知らなかったが、孝進もピー夕ー・キムもわざわざ説明する手間はとらなかった。ふたりのどちらも、文師夫妻と私の両親がそこで休暇を過ごしていることを教えてはくれなかった。両親がすわっているテーブルへとホテルのレストランのなかを歩いていくまで、私は両親たちと合流するのだとは知らなかった。母は、歩いてくるあいだ、部屋のなかをぼんやりと見ていたと言って、私を厳しく叱った。私は母に言った。もし文師夫妻がそこにいることを知っていたのなら、それは礼儀にはずれたことだったでしょう。でも私は知らなかったのよ!

ラスベガスがギャンブラーの天国だと知ったとき、私はさらに混乱した。ホテルのレストランやカジノにはスロット・マシーンがあった。このような場所で、私たちはなにをしているのかしら?統一教会の教えでは賭事は厳格に禁じられている。いかなる種類の賭も家族を害する社会悪で、文明の衰退に貢献する。それではなぜ、「真の家庭」の「お母様」韓鶴子はコインの入ったカップを揺すりながら、一枚また一枚と夢中になってコインをスロット・マシーンに入れているのか?「再臨のメシア」文鮮明、神殿から両替商を追い出した神聖な男の後継者が、何時間もブラックジャックのテーブルで過ごすのか?

私には尋ねる勇気はなかった。けれども尋ねる必要はなかった。私が罪の穴蔵と教えられた場所に私たちがいる理由を、文師は喜んで説明してくれた。「再臨の主」として罪人たちを救うために、彼らと混じり合うことが自分の義務だ、と彼は言った。彼らに罪を思いとどまらせるために、彼らの罪を理解しなければならない。おまえは、私が自分でブラックジャックのテーブルにすわって賭けてはいるのではないことに気づいただろう。ピー夕・キムがかわりにすわり、文師が彼のうしろの位置から指示するのに従って、賭け金をおいている。「だから、私が自分で実際に睹けてはいないのがわかるだろう」と彼は私に言った。

たとえ十五歳でも、たとえメシアのロから言われたものでも、私には詭弁は詭弁だとわかった。

[出典:わが父 文鮮明の正体/洪蘭淑]

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